オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

救い主を待っていた人々

2010-12-26 00:00:00 | 礼拝説教
2010年12月26日 主日礼拝(ルカ福音書2:21~39)岡田邦夫


 「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。」ルカ福音書2:25

 クリスマスでよく歌われる‘もろびとこぞりて’の作曲者はフレデリック・ヘンデルとなっていますが、ローウェル・メイソンなのだという説もあります。彼の楽譜に「ヘンデルの曲から」という記述があるので、その解釈の仕方で違ってくるからでしょう。それはさておき、いずれにしても、私はクリスマスになるとヘンデルの‘メサイヤ’に思いをはせます。※その編曲したものが聖歌222「つかれしものよ」で、原曲では第1部の最後にマタイ福音書11・28-30が歌われています。このメサイヤ(救い主)の最初にイザヤ書40:1-5が歌われるのです。心に響きます。

◇舞いましょう
 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」です。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」続いていきます。救われるというのは神によって涙の元が拭われて、慰められることなのです。その慰めの良い知らせを預言しているのがイザヤ書40~66章なのです。この預言の言葉をほんとうに信じて、その時の来るのを待ち望んでいた人たちがいました。
 その一人がエルサレムに住むシメオンという人でした。「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。」と記されています(2:25)。しかも、聖霊によって、その慰めをもたらす救い主(キリスト)の出現を見るまでは、決して死なないと、告げられていたのです。
 ある日、ユダヤの律法の慣習に従って、献児式ため、生まれて八日目の幼子が両親に抱かれて、エルサレム神殿に入って来ました。何も変わったこともない、よくある光景でした。しかし、シメオンが御霊に感じて神殿にはいると、この幼子こそ、待ち望んでいた救い主・キリストだと判り、思わず、「幼子(イエス)を腕に抱き、神をほめたたえた」のです(2:28)。もう一人、女性の預言者アンナもそうでした。彼女は7年、夫と過ごした後、ずっと一人で、84才にもなっていましたが、エルサレムの神殿を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていました。「ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った」のです(2:38)。「イスラエルの慰められること」は「エルサレムの贖われること」と同じ救いの表現です。
 実に「待ち望む」ということがどんなに素晴らしいことなのかということです。ダチョウはたいへん足が速いです。そのように多くの人は知恵をかさねて、人生を早く、そして、早く走っているようです。しかし、翼が生かされていません。一方、鷲は上昇気流にのって、翼をはばたき、大空を自由に飛び交っています。そのようにクリスチャンが信仰の翼をひろげ、聖霊の上昇気流にのれば、見えない世界も見えて来るのです。シメオンは幼子イエスの真実の姿、救い主なのだということが見えたのです。その信仰はイザヤ書によれば、「待ち望む」信仰なのです。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)。私たちも主を待ち望む鷲型クリスチャンになりましょう。

◇輝きましょう
 証言者は二人以上というのがきまりですから、この二人は救い主到来の証人として、神に選ばれ、立てられたのです。シメオンは「私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」と預言をしました(2:30ー32)。続いて、救い主イエスの受難とそれに伴う母マリヤの苦悩の預言をします。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです」(2:34-35)。
 私たちも同じ光栄ある使命が与えられています。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)。伝道者パウロはエペソ教会の長老たちにこう言っています。「私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」(20:24)。自分のいのちを少しも惜しいと思わないほど、神の恵みの福音をあかしすることに、大いなる価値があるというのです。シメオンは聖霊によってメシヤを見て、あかしするまでは死なないというほど、あかしは価値ある務めでした。生きがいでした。アンナは決して寂しいやもめ老人ではありませんでした。84才にして、メシヤを待ち望む人たちにイエス・キリストの福音のあかしをし、実に光り輝く晩年でした。月は輝きのない小さな惑星です。しかし、太陽の光を反射して、地球の夜にはどの星よりも大きく輝くのです。私たち自身は輝くものはないのですが、イエス・キリストの輝きを聖霊によって、反射させ、暗い世に福音を輝かせるのです。

