オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

明日が見えてくる

2009-11-29 00:00:00 | 礼拝説教
2009年11月29日 主日礼拝(イザヤ書6:1~13)岡田邦夫


 「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た」(イザヤ書6:1)。

 私、若い日に映画「風と共に去りぬ」‘Gone With the Wind’を観に三度も映画館に行きました。原作はマーガレット・ミッチェルの時代長編小説。題名はアメリカ史上最大の犠牲者を出した南北戦争という「風と共に」、当時絶頂にあった南部の貴族的文化社会が消え「去った」ことを意味していると聞きました。それを背景に、一人の女性の壮絶な生き様が描かれています。この映画で印象に残るのが、スカーレットの言う"After all tomorrow is another day."「明日は明日の風が吹くわ」でした。今は「だって、明日という日があるわ」と訳し直されています。
 この頃は、地球規模で人類に明日はないようなことを耳にします。それでも、言ってみたいものです。「だって、明日という日があるさ。」と。

◇どこを見ても、明日は見えてこない
 イスラエルの国、ダビデ・ソロモンの時代は繁栄し、絶頂期でした。その後、国は南北に分裂し、偶像を持ち込む王が次々出てきて、神の意にそわず、滅亡へと進んで行きます。特に北イスラエル王国はそうでした。ユダ王国の方は主の目にかなう信仰的な行いをした王がいたので、北より約130年生き残ることになりました。
 預言者イザヤの生きた時代、ユダ王国はウジヤが16歳で王位に就き、52年間の長期、主の目にかなって、ユダ王国を治め、経済的にも、軍事的的にも栄えさせ、その名声はエジプトにもおよんだほどです。しかし、心が高ぶり、不信の罪をおかして、神に罰せられて重い皮膚病になり、病いのまま死んでいきます。このような王が亡くなり、イザヤはたいへんな危機感を覚えたのでしょう。国外を見れば、北のアッシリヤ帝国がすぐそばまでこの小国に迫ってきているし、国内を見れば、ひどい罪の中にいる。この国は滅びるばかりだと嘆いたことでしょう。とても、明日という日があるさ、などとは言えなかったでしょう。

◇上を見れば、明日は見えてくる
 そういう危機だからこそ、イザヤは神に近づき、聖なる神の臨在にふれたのです。「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た」(6:1)。外を見るのではなく、内を見るのではなく、「神」を見たのです。高くあげられた王座に座しておられる主を見たのです。外を見て、内を見て、明日は見えてこなくても、上を見れば、明日は見えてくるのです。
 そして、神殿にセラフィム=天使が現れ、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」と呼び交わしました(6:3)。イザヤは計り知れない荘厳な光景に圧倒されてしまいました。聖臨在の前に、イザヤは光にさらされて、告白しました。
 「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから」(6:5)。口語訳だと「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」。
 わざわいなるかな、ユダの国は滅びるばかりだと、国のこと、民のことを嘆いていましたが、嘆かなければならないのは預言者自身、自分自身だったのです。彼は高い見地からものを見ることのできた人だったでしょう。しかし、心が低くならなければ、魂が砕かれなければ、ほんとうのことは見えてこないのです。砕かれれば、神のみ旨がわかってくるのです。
 主が魂を砕くのは、魂をきよめるためです。セラフィムが口に触れ、宣言します。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」。彼は無条件で贖われ、きよめられ、砕かれた魂に命が吹き込まれたのです。チャールス・ウェスレーのきよめの経験をヤコブにたくした賛美歌があります(聖歌558の5節と6節を下記に)。
  闇夜は明けゆき 朝(あした)は来たれり 古きは過ぎ去り 新しくなれり
  砕かれ尽くして 明け渡しし今 罪の力にも この身は勝つをえん
  小鹿のごとくに ヤコブさえ踊り 神のみ力を ほめたたえまつる
  世にある限りは 「ペニエル」証しせん げに「心きよき者は神見る」と
 きよめられた者を主は遣わします。主のご意志もありますが、私たちの意志も求められます。そして、命じられます(6:8,9)。
 「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」
 「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
 「行って、この民に言え。……」
 広い意味で、すべてのクリスチャンをこのように召しておられます。福音のために、多種多様な聖徒に、多種多様な賜物を与えて、主が遣わされるのです。牧師、宣教師に召されいますか。信徒に召されていますか。

