2015年3月29日 棕櫚の主日礼拝(イザヤ53:1-6)岡田邦夫
「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」イザヤ53:5
本日は棕櫚(しゆろ)の主日です。イエス・キリストがろばの子に乗って、エルサレムの都に入場します。人々が棕櫚の枝や上着を敷いて
、「ホサナ、ホサナ」と称えて迎えます。神殿で説教され、弟子たちとだけで過ぎ越しの食事=最後の晩餐をした後、ゲッセマネで祈ります。ユダの裏切りで逮捕され、不当な裁判にかけられ、十字架刑に処せられます。墓に葬られますが、週の初め、日曜日の朝、復活されます。この一週間を教会は受難週として、主の御受難を偲び、信仰を深めていく週です。言い換えれば、より深く神のみこころを集中して知ろうという期間です。
その御受難は神のみこころでした。53章10節に言われています。「彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる」。何にもまして、私たちはこの神のみこころを知らなければなりません。
◇あとでわかる
弟子たちはイエスと3年寝食を共にしながら、教えを請うたのに、神のみこころが、中々わからなかったのです。五千人に食べ物が与えられた奇跡を目の当たりにし、続いて、四千人にも同様な奇跡を体感していながら、その意味がわからないのです。主イエスから言われます。「まだわからないのですか」(マタイ16:9,11)。その後、一筋の光が差します。イエスがキリストであると信仰告白をします。
それから、このイザヤ書53章にある受難の道に、主は自ら進んで行きます。最後の晩餐でも「わたしのしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」と告げます(ヨハネ13:7)。始めに話した、その一週間が繰り広げられます。ナザレのイエスはユダヤの宗教的指導者の陰謀、それに付和雷同する民衆、それを阻止できぬ総督、それらの罪人等の手の中に陥って行きます。しかし、それは神の手の中にあったのです。「主のみこころであった」のです。
復活されたキリスト・イエスにお会いして、そこから振り返った時に、目撃した十字架の苦難の意味がわかったのです。それはこのイザヤ53章にある、救い主・メシヤが御苦難にあわれる預言が成就したことがわかったのです。エマオの途上で復活された主が聖書を解き明かされたときでした。同行してきた人が「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」と言い、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かします(ルカ24:26-27)。しばらくして、目が開かれ、その人がイエス・キリストだとわかり、心が燃えていたことに気付きます。聖霊が降った時、その確証を得ます。
後に振り返った時にわかったのです。目の当たりにした十字架の苦難と「苦難のしもべ」の預言がぴったり重なって、わかったのです。神のみこころが、すじが通ってわかったのです。ペテロがそれをそのまま記しているところがあります(1ペテロ2:24)。
メソジスト教会の創始者ともいうべきジョン・ウェスレーは牧師の家庭に生まれ、自らも牧師になった人です。しかし、牧師でありながら、救いの確信がなかったのです。例えば、死刑に処せられる直前に、「あなたはわたしと一緒にパラダイスにいる」とみ言葉を告げると、罪の赦しと天国の確信を得て、輝いて死んでいくのですが、自分にはその確信がないのです。友人にそのことを話すと、後でわかるから、牧師を続けるように諭されます。アメリカに宣教に行き、挫折して帰ってきて、ある集会に出て、ルターのローマ人への手紙の説教の序文を読んでいる時にわかったのです。「心が燃えた」と証ししています。そこから、メソジスト運動が展開されていくのです。
みこころはあとでわかるのです。
◇痛みでわかる
イザヤ53章は救い主・メシヤの「しもべの歌」と呼ばれるものです(52:13-53:12)。700年前に書かれた預言書ですが、まるで十字架の出来事を見てて書いたようです。もっとも肝心な神のみこころだから、そのように啓示を受けたのでしょう。より深く、心に届く「歌」(詩文)で表現されているのです。これを読むキリスト者もそこにいたかのように読むのがよいでしょう。新聖歌113、ゴスペルの「君もそこにいたのか」はそういう歌です。
君もそこにいたのか 主が十字架に付くとき
ああ何だか心が震える 震える 震える
君もそこにいたのか
作者は自分の苦しい、辛い体験に重ね合わせ、イエス・キリストの受難、痛みを感じ取って、御受難に思いをはせ、自分が救われたこと、神に愛されていることをしみじみと霊に感じて作ったのでしょう。
君もそこにいたのかの心境で、この章を朗読します。これが悲惨に見えて栄光であることがその出だしに歌われています。
52:13見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
52:14 多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。――
52:15 そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。
1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
もう一度、皆さん、それぞれ、聖書を黙読し、思いを巡らし、ここにいます主を信じましょう。
