2009年11月29日 主日礼拝(イザヤ書6:1~13)岡田邦夫
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た」(イザヤ書6:1)。
私、若い日に映画「風と共に去りぬ」‘Gone With the Wind’を観に三度も映画館に行きました。原作はマーガレット・ミッチェルの時代長編小説。題名はアメリカ史上最大の犠牲者を出した南北戦争という「風と共に」、当時絶頂にあった南部の貴族的文化社会が消え「去った」ことを意味していると聞きました。それを背景に、一人の女性の壮絶な生き様が描かれています。この映画で印象に残るのが、スカーレットの言う"After all tomorrow is another day."「明日は明日の風が吹くわ」でした。今は「だって、明日という日があるわ」と訳し直されています。
この頃は、地球規模で人類に明日はないようなことを耳にします。それでも、言ってみたいものです。「だって、明日という日があるさ。」と。
◇どこを見ても、明日は見えてこない
イスラエルの国、ダビデ・ソロモンの時代は繁栄し、絶頂期でした。その後、国は南北に分裂し、偶像を持ち込む王が次々出てきて、神の意にそわず、滅亡へと進んで行きます。特に北イスラエル王国はそうでした。ユダ王国の方は主の目にかなう信仰的な行いをした王がいたので、北より約130年生き残ることになりました。
預言者イザヤの生きた時代、ユダ王国はウジヤが16歳で王位に就き、52年間の長期、主の目にかなって、ユダ王国を治め、経済的にも、軍事的的にも栄えさせ、その名声はエジプトにもおよんだほどです。しかし、心が高ぶり、不信の罪をおかして、神に罰せられて重い皮膚病になり、病いのまま死んでいきます。このような王が亡くなり、イザヤはたいへんな危機感を覚えたのでしょう。国外を見れば、北のアッシリヤ帝国がすぐそばまでこの小国に迫ってきているし、国内を見れば、ひどい罪の中にいる。この国は滅びるばかりだと嘆いたことでしょう。とても、明日という日があるさ、などとは言えなかったでしょう。
◇上を見れば、明日は見えてくる
そういう危機だからこそ、イザヤは神に近づき、聖なる神の臨在にふれたのです。「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た」(6:1)。外を見るのではなく、内を見るのではなく、「神」を見たのです。高くあげられた王座に座しておられる主を見たのです。外を見て、内を見て、明日は見えてこなくても、上を見れば、明日は見えてくるのです。
そして、神殿にセラフィム=天使が現れ、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」と呼び交わしました(6:3)。イザヤは計り知れない荘厳な光景に圧倒されてしまいました。聖臨在の前に、イザヤは光にさらされて、告白しました。
「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから」(6:5)。口語訳だと「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」。
わざわいなるかな、ユダの国は滅びるばかりだと、国のこと、民のことを嘆いていましたが、嘆かなければならないのは預言者自身、自分自身だったのです。彼は高い見地からものを見ることのできた人だったでしょう。しかし、心が低くならなければ、魂が砕かれなければ、ほんとうのことは見えてこないのです。砕かれれば、神のみ旨がわかってくるのです。
主が魂を砕くのは、魂をきよめるためです。セラフィムが口に触れ、宣言します。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」。彼は無条件で贖われ、きよめられ、砕かれた魂に命が吹き込まれたのです。チャールス・ウェスレーのきよめの経験をヤコブにたくした賛美歌があります(聖歌558の5節と6節を下記に)。
闇夜は明けゆき 朝(あした)は来たれり 古きは過ぎ去り 新しくなれり
砕かれ尽くして 明け渡しし今 罪の力にも この身は勝つをえん
小鹿のごとくに ヤコブさえ踊り 神のみ力を ほめたたえまつる
世にある限りは 「ペニエル」証しせん げに「心きよき者は神見る」と
きよめられた者を主は遣わします。主のご意志もありますが、私たちの意志も求められます。そして、命じられます(6:8,9)。
「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」
「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
「行って、この民に言え。……」
広い意味で、すべてのクリスチャンをこのように召しておられます。福音のために、多種多様な聖徒に、多種多様な賜物を与えて、主が遣わされるのです。牧師、宣教師に召されいますか。信徒に召されていますか。
◇下を見れば、明日は見えてくる
イザヤには更に先のことが告げられます(6:12ー13)。要するに、北王国はアッシリヤ帝国に滅ぼされ、南王国はバビロン帝国に補囚されていくが、帰ってくるという預言です。たとえるなら、ふるわれて十分の一が残るが、それも切り倒され、切り株が残るという預言です。「残りの者」の預言です。将来、神の民が歴史の舞台から消えてしまうようですが、ふるわれるだけで、十分の一が残るというのです。歴史の地表から切られてしまうのですが、切り株が残り、そこから芽を出し、命が噴き出していくという展望があるのです。
ダビデ家の切り株から「救い主」の芽が出てくる。それはおとめが身ごもって男の子を産むということ。人となられた救い主が私たちの罪を担い、苦しみを受け、また、切られ、殺される。しかし、そこから芽を出し、復活する。そして、救いは世界に広がっていく。そのように、高い所におられる神を見たイザヤは、残りの者、切り株のメッセージから、低い所に降ってこられる神を見たのです。すると先の先まで、新天新地まで、預言者として見させてもらい、それを言葉にしたのです。これらのことは以下の聖書に記されています。
「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(40:26)。
「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者」(42:1苦難の僕)。
「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」(52:13僕の受難、53章に続く)。
「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」(65:17)。
私たち、高い所におられる神と出会い、低い所におられる神と出会って、砕かれ、混迷の時代にあって、「だって、明日という日があるさ。」と言える者となりましょう。
