2009年12月27日 主日礼拝(ヨハネ1:19~28) 岡田邦夫
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」ヨハネ福音書1:29
どんなことでもマスコミが取り上げると世間の注目が集まります(スポットライト)。ダイエットに寒天が良いとテレビで取り上げられると、たくさんの人が買い求め、いっぺんに売り切れてしまうということが起きました。地味に使われていた寒天が脚光を浴びてしまったわけです(フットライト)。
今年のクリスマスも、キリスト教とは関係なく楽しんだ多くの人たちの中で、クリスチャンたちはイエス・キリストの誕生に注目を集め、祝いました。聖書ではイエスのご生涯の全部にスポットライトを当てていません。誕生と12才になられた少年の時のことには光を当てていますが、その他のことは、およそ30才になられるまで、何をされていたのか、記されていません。聖書に載せるほどのことはなかったのでしょうか。人として、普通に育ちなさったのでしょう。それは私たちと同じ姿になられたというところに意味があるのです。その沈黙にこそ、私たちは光をあてて見なければなりません。
◇偉大な方にスポットライトを
福音書の記者は主イエス・キリストがおよそ30才になられてからの3年間にスポットライトをあてて記しています。その中でヨハネ福音書では、奇跡も説教も数をしぼり、そこに光をあて、ていねいに描いています。洗礼者(バプテスマ)ヨハネが、公生涯に入られたイエスにフットライトをあてて、こう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。一見した所、普通のユダヤ人で、ナザレで育たれたヨセフの子です。しかし、イエスを指差し、もっとよく「見なさい」、注目しなさい、心を向けて見なさいと言いました。
荒野で説教するこのヨハネは多くの人が話を聞きに来ていた程、評判となっていた人物でした。また、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」と言われる程の預言者でした(マタイ11:11)。そのヨハネがこう言うのです。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません」(1:26-27)。それはどれ程偉大な方なのでしょうか。「神の小羊」だからです。神の御子が小羊としていけにえになられるからです。
◇蔑まれた方にスポットライトを
本来なら、私たちは自分の犯した罪はその人自身が神に懲らしめを受け、裁かれるのですが、十字架において、主イエスがその罪人に代わって神に懲らしめを受け、裁かれ、私たちを救われたのです。ですから、救い主イエスの、私たちの責め苦を負われる姿は決して見ばえのするものではありませんでした。イザヤの預言のように、「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもな」く、「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく小羊のように、…口を開かな」かったのです。十字架におけるこの見ばえのなさこそが、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされ」ることになったのです(イザヤ53:2、5、7)。
見ばえのしないところに、本質があるのです。ヨハネが悔い改めを迫ったのは、悔い改めて、へりくだったところからしか、それが見えてこないからです。昆虫写真家ははいつくばって虫の目線で写真を撮ります。すると普通では見えない世界が見えてくるそうです。私たちは時には試練で打ちのめされて、はいつくばっている時があるかも知れません。しかし、その時こそ、普段見えていなかった、神の小羊・イエス・キリストが見えてくるのではないでしょうか。また、求める者には聖霊をくださいます。「父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」(ヨハネ15:26)。世の罪を取り除く神の小羊となられたイエス・キリストに聖霊がスポットライトを、フットライトをあて、贖いの光景を見させてくださいます。
◇真に輝く方にスポットライトを
ある少年が物置で古ぼけた筒を見つけ、手に取ってみました。その筒を明るい方に向けてのぞいてみると、多種多様の色が見え、回してみたら、美しい光の世界に引き込まれていきました。それは万華鏡でした。主は「見よ」と命じます。へりくだり、聖霊によって、神の国をのぞいてみましょう。きっと万華鏡のように、父の愛が、贖いの愛が、犠牲の愛が、赦しの愛が、いろいろな色合いが見えてきて、その世界に酔いしれることでしょう。
