オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

神はすべてを益に

2017-12-31 00:00:00 | 礼拝説教
2017年12月31日(日)年末感謝礼拝(ローマ8:26~30)岡田邦夫

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

 ローマ人への手紙は金の指輪のようなものだ。そして、8章は宝石のダイヤモンドのように輝いているとある人が言いました。しかも、この章の終わりの方は最高潮、クライマックスという印象を受けます。年末感謝で導かれた「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」というのも計り知れない祝福の言葉です。そのことを「私たちは知っている」というのも恵みです。

◇経験知
 神は最善以下をなさらないという言い方に私は違和感を覚えます。以下というのはそれ自身を含むので、むしろ、神は最善しかなさらないと言った方がいいと思うのです。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」は当然なのですが、私たちがそれを「知っている」というのが重ねて素晴らしいことです。
 今年を振り返って、どんな神がすべてのことを働かせて益としてくださったことがありましたか。私は思い出すのが、9月の四国聖会の御用に行く時のことでした。台風が日本を横断するコースになってしまって、飛行機は飛ばない、電車も不通で行けそうにない。当日の夜中に車で行けば、行けるかのせいがある。チャレンジをした。朝4時半に出発。通行止めを迂回しながら、行ったのだが、集会には15分遅れてしまった。ところが主催者側は集会を15分遅らせて祈って待っていてくれたのである。神のジャストでした。
個人的なことですが、自動車の免許の更新で認知症の検査と高齢者講習を受けなければならない年になりました。先ほどのことなどあって、教習所の予約が遅れてしまって、認知症の方は終わったのですが、どの教習所も混んでいて、講習の予約が期限までにはとれそうにないということになった。免許更新できないかのではとパニック。専用の警察の窓口があったので、電話したが、話し中でかからない。何回もかけて、やっとつながった。淡路島の洲本なら空いているとのこと。クリスマス前の忙しい20日に行って受講。間に合った。
 そして、クリスマス準備に明け暮れる。そんな中、教会員の一人から母親が危篤かもしれないというメール。持ち直したよう知らせがきた。とにかく、24日のクリスマス礼拝と祝会を迎えた。あれもこれも最善でイブ礼拝まで済んだ。翌25日、彼からメールが来た。昨日、前夜式で話しましたのを載せます。

 “Yさんのご生涯の最後の一瞬に牧師として立ち会わせていただいたことをお話しいたします。12月20日に容体が悪化し危なかったのですが、点滴をして持ち直し、また少しは食べられるようになったものの予断をゆるさない状態との知らせを受けました。そこで、25日、点滴も終わった午後4時に、牧師夫婦がお伺いし、神から強く押し出されるような思いで、「Yさん、洗礼は天国に行く切符です。イエス・キリストを信じて洗礼を受けますか」と問いますと、ハッキリ「はい」と答えられました。牧師が「父と子と聖霊との名によって汝にバプテスマを施す」と宣言。「アーメンですか」と問うと「アーメン」と確かな答えがありました。
26日、息子さんが昨日のことを覚えているか聞いたところ、覚えているとの返事、ご自分の意志で受洗されたことを確信。詩篇23篇を読んで聞かせました。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。…たとえ死の陰の谷を歩むことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから…。」28日、危篤状態で、夜8時に牧師夫婦が訪問すると、呼吸がかなり浅くなっているものの大変安らかな様子でした。洗礼証書を読み上げ、息子さんと牧師夫婦が話しているうちに、静かに呼吸が止んでいました。主が魂を平安の内に御許にお召してくださったと私たちは確信しました。午後8時35分のことでした。”

 この受洗と召天は御霊の導き、神の奇跡としか言いようがありません。神の寸分類のない計算された軌跡でした。三田泉教会としての受洗式、葬儀は天国への壮行会といってもよいのではないかと思うのです。

