オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

かすかな細い声

2010-04-25 00:00:00 | 礼拝説教
2010年4月25日 伝道礼拝               岡田邦夫


 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。

 小学校の教科書が円周率「3」とされてたのが、来年4月から「3.14」に復活することを文部科学省が発表しました。先日、車を走らせていましたら、前の軽トラックの黄色ナンバーが目に入ってきて、私は感動して、声を出してしまいました。「314」。「円周率じゃないか!」。助手席の妻は「あっそう」と言うだけ…。そういえば、数字や数式に感動したり、愛情をもったり、哲学したりする人がいます。

◇博士の数式
 そのようなロマンを小説にした、小川洋子著「博士の愛した数式」は第1回本屋大賞を受賞した作品です。
 友愛数について、事故で記憶力失った博士がこのように言います。「見てご覧、この素晴らしい一続きの数字の連なりを。220の約数の和は284。284の約数の和は220。友愛数だ。滅多に存在しない組合せだよ。フェルマーだってデカルトだって、一組ずつしか見つけられなかった。神の計らいを受けた絆(きずな)で結ばれ合った数字なんだ。美しいと思わないかい?君の誕生日と、僕の手首(註:腕時計)に刻まれた数字が、これほど見事なチェーンでつながり合っているなんて」(p32)
 博士の愛した数式というのは、オイラーの等式、“πとiを掛け合わせた数でeを累乗(るいじよう)し、1を足すと0になる。”ですが、こう語るのです。「神の計らいは底知れない。…予期せぬ宙からπがeの元に舞い下り、恥ずかしがり屋のiと握手する。彼らは身を寄せ合い、じっといきをひそめていたのだが、一人の人間が1つだけ足し算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。すべてが0に抱き留められる」(p197-198)

◇裁きの数式
 数学を「数楽」にした小説といえます。人それぞれ、人生の計算をしたり、公式をたてたりして、納得しようとしています。たとえば、ツキをあまり使ってしまうと、後にツキがなくなってしまうから心して生きようとか。辛いこと、マイナスのことが続くけれど、良いこと、プラスのことが必ずくる、人生、プラス・マイナス・ゼロなのだから、希望をもって生きようという、公式を使います。何か悪いことをしてると、それはマイナス要因になって、この世でバチがあたるという計算をしたりします。
 聖書では神を計算に入れない人生は虚無だと記しています。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」(伝道の書1:2-3)。どんなに地位や名誉や財産を得ても、知恵を尽くしても、快楽にふけっても、すべては虚しいと言っています。ある人が虚無とはゼロだと言いました。どんなに幸せに見えても、それにゼロを掛ければ、ゼロになってしまうと…。しかし、神は創造者、永遠者。そのお方を計算に入れた人生なら、無限大を掛けたような人生になるのです。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。……結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(同12:1、12:13)。

◇愛の公式
 人は自分の犯した罪は神に裁かれなければならないという、聖書が示し、良心が感じる公式があります。しかし、神は私たち、罪人を救うために、この公式の中で、イエス・キリストを遣わされました。神に対して罪を犯した私たちの身代わりとなって、十字架において、神に裁かれ、苦しみ死んでくださって、悔い改めて、信じる者が救われる道を開いてくださったのです。私たち、罪人のところに、イエスを「代入」して、裁きの公式をなりたたせたのです。御子の身代わりという愛の公式です。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(1ヨハネ4:10 )。
 人間の根本の罪は創造者なる神への無関心、背反です。そして、その最大の罪は、神の御子を十字架につけて、痛めつけ、殺してしまったことです。「あなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました」(使徒7:52)。当時の人が「十字架につけろ」と叫んだその中に、あなたもいたのです。むち打つ者と共にいたのです。十字架に釘付けにする者と共にいたのです。お前が神の子なら下りて自分を救えとあざけった者と共にいたのです。神を冒涜したと裁いた者と共にいたのです。その私たちこそ、冒涜罪で、永遠の裁きを受けなければならなかったのです。
 しかし、人類の最大のマイナス要因が、イエスの受難というマイナス行為によって、すなわち、マイナスにマイナスを掛ければ、プラスになるという神の計算です。「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」のです(ローマ5:20)。そして、私たちは信仰によって、救いの公式に当てはめられるのです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(同8:1ー2)。