 私たちも主を待ち望み、鷲のように翼をかって上り、聖霊による視野と力をいただき、自由に舞いましょう。そして、イエス・キリストの福音が見えてきて、福音の力が与えられ、福音のあかしに生きて、聖霊による輝く人生を送りましょう。それが「敬虔」ということではないでしょうか。「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた」(2:25)。

救い主がお生まれに…

2010-12-18 19:28:45 | 礼拝説教
2010年12月19日 クリスマス礼拝(ルカ福音書2:8~20)岡田邦夫

 「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」ルカ福音書2:11

 クリスマスをX'masと書くことがありますが、Christmasを省略するとなぜX'masとなるのか、多くの日本人には知られていません。それはちょっとややこしいからです。Christmasはキリストとマスをつなげたもの、マスは礼拝の意味でラテン語のミサから来たもので、クリスマスは「キリスト礼拝」という意味です。英語のキリストのもとの言葉はギリシャ語のΧριστος(クリストス)、その頭文字がΧ(キー)なので、X'masと省略したのです。※Xはローマ字で十字を45度傾けたのだとする説もあります。今の英語はXmasと書きます。キリスト生誕祭と言わず、キリスト礼拝というところに意味があるのです。
 これは伝統的に言われてきたことです。キリスト教がヨーロッパに伝わっていった時、クリスチャンたちは迫害されるのですが、それでも信者の数は増えていきました。そのローマの異教社会では冬至の時(12月25日)に太陽が誕生するという太陽神の祭りが行われていました。それに対抗して、クリスチャンたちはそれをキリストの降誕日として礼拝をするようになり、それが世界に広がっていったというわけです。それがキリスト礼拝=クリスマスと言われるゆえんです。

◇救い主がお生まれに
 その意味でいちばん最初にキリスト礼拝したのは、天の使いの御告げを聞いた羊飼いたちだったと聖書に記されています。「御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは…急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。…羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(2:15-20抜粋)。
 羊飼いたちが、外見では他の新生児と何も変わらないのに、神をあがめ、賛美し、礼拝したかというと、御使いの知らせを聞いていたからです。「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」(2:11-12)。
 キリストは「救い主」の意味です。救い主の英語はsavior、カタカナにすると「セイバー」で、最近耳にするライフセーバーのほうはsaverで綴りが少し違います。ライフセーバーというのはおぼれた人のライフ(命)をセーブ(助ける)ところからそう呼ばれ、水難救助などのボランティア活動をする人たちです。訓練された資格を持った人たちです。イエスは「まことの」ライフセーバーとして、天からこの世に来られた方なのです。

◇あなたがたのために、救い主が
 SOSは認識しやすいということで使われている遭難信号ですが、一般に"Save Our Souls"(私たちの魂を救ってください)の略とされています(あるいはSave Our Ship)。私たちの魂は神の前で罪を犯し、神から離れ、本来あるところから、遭難しています。目に見えませんが、滅びの中に沈んでいこうとしている緊急事態なのです。その神と人と自分への罪が赦され、滅びから救われるために、イエスは十字架で身代わりの犠牲となってくださり、私たちを神のもとに帰らせ、永遠の命を与えるために、イエスは死人の中から復活されたのです。ですから、イエスの差し出されたみ手につかまれば、すなわち、信じれば、「救い主」イエスによって救われるのです。
 今年、チリ北部のサンホセ鉱山で落盤事故がおき、33人が救出されるまでに、69日間、暑くて湿った閉所の隔絶された空間で、過ごしておりました。全員の救出劇は奇跡でしたが、穴の中で目立ったトラブルもなく過ごせたというのはもう一つの奇跡でした。一番最初に救出された人が着ていたTシャツには、スペイン語で「地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。」と書かれてあったそうです(詩篇95:4)。作業員の中に牧師がいて、たびたび聖書が開かれ、ともすると希望を失いがちなすさむ心を慰めたと聞きました。危機的な状況を救い、奇跡を起こしたのは、神への信頼だったと言って、過言ではありません。
 そのように、私たちはまことのライフセーバーであるイエス・キリストの神に信頼してまいりましょう。そこに救いの奇跡が起こるに違いありません。クリスマス・シーズンにはちまたでも、諸人(もろびと)こぞりてを耳にします。その新聖歌76はドッドリッジ作詞のもので、2節、4節は信仰をダイレクトに表現しています。それを直訳も並記してみましょう(大塚野百合「賛美歌・聖歌ものがたり」より)。
②悪魔の人牢(ひとや)を 打ち砕きて 捕虜(とりこ)を放(はな)つと
 主は来ませり 主は来ませり 主は 主は来ませり
・直訳「主は捕らわれびとを自由にし、サタンの束縛から解放されます。はがねの門は主によって一瞬にして開かれ、鉄の足かせははぎとられます」。
④しぼめる心の 花を咲かせ 恵みの露(つゆ)置く
主は来ませり 主は来ませり 主は 主は来ませり
・直訳「主は、破れた心を包み、血がしたたるたましいを癒されます。そのみ恵みの宝をもって、心が低い貧しい人々を富ませたまいます」。