◇下を見れば、明日は見えてくる
 イザヤには更に先のことが告げられます(6:12ー13)。要するに、北王国はアッシリヤ帝国に滅ぼされ、南王国はバビロン帝国に補囚されていくが、帰ってくるという預言です。たとえるなら、ふるわれて十分の一が残るが、それも切り倒され、切り株が残るという預言です。「残りの者」の預言です。将来、神の民が歴史の舞台から消えてしまうようですが、ふるわれるだけで、十分の一が残るというのです。歴史の地表から切られてしまうのですが、切り株が残り、そこから芽を出し、命が噴き出していくという展望があるのです。
 ダビデ家の切り株から「救い主」の芽が出てくる。それはおとめが身ごもって男の子を産むということ。人となられた救い主が私たちの罪を担い、苦しみを受け、また、切られ、殺される。しかし、そこから芽を出し、復活する。そして、救いは世界に広がっていく。そのように、高い所におられる神を見たイザヤは、残りの者、切り株のメッセージから、低い所に降ってこられる神を見たのです。すると先の先まで、新天新地まで、預言者として見させてもらい、それを言葉にしたのです。これらのことは以下の聖書に記されています。
 「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(40:26)。
 「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者」(42:1苦難の僕)。
 「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」(52:13僕の受難、53章に続く)。
 「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」(65:17)。

 私たち、高い所におられる神と出会い、低い所におられる神と出会って、砕かれ、混迷の時代にあって、「だって、明日という日があるさ。」と言える者となりましょう。

などて揺らぐことやある

2009-11-22 00:00:00 | 礼拝説教
2009年11月22日 伝道礼拝   岡田邦夫


 「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」ローマ人への手紙8:1

戦火をくぐり抜けて…
 私は終戦の2年前に、東京は日暮里(につぽり)という所で生まれた。アメリカからB29が頻繁に来るようになってきて、焼夷弾(しよういだん)を雨のように落とす。爆発はしないが、日本の木造家屋の密集地を大火災にしてしまう、アメリカ軍が考えだした、省エネ弾。アニメ映画「火垂るの墓」には実にリアルに描写されているとのことである。落下の時の「ヒュー」という音は戦火のもとにある人たちにとって、どれほど恐怖だったことか。けたたましいサイレンが鳴る。「警戒警報発令!」の声に慌てて、防空壕に逃げ込むのだが、幼い私にはまだわけがわからない。防空ずきんをかぶせられれば、「けいかいけ、けいかいけ」と回らぬ舌で言っては、部屋の中を喜んで走り回る。無理矢理、母の背に縛られ、防空壕に走っていく。難を逃れたものの、東京にいては命が危ないと判断。家族は群馬県郡山の農家に疎開。しかし、兄は特攻隊に志願し訓練は受けたが、ゼロ戦がなくなっていた。終戦を迎え、兄も家族も全員助かった。といっても、疎開から帰れば東京は焦土と化していた。我が家は消失、他人がバラックを建て住んでいて、住む場所がない。そういう中から、多くの日本人がそうであったように、私たちも何とか生き延びていった。
 この話は母から聞かされた話で、私自身、何一つ覚えてはいない。しかし、60年以上たっても、これだけ言えるのは、脳が幼い頃の情報を消去したものの、潜在意識という所に、戦時下の緊迫した空気や、言いしれぬ恐怖というものが残存しているからではないかと、私は思う。