 そうして、神を計算に入れた人生はこうなると、聖書が約束しています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(同8:28)。益をプラスと代入しても良いかも知れません。
 岩井麻理子さんの「かすかな細い声」の証詞を要約して、お話しします(「百万人の福音」5月号・ペンライト賞佳作作品)。
 彼女の一人娘が二歳の時に、新築の家に引っ越した時、突然、重いアトピー性皮膚炎を発症。原因はシックハウス。環境を整え、薬を使ってコントロールしていた。しかし、発症から2年たったある夏の午後、幼稚園のバスを降りてきた娘が、真っ赤な顔でまぶたは腫れあがり、顔も手足もひっかき傷でいっぱいだった。「ママ、きょうはものすごくかゆい」。
 それから、来る日も来る日も皮膚はガサガサでひび割れ、黄色い水が出てくる。強い薬を塗ってはミイラのように包帯を巻く。爪を深く切り、二重の手袋をする。それが、1ヶ月、半年、1年、1年半と続いた。夫妻はクリスチャンであることから、「変な信仰をしているから罰が当たったんだ」と言われることも、しばしば…。
 小学校の入学を迎えたが、指定の小学校は大規模改装中で、シックハウスが原因のアトピー重症となっている子を行かせられない。ほかの4つの小学校もすべて改装中かその予定でだめ。特別支援校もそのような病児を受け入れる準備がないと断られた。それではと、周辺の自治体に受け入れを願うために、地元の役所に行った。前例がないから越境できないと、渋い顔ではねのけられた。
 その時、もしかすると神さまが前例を作りなさいとおっしゃっているのかもしれない、そんなふうに彼女は思った。ランドセルなど、入学の準備はできたが、学校が決まっていないが、娘を安心させるために、言った。
 「大丈夫、ママが絶対何とかしてあげる。それにね、この世界をつくられた神さまがついているんだから大丈夫に決まっている。ピッタリな小学校はどこかなーって神さまがじっくり調べてくださっているかもしれないよ。春のお花が咲いて、そうだ、ママは昔見たことがあるんだけど、白いタンポポが咲くころになったら小学校が決まるよ」。
 娘は笑顔になった。しかし、彼女は不安でいっぱいだった。卒園式も終わり、数日が過ぎた時、娘が踏み台に乗って洗面所の鏡をじーっと眺めていた。眉は半分以上抜け、肌はガサガサ、あちこちひっかき傷だらけの顔。その様子を見た彼女、張り詰めていた何かが切れた。神さまが何とかしてくれると言って、無理矢理、娘に忍耐をしいて、あと2週間しかないのに、事態はまったく動かない。私はひとりよがりのペテン師。そう自分を責める。(私は間違っていたかもしれない。…死んだら楽になるかも知れない。神さま、私はもうだめです。もう限界です。…)
 布団に口を押し当てていた。顔を上げると常夜灯の光がにじんでゆれていたが、ありのままに祈り、壊れてしまったように泣いた。そして、日課の聖書を開いてみると、一つのみことばが心をとらえた(1列王19章)。
 「かすかな細い声」。
 そして、祈りながら深い眠りに…。入学式12日前、市の学校教育課からの電話。前例がないが、検討し、対処したとのこと。その30分後、友人の父親(クリスチャン)から電話で、同族の者が近くで皮膚科をしているという。娘のことは知らないはずなのに。これは「かすかな細い声」かも知れない。入学式を終えた翌日、尋ねた。3回かよったところで、原因が発見された。それから、ほとんど良くなった(皮膚の弱さはかかえてはいるが)。
 入学式1週間前にさかのぼる。登校の練習をしていた時、小学校近くで、田んぼのあぜ道に、シロバナタンポポを発見した。「学校が見つかったら白いタンポポも見つかっちゃった!」。娘は大喜びだった。
 死を選ばなくて良かった。全知全能の主は私たちともにいてくださり、生きて働いておられる。彼女はそう言って、読者にみことばを贈ると言う。
 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。