 神はあなたに告げています。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」。きょう、あなたの人生の救い主として、イエス・キリストの差し伸べられたみ手につかまって、たましいの救いをいただきましょう。あなたは人生の荒波で神に向かってSOSを出していますか。まことのライフセーバーである救い主イエス・キリストが平安の港に今すぐ、救助してくださいます。神に信頼してまいりましょう。諸人(もろびと)こぞりてをご一緒に歌いましょう。

救い主・誕生の時と場は

2010-12-12 00:00:00 | 礼拝説教
2010年12月12日 主日礼拝(ルカ福音書2:1~7)岡田邦夫


 「男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」ルカ福音書2:7

 一般ではクリスマスと言いましても、ニュースや、歴史で取り上げるように、「いつ、どこで、だれが、何をしたか(when,where,who,whatの4w)」を問うことをしません。しかし、教会ではクリスマスになると、この4wを必ず問い、私たちはそこに思いをはせます。ここに出てくる全世界とはローマ帝国のことです。皇帝はオクタビアヌス、その称号はカエサル・アウグストでした。その皇帝に税金を納めさせるため、全世界に住民登録の勅令を下したのです。正確な年代はまだ分かっていませんが、クレニオがシリヤの総督であった時です。登録は故郷に帰ることが義務づけられました。
 ルカという歴史家はそれらを前置きにして、記述を進めます。「ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。」と(2:4ー5)。しかし、登録する人たちがいっぱいで宿屋は満室という思わぬ事態が待っていました。福音史家は短く史実を述べます。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(2:6ー7新共同訳)。

◇いつ・when
 その子こそ、マリヤに告げられていた「あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子(聖なる者、神の子)と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」という方なのでした(1:31-33、35)。たとえ、人の家屋でなく、家畜小屋で生まれようと、そのことにかわりはありませんでした。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と信仰で受けとめるマリヤ(ヨセフも含みますが)という器さえいれば充分だったのです(1:38)。
 世界に君臨していたローマ皇帝も、シリヤの総督も、大規模な人口調査も、福音史家・ルカによれば、ただの説明する言葉にすぎないのです。それらのことは、私たちの知る世界史においては、大きな出来事として、記録されることでしょうが、聖書の救済史(聖史)においては、その御子の誕生こそが永遠に残すべき最も重要な出来事なのでした。聖書によれば、歴史は神が始められたものであり、歴史は神が終わらせるものであるのです。その歴史の中心はイエス・キリストの出来事です。その意味でイエスの誕生を紀元元年とし、その前をBC(キリスト以前)、それ以後をAD(主の日)と年代を数えるようになったのも、単に便宜的以上の意味を持っています。時の中心はイエス・キリストなのだということをです。
 そのような歴史の見方は個々のクリスチャンにも当てはめられます。神が私を世に誕生させ、私の歴史が始まりました。そして、神に導かれて、イエス・キリストを信じ、洗礼を受けた時が私の歴史の中心です。やがて、私の歴史を終え、天に召されていきます。それが私の救いの歴史の本筋です。自分の人生において、立派なことをしたとか、成功したとか、有名になったとか、それも充分、意味のある事なのですが、永遠の命に続く救いの歴史と比べれば、それも枝葉のことに過ぎないのです。今申しましたように、神が私を誕生させ、神が受洗させ、神が召天させるという「神の」歴史なのです。そして、「神のなさることは、時にかなって美しい」のです(伝道3:11)。

