2010年4月25日 伝道礼拝 岡田邦夫
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。
小学校の教科書が円周率「3」とされてたのが、来年4月から「3.14」に復活することを文部科学省が発表しました。先日、車を走らせていましたら、前の軽トラックの黄色ナンバーが目に入ってきて、私は感動して、声を出してしまいました。「314」。「円周率じゃないか!」。助手席の妻は「あっそう」と言うだけ…。そういえば、数字や数式に感動したり、愛情をもったり、哲学したりする人がいます。
◇博士の数式
そのようなロマンを小説にした、小川洋子著「博士の愛した数式」は第1回本屋大賞を受賞した作品です。
友愛数について、事故で記憶力失った博士がこのように言います。「見てご覧、この素晴らしい一続きの数字の連なりを。220の約数の和は284。284の約数の和は220。友愛数だ。滅多に存在しない組合せだよ。フェルマーだってデカルトだって、一組ずつしか見つけられなかった。神の計らいを受けた絆(きずな)で結ばれ合った数字なんだ。美しいと思わないかい?君の誕生日と、僕の手首(註:腕時計)に刻まれた数字が、これほど見事なチェーンでつながり合っているなんて」(p32)
博士の愛した数式というのは、オイラーの等式、“πとiを掛け合わせた数でeを累乗(るいじよう)し、1を足すと0になる。”ですが、こう語るのです。「神の計らいは底知れない。…予期せぬ宙からπがeの元に舞い下り、恥ずかしがり屋のiと握手する。彼らは身を寄せ合い、じっといきをひそめていたのだが、一人の人間が1つだけ足し算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。すべてが0に抱き留められる」(p197-198)
◇裁きの数式
数学を「数楽」にした小説といえます。人それぞれ、人生の計算をしたり、公式をたてたりして、納得しようとしています。たとえば、ツキをあまり使ってしまうと、後にツキがなくなってしまうから心して生きようとか。辛いこと、マイナスのことが続くけれど、良いこと、プラスのことが必ずくる、人生、プラス・マイナス・ゼロなのだから、希望をもって生きようという、公式を使います。何か悪いことをしてると、それはマイナス要因になって、この世でバチがあたるという計算をしたりします。
聖書では神を計算に入れない人生は虚無だと記しています。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」(伝道の書1:2-3)。どんなに地位や名誉や財産を得ても、知恵を尽くしても、快楽にふけっても、すべては虚しいと言っています。ある人が虚無とはゼロだと言いました。どんなに幸せに見えても、それにゼロを掛ければ、ゼロになってしまうと…。しかし、神は創造者、永遠者。そのお方を計算に入れた人生なら、無限大を掛けたような人生になるのです。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。……結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(同12:1、12:13)。
◇愛の公式
人は自分の犯した罪は神に裁かれなければならないという、聖書が示し、良心が感じる公式があります。しかし、神は私たち、罪人を救うために、この公式の中で、イエス・キリストを遣わされました。神に対して罪を犯した私たちの身代わりとなって、十字架において、神に裁かれ、苦しみ死んでくださって、悔い改めて、信じる者が救われる道を開いてくださったのです。私たち、罪人のところに、イエスを「代入」して、裁きの公式をなりたたせたのです。御子の身代わりという愛の公式です。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(1ヨハネ4:10 )。
人間の根本の罪は創造者なる神への無関心、背反です。そして、その最大の罪は、神の御子を十字架につけて、痛めつけ、殺してしまったことです。「あなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました」(使徒7:52)。当時の人が「十字架につけろ」と叫んだその中に、あなたもいたのです。むち打つ者と共にいたのです。十字架に釘付けにする者と共にいたのです。お前が神の子なら下りて自分を救えとあざけった者と共にいたのです。神を冒涜したと裁いた者と共にいたのです。その私たちこそ、冒涜罪で、永遠の裁きを受けなければならなかったのです。