ガリラヤ湖畔の風景

2010-04-18 00:00:00 | 礼拝説教
2010年4月18日主日礼拝(ヨハネ福音書21:1~14)岡田邦夫


 「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」ヨハネ福音書21:6

 山田洋次監督の「寅さんの教育論」(NHKブックス)の中に、変わらない風景という文章があります。「人が成長する背後には、いつも変わらない風景と、いつも変わらない人間関係があることこそ望ましい」。なぜなら、同じ風景・同じ人間関係からは、いずれも自分の成長を見ることができるからだと言っています。
 「ガリラヤ湖の岸にてイエス君は昔…」と賛美にありますが(新聖歌453)、弟子たちがイエスと過ごした思いで深い風景と言えば、ガリラヤ湖です。最後の晩餐の後、主は弟子に「わたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」と予告し、復活時にも、マグダラのマリヤに「行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」と再会場所を共に過ごしたガリラヤに指定しました(マタイ28:10、26:32)。
 今日の聖書も、復活の主が現れた所はガリラヤ湖=テベリヤ湖の岸辺でした。復活の主によって、聖書にでてくる唯一の奇跡がなされた出来事です。ガリラヤ湖という変わらない風景の中で、イエスと弟子たちの関係は変わらないのでしょうが、イエス・キリストが復活されて、状況は大きく、また、素晴らしく変わったのです。

◇湖畔の風景:もてなされて
 かつて、ガリラヤの岸辺でイエスの元に大ぜいの群衆が集まっていた時のことでした。「食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われ。『かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです』」(マルコ8:2)。七つのパンと少しばかりの魚があったので、イエスが感謝し、弟子たちがくばると、四千人が満腹し、余りのパン切れが七かごになったという大いなる奇跡がおきました。それは弟子たちには昨日のことのように忘れることのできない、天国の饗宴(きようえん)のような出来事でした。
 復活されたキリストにお会いしたとはいえ、弟子たちは食べるに窮していたのでしょう。小舟をこぎ出し、漁に出たのです。その夜は何もとれず、夜が明けそめてきた時、イエスが岸辺に立たれて言われました。「子どもたちよ。食べる物がありませんね」(21:5)。ありませんと答えると、舟の右側に網をおろすように告げます。そのようにすると、おびただしい魚がとれました。そこで初めて、この方が「主」であることがわかります。主は陸で、炭火でパンと魚を焼いて待っておられ、今捕った魚も幾匹か焼いて、主は弟子たちにふるまわれました。今こうして、ガリラヤ湖畔で、復活の主の奇跡によってふるまわれ、天国のような饗宴にあずかっていることが、かつて空腹の大群衆を奇跡によってふるまわれたメシヤの饗宴の光景を今と重ねて思い起こしていたに違いありません。
 私たちも何か、欠乏することがあり、霊の窮乏を覚えることがあります。ガリラヤ湖畔に現れた時のように、復活の主は「子どもたちよ。食べる物がありませんね」と言って、欠乏を充足させ、御国の湖畔でもてなし、朽ちない食物で満足させてくださいます。そして、「取りなさい。これはわたしのからだです。」と復活の主がもてなしをされ、やがての日のメシヤの饗宴を望み見て、繰り返される「聖餐」、その変わらない風景が聖徒たちを祝福し、成長させるのです。

◇湖畔の風景:遣わされて
 さらに、自分たちがまだガリラヤ湖の漁師だった頃、夜通し漁をしたが何一つとれず、岸辺に小舟をつけ、網を洗っていた時のことが走馬燈のようによみがえってきました。神の言葉を聞きに押し寄せてきた群衆に、イエスが舟を講壇にして話したいので、ペテロの持ち舟を貸してほしいと頼まれました。話が終わると、ペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われ、その通りにすると網は破れそうになるほど、大漁でした。
 今も、夜通し漁をして、何もとれずにいたら、このお方が「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」と言われ、網をおろしてみれば、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかったのです。
 あの時は、天地創造の神の聖臨在にふれて、ペテロはイエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と告白しました(ルカ5:8)。今、それを思い出したのです。ですから、イエスの愛された弟子だというヨハネがペテロに言います。「主です」。100メートルぐらいの近距離でした。ペテロは、それ聞くと、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込み、急いで復活のキリストのもとに泳いでいきました。同じガリラヤ湖畔の風景ですが、あの時は、天地の主を垣間見て、畏れ、離れてくださいと言いましたが、今は復活の主を目の前に見て、喜び、近づきたいと、まるでキリストの懐に飛び込むように、湖に飛び込んだのです。