ガードをくぐり抜けるとそこは…
 日暮里に帰ったものの、生きていければそれでいい。日の入ってこない薄暗い長屋に一家は住んだ。下町である。私は小学生になり、山の手にある第一日暮里小学校に、六年間かよった。山手線、東北線、常磐線などのいくつもの線路の下の長いガードをくぐりぬけ、長い階段を上って高台にある学校に行くわけである。逆に帰りは、長い階段を走って降りると、勢いついて、薄気味悪いガード下を一気に抜けられるというもの。ところが、ガード下を出てすぐ、踏切があり、線路が一本通っている。それも遮断機も何もないので、危険きわまりない。たまに貨物列車が通るとはいえ、私たちは注意して渡っていた。
 ところが、ある日、友だちといつものように、ガード下を走っていたら、捨て犬がいた。その小犬があまりにも可愛いので、連れ帰りたくなったが、皆、家では飼えない。助けを求め、クンクンついてくる。無情だが、振り切って走った。列車の音が聞こえたが、踏切を渡った。蒸気機関車が大きな音を立てて、踏切を過ぎていく。私たちは振り返った。何と、列車というものを知らない小犬が、走る車輪と車輪の間をくぐろうとしている。私たちは叫んだ。「来るな!」「シッシッ!」。その声も車輪の音に消される。小犬は私たちの所に来たい一心。私たちの目の前で、大きな車輪に命は砕かれてしまい、列車は何食わぬ顔で行ってしまった。私たちは呆然と立ち尽くした。何も言わず別れそれぞれ家に帰った。衝撃が大きく、私はどうしてもこのことを話せなかった。無言のまま、その夜を過ごした。
 しかし、その後、上級生の女の子が本を読みながら、そのガード下を抜けようとした。本に夢中で、列車に気付かず、はねられ死んだと朝礼で知らされた。知らない子だったが、小犬のこととダブって、子供ながらに死は残酷にやってくるものだと感じた。その頃、親戚が若くして結核で亡くなり、初めて葬式に行った。黒幕がはられ、異質な感じの祭壇があった。死に顔も見せてくれた。子供には何か表現出来ない、死の状況というものが不気味に思え、恐ろしかった。

最後の時をくぐれるのか…
 しかし、なぜかわからないが、身近な死にまつわる一連のことは心の深くにしまった。義務教育を終え、家の事情で早く就職する必要があったので、都立化学工業高校に入学した。時は高度成長期、高卒でも、引っ張りだこだった。3年の夏休みには、信越化学中央研究所に内定していた。そこで、卒業までの空白期間が生じたので、私は人生を深く考えるようになった。そんな矢先、都電に乗ろうとした時に、キリスト教の音楽と講演のブルーのチラシを受け取った。どんなものだろうと、友人の渡辺君と二人で共立講堂に行ってみた。その後、教会を紹介されたので、とにかく行ったのだが、私には一から十まで判らなかった。残念ながら行くのをやめた。
 しかし、判らないはずなのに、「最後の審判の時、自分は神の前に立てるのだろうか」という不安が生じていた。勤め始めた職場も楽しかった。希望もあった。研究所の山岳クラブに入り、山登りは楽しかった。ベンハーなどの映画に感動した。人を好きになっても片思い、語学や絵画やスポーツに挑戦しても長続きはしない。それなりの青春をしていた。しかし、楽しければ楽しいほど、その後が虚しくなり、「最後の審判の時、自分は神の前に立てるのだろうか」という不安がよぎる。うまくいかない時は、なおそうだ。それは無意識の中にある幼児の時の空襲経験が底にあるからなのか。それとも、しまってあった子供の頃の死の恐れの経験が顔を出してきたのだろうか。それとも、小学校の授業で、上野の美術館や博物館によく、歩いて見学に行ったが、子供には気味の悪い谷中の墓地を通って行ったということや、国立西洋美術館にあるロダン作の巨大な「地獄の門」が心に焼き付いていたせいだろうか。
 一緒に共立講堂に行った友人はすでに洗礼を受けていたし、はからずも、同じ社に入社していた。2年が過ぎた頃、社内電話で特別伝道集会に誘われた。その日に柴又キリスト教会に行った。平松実馬という型破りな伝道者が説教され、私は不思議と心を開いていた。その場で信じる決心をして、祈り、新生した。何か、重荷が軽くなり、神の子にされたという喜びがあり、言いしれぬ平安が訪れた。しかし、その後、気分はエレベーターのようであった。ハレルヤ、主よ、感謝しますと昇ったかと思うと、どうして私をお見捨てになったのかと降ってしまう。そのような時に、牧師に紹介された内村鑑三の「ロマ書の研究」を読んだ。文語調で読めない漢字も多い。しかし、熱情、パトスが伝わってきて、わくわくしてしまう。いよいよ、8章まできた。1節「この故に今やキリスト・イエスに在る者は罪に定められることなし」。解説というより、内村先生の説教が聞こえてくるようだ。このみ言葉が私の魂にいっぱいになって、「最後の審判の時に立てるだろうか」という不安を押し出してしまった。この時、「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」のみ言葉は、私にとって天国へのパスポートとなった。魂は安定した。