しかし、人類の最大のマイナス要因が、イエスの受難というマイナス行為によって、すなわち、マイナスにマイナスを掛ければ、プラスになるという神の計算です。「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」のです(ローマ5:20)。そして、私たちは信仰によって、救いの公式に当てはめられるのです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(同8:1ー2)。
そうして、神を計算に入れた人生はこうなると、聖書が約束しています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(同8:28)。益をプラスと代入しても良いかも知れません。
岩井麻理子さんの「かすかな細い声」の証詞を要約して、お話しします(「百万人の福音」5月号・ペンライト賞佳作作品)。
彼女の一人娘が二歳の時に、新築の家に引っ越した時、突然、重いアトピー性皮膚炎を発症。原因はシックハウス。環境を整え、薬を使ってコントロールしていた。しかし、発症から2年たったある夏の午後、幼稚園のバスを降りてきた娘が、真っ赤な顔でまぶたは腫れあがり、顔も手足もひっかき傷でいっぱいだった。「ママ、きょうはものすごくかゆい」。
それから、来る日も来る日も皮膚はガサガサでひび割れ、黄色い水が出てくる。強い薬を塗ってはミイラのように包帯を巻く。爪を深く切り、二重の手袋をする。それが、1ヶ月、半年、1年、1年半と続いた。夫妻はクリスチャンであることから、「変な信仰をしているから罰が当たったんだ」と言われることも、しばしば…。
小学校の入学を迎えたが、指定の小学校は大規模改装中で、シックハウスが原因のアトピー重症となっている子を行かせられない。ほかの4つの小学校もすべて改装中かその予定でだめ。特別支援校もそのような病児を受け入れる準備がないと断られた。それではと、周辺の自治体に受け入れを願うために、地元の役所に行った。前例がないから越境できないと、渋い顔ではねのけられた。
その時、もしかすると神さまが前例を作りなさいとおっしゃっているのかもしれない、そんなふうに彼女は思った。ランドセルなど、入学の準備はできたが、学校が決まっていないが、娘を安心させるために、言った。
「大丈夫、ママが絶対何とかしてあげる。それにね、この世界をつくられた神さまがついているんだから大丈夫に決まっている。ピッタリな小学校はどこかなーって神さまがじっくり調べてくださっているかもしれないよ。春のお花が咲いて、そうだ、ママは昔見たことがあるんだけど、白いタンポポが咲くころになったら小学校が決まるよ」。
娘は笑顔になった。しかし、彼女は不安でいっぱいだった。卒園式も終わり、数日が過ぎた時、娘が踏み台に乗って洗面所の鏡をじーっと眺めていた。眉は半分以上抜け、肌はガサガサ、あちこちひっかき傷だらけの顔。その様子を見た彼女、張り詰めていた何かが切れた。神さまが何とかしてくれると言って、無理矢理、娘に忍耐をしいて、あと2週間しかないのに、事態はまったく動かない。私はひとりよがりのペテン師。そう自分を責める。(私は間違っていたかもしれない。…死んだら楽になるかも知れない。神さま、私はもうだめです。もう限界です。…)
布団に口を押し当てていた。顔を上げると常夜灯の光がにじんでゆれていたが、ありのままに祈り、壊れてしまったように泣いた。そして、日課の聖書を開いてみると、一つのみことばが心をとらえた(1列王19章)。
「かすかな細い声」。
そして、祈りながら深い眠りに…。入学式12日前、市の学校教育課からの電話。前例がないが、検討し、対処したとのこと。その30分後、友人の父親(クリスチャン)から電話で、同族の者が近くで皮膚科をしているという。娘のことは知らないはずなのに。これは「かすかな細い声」かも知れない。入学式を終えた翌日、尋ねた。3回かよったところで、原因が発見された。それから、ほとんど良くなった(皮膚の弱さはかかえてはいるが)。
入学式1週間前にさかのぼる。登校の練習をしていた時、小学校近くで、田んぼのあぜ道に、シロバナタンポポを発見した。「学校が見つかったら白いタンポポも見つかっちゃった!」。娘は大喜びだった。
死を選ばなくて良かった。全知全能の主は私たちともにいてくださり、生きて働いておられる。彼女はそう言って、読者にみことばを贈ると言う。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。