 そして、あの時、「これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」と主に召され、それ以来、何もかも捨てて、イエスに従ってきました(ルカ5:10-11)。今、復活の主はその弟子としての召命の原点に立ち返らせ、新たな使命の道を示します。漁は宣教の象徴です。復活の主は「あなたは人間をとるようになるのです。」と召しておられます。復活の主は私たちを遣わします。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(20:21)。
 大漁の魚を数えると「153匹」だったと報告されていますが、それを以下のような象徴的に見る見方もあります。当時、地中海に生息していた魚が153種類だったので、キリストの十字架において裂かれたからだによって、すべての人類が伝道の網・救いの網にいっぱいに満たされるという意味です。そのように数をあてはめなかったとしても、多さを表しています。「あなたは人間をとるようになるのです。」とあなたを召した復活の主が、「網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」と嬉しい言葉を投げかけてくださいます。教会は小舟、ガリラヤ湖は世界、私たちは力を合わせ、祈りを合わせ、お言葉どおり宣教の網をおろしてみましょう。「とれます」を信じて…。

いつまでも残るもの

2010-04-12 00:00:00 | 礼拝説教
2010年4月11日 主日礼拝(ヨハネ福音書20:19~29)岡田邦夫


 「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」ヨハネ福音書20:27

 遺跡や景観や自然など、人類が共有すべき価値あるものを「世界遺産」として、ユネスコがリストにあげ、それらを保護し、後の世まで残そうとしています。それは重要なことだと思います。ここで、内村鑑三(かんぞう1861-1930)が熱く語った「後世への最大遺物」に耳を傾けてみたいと思います。「われわれはこれに何も遺(のこ)さずに死んでしまいたくない、何かこの世に記念物を遺して逝(い)きたい、それならばわれわれは何をこの世に遺して逝こうか、金か、事業か、思想か、これいずれも遺すに価値あるものである、しかしこれは何人にも遺すことのできるものではない、またこれは本当の最大の遺物ではない、それならば何人にも遺すことのできる本当の最大の遺物は何であるか、それは勇ましい高尚なる生涯である」。キリスト者ならではの言葉です。勇ましい高尚なる生涯については後述するとして、私は今日、究極の「後世への最大遺物」について、話そうと思っています。

◇いつまでも残る跡…過去から
 イエスを師と仰ぎ、弟子たちはすべてを捨てて従ってきが、そのイエスは十字架にかかり、死んで墓に葬られ、この世にもういない、その声を二度と聞けない、そのような思いで、たいへんな失意の中におりました。また、ユダヤの当局に見つかれば、自分たちの命も消されてしまうかも知れない、恐れて、家の戸を閉じて、潜んでいました。週の初め、そこに、復活されたキリストが入って来られのですから、「弟子たちは、主を見て喜んだ」というのは当然、その喜びようはどんなに大きかったでしょうか。
 その時に、復活の主は生前のイエスであることを示す「その手とわき腹を彼らに示された。」のです(20:20)。8日後に見なければ信じないと言っていたトマスにも現れ、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と手の釘跡とわきばらの槍跡を見せました(20:27)。栄光のからだに復活されたはずのキリストに十字架の傷跡が残っていたのです。
 私たちはその打たれた傷によっていやされたというその傷跡は永遠に忘れてはならない跡なのです。十字架において、人類を罪と滅びから救うために、苦しみを全うした「跡」、贖いを成し遂げた「跡」は、永遠に残る遺跡とも言うべきものなのです。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます」(1ヨハネ2:17)。十字架において、神のみこころを完全に行なわれた事跡は残るのです。やがて、再臨される主にも、最後の審判をなさる主にも、新天地で礼拝される主にも、十字架の傷跡を私たちは見るのです。弟子たちがその傷跡のある復活の主を見て喜んだように、私たちも喜ぶのです。

