2010年12月26日 主日礼拝(ルカ福音書2:21~39)岡田邦夫
「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。」ルカ福音書2:25
クリスマスでよく歌われる‘もろびとこぞりて’の作曲者はフレデリック・ヘンデルとなっていますが、ローウェル・メイソンなのだという説もあります。彼の楽譜に「ヘンデルの曲から」という記述があるので、その解釈の仕方で違ってくるからでしょう。それはさておき、いずれにしても、私はクリスマスになるとヘンデルの‘メサイヤ’に思いをはせます。※その編曲したものが聖歌222「つかれしものよ」で、原曲では第1部の最後にマタイ福音書11・28-30が歌われています。このメサイヤ(救い主)の最初にイザヤ書40:1-5が歌われるのです。心に響きます。
◇舞いましょう
「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」です。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」続いていきます。救われるというのは神によって涙の元が拭われて、慰められることなのです。その慰めの良い知らせを預言しているのがイザヤ書40~66章なのです。この預言の言葉をほんとうに信じて、その時の来るのを待ち望んでいた人たちがいました。
その一人がエルサレムに住むシメオンという人でした。「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。」と記されています(2:25)。しかも、聖霊によって、その慰めをもたらす救い主(キリスト)の出現を見るまでは、決して死なないと、告げられていたのです。
ある日、ユダヤの律法の慣習に従って、献児式ため、生まれて八日目の幼子が両親に抱かれて、エルサレム神殿に入って来ました。何も変わったこともない、よくある光景でした。しかし、シメオンが御霊に感じて神殿にはいると、この幼子こそ、待ち望んでいた救い主・キリストだと判り、思わず、「幼子(イエス)を腕に抱き、神をほめたたえた」のです(2:28)。もう一人、女性の預言者アンナもそうでした。彼女は7年、夫と過ごした後、ずっと一人で、84才にもなっていましたが、エルサレムの神殿を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていました。「ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った」のです(2:38)。「イスラエルの慰められること」は「エルサレムの贖われること」と同じ救いの表現です。
実に「待ち望む」ということがどんなに素晴らしいことなのかということです。ダチョウはたいへん足が速いです。そのように多くの人は知恵をかさねて、人生を早く、そして、早く走っているようです。しかし、翼が生かされていません。一方、鷲は上昇気流にのって、翼をはばたき、大空を自由に飛び交っています。そのようにクリスチャンが信仰の翼をひろげ、聖霊の上昇気流にのれば、見えない世界も見えて来るのです。シメオンは幼子イエスの真実の姿、救い主なのだということが見えたのです。その信仰はイザヤ書によれば、「待ち望む」信仰なのです。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)。私たちも主を待ち望む鷲型クリスチャンになりましょう。
◇輝きましょう
証言者は二人以上というのがきまりですから、この二人は救い主到来の証人として、神に選ばれ、立てられたのです。シメオンは「私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」と預言をしました(2:30ー32)。続いて、救い主イエスの受難とそれに伴う母マリヤの苦悩の預言をします。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです」(2:34-35)。
私たちも同じ光栄ある使命が与えられています。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)。伝道者パウロはエペソ教会の長老たちにこう言っています。「私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」(20:24)。自分のいのちを少しも惜しいと思わないほど、神の恵みの福音をあかしすることに、大いなる価値があるというのです。シメオンは聖霊によってメシヤを見て、あかしするまでは死なないというほど、あかしは価値ある務めでした。生きがいでした。アンナは決して寂しいやもめ老人ではありませんでした。84才にして、メシヤを待ち望む人たちにイエス・キリストの福音のあかしをし、実に光り輝く晩年でした。月は輝きのない小さな惑星です。しかし、太陽の光を反射して、地球の夜にはどの星よりも大きく輝くのです。私たち自身は輝くものはないのですが、イエス・キリストの輝きを聖霊によって、反射させ、暗い世に福音を輝かせるのです。
私たちも主を待ち望み、鷲のように翼をかって上り、聖霊による視野と力をいただき、自由に舞いましょう。そして、イエス・キリストの福音が見えてきて、福音の力が与えられ、福音のあかしに生きて、聖霊による輝く人生を送りましょう。それが「敬虔」ということではないでしょうか。「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた」(2:25)。