◇どこ・where
 救い主が生まれた場所は衛生的とは言えない家畜小屋でした。みどりごはたぶん木ではなく石の飼葉おけの、その冷たい石の上に、布にくるんで寝かせられました。それが救い主誕生のしるしでした。天使が羊飼いにそう告げたのです。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。…あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」(2:11-12)。それは象徴的です。罪に汚れ切り、愛の冷え切った私たちの所に、御子はみどりごとしておいで下さったのです。そのような所に聖に満ち、愛に満ちた御子イエス・キリストが来てくださったのです。そう思うと信じがたい、アンビリーバブルな出来事なのです。

 私が牧師になったばかりの頃、あるクリスチャン夫妻の家に訪問しました。ご主人はジャパン・タイムスを定年退職されて、悠々自適の生活をされているように見えましたが、慎ましくする必要があったのでしょう。奥様はこう言っていました。「貧しくなれないの。困ってしまいますわ」。しかし、主イエス・キリストは徹底しておられました。ほんとうに「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました」(2コリント8:9)。
 人は神に造られた者、時と場の中に生きています。しかし、神は時と場を越えた、時と場を創造された方です。ですから、神殿を建てたソロモンはこう祈りました。「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。けれども、…あなたが『わたしの名をそこに置く。』と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください」(1列王8:27、29)。また、預言者イザヤも同様のことを神から、聞きました。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家(神殿)は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」(イザヤ66:1ー2)。
 クリスマス、神が目を留められたのは、家畜小屋の飼い葉桶でした。みどりごの御子が身のおき場としたのは皇帝や王の宮殿のゆりかごではなく、家畜小屋の飼い葉桶でした。自分には権力がある、自分は成功者だ、自分は善行をしてきた…とおごる心には、その名を置き、身を置くことはなさいません。「私は家畜小屋の飼い葉桶のように、罪に汚れ切り、愛の冷え切った者です。」とへりくだって心砕かれた者、神の言葉に怖れる者にこそ、目を留め、名を置き、身を置いてくださるのです。私の生活の全領域、その場の中心は、神が目を留め、心をおかれる、へりくだって砕かれた、神の言葉を怖れる「飼い葉桶」の心なのです。
 クリスマスの賛美で、聖歌124の3-4節を心から、歌いたいと思います(新聖歌84と同じですが、訳が少し違います)。
  くすしき賜物 神の愛は 静かに地にふる 露のごとし。
  今なおイエスを 宿としたもう いともへりくだる なが心に
  神のみ子イエスよ いざくだりて 汚れし心を ながみ座とし
  とこしえまでも 座したまえや インマヌエルの主よ わがみ神よ
 その心の飼い葉桶こそ、そこにおられる御子イエス・キリストこそ、クリスマスのどんなイルミネーションよりも、世界の光として、神の栄光に輝いているのです。

御使いがマリヤにおめでとう

2010-12-05 00:00:00 | 礼拝説教
2010年12月5日 主日礼拝(ルカ福音書1:26~38)岡田邦夫


 「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」ルカ福音書1:38

 以前、フィリピンのミンダナオ教会が新会堂建設をするので、定礎式をすることになり、ツアーを組んで、日本から数名で行きました。エノプレ宣教師夫妻と教会の皆さんでグランド・ブレイキング・セレモニー(鍬入れ式)の幕を張りました。司式する私の日本語が英語に通訳され、最後に、神の言葉を土台に教会を建てるという意味で、壺に聖書を入れて、それを土に埋めて、心を合わせ祈りました。式が終わると、握手をかわし、「コンガチュレイション」(おめでとう)を連発し、喜び合いました。ペデロ・エノプレ師が高らかな声の響きが今も耳に残っています。