◇いつまでも残る和…未来から
 釘跡のある手と槍跡のあるわきばらをお見せになった主は弟子たちとトマスに「平安があなたがたにあるように。」と三度も言われました(20:19、21、26)。平安はヘブル語で「シャローム」と言い、平和、繁栄、健康などを含む、救いにかかわる言葉です。神との平和、人との平和、神の民としての繁栄、健康、魂の平安、充足、これらすべてを含むところのシャロームです。最後の晩餐で「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」と言われていました平安もシャロームです(14:27)。この世にないもの、かの世にあるもの、後に来る世のものなのです。イエス・キリストの再臨の後に来る新天地がシャロームなのです。その彼方のシャロームを復活の主が聖霊によって先取りとして、弟子たちに与え、私たちに与えてくださるのです。
 主は弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。」と言われました。それは、この世ではどんなに財を積み上げても、どんなに知恵をつくしても、どんなに修行を積み上げても、どんなに功績を積み上げても、得ることできない「シャローム」を、この小さな、取るに足りないものたちに与えてくださるためです。永遠のキリストの内にあるシャロームであり、イエス・キリストの血で贖われた者が新天地の未来において与えられるシャロームを、聖霊というお方が今、この私たちに、先取らせてくれるのです。何よりもすばらしい奇跡です。

◇いつまでも残る信…現在から
 平安あれ、聖霊を受けよと言われた復活の主は「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。…見ずに信じる者は幸いです。」とトマスに言われ、私たちにも愛をもって迫っておられます(20:27、29)。過去の十字架において成し遂げられたイエス・キリストの贖いを、現在の私たちのものとすることのできるのは信仰です。未来のシャロームを今、私たちが先取りできるのも信仰です。信じない者にならないで、信じる者になりましょう。見ずに信じる幸いを得ましょう。トマスと共に「私の主。私の神。」と信仰の告白をしましょう(20:28 )。
 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」(ヘブル11:6)。逆に言えば、神への信仰こそ、神に喜ばれることです。弟子たちは主を見て喜んだ反面、トマスが主を信じた信仰を主キリストは喜ばれたはずです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」で始まる、ヘブル11章の旧約時代の聖徒の信仰列伝はそれで終わりではありません。続きは新約の私たちです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで」いくのです(ヘブル12:2)。十字架と復活の主から目を離さないで生きる、その信仰の足跡が後の世に残るのです。
 冒頭で内村鑑三、33歳の時のメッセージ、「後世への最大遺物」はお金か、事業か、あるいは思想でもなく、「勇ましい高尚なる生涯」であると述べました。彼はこう続けました。「しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります」。
 明確に言いますなら、勇ましい高尚なる生涯とはキリストを信じて歩む生涯であり、その信仰の足跡こそが後世への最大遺物なのだということです。

 いつまでも残るのは過去、十字架においてなされた贖いの形跡なのです。いつまでも残るものは未来のシャローム(平和)を先取りさせる聖霊の形跡なのです。いつまでも残るのは現在、イエスを神の子キリストと信じる信仰の形跡なのです。あなたが何かに恐れて、心の戸を閉じている所に、復活のキリストが来られて、「平安があなたがたにあるように。」と未来からのいつまでも残る贈り物をくださるのです。あなたが何かに恐れて、心の戸を閉じている所に、キリストが来られて、「釘跡、槍跡」を示して、十字架で贖いが完了したという過去からのいつまでも残る贈り物をくださるのです。あなたが何かに恐れて、心の戸を閉じている所に、キリストが来られて、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。…見ずに信じる者は幸いです。」と、過去からの贈り物を、未来からの贈り物を受け取るよう、うながされます。信じて受容し、「私の主。私の神。」と告白しましょう。そして、その信仰さえも聖霊によって、現在、与えられる神の贈り物なのです。いつまでも残るものなのです。
 そうして、聖霊を受け、罪の赦しの福音をたずさえて、戸を開き、イエス・キリストが遣わされたように遣わされて行きましょう。シャローム!