※この続きは「グレイスインサンダ」をご覧ください。


やっかいな問題に光を

2009-11-15 00:00:00 | 礼拝説教
2009年11月15日 主日礼拝(ルカ福音書8:26~39)岡田邦夫


 「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」使徒の働き26:18

 この教会は1998年、築40年の農家を買い入れて、スタートしましたので、私は取りつかれたように開けても暮れても、改装、改築に没頭していました。ある時は会堂の玄関を張り出し、サッシの戸を入れ、下をバリヤフリーにする工事をしていて、それが手間取り、説教を考えながらの突貫工事で、日曜の朝にやっと完成したということもありました。伝道者が改築にとりつかれていて良かったのでしょうか?

◇やっかいな人
 取りつかれるといいましても、聖書にはよく、「悪霊」に取りつかれた人がでてきますし、今日のところは、その人がイエス・キリストによって解放されるという不思議な話です。
 イエスがガリラヤ湖を舟で渡り、異邦のゲラサ人が住む地方に上陸すると、悪霊につかれている男に出会いました。悪霊にとりつかれて、たいへん悲惨な状況だったようです。悪霊にとりつかれると、暴れたり、大声を発したりして、周囲からは奇妙な行動と見、彼を鎖や足かせでつないで看視されていました。それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられました。そして、山の斜面に横穴を掘って作られた「墓場」に、着物も着けず、長い間住んでいたのです。
 これが奇妙に見えて、理解しようと、割り切って解釈することがあります。昔の人は精神病を悪霊つきだと言っていたとか、文明の未発達の世界では、悪霊つきの現象が起こるのだとか…。私たちは見えない世界の割り切れないところがあることを認め、表面的な現象を見るのではなく、人を見る、特に痛みをもって人を見る必要があります。ゲラサの墓場に住むこの男、目に見えないものに取りつかれ、自分が、自分でなくなってしまっている、困惑、不安、恐怖などがいっぱいで、どうにもこうにもやりきれない…、人間として、極限状況にいたのです。