◇聖霊知
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」は経験して知っているというだけでなく、すべてのことなのです。私たちの感じるラッキーを遥かに超えた「益」なのです。国益を遥かに超えた「御国益」なのです。続く聖句がそれを述べています。
「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」(8:29-30)。その神の働きとは父なる神の創造の働き、御子の贖いの働き、聖霊の救済の働き、マクロの働き、ミクロの働き、ジャストの働き、調和の働き、全能の働き、枚挙にいとまはないのです。あなた一人のための最善であるとともに全聖徒の最善でもあるのです。
 「神の行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」のですけれど(伝道3:11)、ひとり子を犠牲にされるほどのことをしてくださったことを思う時、これからのこともすべてのことを働かせて益としてくださるのだと信頼できるのです。聖霊がそう促してくれる、確信を与えてくれるのです。2017年365日、神がすべてのことを働かせて益としてくださったと感謝しましょう。また、新しい2018年も、その後も神がすべてのことを働かせて益としてくださることを信じ、知っていますと告白しましょう。

「高き所に栄光が、地の上に平和が」

2017-12-24 00:00:00 | 礼拝説教
2017年12月24日(日)クリスマス礼拝(ルカ福音書2:8~20)岡田邦夫

「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』」(ルカ福音書2:13~14)
 
 「メリークリスマス(Merry Christmas)」。このメリーは日本語にすると「笑い楽しむ、笑いと楽しみを誘うような、お祭り気分の」という意味です。クリスマス祭を陽気に楽しもうというわけです。

◇良い知らせを傾聴する
 アメリカから来ていた宣教師が日本でのクリスマス、違和感を感じると言っていました。クリスマスにアメリカではクッキーやキャンデーのような日持ちのするお菓子を用意します。休暇を楽しむため手のかかる、しかも生のデコレーションケーキを作らないといおうのが習慣です。でも、日本ではデコレーションを食べるのがポピュラーです。それで、子ども達にはイエス様の誕生会なのよと言って、デコレーションケーキを食べていたと言います。
 そのようにイエスは2000年前、私たちと同じように母マリヤから、普通に生まれたのです。しかし、天から降りて来られた、遣わされて来たので、降誕と言います。私たちを救うため、神の御子が人となられたのです。といいましても、見た目は私たちと何ら変わらない新生児です。しかし、この方が救い主であるという歴史の上のビッグニュースをヨセフとマリヤ以外に野宿で夜番をしていた羊飼いたちに知らせたのです。普通のことではないので、天使が登場します。
「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」。
聖書によると私たちは迷える羊です。神から離れた羊です。神のもとに帰らなければ、狼や獣の餌食です。迷い出た羊は自力で帰れません。神の子が迷える羊を探し出し、神のもとに引き戻すために来られたのです。さらに深刻なのはすべてのものと人を造られた神、創造者から離れているということです。その罪深さゆえに、人は空しくなり、不安を抱えるのです。死を恐れるのです。神の裁きがあるからです。しかし、救い主はその私たちをその罪から救うために、私たちの身代わりとなられたのです。悔い改めてキリストを信じるだけで、赦され、神のもとに帰った喜びを得ることができるのです。そういう、すばらしい喜びの知らせ、すなわち、福音を羊飼いたちは聞いたのです。

◇良い知らせを賛美する
すると、天使の合唱隊が賛美します。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
 その福音によって、平和は来るのです。神に敵対していたものがイエス・キリストを通して、和解し、神との平和をいただくのです。そこから、人と人との間の平和に広げていくのです。イエスは十字架で死ぬために生れてきたのですが、また、復活するために死なれたのです。私たちを死後の復活に導き、死に勝利させるために、天に帰られたのです。これこそが福音です。復活されたキリストが弟子たちに現れた時に「平安があるように」とあいさつされました。原語では「シャローム」です。平和とも平安とも訳せます。また、シャロームは健康とか繁栄とかも含まれる満たされた状態を意味します。復活の希望があるとき、平安ですし、満たされるのです。