「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。」ルカ福音書2:25
クリスマスでよく歌われる‘もろびとこぞりて’の作曲者はフレデリック・ヘンデルとなっていますが、ローウェル・メイソンなのだという説もあります。彼の楽譜に「ヘンデルの曲から」という記述があるので、その解釈の仕方で違ってくるからでしょう。それはさておき、いずれにしても、私はクリスマスになるとヘンデルの‘メサイヤ’に思いをはせます。※その編曲したものが聖歌222「つかれしものよ」で、原曲では第1部の最後にマタイ福音書11・28-30が歌われています。このメサイヤ(救い主)の最初にイザヤ書40:1-5が歌われるのです。心に響きます。
◇舞いましょう
「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」です。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」続いていきます。救われるというのは神によって涙の元が拭われて、慰められることなのです。その慰めの良い知らせを預言しているのがイザヤ書40~66章なのです。この預言の言葉をほんとうに信じて、その時の来るのを待ち望んでいた人たちがいました。
その一人がエルサレムに住むシメオンという人でした。「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。」と記されています(2:25)。しかも、聖霊によって、その慰めをもたらす救い主(キリスト)の出現を見るまでは、決して死なないと、告げられていたのです。
ある日、ユダヤの律法の慣習に従って、献児式ため、生まれて八日目の幼子が両親に抱かれて、エルサレム神殿に入って来ました。何も変わったこともない、よくある光景でした。しかし、シメオンが御霊に感じて神殿にはいると、この幼子こそ、待ち望んでいた救い主・キリストだと判り、思わず、「幼子(イエス)を腕に抱き、神をほめたたえた」のです(2:28)。もう一人、女性の預言者アンナもそうでした。彼女は7年、夫と過ごした後、ずっと一人で、84才にもなっていましたが、エルサレムの神殿を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていました。「ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った」のです(2:38)。「イスラエルの慰められること」は「エルサレムの贖われること」と同じ救いの表現です。
実に「待ち望む」ということがどんなに素晴らしいことなのかということです。ダチョウはたいへん足が速いです。そのように多くの人は知恵をかさねて、人生を早く、そして、早く走っているようです。しかし、翼が生かされていません。一方、鷲は上昇気流にのって、翼をはばたき、大空を自由に飛び交っています。そのようにクリスチャンが信仰の翼をひろげ、聖霊の上昇気流にのれば、見えない世界も見えて来るのです。シメオンは幼子イエスの真実の姿、救い主なのだということが見えたのです。その信仰はイザヤ書によれば、「待ち望む」信仰なのです。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)。私たちも主を待ち望む鷲型クリスチャンになりましょう。
◇輝きましょう
証言者は二人以上というのがきまりですから、この二人は救い主到来の証人として、神に選ばれ、立てられたのです。シメオンは「私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」と預言をしました(2:30ー32)。続いて、救い主イエスの受難とそれに伴う母マリヤの苦悩の預言をします。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです」(2:34-35)。
私たちも同じ光栄ある使命が与えられています。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)。伝道者パウロはエペソ教会の長老たちにこう言っています。「私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」(20:24)。自分のいのちを少しも惜しいと思わないほど、神の恵みの福音をあかしすることに、大いなる価値があるというのです。シメオンは聖霊によってメシヤを見て、あかしするまでは死なないというほど、あかしは価値ある務めでした。生きがいでした。アンナは決して寂しいやもめ老人ではありませんでした。84才にして、メシヤを待ち望む人たちにイエス・キリストの福音のあかしをし、実に光り輝く晩年でした。月は輝きのない小さな惑星です。しかし、太陽の光を反射して、地球の夜にはどの星よりも大きく輝くのです。私たち自身は輝くものはないのですが、イエス・キリストの輝きを聖霊によって、反射させ、暗い世に福音を輝かせるのです。
私たちも主を待ち望み、鷲のように翼をかって上り、聖霊による視野と力をいただき、自由に舞いましょう。そして、イエス・キリストの福音が見えてきて、福音の力が与えられ、福音のあかしに生きて、聖霊による輝く人生を送りましょう。それが「敬虔」ということではないでしょうか。「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた」(2:25)。