◇やっかいな時代
 チャーリー・チャップリンの映画「殺人狂時代」は自伝で自分の作品の中でも最高の傑作と言っています。不況で銀行をクビになったヴェルドゥが、妻子を養うため新しく始めた仕事が、何と金持ちの中年女を殺して金を巻き上げることでした。こうして金のために殺人を続け、やがて、真相が発覚し死刑台に送られるていく顛末(てんまつ)を描くシリアスな映画です。主人公が処刑に向かう前の台詞がメッセージを込めています。「一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数が神聖化する※」。
 ここの聖書のタイトルを「ゲラサの狂人」と言っていたこともありましましたが、決して、彼は狂人ではないと思います。むしろ、チャップリンの指摘するように、戦争に取りつかれている人たちこそ、狂っていると言わざるをえません。
ドストエフスキーの「悪霊(あくりよう)」の裏表紙の紹介文には、「1861年の農奴解放令によっていっさいの旧価値が崩壊し、動揺と混乱を深める過渡期ロシア。青年たちは、無政府主義や無神論に走り秘密結社を組織してロシア社会の転覆を企てる。――聖書に、悪霊に憑かれた豚の群れが湖に飛び込んで溺死するという記述があるが、本書は、無神論的革命思想を悪霊に見たて、それに憑かれた人々とその破滅を、実在の事件をもとに描いたものである。」(江川卓訳、新潮文庫)とあります。解釈は様々でしょう。
 署名のロシア語“Бесы(ヴェスィ)”は
 英語に訳すと“The Possessed”(取りつかれた人たち)で、受動態。
 その能動態は“posses”で、「所有する」です。
 物事を所有することで、それに取りつかれてしまう、持てば持つほど、それに取りつかれてしまう、ということなのでしょう。地位も名誉も財産も情報も、人の「分」というものを忘れ、「もっと、もっと」手に入れようと、現代の私たちはそれに取りつかれているのではないでしょうか。それが強迫観念となって、追い立てられ、心底休めなかったり、理由もなく、わめき散らしたいという病める状況におかれているのではないでしょうか。

◇やっかいな問題
 ところで、悪霊に取りつかれたゲラサ人の男性に対して、イエスの力の入れようは並々ならぬものがありました。汚れた霊に「この人から出て行け」と命じますと、 悪霊=汚れた霊はたじたじです。男性に叫び声をあげさせます。御前にひれ伏して大声で「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください」(8:28)。彼に入っていた大ぜいの悪霊どもは、なお、ねばります。「底知れぬ所に行け」とはお命じになりませんようにとイエスに願います。
 主イエスは汚れた霊の願いには少しも耳をかしません。声なき声で、誰よりも助けを求めているこの人の願いに、大きく耳を傾けておられました。ところが、悪霊どもは、山のあたりで飼われている、おびただしい豚の群れにはいることを許してくださいと願うのです。主イエスがそれを許されますと、「悪霊どもは、その人から出て、豚にはいった。すると、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖にはいり、おぼれ死んだ。」のです(8:33)。
 この事件は主イエスが見えない世界のことを見えるように示されたのだと思います。ですから、「目撃者たちは、悪霊につかれていた人の救われた次第を、その人々に知らせた。」のです(8:36)。「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」を示されたのです(1コリント4:20)。神の国が近づいたことをあらわした奇跡でした。イエスは精神修養の宗教を教えたのではなく、福音の力をあらわしたのです。「福音は信じるすべての人にとって、神の力です」(ローマ1:16)。悪霊の去った男性は正気に返って、着物を着て、イエスの足もとにすわっていたのです。男性は解放され、ほんとうに救われたのです。何とも、穏やかな心持ちたったでしょうか。

 イソップ寓話のひとつ、北風と太陽は旅人の上着を脱がせることができたのは強い北風ではなく、暖かい太陽だったという教訓的な話です。ゲラサの場合には、イエス・キリストは北風以上に強い全き力で悪霊を締め出しました。そして、この人に対しては太陽以上の暖かな愛で、恐れを締め出しました。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」(1ヨハネ4:18)。イエス・キリストはこの人を救うために、豚を犠牲にすることを惜しみませんでした。町の人たちの評判を犠牲にすることを惜しみませんでした。この人のためにご自身を十字架において、命を犠牲にすることを惜しみませんでした。イエス・キリストの全き愛は私たちの恐れを締め出します。
 ゲラサの男性は町の人々の厄介者だったのでしょうが、イエス・キリストは全身全霊をもって、全く愛し、悪霊を追い出し、恐れを締め出されたのです。イエス・キリストにとって、やっかいな人はいないのです。悪霊に取りつかれるようなやっかいな問題に力をつくして取りくんでくださり、私たちを愛の限りをつくして、十字架にかかり、救ってくださったのです。