◇良い知らせを体験する
ある方の話をしましょう。親がクリスチャンだったのですが、反抗期に教会から離れ、わざわざクリスチャンでない人と結婚した。成功を求め働き、ずいぶん金儲けに走っていった。それを見て、奥さんの方が不安になり、母親の言っている教会に行き、熱心になってしまった。不景気で商売はダメになり、彼はやけになり仕事をしない。子どもを預け、妻が働きにでる。彼は自分の誤りに気付き、教会に帰り、悔い改めて、人生の回れ右をして、洗礼を受けたのである。30歳の回心である。
ところが、二番目の子が二歳の時、はしかで40度の高熱が一週間続き、もう治るかと思った時、急に熱が下がり、大きくひきつけを起こした。病院にいってもひきつけを繰り返す。医師も八方手を尽くすが悪くなる一方。医師から宣告される。「残念ですがこの子は助かりません。もし生命力があったら助かるかも知れないが、脳をやられているので後遺症がすごく残りますよ」。
がくぜんとなる。恐ろしくなる。妻と手を取って「神様!」と必死に祈る。無茶苦茶な祈りもする。二人で、三日三晩、不眠不休で食べずに祈った。最後に「どうか神様、この子が助かるなら僕の命はいりません」と祈った。すると、神の静かなみ声が心に語りかけてきた。「お前はこの子の死ぬのがたまらない。自分が死にたいぐらい。私はお前を愛している。お前が滅びに行くのがたまらない。だからわたしが、お前の代わりに十字架にかかって死んだ。どうしてそれがわからないのか?」と。真理の光が心の奥底に差し込んだ。
「ああ、イエス様、わかりました。あなたの十字架で、滅びからすくわれました」と答えた。喜びでこころが満ちたのである。「助けてくれ」が「わかった、わかった」に代わった。翌日、子どもがパッと目を覚ました。視線が合っている。すっかり回復し、何の後遺症もなかった。神の奇跡である。
 癒されたことは奇跡ですが、不安と絶望の中で、自らの命を犠牲にしてまで私を愛しくださったイエス・キリストの愛がわかって、平安、シャロームが与えられたことは何とも素晴らしいことです。どうかお一人お一人にこの平和、平安が与えられますように。
『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように』。


エッサイの根から若枝が生え

2017-12-17 00:00:00 | 礼拝説教
2017年12月17日(日)アドベント第3主日礼拝(イザヤ書11:1~10)岡田邦夫


「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」(イザヤ書11:1)

 私の父は元々、中村銀次郎だったのですが、両親が早く亡くなり、養子にいって、岡田になったと聞かされてきました。先日、ある番組で、「~村」とつく名前の由来の話を聞きました。“鎌倉時代、地主のもと、農民たちは奴隷のような生活を送っていた。鉄製のクワや鎌が安価になり、農民も所有できるようになったので、農民達は地主の手を逃れ、協力しあって荒れ地を開墾し、血縁ではなく地縁による共同体、「村」が出来た。それから上村、竹村などの名をつけるようになり、その中心となったのが中村だ…と。清水克行先生の説によると、関が原の戦いや本能寺の変より、「村」の成立が日本の歴史上に与えた影響は大きいという。”名前から見えてくる歴史があるようです。
 聖書において、重要な名前が出てきます。今日、お話しするところのイザヤ11:1の「エッサイ」です。

◇ここから始まる…エッサイの子
 かつてイスラエルはサムソンなど「士師」(さばきつかさ)という、霊に満たされた者が時々現れては国を治めていた時代がありました。無政府状態になったりすることもあり、外敵に弱いものでした。そこで民衆は士師サムエルに我々を治める王がほしいと訴えます。主の許可を得て、王国制度を取ることになります。サムエル(預言者でもある)は主に導かれ、サウルを即位させますが、やがて、彼は神の御心に沿わず、失脚していきます。サムエルは次の王を見出すため、ベツレヘムに行きます。主に示されて、エッサイとその子たちを呼びます。7人の息子たちに次々に面会するものの、「主が選んではおられない」と言うのです。残るは羊の群れの番をしていた末っ子のダビデ。主は「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ」と告げ、王に選び、立てるのでした(1サムエル16:12)。ここに選びの不思議があります。私たちもそうではないでしょうか。どうして自分のようものを選ばれたのかわかりません。主は無いに等しいものを選ばれたのです。
しかもです。ダビデが王として働きをなすうちに、主が約束されたのです。「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(2サムエル7:16)。後に彼自身も大罪を犯しますし、後のダビデ王朝もその民も神に従わないことが多くあります。しかし、王座はとこしえまでも堅く立つというのです。これもまた、選びの不思議。