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た」(イザヤ書6:1)。
私、若い日に映画「風と共に去りぬ」‘Gone With the Wind’を観に三度も映画館に行きました。原作はマーガレット・ミッチェルの時代長編小説。題名はアメリカ史上最大の犠牲者を出した南北戦争という「風と共に」、当時絶頂にあった南部の貴族的文化社会が消え「去った」ことを意味していると聞きました。それを背景に、一人の女性の壮絶な生き様が描かれています。この映画で印象に残るのが、スカーレットの言う"After all tomorrow is another day."「明日は明日の風が吹くわ」でした。今は「だって、明日という日があるわ」と訳し直されています。
この頃は、地球規模で人類に明日はないようなことを耳にします。それでも、言ってみたいものです。「だって、明日という日があるさ。」と。
◇どこを見ても、明日は見えてこない
イスラエルの国、ダビデ・ソロモンの時代は繁栄し、絶頂期でした。その後、国は南北に分裂し、偶像を持ち込む王が次々出てきて、神の意にそわず、滅亡へと進んで行きます。特に北イスラエル王国はそうでした。ユダ王国の方は主の目にかなう信仰的な行いをした王がいたので、北より約130年生き残ることになりました。
預言者イザヤの生きた時代、ユダ王国はウジヤが16歳で王位に就き、52年間の長期、主の目にかなって、ユダ王国を治め、経済的にも、軍事的的にも栄えさせ、その名声はエジプトにもおよんだほどです。しかし、心が高ぶり、不信の罪をおかして、神に罰せられて重い皮膚病になり、病いのまま死んでいきます。このような王が亡くなり、イザヤはたいへんな危機感を覚えたのでしょう。国外を見れば、北のアッシリヤ帝国がすぐそばまでこの小国に迫ってきているし、国内を見れば、ひどい罪の中にいる。この国は滅びるばかりだと嘆いたことでしょう。とても、明日という日があるさ、などとは言えなかったでしょう。
◇上を見れば、明日は見えてくる
そういう危機だからこそ、イザヤは神に近づき、聖なる神の臨在にふれたのです。「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た」(6:1)。外を見るのではなく、内を見るのではなく、「神」を見たのです。高くあげられた王座に座しておられる主を見たのです。外を見て、内を見て、明日は見えてこなくても、上を見れば、明日は見えてくるのです。
そして、神殿にセラフィム=天使が現れ、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」と呼び交わしました(6:3)。イザヤは計り知れない荘厳な光景に圧倒されてしまいました。聖臨在の前に、イザヤは光にさらされて、告白しました。
「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから」(6:5)。口語訳だと「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」。
わざわいなるかな、ユダの国は滅びるばかりだと、国のこと、民のことを嘆いていましたが、嘆かなければならないのは預言者自身、自分自身だったのです。彼は高い見地からものを見ることのできた人だったでしょう。しかし、心が低くならなければ、魂が砕かれなければ、ほんとうのことは見えてこないのです。砕かれれば、神のみ旨がわかってくるのです。
主が魂を砕くのは、魂をきよめるためです。セラフィムが口に触れ、宣言します。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」。彼は無条件で贖われ、きよめられ、砕かれた魂に命が吹き込まれたのです。チャールス・ウェスレーのきよめの経験をヤコブにたくした賛美歌があります(聖歌558の5節と6節を下記に)。
闇夜は明けゆき 朝(あした)は来たれり 古きは過ぎ去り 新しくなれり
砕かれ尽くして 明け渡しし今 罪の力にも この身は勝つをえん
小鹿のごとくに ヤコブさえ踊り 神のみ力を ほめたたえまつる
世にある限りは 「ペニエル」証しせん げに「心きよき者は神見る」と
きよめられた者を主は遣わします。主のご意志もありますが、私たちの意志も求められます。そして、命じられます(6:8,9)。
「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」
「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
「行って、この民に言え。……」
広い意味で、すべてのクリスチャンをこのように召しておられます。福音のために、多種多様な聖徒に、多種多様な賜物を与えて、主が遣わされるのです。牧師、宣教師に召されいますか。信徒に召されていますか。
◇下を見れば、明日は見えてくる
イザヤには更に先のことが告げられます(6:12ー13)。要するに、北王国はアッシリヤ帝国に滅ぼされ、南王国はバビロン帝国に補囚されていくが、帰ってくるという預言です。たとえるなら、ふるわれて十分の一が残るが、それも切り倒され、切り株が残るという預言です。「残りの者」の預言です。将来、神の民が歴史の舞台から消えてしまうようですが、ふるわれるだけで、十分の一が残るというのです。歴史の地表から切られてしまうのですが、切り株が残り、そこから芽を出し、命が噴き出していくという展望があるのです。
ダビデ家の切り株から「救い主」の芽が出てくる。それはおとめが身ごもって男の子を産むということ。人となられた救い主が私たちの罪を担い、苦しみを受け、また、切られ、殺される。しかし、そこから芽を出し、復活する。そして、救いは世界に広がっていく。そのように、高い所におられる神を見たイザヤは、残りの者、切り株のメッセージから、低い所に降ってこられる神を見たのです。すると先の先まで、新天新地まで、預言者として見させてもらい、それを言葉にしたのです。これらのことは以下の聖書に記されています。
「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(40:26)。
「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者」(42:1苦難の僕)。
「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」(52:13僕の受難、53章に続く)。
「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」(65:17)。
私たち、高い所におられる神と出会い、低い所におられる神と出会って、砕かれ、混迷の時代にあって、「だって、明日という日があるさ。」と言える者となりましょう。