※"One murder makes a villain; millions a hero. Numbers sanctify"


驚きの四楽章

2009-11-08 00:00:00 | 礼拝説教
2009年11月8日 主日礼拝(ルカ福音書7:36~50)岡田邦夫


 「わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」ルカ福音書7:47

 私が中学1年の時、教室で昼の弁当を食べ終えて、校庭に行こうとしたら、何となく暗い感じの女子がいました。まだ、半分も食べていないようで、つい、のろいとからかってしまい、廊下に出ました。担任の教師が私を呼び止め、あの子は病気をしているので、ゆっくりなんだから、そんなことをしてはいけないと注意されました。その時、この子の元気のなさは病気だったからか、悪いことをしたなあ、見た目で人を見ちゃいけないんだなあ、と知らされたことでした。

◇「驚き」その1・女の行動
 ここに何か、違和感のある人が出てきます。パリサイ人シモンにイエスが招かれ、当時の食事習慣のように、足をゆったりと横に投げ出し、食卓に着くと、ひとりの女性がやってきました。何と彼女は泣きだし、その涙でイエスの足をぬらし、髪の毛でぬぐい始め、その足に口づけしたのです。周囲はあっけにとられたでしょう。それだけでなく、石膏のつぼを割り、もてなしのための香油を塗ったのです。この意外な行動というか、異常な感じの行為に私たち、読者はまず、驚きます。

◇「驚き」その2・イエスの対応
 ところが、ここに現れた人が「罪深い者」と言われている女性、その者の行為をイエスが容認しているのですから、パリサイ人シモンは、内心、かなり驚いたのです(7:39)。この女性、何か重い罪を犯したのでしょうか、それとも、遊女だったのでしょうか。高潔に生きようと、一線を引いて、汚れたものには触れないように生活しているパリサイ人にとっては、この女性は汚れた者、イエスが拒絶しないのは信じがたいことでした。自分が汚れてしまうではないか、預言者と見ていたが、そうではない、得体の知れない者かも知れないと思ったことでしょう。
 読者の私たちも、女性が男性の足を涙でぬらし、自分の髪の毛で拭い、口づけするというような光景を思い浮かべれば、いやらしささえ感じてしまい、主イエスはどうして、振り払い、ノーと言わないのだろかとと思ってしまいそうです。画家がこの場面をリアルに描いて、誤解されず、聖画と認めてもらうにはたいへん難しいのではないかと思います。

◇「驚き」その3・シモンの良心
 このことで、シモンはイエスに言いたいことがあったのでしょうが、逆にイエスの方から、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われてしまったのですから、彼はまた、驚いたことでしょう(7:40)。私たちはどうしても、見た目で判断してしまいます。この女性を「罪ある女」とユダヤの社会、特にパリサイ人が烙印を押してしまっていたように、誤った先入観や世間の良からぬ風潮で、人を偏見の目で見てしまいます。また、差別してしまいます。あるいは、誰かの言動に違和感を覚えると、この人は変な人だとか、悪い人だとか、決めつけてしまいます。しかし、そのような時に、主が「シモン(あなたの名)。あなたに言いたいことがあります。」と「良心」に語りかけられるでしょう。あなたの良心がもし、研ぎ澄まされていたら、人を罪ある者と決めつけていたが、自分こそが罪ある人間だと示されるのではないでしょうか。これは真実を気付かせる良い驚きです。

◇「驚き」その4・救い主の宣言
 そこで、イエスはたとえを話され、シモンに問います(7:41ー43)。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか」。シモンが「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えますと、イエスは愛と赦しのメッセージを伝えます。その女のほうを向いて、シモンに言われました。
 わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれず、口づけもしてくれず、わたしの頭に油を塗ってくれなかった。しかし、この女を見ましたか。この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれ、足に口づけしてやめませんでしたし、足に香油を塗ってくれました。わたしは告げます。このように、彼女がよけい愛したから、「この女の多くの罪は赦されている」(7:47)。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。
 女性に対しては「あなたの罪は赦されています。」と宣言し、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」と信仰を認め、励ましました(7:487:50)。