信じる者になりなさい

2010-04-11 00:00:00 | 礼拝説教
2010年4月11日 主日礼拝(ヨハネ福音書20:19~29)岡田邦夫


 「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」ヨハネ福音書20:27

 以前、私たちの家に帰国子女の子が遊びに来て、誰かがくしゃみをすると、すぐに、God bless you(ガツドブレスユウ)と言ってくれました。その都度、「神の祝福があるように」と言ってくれるこの子はなんて良い子なのだろうと思っていました。後日、宣教師の息子さんに聞きましたら、その場合、単に「おだいじに」という意味で使っているとのことでした。それでも、ゴッドブレスユウは良い挨拶です。新聖歌198の祈りの歌にもなっています。
 復活されたキリストが、週の初めの夕方、ユダヤ人を恐れて、戸を閉じて身をひそめていた所に来られ、挨拶しました。「平安(平和)があなたがたにあるように。」と(20:19)。その挨拶のもとは旧約聖書のヘブル語「シャローム」で平和、平安、繁栄、健康など、幅広い意味を含む言葉です。イスラエルの民謡「シャロームの歌」を1970年代にダークダックスが別れの歌として歌っています。元の歌というのはユダヤ人が祭儀の終わりに手を取り合って詠唱(えいしよう)するというものでした。教会バージョンでは、友よ歌おう79番にあります。

◇平安を受け入れるなら
 復活されたキリストが恐れ閉じこもっている弟子たちに、「シャローム・平安があるように」と挨拶された時、それは彼らには何にも変えられない救いの言葉でした。最後の晩餐で、メッセージの最後に「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。」と締めくくりました(16:33)。その遺言ともいえるメッセージの目的は弟子たちが、「シャローム・平安」を持つためだったのです。そのシャローム・平安は主の遺産です。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(14:27)。
 イエス・キリストのもっておられた平安を弟子たちに、また、私たちにくださるというのです。それはゆだねきった平安です。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方に任せきられたイエス・キリストの平安です(1ペテロ2:23)。死線を越えようとする時に、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言って(ルカ23:46)、全くゆだねきっていた、その平安を私たちにくださるのです。
 また、贖いがもたらす平安です。「世に勝った」平安です。イエス・キリストが十字架において「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」という平安です(イザヤ 53:5)。ですから、主キリストは「平安があなたがたにあるように。」と言って、その手とわき腹を彼らに示されたのです。私たちのそむきの罪のために刺し通されたあとを示し、シャローム・平安・充足を与えられたのです。私がイエス・キリストを信じる決心をうながしてくれました説教者は平松実馬という巡回伝道者でした。その方の息を引く時の最後の言葉が「Jesus! 安し(ジーザス・ヤスシ)」だったそうです。

◇聖霊を受け入れるなら
 重ねて、主はこうなさいました。創造者が人を造られた時のように、弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい。」と言われました(20:22)。それは新創造のわざであり、新時代の始まりを意味します。50日後の祭り、ペンテコステの日に一同に聖霊が下ることになりますが、その前に、復活のキリストを通して、聖霊が与えられたのです。
 その聖霊は真理の御霊、十字架にかけられたイエスが復活された栄光のキリストであることをこの時、証ししました(14:26、15:26)。それで、弟子たちは主の真実、事実が見えたたのあり、生前のイエス、十字架のイエス、復活のキリスト、そして、再臨のキリストがつながって、見えたのです。それだから、喜んだのです。そして、「聖霊によって」、キリストの内にあったシャローム・平安・充足が与えられたのです。
 聖霊によって、キリストが派遣されたように、弟子が派遣され、聖霊によって、罪の赦しを宣言された主のように、私たちも福音をのべ伝えるのです(20:21-23)。
 1890年(明治23)、英国国教会から宣教師バークレー・バクストン師が来られ、松江で伝道し、多くの伝道者を養成しました。日本伝道隊の創設者でもあり、内村鑑三師が「バクストン先生は、人類の華」と言うほど、敬虔な宣教師でした。師が説教の中で、よく手を広げ、「聖霊を受けよ」と厳かに告げられ、理屈にぬきで、バックストンの弟子たちはそれを主の声として聞いたのだそうです。今も、復活のキリストが「聖霊を受けなさい」と私たちに臨んでいます。