ほのぼのストーリーを紹介します(百万人の福音・別冊から)。
ある朝、3才の娘が、芝生の庭に出たところ、タンポポを見つけ、歓声を上げました。「見て、ヒマワリ!」。2才の妹を連れだって、両手いっぱいのタンポポをつんできて、「ママの机に飾ってね」。ママは、パパが除草剤を間違えたので、生えてきてしまった雑草なのよ、とは言えませんでした。娘たちは連日「お庭仕事」のタンポポつみとブーケ作り。大好きな人たちにプレゼントし続けます。道すがらもお花つみ。ママも影響されて、「私もタンポポつもうかな」。そして、つぶやきます。「だいたい、人間の思いどおりに花壇に収まってくれないからといって、その花を楽しんじゃいけないってだれが決めたの?緑の芝生に黄色い点々ががあるのはみっともないなんて、だれが言い出したの?」。職場では小さな花びんのタンポポの花が、毎日ママを元気づけています。
さらに、娘は家のそばで、キラキラ光る小石を、ポケットにいっぱい拾ってきました。
「ママ、私、ダイヤモンド見つけた!」
いっしょになってママも「すごーい」を連発していました。
この娘の目は素晴らしいですね。決してありきたりでない、神の創造のみ業を「見よ」。そればかりでなく、不思議なる神の手による私への摂理のみ業を「見よ」。この一年を振り返り、私たちに対して、主の良くしてくださったことの数々を「見よ」。
さらに、そのような事柄と共に、この人と出会えて、良かった。この人がいてくれて良かったと、存在に目を向けましょう。私のことを思ってくれている家族や友人ですか。祈ってくれている教会の人たちですか。存在そのものが感謝なのではないでしょうか。そして、今日の聖書は「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。私を救うために命をかけ、存在をかけられた神の小羊、そして、私のことを思ってくれている神の小羊、私のことを祈ってくれている神の小羊に注目しましょう。聖霊のスポットライト、聖霊のフットライトがあてられている「世の罪を取り除く神の小羊」イエス・キリストに心を寄せましょう。あなたにお出会いできて、良かった、あなたがいてくださって良かったと感謝しましょう。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」ヨハネ福音書1:29
どんなことでもマスコミが取り上げると世間の注目が集まります(スポットライト)。ダイエットに寒天が良いとテレビで取り上げられると、たくさんの人が買い求め、いっぺんに売り切れてしまうということが起きました。地味に使われていた寒天が脚光を浴びてしまったわけです(フットライト)。
今年のクリスマスも、キリスト教とは関係なく楽しんだ多くの人たちの中で、クリスチャンたちはイエス・キリストの誕生に注目を集め、祝いました。聖書ではイエスのご生涯の全部にスポットライトを当てていません。誕生と12才になられた少年の時のことには光を当てていますが、その他のことは、およそ30才になられるまで、何をされていたのか、記されていません。聖書に載せるほどのことはなかったのでしょうか。人として、普通に育ちなさったのでしょう。それは私たちと同じ姿になられたというところに意味があるのです。その沈黙にこそ、私たちは光をあてて見なければなりません。
◇偉大な方にスポットライトを
福音書の記者は主イエス・キリストがおよそ30才になられてからの3年間にスポットライトをあてて記しています。その中でヨハネ福音書では、奇跡も説教も数をしぼり、そこに光をあて、ていねいに描いています。洗礼者(バプテスマ)ヨハネが、公生涯に入られたイエスにフットライトをあてて、こう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。一見した所、普通のユダヤ人で、ナザレで育たれたヨセフの子です。しかし、イエスを指差し、もっとよく「見なさい」、注目しなさい、心を向けて見なさいと言いました。
荒野で説教するこのヨハネは多くの人が話を聞きに来ていた程、評判となっていた人物でした。また、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」と言われる程の預言者でした(マタイ11:11)。そのヨハネがこう言うのです。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません」(1:26-27)。それはどれ程偉大な方なのでしょうか。「神の小羊」だからです。神の御子が小羊としていけにえになられるからです。