◇ここからこそ始まる…エッサイの根株から新芽
選びの民も神に背を向け、ついに神の懲らしめを受け、バビロンに捕らえ移され、祖国を失うことになります。民族は消滅の危機。木が切り倒されるように民はふるわれる。しかし、望みがあるとイザヤは預言します(11:1)。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」。それこそ、ダビデの元まで切られ、エッサイの根株しか残らなくなってしまう。そんな究極の絶望に陥っても、新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶと「希望」を約束するのです。まずはバビロンから帰ってくるのですが、その先を約束しているのです。
事実、ダビデの子孫から、救い主・イエス・キリストが新芽となられ、預言が成就したのです。新約聖書を見てみましょう。「エッサイにダビデが生まれた。…生まれ…ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤから生まれた」(マタイ福音書)。「この処女は、ダビデの家系のヨセフといういいなずけで、マリヤといった」(ルカ福音書)。
パウロは神の啓示を受けて、見事に綴ります。「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです」(ローマ1:2-4)。ダビデの子孫としてお生まれになったのは治められる私たち人間と同列に立たれたのです。また、選ばれた者の代表として神の国を治める王になられたのです。
主は福音によって治められるのです(ローマ15:8-13)。「私は言います。キリストは、神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するためであり、また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。…イザヤがこう言っています。『エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。』(イザヤ11:10)どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」。神の国の福音による支配は始まったのですが、まだ、世界は真に治める者がおらず、弱肉強食の状況に置かれています。皆さんが思っておられるように、国際面でも身近なところでも、目を覆うばかりに争いが絶えません。私たちの平和への努力、平和への祈りが必要です。しかし、本当の平和をもたらすのは神なのだとイザヤは預言します。

◇ここで終わる…エッサイの根から旗
「その日」が来るとエッサイの根株からの新芽、若枝であるイエス・キリストが再臨され、絶対公正の裁きがなされるのです(11:3-5)。「正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す…」。裁きの後、絶対平和が訪れるのです(11:6-9)。「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う」。神のあわれみを受け、救いに選ばれた私たちの究極の将来はこの絶対平和の世界です。それを約束されているのです。望みを持ち、信じていきましょう。また、私たちは神の信任を受けて、福音宣教の使命に選ばれています。望みを持ち、使命が果たされるよう祈って、奉仕していきましょう。
 「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」のです。主は言われます。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残る」のです(ヨハネ福音書15:16)。

ひとりのみどりごが与えられる

2017-12-10 00:00:00 | 礼拝説教
2017年12月10日(日)アドベント第2主日礼拝(イザヤ書9:7)岡田邦夫

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(イザヤ書9:6)

 凍てつく冬の夜空に輝く星はどんな宝石よりも美しいのではないでしょうか。愛媛の教会で牧会をしていた時、家庭教師を頼まれて、ある家に夜お伺いしていました。空き地に車を止めるのですが周りは田んぼで街灯がなく、月が出ていないと、ほんとうに真っ暗でした。一寸先は闇(3cm)状態で不気味で、恐れを感じました。しかし上を見れば、星が輝き、その多さに感動していました。イザヤの生きた時代はまことに小さな国ユダは大国の餌食になる寸前の一寸先は闇の状況に置かれていました。しかし、預言者は星ではなく、神の輝きを見ていました。闇に輝く預言の言葉を私たちに告げたのです。

◇闇から光へ
 こう告げます。「異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(9:12)。
 アッシリヤ帝国は勢力を拡大し、諸国を飲み込んできて、地中海の海沿いも、ヨルダン川の東部も、ゼブルンとナフタリを含むガリラヤも征服し、属州にしてしまいました。そこは北イスラエル王国のあったところ、今は異邦人が移住させられてきているのです。そして、人々は死の危険にさらされていたのです。そして、南ユダ大国に迫ってきたのです。イザヤの見た国際情勢はそんな国家存亡の危機の時だったのです。
 国家存亡に危機といえば、日本では明治維新のころと書いた、一つの歴史小説を思いだします。司馬遼太郎の「坂の上の雲」です。私はこのタイトルが気に入っています。維新を経て近代国家の仲間入りをしたばかりの日本。三人の男を軸にその明治という時代を生きた者たちを描いた歴史小説です。「あとがき」でこのタイトルについて書いています。「このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでいく。…楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつけて坂をのぼってゆくであろう」。
これは歴史小説です。歴史を題材にしながらの小説は著者自身の時代を映す鏡、時代の気分を表現しているものと思います。この小説は1968年(昭和43年)から約4年間、産経新聞夕刊に連載されたものです。このころ日本は国民総生産(GNP)が世界第2位となったような好景気の時。問題もあったがおおむね明るかった。その時代感覚でのもとで、読む者は気持ちを沸き立たせたに違いありません。
しかし、預言書は文学の形をとっていますが、小説ではありません。ですから、時代に決して流されません。時代におもねることもしません。津波のように押し寄せる大国の前になすすべもない、一寸先も闇という時代です。希望的観測を語る偽預言者の言葉もただただ虚しいだけです。そんな中でもイザヤは星空ではなく、神の輝きを見て、預言します。近未来にはエルサレムは破壊され、ユダの人々はバビロンに捕囚されていくけれど、しかし、その先に神の光が差し込むと告げます。近未来には帰還すること、そして、そのずっと先に争いの絶えぬ人類にも救いの光が輝くと希望の預言をします。
「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(9:12)。照ったという言い方は過去預言といい、神は預言を必ず成し遂げるのですから、未来であっても過去形で書くのです。また、愛媛にいた時、敬愛する牧師の言われた言葉を忘れることが出来ません。「どんなに長くてもトンネルには出口がある」。先生は可愛いお子さんをガンで亡くされ、ご自身も病気をされ、長い試練の中を通られ、それを主によって乗り越えてこられたことからの言葉でした。暗いトンネルには明るい出口があるのです。