◇復活主を受け入れるなら
 そこに居合わせなかった弟子のトマスは「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言いました。今も昔も、復活ということは信じにくいことです。トマスの発言は決して他人事とは思えません。8日後、もう一度、トマスのいる時、主は再度同じように弟子たちに現れます。キリストは真のシャロームを告げられ、そして、トマスひとりに向かって言います。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(20:27)。彼は復活の主の臨在に畏れを感じました。
 彼は信仰の応答をします。「私の主。私の神。」と最も短い言葉ながら、万感の思いをこめて、そして、それは聖霊によって、信仰の告白をしたのです。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』ということはでき」ないからです(1コリント12:3)。「私の主。私の神。」と告白し、礼拝したこの時こそ、聖霊が臨み、最高にシャローム・平和な状態なのです。
 今、私たちの前に、復活された主イエス・キリストが、その手に十字架での釘の跡、わきにヤリの跡を示して、私の前に立っておられます。しかし、私たちには見えませんが、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。…見ずに信じる者は幸いです。」と対峙しておられます。「シャローム・平安があなたがたにあるように。…聖霊を受けなさい。」と祝福の手を差し出しておられます。三つは重なっているのですが、復活主を受け入れ、聖霊を受け入れ、平安を受け入れましょう。「私の主。私の神。」と礼拝し、罪の赦しの福音をたずさえて、主イエス・キリストから、この世に派遣されてまいりましょう。

 私はある時、祈って寝ました時、このような夢を見ました。天国に来ていました。真っ白な世界で、顔はよくわからないのですが、ひときわ輝くお方がおられました。その方を仰いだその時に、何とも言えないさわやかで、平安で、満たされた思いになり、その思いのまま、目が醒めました。私はまたある時、1週間の断食をし祈っていました。み言葉が与えられて、その最終日の朝、何とも言えないさわやかで、平安で、満たされた思いになりました。私は若い日に、悔い改めて、イエスを主とし、受け入れた時に、何とも言えないさわやかで、平安で、満たされた思いになったことを忘れません。それぞれ違う経験ですが、似た心持ちです。世のものでない、キリストのシャローム・平安はあるのだと私は確信します。現実の厳しい状況の今も、主は天国的なシャローム・平安をあなたに与えてくださるに違いありません。

なぜ泣いているのか

2010-04-04 00:00:00 | 礼拝説教
2010年4月4日 イースター礼拝(ヨハネ福音書20:1~18)岡田邦夫


 「イエスは彼女に言われた。『なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。』」ヨハネ福音書20:15

 今、若い女性の間で、歴史ブームだと聞きます。歴史に思いをはせる時に、ロマンを感じ、楽しいものです。今日、登場するのは1世紀に確かに実在したマグダラのマリヤです。四つの福音書にでてきます。彼女は悪霊から解放された人で、イエス・キリストの磔(はりつけ)、埋葬、復活という限られた時にしか登場していません。それだけの資料では、どういう人物だったかはなかなかわかりません。
 しかし、2世紀になるとグノーシス文書と呼ばれる作品で、トマスの福音書などに、マグダラのマリヤの名が出てきます。しかし、それらの作品は聖書正典とはならず、外典として退けられただけに、多分に脚色されている感が強いです。
 6世紀のローマ教皇・グレゴリウス1世が、マグダラのマリアとルカ福音書の罪深い女と、ベタニヤのマリアとは同一人物であると解釈し、「罪深い女だったが、回心して聖女となった」というイメージが、それ以来、作られていきました。次々に想像が加えられ、俗人という側面と、聖人という側面とのイメージがふくらんでいき、聖書のマグダラのマリヤとは別の人格が西洋社会において作られていきました。そのようにして作られた、もう一人のマグダラのマリヤは西洋社会の宗教と文化に果たした役割はたいへん大きなものでした。