 彼女の行為は他者には異常とも見られるのですが、動機は信仰からくる愛が、涙とともに、あふれ出たものでした。彼女は心のわが家に、イエス・キリストを歓迎していたのです。心のキスの歓迎、心の香油の歓迎をしたのです。自分の持っているもので、精一杯の歓迎をしたのです。
 私が若い日に「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」のみ言葉に導かれて、イエス・キリストを救い主と信じました(ヨハネ1:12)。私を受け入れてくださっている主を受け入れたのです。受容の受容という言い方をします。きっと、この女性、罪深い女として、排斥される世の中で、この方だけは私を100パーセント受け入れてくださると信じ、そのイエスを100パーセント迎え入れたのでしょう。それが多く愛したこと、多く赦されたことではないでしょうか。
 そして、「あなたの罪は赦されています。」と宣言され、罪深い者という烙印(らくいん)は消され、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」とみ言葉が告げられ、みじめな人生から解放され、正統な社会の一員として、また、神の国の一員、すなわち、神の子として生きる道が開かれたのです。実に驚くべきことが起こったのです。そのようなわけで、実に光り輝く、美しい出来事でした。み国の画家がいるとしましたら、きわめて美しい、感動の一幅の絵を描いたことでしょう。
 あるいはまた、み使いがこの場面で、ハレルヤ・コーラスを美しく高らかに、賛美していたかも知れません。あなたが、十字架にかかり、復活された主イエス・キリストを最も大切なお方として、心に歓迎しますなら、どんな音楽にまして、心に響く神の言葉が聞こえてくるでしょう。「あなたの罪は赦されています。あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」。これこそ「驚くばかりの恵みなりき」です(新聖歌233)。


悲しみよ、さようなら

2009-11-01 00:00:00 | 礼拝説教
2009年11月1日 主日礼拝(ルカ福音書7:11~17)岡田邦夫


 「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい。』と言われた。」ルカ福音書7:13

 私の孫娘が幼稚園で、遊んでいた時に、勢いよく後ろに倒れて、堅い所に頭をぶつけ、軽い脳しんとうを起こしたのですが、大したことではなかったようです。母親が迎えにくると、保育士さんや他のお母さんから、「お気の毒ねー」と言われ、娘はけげんな顔でこう聞きました。「おきのどくってどんな毒?」。毒キノコのようなものと思ったらしい…。

◇泣きなさい
 今日の聖書にでてくるナインのやもめに起こったことは、ほんとうに気の毒な話です。若い時なのか、それとも、息子が青年になってからかは判りませんが、頼りにしていた夫を亡くし、婦人は悲しみに明け暮れていたことでしょう。しかし、一人息子がいて、それがどんなに慰めであり、励ましであったことでしょう。しかし、その最愛の息子が若くして、亡くなってしまい、失意のどん底にあり、自分も追って死んでしまいたい思いであったでしょう。「なんで息子が先に逝って、私が後なのよ」と嘆いても、現実はどうにもならない、葬儀が行われ、棺(かん)におさめられ、かつぎ出されていきます。
 大ぜいの町の人たちが気の毒だと思って、その母親につき添っていたのです。悲しむ人につき添うこと、寄り添うことは、とても大切なことです。共に涙し、時を過ごすことです。愛する者を失った人の悲しみというのは並大抵のことではありません。しかし、悲しい気持ちを抑え込んだり、忘れようとするのではなく、むしろ、涙が涸れるまで、悲しむことを通して、心というのはそれを乗り越えていくのです。私たちはこの町の人たちのように、悲しむ人につき添う者、寄り添う者でありたいものです。
 式文中の前夜式の祈りで、最後に「悲しむ者の慰め主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。」と記されています。悲しむ者に最も寄り添って、心底、慰めてくださる方は十字架の苦難を受けられたイエス・キリストです。そのイエスがこの母親を見て、お気の毒にとは言いませんでした。「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい。』と言われた」のです(7:13)。「かわいそうに思い」は、深い同情を寄せられ、憐れに思い、とも訳されている深い意味の言葉です。母親はたった一人の愛する者を失って、失意、失望、絶望、ブロウクン・ハート(broken heart)、心臓が破れるような状態でした。主の受難を示す詩篇62:20に、こう描写されています。「そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした」。同情者もなく、慰める者もないほどのブロウクン・ハートを十字架において経験されるのです。だからこそ、主のかわいそうに思う思いは失意の母親に届き、あらゆる悲しむ者に届くのです。
 ※詩篇62:20はヘンデルのメサイヤの第二部、受難No. 29に出てきます。