◇混乱から平和へ
 この預言は何と約730年後に成就します。救い主・イエス・キリストがおよそ30歳になられ、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒野で40日試みを受けたあと、宣教を開始され、公生涯に入られます。その時です。マタイ福音書4:12~17に証言されています。
「ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、『ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。』この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」。まさに神の“事実は小説にまさる”です。
 それは救い主の誕生から始まるのです。クリスマスです。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる」(9:6)。太陽の光は暗黒の深海まで届きませんが、神の救いの光は人間界の暗黒の土底まで届かせるのです。そのため人の子となってくださったのです。その方は権力を押し付けるのではなく、主権はその肩にあり、その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえるのです。
その救い主イエス・キリストの名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれるのです(9:6)。絶対的権力をお持ちの神でありながら、弱く迷いやすい私たちに寄り添う不思議な助言者(ワンダフル・カウンセラー)です。すべての民を神の家族として御許に集め、父の権威と愛を兼ね備えて治め、永遠に変わらず真実を貫かれるお方です。十字架にかかり、神と人の間にある罪を赦して、平和に導き、十字架において、人と人との間にある敵意という隔て中垣を取り除かれるのです。人間という罪に迷える羊を神の義に導くために、良い羊飼いとなって、自らの命を十字架の上で捨てられたのです。神との平和、人との平和、魂の平和はこの犠牲によってのみ、成り立つのです。
神の御子が犠牲になるなど、人間的に言えば理屈に沿わない、割に合わないことですが、私たちを救い、平和(すべてを満たすシャローム)に導きたいという神の熱心がそうさせたのです。そうさせているのです。「今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」のです。太陽の光は明るさだけでなく、熱エネルギーをもたらします。父・子・聖霊の三位一体の神は私たちに対してたいへん熱心なのです。
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる」(9:6)。


インマヌエルの主

2017-12-03 00:00:00 | 礼拝説教
2017年12月3日 アドベント第1主日礼拝(イザヤ書7:14、8:8)岡田邦夫


「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。…インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」(イザヤ書7:14、8:8)

 ある旧友の牧師が突然訪ねてきたことがありました。柏原の方に用事があって来たのだが、三田は帰り道なので、なかなか会う機会もないのでということでした。懐かしく語り合いました。引退はしたけれど、前から続けているキリスト教の老人ホームの訪問は続けていて、自分は日本の歌を歌い、賛美歌を歌い、聖書の話をしているとのこと。それを披露しますと言って、私達夫婦の前で歌い出しました。その一つが「知床旅情」、森繁久弥が北海道のロケ地において即興で作詞作曲したものです(1960年・ヒットは1970年)。実はこの牧師の奥様がだいぶ前に病気のため召されまして、その悲しさ、寂しさの中で、この歌に出会い、歌詞を讃美歌にかえて歌うことで、それを乗り越えてきたのだと証ししておられました。
 森繁はその前にもう一つ作っていました。「オホーツクの舟唄」です。前半で冬のオホーツクの厳しさに耐え、後半で大漁の喜びを歌います。その中に「春を待つ心 ペチカに燃やそう 哀れ東(ひんがし)に オーロラ哀し」
「誰に語らん このさみしさ ランプの灯影に 海鳴りばかり」
と、美しいオーロラを見ても哀しい、誰に語らんこのさみしさ…そこには人間存在の悲しさや寂しさが歌われていると私は思います。そういう寂しいと感じている者にこそ神は訪問者として訪れてくれるのだと思います。