小学校の教科書が円周率「3」とされてたのが、来年4月から「3.14」に復活することを文部科学省が発表しました。先日、車を走らせていましたら、前の軽トラックの黄色ナンバーが目に入ってきて、私は感動して、声を出してしまいました。「314」。「円周率じゃないか!」。助手席の妻は「あっそう」と言うだけ…。そういえば、数字や数式に感動したり、愛情をもったり、哲学したりする人がいます。
◇博士の数式
そのようなロマンを小説にした、小川洋子著「博士の愛した数式」は第1回本屋大賞を受賞した作品です。
友愛数について、事故で記憶力失った博士がこのように言います。「見てご覧、この素晴らしい一続きの数字の連なりを。220の約数の和は284。284の約数の和は220。友愛数だ。滅多に存在しない組合せだよ。フェルマーだってデカルトだって、一組ずつしか見つけられなかった。神の計らいを受けた絆(きずな)で結ばれ合った数字なんだ。美しいと思わないかい?君の誕生日と、僕の手首(註:腕時計)に刻まれた数字が、これほど見事なチェーンでつながり合っているなんて」(p32)
博士の愛した数式というのは、オイラーの等式、“πとiを掛け合わせた数でeを累乗(るいじよう)し、1を足すと0になる。”ですが、こう語るのです。「神の計らいは底知れない。…予期せぬ宙からπがeの元に舞い下り、恥ずかしがり屋のiと握手する。彼らは身を寄せ合い、じっといきをひそめていたのだが、一人の人間が1つだけ足し算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。すべてが0に抱き留められる」(p197-198)
◇裁きの数式
数学を「数楽」にした小説といえます。人それぞれ、人生の計算をしたり、公式をたてたりして、納得しようとしています。たとえば、ツキをあまり使ってしまうと、後にツキがなくなってしまうから心して生きようとか。辛いこと、マイナスのことが続くけれど、良いこと、プラスのことが必ずくる、人生、プラス・マイナス・ゼロなのだから、希望をもって生きようという、公式を使います。何か悪いことをしてると、それはマイナス要因になって、この世でバチがあたるという計算をしたりします。
聖書では神を計算に入れない人生は虚無だと記しています。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」(伝道の書1:2-3)。どんなに地位や名誉や財産を得ても、知恵を尽くしても、快楽にふけっても、すべては虚しいと言っています。ある人が虚無とはゼロだと言いました。どんなに幸せに見えても、それにゼロを掛ければ、ゼロになってしまうと…。しかし、神は創造者、永遠者。そのお方を計算に入れた人生なら、無限大を掛けたような人生になるのです。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。……結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(同12:1、12:13)。
◇愛の公式
人は自分の犯した罪は神に裁かれなければならないという、聖書が示し、良心が感じる公式があります。しかし、神は私たち、罪人を救うために、この公式の中で、イエス・キリストを遣わされました。神に対して罪を犯した私たちの身代わりとなって、十字架において、神に裁かれ、苦しみ死んでくださって、悔い改めて、信じる者が救われる道を開いてくださったのです。私たち、罪人のところに、イエスを「代入」して、裁きの公式をなりたたせたのです。御子の身代わりという愛の公式です。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(1ヨハネ4:10 )。
人間の根本の罪は創造者なる神への無関心、背反です。そして、その最大の罪は、神の御子を十字架につけて、痛めつけ、殺してしまったことです。「あなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました」(使徒7:52)。当時の人が「十字架につけろ」と叫んだその中に、あなたもいたのです。むち打つ者と共にいたのです。十字架に釘付けにする者と共にいたのです。お前が神の子なら下りて自分を救えとあざけった者と共にいたのです。神を冒涜したと裁いた者と共にいたのです。その私たちこそ、冒涜罪で、永遠の裁きを受けなければならなかったのです。