◇泣かなくてよい
 普通は悲しむ人に「泣きなさい」と言って慰めるのですが、主イエスは母親に「泣かなくてもよい。」と言われたのです。それは終末的な意味合いの言葉でした。究極的な慰めの言葉です。そして、主は奇跡を起こしました。「近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい。』と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された」(7:14ー15)。
 眠っている者を起こすように、死人を生き返らせたのです。このことで、人々が恐れを感じ、大預言者が現われた、神が顧みてくださったと言うほど、センセーショナルなことでした。旧約聖書にも、やもめの息子が死んで、預言者エリヤが三度、その子の上に身を伏せて、祈ったところ、その子は生き返ったと記されています(2列王17章)。ですから、イエスをエリヤの再来と、人々は思ったのでしょう。しかし、主イエスはエリヤのように祈ったのではなく、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と命じたのです。
 人が亡くなれば、葬儀をします。葬儀というのは、その人はすでに死んだのですが、心はなかなか受け入れがたい、しかし、ほんとうに死んだのだと、心に確認させる儀式だと思います。アカデミー外国語映画賞を受賞した滝沢洋二郎監督の映画「おくりびと」は遺体をていねいに扱う納棺師の話です。死体を忌み嫌うものとして扱うのではなく、故人の生きてきた生き様に目を向けさせていくというところに、私は感心しました。
 しかし、さらに主イエス・キリストは棺に手をかけて、真正面から死んだ青年に向き合いました。魔術的な言葉で、死人よ生き返れというような言葉を言ったりしません。全人格をかけて、「青年よ」と呼びました。答えが返ってくるはずのない呼びかけです。無に呼びかける言葉です。しかも、「あなたに言う」と力を込めます。不言実行と言いますが、イエス・キリストはすべて、有言実行です。言行一致です。必ず、預言の通り、十字架において贖いをなしとげるという言行一致です。そのように「あなたに言う」には真実が貫かれています。
 また、「言う」は「ある」なのです。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(創世記1:3)というように、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言うとすると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたのです。無から有を呼び起こす神の言葉で、死人を生き返らせたのです。終わりの日には語られたすべての預言の言葉が、一言も地に落ちず、すべて実現します。イザヤ25:8及び、26:19の復活の預言もしかりです。
 「永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ」。
 「あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます」。
 「かわいそう」と思われたイエス・キリストはその終末のしるしとして、青年を生き返らせ、母親を慰めたのです。一時の慰めではなく、復活の福音という永遠の慰めを与えられたのです。主イエス・キリストは悲しい存在である私たちをかわいそうと思い、十字架において、すべての悲しみを担い、慰め主となってくださいました。主イエス・キリストは死と滅びに向かう私たちをかわいそうと思い、十字架で罪を贖い、死人の中から復活し、死と滅びから解放し、永遠の命と復活の希望を与え、真の慰め主となってくださいました。私たちは、今、ここで、慰め主のもとにまいりましょう。