◇わかるは…共感のインマヌエル
 主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む…イエス・キリストの降誕の預言です。それが成就したのです(マタイ福音書1章)。それはインマヌエルと呼ばれるため、インマヌエルとなられるためでした。インマヌは共にいる、エルは神ですから、「神われらとともにいます」という意味です。神が共にいてくれるために主は人となり、伝道なさり、十字架にかかり、復活され、昇天されたのです。果てしなく寂しい孤独の魂に寄り添うために来られたのです。
 先日、11月22日はいい夫婦の日、ある人が男女は違うので、違いを知って、良い関係を得ましょう。その違いは人の話に対しての応答の言葉でわかります。男は「なるほど」といい、女は「分かるは」(また、「かわいい!」)。夫婦に限らず、人と人がわかりあうということが難しいながら、勤めていく必要は感じます。しかし、人となられ、あらゆる試練に合われたイエス・キリストはインマヌエルとなられ、私たちのすべてをわかってくださるのです。私に対して、全能者なのです。悲しみの人でしたから、孤独の私の悲しみ、寂しさをわかって、いっしょにおられるのです。女子会流に言えば、「わかるは」と共感してくださいます。どうして私をお見捨てになったのですかという天涯孤独なられたからこそ、絶望の淵にいる者の友となってくださるのです。
 失敗したり、失恋したり、物事がうまくゆかず、落胆しているときにこそ、傍らに来て、肩を抱き、一緒にいるから、大丈夫と声をかけてくださるでしょう。決して捨てないよ、味方だよと力強く言われるでしょう。時には無言で優しく臨在してくださるでしょう。涙で枕を濡らすとき、その枕の中にインマヌエルでしょう。もちろん、嬉しい時、喜ばしい時も、一緒に喜んでくれるでしょう。神の家族、神の子なのですから。
 神の懐で喜びも哀しみも幾年月過ごせる人生は幸いです。インマヌエルの人生、何にもかえがたいものです。

◇なるほど…共有のインマヌエル
 主イエス・キリストはしばしば、「まだ、わからないのか」と弟子たちに問いかけています。インマヌエル・神ともにいますということは、相互にわかり合えることが必要です。神のお気持ち、神の御心をわかることがまた、神を喜ばすことです。私たちが神と共にはいられない、神との間を断絶させているのが罪です。これは自分でどうすることもできないのです。聖なる神に断罪されるしかないのです。イエス・キリストは罪を犯しませんでしたが、罪の誘惑のもとにおかれました。公生涯に入るときに、サタンの誘惑を受けました。また、十字架の苦難の前に、ゲッセマネで祈られた時に、試されました。しかし、私たちに勝利を与えるために勝利されました。
 大胆に申しましょう。イエスは私たち罪びとの共犯者になられたのです。いえ、罪のひとかけらもないのに、共犯者にさせられたのです。十字架刑に処せられたことをマルコは「罪びとのひとりに数えられた」と証言していますからです。また、事実、十字架につけられた時、右と左に重罪人と一緒に処罰されたのです。主は罪のひとかけらもないのに、共犯者にさせられたのです。それは罪びとの私たちにかわって、神から断罪されたのです。私たちは悔い改めて、神に立ち返り、イエス・キリストを信じるだけで救われ、きよめられるのです。信仰でなるほどとわかってほしいのです。
 主はどれほど、あなたを愛しているかをわかってほしいのです。人が罪を犯すことも、罪の思いを持つことも全くなかったのに罪の汚れを身に受け、泥まみれになったのです。その聖なる御体の犠牲だからこそ、罪の赦しは完璧なのです。人となられたのですから、罪を犯す者の気持ちもお分かりくださっています。しかし、いつでも神に立ち返るように十字架と復活の主はそばにいて弁護者としていてくださいます。私に対して全能の神であることをわかってほしいのです。

 きょう、私たちはどんな状況にあったとしても、心の中で「インマヌエル」とお呼びしましょう。インマヌエルの主よ、信じます、望みます、愛しますと告白しましょう。