しかし、人類の最大のマイナス要因が、イエスの受難というマイナス行為によって、すなわち、マイナスにマイナスを掛ければ、プラスになるという神の計算です。「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」のです(ローマ5:20)。そして、私たちは信仰によって、救いの公式に当てはめられるのです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(同8:1ー2)。
そうして、神を計算に入れた人生はこうなると、聖書が約束しています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(同8:28)。益をプラスと代入しても良いかも知れません。
岩井麻理子さんの「かすかな細い声」の証詞を要約して、お話しします(「百万人の福音」5月号・ペンライト賞佳作作品)。
彼女の一人娘が二歳の時に、新築の家に引っ越した時、突然、重いアトピー性皮膚炎を発症。原因はシックハウス。環境を整え、薬を使ってコントロールしていた。しかし、発症から2年たったある夏の午後、幼稚園のバスを降りてきた娘が、真っ赤な顔でまぶたは腫れあがり、顔も手足もひっかき傷でいっぱいだった。「ママ、きょうはものすごくかゆい」。
それから、来る日も来る日も皮膚はガサガサでひび割れ、黄色い水が出てくる。強い薬を塗ってはミイラのように包帯を巻く。爪を深く切り、二重の手袋をする。それが、1ヶ月、半年、1年、1年半と続いた。夫妻はクリスチャンであることから、「変な信仰をしているから罰が当たったんだ」と言われることも、しばしば…。
小学校の入学を迎えたが、指定の小学校は大規模改装中で、シックハウスが原因のアトピー重症となっている子を行かせられない。ほかの4つの小学校もすべて改装中かその予定でだめ。特別支援校もそのような病児を受け入れる準備がないと断られた。それではと、周辺の自治体に受け入れを願うために、地元の役所に行った。前例がないから越境できないと、渋い顔ではねのけられた。
その時、もしかすると神さまが前例を作りなさいとおっしゃっているのかもしれない、そんなふうに彼女は思った。ランドセルなど、入学の準備はできたが、学校が決まっていないが、娘を安心させるために、言った。
「大丈夫、ママが絶対何とかしてあげる。それにね、この世界をつくられた神さまがついているんだから大丈夫に決まっている。ピッタリな小学校はどこかなーって神さまがじっくり調べてくださっているかもしれないよ。春のお花が咲いて、そうだ、ママは昔見たことがあるんだけど、白いタンポポが咲くころになったら小学校が決まるよ」。
娘は笑顔になった。しかし、彼女は不安でいっぱいだった。卒園式も終わり、数日が過ぎた時、娘が踏み台に乗って洗面所の鏡をじーっと眺めていた。眉は半分以上抜け、肌はガサガサ、あちこちひっかき傷だらけの顔。その様子を見た彼女、張り詰めていた何かが切れた。神さまが何とかしてくれると言って、無理矢理、娘に忍耐をしいて、あと2週間しかないのに、事態はまったく動かない。私はひとりよがりのペテン師。そう自分を責める。(私は間違っていたかもしれない。…死んだら楽になるかも知れない。神さま、私はもうだめです。もう限界です。…)
布団に口を押し当てていた。顔を上げると常夜灯の光がにじんでゆれていたが、ありのままに祈り、壊れてしまったように泣いた。そして、日課の聖書を開いてみると、一つのみことばが心をとらえた(1列王19章)。
「かすかな細い声」。
そして、祈りながら深い眠りに…。入学式12日前、市の学校教育課からの電話。前例がないが、検討し、対処したとのこと。その30分後、友人の父親(クリスチャン)から電話で、同族の者が近くで皮膚科をしているという。娘のことは知らないはずなのに。これは「かすかな細い声」かも知れない。入学式を終えた翌日、尋ねた。3回かよったところで、原因が発見された。それから、ほとんど良くなった(皮膚の弱さはかかえてはいるが)。
入学式1週間前にさかのぼる。登校の練習をしていた時、小学校近くで、田んぼのあぜ道に、シロバナタンポポを発見した。「学校が見つかったら白いタンポポも見つかっちゃった!」。娘は大喜びだった。
死を選ばなくて良かった。全知全能の主は私たちともにいてくださり、生きて働いておられる。彼女はそう言って、読者にみことばを贈ると言う。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。