◇蔑まれた方にスポットライトを
本来なら、私たちは自分の犯した罪はその人自身が神に懲らしめを受け、裁かれるのですが、十字架において、主イエスがその罪人に代わって神に懲らしめを受け、裁かれ、私たちを救われたのです。ですから、救い主イエスの、私たちの責め苦を負われる姿は決して見ばえのするものではありませんでした。イザヤの預言のように、「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもな」く、「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく小羊のように、…口を開かな」かったのです。十字架におけるこの見ばえのなさこそが、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされ」ることになったのです(イザヤ53:2、5、7)。
見ばえのしないところに、本質があるのです。ヨハネが悔い改めを迫ったのは、悔い改めて、へりくだったところからしか、それが見えてこないからです。昆虫写真家ははいつくばって虫の目線で写真を撮ります。すると普通では見えない世界が見えてくるそうです。私たちは時には試練で打ちのめされて、はいつくばっている時があるかも知れません。しかし、その時こそ、普段見えていなかった、神の小羊・イエス・キリストが見えてくるのではないでしょうか。また、求める者には聖霊をくださいます。「父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」(ヨハネ15:26)。世の罪を取り除く神の小羊となられたイエス・キリストに聖霊がスポットライトを、フットライトをあて、贖いの光景を見させてくださいます。
◇真に輝く方にスポットライトを
ある少年が物置で古ぼけた筒を見つけ、手に取ってみました。その筒を明るい方に向けてのぞいてみると、多種多様の色が見え、回してみたら、美しい光の世界に引き込まれていきました。それは万華鏡でした。主は「見よ」と命じます。へりくだり、聖霊によって、神の国をのぞいてみましょう。きっと万華鏡のように、父の愛が、贖いの愛が、犠牲の愛が、赦しの愛が、いろいろな色合いが見えてきて、その世界に酔いしれることでしょう。
ほのぼのストーリーを紹介します(百万人の福音・別冊から)。
ある朝、3才の娘が、芝生の庭に出たところ、タンポポを見つけ、歓声を上げました。「見て、ヒマワリ!」。2才の妹を連れだって、両手いっぱいのタンポポをつんできて、「ママの机に飾ってね」。ママは、パパが除草剤を間違えたので、生えてきてしまった雑草なのよ、とは言えませんでした。娘たちは連日「お庭仕事」のタンポポつみとブーケ作り。大好きな人たちにプレゼントし続けます。道すがらもお花つみ。ママも影響されて、「私もタンポポつもうかな」。そして、つぶやきます。「だいたい、人間の思いどおりに花壇に収まってくれないからといって、その花を楽しんじゃいけないってだれが決めたの?緑の芝生に黄色い点々ががあるのはみっともないなんて、だれが言い出したの?」。職場では小さな花びんのタンポポの花が、毎日ママを元気づけています。
さらに、娘は家のそばで、キラキラ光る小石を、ポケットにいっぱい拾ってきました。
「ママ、私、ダイヤモンド見つけた!」
いっしょになってママも「すごーい」を連発していました。
この娘の目は素晴らしいですね。決してありきたりでない、神の創造のみ業を「見よ」。そればかりでなく、不思議なる神の手による私への摂理のみ業を「見よ」。この一年を振り返り、私たちに対して、主の良くしてくださったことの数々を「見よ」。
さらに、そのような事柄と共に、この人と出会えて、良かった。この人がいてくれて良かったと、存在に目を向けましょう。私のことを思ってくれている家族や友人ですか。祈ってくれている教会の人たちですか。存在そのものが感謝なのではないでしょうか。そして、今日の聖書は「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。私を救うために命をかけ、存在をかけられた神の小羊、そして、私のことを思ってくれている神の小羊、私のことを祈ってくれている神の小羊に注目しましょう。聖霊のスポットライト、聖霊のフットライトがあてられている「世の罪を取り除く神の小羊」イエス・キリストに心を寄せましょう。あなたにお出会いできて、良かった、あなたがいてくださって良かったと感謝しましょう。