「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」イザヤ53:5
本日は棕櫚(しゆろ)の主日です。イエス・キリストがろばの子に乗って、エルサレムの都に入場します。人々が棕櫚の枝や上着を敷いて
、「ホサナ、ホサナ」と称えて迎えます。神殿で説教され、弟子たちとだけで過ぎ越しの食事=最後の晩餐をした後、ゲッセマネで祈ります。ユダの裏切りで逮捕され、不当な裁判にかけられ、十字架刑に処せられます。墓に葬られますが、週の初め、日曜日の朝、復活されます。この一週間を教会は受難週として、主の御受難を偲び、信仰を深めていく週です。言い換えれば、より深く神のみこころを集中して知ろうという期間です。
その御受難は神のみこころでした。53章10節に言われています。「彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる」。何にもまして、私たちはこの神のみこころを知らなければなりません。
◇あとでわかる
弟子たちはイエスと3年寝食を共にしながら、教えを請うたのに、神のみこころが、中々わからなかったのです。五千人に食べ物が与えられた奇跡を目の当たりにし、続いて、四千人にも同様な奇跡を体感していながら、その意味がわからないのです。主イエスから言われます。「まだわからないのですか」(マタイ16:9,11)。その後、一筋の光が差します。イエスがキリストであると信仰告白をします。
それから、このイザヤ書53章にある受難の道に、主は自ら進んで行きます。最後の晩餐でも「わたしのしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」と告げます(ヨハネ13:7)。始めに話した、その一週間が繰り広げられます。ナザレのイエスはユダヤの宗教的指導者の陰謀、それに付和雷同する民衆、それを阻止できぬ総督、それらの罪人等の手の中に陥って行きます。しかし、それは神の手の中にあったのです。「主のみこころであった」のです。
復活されたキリスト・イエスにお会いして、そこから振り返った時に、目撃した十字架の苦難の意味がわかったのです。それはこのイザヤ53章にある、救い主・メシヤが御苦難にあわれる預言が成就したことがわかったのです。エマオの途上で復活された主が聖書を解き明かされたときでした。同行してきた人が「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」と言い、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かします(ルカ24:26-27)。しばらくして、目が開かれ、その人がイエス・キリストだとわかり、心が燃えていたことに気付きます。聖霊が降った時、その確証を得ます。
後に振り返った時にわかったのです。目の当たりにした十字架の苦難と「苦難のしもべ」の預言がぴったり重なって、わかったのです。神のみこころが、すじが通ってわかったのです。ペテロがそれをそのまま記しているところがあります(1ペテロ2:24)。
メソジスト教会の創始者ともいうべきジョン・ウェスレーは牧師の家庭に生まれ、自らも牧師になった人です。しかし、牧師でありながら、救いの確信がなかったのです。例えば、死刑に処せられる直前に、「あなたはわたしと一緒にパラダイスにいる」とみ言葉を告げると、罪の赦しと天国の確信を得て、輝いて死んでいくのですが、自分にはその確信がないのです。友人にそのことを話すと、後でわかるから、牧師を続けるように諭されます。アメリカに宣教に行き、挫折して帰ってきて、ある集会に出て、ルターのローマ人への手紙の説教の序文を読んでいる時にわかったのです。「心が燃えた」と証ししています。そこから、メソジスト運動が展開されていくのです。
みこころはあとでわかるのです。
◇痛みでわかる
イザヤ53章は救い主・メシヤの「しもべの歌」と呼ばれるものです(52:13-53:12)。700年前に書かれた預言書ですが、まるで十字架の出来事を見てて書いたようです。もっとも肝心な神のみこころだから、そのように啓示を受けたのでしょう。より深く、心に届く「歌」(詩文)で表現されているのです。これを読むキリスト者もそこにいたかのように読むのがよいでしょう。新聖歌113、ゴスペルの「君もそこにいたのか」はそういう歌です。
君もそこにいたのか 主が十字架に付くとき
ああ何だか心が震える 震える 震える
君もそこにいたのか
作者は自分の苦しい、辛い体験に重ね合わせ、イエス・キリストの受難、痛みを感じ取って、御受難に思いをはせ、自分が救われたこと、神に愛されていることをしみじみと霊に感じて作ったのでしょう。
君もそこにいたのかの心境で、この章を朗読します。これが悲惨に見えて栄光であることがその出だしに歌われています。
52:13見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
52:14 多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。――
52:15 そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。
1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
もう一度、皆さん、それぞれ、聖書を黙読し、思いを巡らし、ここにいます主を信じましょう。