◇私は解放の主に出会いました
 しかし、今日、私たちはそのようなイメージを横において、聖書を見ていきましょう。イエスが「神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられ」、その旅に12弟子もいっしょについて行き、女性の一団もいっしょでした。その中に「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ」がいました(ルカ8:2、マグダラは地名)。彼女は七つの悪霊にとりつかれ、人格の深い所まで抑圧され、破壊され、苦しみの極みまで達していたのでしょうか、あるいは苦しみの限界をこえた所にいたのでしょうか、イエス・キリストに出会って、悪霊から、その極度の苦しみから解放されました。福音によって彼女の人格は統合し、自由になり、どれほど平安と喜びが訪れたことでしょうか。その恵みに押し出されて、今までの生活を捨てて主に従い、女性の奉仕団の中にいたわけです。
 イエスが十字架にかけられた時、弟子たちの多くは逃げてしまいますが、マグダラのマリアは他の婦人といっしょに磔(はりつけ)にされた主を、遠くから見まもり、主の埋葬場所を見とどけました。そうした経過の後に、「週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた」のです(マルコ16:9)。その様子を見てみましょう。

◇私は復活の主に出会いました
 「週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た」(20:1)。埋葬されたはずのイエスの遺体がなく、墓が空っぽである事実、歴史の事実を「見た」のです。ペテロとヨハネに知らせると彼らもかけつけ、頭に巻いた布と身体に巻いた亜麻布だけがあるという事実を、“歴史の事実”を見て帰りました。
 「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ」(20:11)。すると、ふたりの御使いが座っており、「なぜ泣いているのですか。」に語りかけられ、「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」と答えます。そう言ってから、うしろを振り向くと、園の管理人らしき方が立っているのが見えました。同じ言葉がかけられ、同じ応答をします。そして、「マリヤ。」と呼びかけられて、その声でその方が主イエスだとわかり、生前のように「ラボニ(先生)」と言葉を返しました。
 ここで、見ることの出来るはずのない復活されたイエス・キリストの臨在、“歴史を超えた事実”をマリヤは「見た」のです(20:14)。ですから、わからなさがあり、また、「すがりついてはならない。」と主から言われたことでもあったのです(20:17)。そして、マリヤはメッセージを託され、弟子たちの所に行きました。「私は主にお目にかかりました。」と主イエス・キリストの復活の証言をし、また、復活の主が話されたメッセージを弟子たちに伝えました(20:18)。それから、弟子たちが復活の主に出会うことになります。
 このようにマグダラのマリヤは最初に復活の主に出会い、それを弟子たちに伝えたので、後に初期キリスト教父たちから「使徒たちへの使徒」と呼ばれました。マリヤがどういう人物であったか、どういう過去をもち、将来どうなったか、脚光を浴びせる必要はありません。神の恵みと人知を越えた神の選びにより、イエスの死体が消え、空っぽになった墓を見た、歴史の証人となり、死人の中から復活されたキリストを見た、超歴史の証人となったことが重要でした。証しされた方が脚光を浴び、証し人はその陰に隠れることがその役割なのでした。しかし、それが最高の恵みなのです。

◇私は生ける主に出会います
 時を超えて、きょう、私たちは今も生きておられる復活の主のみ声を聞きましょう。大切な者を失って悲しむ者に、希望を失って沈み込む者に、大あ事なことが出来ず、時を失って嘆く者に、十字架での苦難をなめつくし、死んで復活されたイエス・キリストが「なぜ泣いているのですか」と語りかけられます。涙の谷を通る者に、死の影を通る者に、苦難のトンネルを通っている者に、同じ道を通られた方が、慰めに満ちたみ声で「なぜ泣いているのですか」と語りかけられます。また、罪を贖い、死に勝利された方が、復活の力に満ちたみ声で「なぜ泣いているのですか」と語りかけられます。
時を超えて、きょう、私たちは今も生きておられる復活の主にお目にかかりましょう。目の前の状況に気持ちがいってしまっている者に、苦難と死を通り抜けられ、栄光のからだに復活された主が、かたわらから、あなたの名を呼んでおられます。振り返って、霊の目で主を見ましょう。私の主よ、私の神よと、礼拝しましょう。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(1:36)。十字架に上げられ、死んで復活され、あなたの名を呼んでおられます、「神の小羊」を信仰の目で見ようではありませんか。「なぜ泣いているのですか」とかたわらで語りかける「神の小羊」のみ声を聞き、終わりの日の復活を望み見ていこうではありませんか。「なぜなら、(その日)御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです」(黙示録7:17)。
 そうして、私たちもマリヤと共に復活の証し人になりましょう。「私は主にお目にかかりました。」と証ししてまいりましょう。