◇この人だけに「おめでとう」
 ひとつの言い方をすれば、二千年前、キリストによる新しい神の国の建設が始まろうとしていました。その建設にあたり鍬入れ式のような、始まりを表す出来事がありました。受胎告知です。鍬入れというのは言葉だけにしましょう。絵画や賛美歌から美しい光景をイメージされているでしょうから。今日、私たちは「告知」の言葉に耳を傾けたいと思います。場所はナザレという村。ダビデの家系であるヨセフの、そのいいなずけのおとめマリヤのところに、神の御使いがやってきました。そして、いきなり「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」とあいさつしてきました(1:28英訳ではグリーティングス)。神の御子をお宿しするというのは世界広しといえども、後にも先にもマリヤだけですから、このあいさつはそのマリヤ、ひとりだけになされたものです。
 静まりのセミナーという集いに参加した時に、指導された先生が印象深い話をされました。ある集会で、自分を指導してくださった恩師に久しぶりに会い、その師の方から、大勢知っている人がいる中で、自分を見つけてくれてあいさつされたとのことです。しかも、その師はその会場には師と自分しかいないかのように話してくださって、その時間とても嬉しかったし、いまだにその温かみは忘れられないと話していました。そのように、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」の御使いのあいさつはこの地上に、あたかもマリヤしかいなかのように、神秘に包まれながら、しかし、親密で暖かいあいさつの交流だっただろうと思います。
 マリヤは救いの歴史上、受胎告知のあいさつという点では特別のことでしたが、主が私たちに臨む姿勢、また、関係性は同じなのではないかと思います。朝、起きた時に「イエスさま、おはよう」、寝る時に「おやすみ」と祈りのあいさつをするのが習慣になっているクリスチャンがおられます。祈りのよい姿勢だと思います。マリヤのように、神さまの方から、先に名を呼んであいさつをされているのではないか思います。この地上に、あたかも私しかいなかのように、神秘に包まれながら、しかし、親密で暖かいあいさつの交流があるのです。私たち、デボーションの時に、このあいさつの言葉を聞こうではありませんか。礼拝の時、司会者があいさつすることがあります。その背後から、この群だけに呼びかけてくる主イエス・キリストのあいさつを心に聞こうではありませんか。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」。

◇すべての人に「おめでとう」
 このあいさつの“おめでとう”の名詞形は「喜び」です。野宿する羊飼いたちに救い主の誕生を知らせる時の言葉は、「民全体のためのすばらしい喜びを知らせにきたのです」と述べられています(2:10)。また、復活された主イエス・キリストが祝福されて、弟子たちの様子は「非情な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」と表現されています(24:52)。マリヤが考え込んでいると、御使いがたいへんな喜びの知らせを告げました。王としての救い主の誕生の知らせであり、しかも、マリヤの胎を通して世に来られるというのです。
 「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません」(1:30-34)。
 マリヤは素朴に問います。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」。御使いの答は明確です。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません」(1:35ー37)。処女降誕など、例証がなく、非科学的だから、信じられないという人がいます。御使いは多くの人が目撃したエリサベツの高齢妊娠を例証にあげていることを忘れてはなりません。しかし、マリヤの上に聖霊が臨み、いと高き方の力がおおって、受胎し、神の御子が生まれてくるというのは、前例のない、特別なことの中の、特別な出来事なのです。人の言葉ではとても説明できない、神の出来事なのです。それは信じるしかないことなのです。全世界、全歴史でただたひとり、その器に選ばれたマリヤは信仰の告白をします。すると、御使いは彼女から去って行きました。
「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(1:38)。
 救い主イエス・キリストは人類を、この私を罪と死と滅びから救ってくださるために、この世にお生まれになったのです。そして、罪の赦しを与えるため十字架にかかり、贖いをなしとげ、永遠の命を与えるため、死人の中から復活され、天に昇られました。それは人にはできない、全く不可能なことです。しかし、神にとって不可能なことは一つもありません。罪の赦しと永遠の命という、実に喜ばしい救いの出来事はマリヤのように受容することで、自らのものになるのです。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」。
 ヨハネ流の言い方ですと、「言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿られた。」です(ヨハネ1:14新共同訳)。教会ではこれを「受肉」と言います。マリヤが「おめでとう」と言われる喜びの受胎の告知を信じ、受け入れたように、私たちも「おめでとう」と言われる喜びの受肉の告知を信じ、受け入れていきましょう。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」。