オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

神の小羊にスポットライトを

2009-12-27 00:00:00 | 礼拝説教
2009年12月27日 主日礼拝(ヨハネ1:19~28)  岡田邦夫


「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」ヨハネ福音書1:29

 どんなことでもマスコミが取り上げると世間の注目が集まります(スポットライト)。ダイエットに寒天が良いとテレビで取り上げられると、たくさんの人が買い求め、いっぺんに売り切れてしまうということが起きました。地味に使われていた寒天が脚光を浴びてしまったわけです(フットライト)。
 今年のクリスマスも、キリスト教とは関係なく楽しんだ多くの人たちの中で、クリスチャンたちはイエス・キリストの誕生に注目を集め、祝いました。聖書ではイエスのご生涯の全部にスポットライトを当てていません。誕生と12才になられた少年の時のことには光を当てていますが、その他のことは、およそ30才になられるまで、何をされていたのか、記されていません。聖書に載せるほどのことはなかったのでしょうか。人として、普通に育ちなさったのでしょう。それは私たちと同じ姿になられたというところに意味があるのです。その沈黙にこそ、私たちは光をあてて見なければなりません。

◇偉大な方にスポットライトを
 福音書の記者は主イエス・キリストがおよそ30才になられてからの3年間にスポットライトをあてて記しています。その中でヨハネ福音書では、奇跡も説教も数をしぼり、そこに光をあて、ていねいに描いています。洗礼者(バプテスマ)ヨハネが、公生涯に入られたイエスにフットライトをあてて、こう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。一見した所、普通のユダヤ人で、ナザレで育たれたヨセフの子です。しかし、イエスを指差し、もっとよく「見なさい」、注目しなさい、心を向けて見なさいと言いました。
 荒野で説教するこのヨハネは多くの人が話を聞きに来ていた程、評判となっていた人物でした。また、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」と言われる程の預言者でした(マタイ11:11)。そのヨハネがこう言うのです。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません」(1:26-27)。それはどれ程偉大な方なのでしょうか。「神の小羊」だからです。神の御子が小羊としていけにえになられるからです。

◇蔑まれた方にスポットライトを
 本来なら、私たちは自分の犯した罪はその人自身が神に懲らしめを受け、裁かれるのですが、十字架において、主イエスがその罪人に代わって神に懲らしめを受け、裁かれ、私たちを救われたのです。ですから、救い主イエスの、私たちの責め苦を負われる姿は決して見ばえのするものではありませんでした。イザヤの預言のように、「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもな」く、「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく小羊のように、…口を開かな」かったのです。十字架におけるこの見ばえのなさこそが、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされ」ることになったのです(イザヤ53:2、5、7)。
 見ばえのしないところに、本質があるのです。ヨハネが悔い改めを迫ったのは、悔い改めて、へりくだったところからしか、それが見えてこないからです。昆虫写真家ははいつくばって虫の目線で写真を撮ります。すると普通では見えない世界が見えてくるそうです。私たちは時には試練で打ちのめされて、はいつくばっている時があるかも知れません。しかし、その時こそ、普段見えていなかった、神の小羊・イエス・キリストが見えてくるのではないでしょうか。また、求める者には聖霊をくださいます。「父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」(ヨハネ15:26)。世の罪を取り除く神の小羊となられたイエス・キリストに聖霊がスポットライトを、フットライトをあて、贖いの光景を見させてくださいます。

◇真に輝く方にスポットライトを
 ある少年が物置で古ぼけた筒を見つけ、手に取ってみました。その筒を明るい方に向けてのぞいてみると、多種多様の色が見え、回してみたら、美しい光の世界に引き込まれていきました。それは万華鏡でした。主は「見よ」と命じます。へりくだり、聖霊によって、神の国をのぞいてみましょう。きっと万華鏡のように、父の愛が、贖いの愛が、犠牲の愛が、赦しの愛が、いろいろな色合いが見えてきて、その世界に酔いしれることでしょう。

 ほのぼのストーリーを紹介します(百万人の福音・別冊から)。
 ある朝、3才の娘が、芝生の庭に出たところ、タンポポを見つけ、歓声を上げました。「見て、ヒマワリ!」。2才の妹を連れだって、両手いっぱいのタンポポをつんできて、「ママの机に飾ってね」。ママは、パパが除草剤を間違えたので、生えてきてしまった雑草なのよ、とは言えませんでした。娘たちは連日「お庭仕事」のタンポポつみとブーケ作り。大好きな人たちにプレゼントし続けます。道すがらもお花つみ。ママも影響されて、「私もタンポポつもうかな」。そして、つぶやきます。「だいたい、人間の思いどおりに花壇に収まってくれないからといって、その花を楽しんじゃいけないってだれが決めたの?緑の芝生に黄色い点々ががあるのはみっともないなんて、だれが言い出したの?」。職場では小さな花びんのタンポポの花が、毎日ママを元気づけています。
 さらに、娘は家のそばで、キラキラ光る小石を、ポケットにいっぱい拾ってきました。
 「ママ、私、ダイヤモンド見つけた!」
 いっしょになってママも「すごーい」を連発していました。

 この娘の目は素晴らしいですね。決してありきたりでない、神の創造のみ業を「見よ」。そればかりでなく、不思議なる神の手による私への摂理のみ業を「見よ」。この一年を振り返り、私たちに対して、主の良くしてくださったことの数々を「見よ」。
 さらに、そのような事柄と共に、この人と出会えて、良かった。この人がいてくれて良かったと、存在に目を向けましょう。私のことを思ってくれている家族や友人ですか。祈ってくれている教会の人たちですか。存在そのものが感謝なのではないでしょうか。そして、今日の聖書は「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。私を救うために命をかけ、存在をかけられた神の小羊、そして、私のことを思ってくれている神の小羊、私のことを祈ってくれている神の小羊に注目しましょう。聖霊のスポットライト、聖霊のフットライトがあてられている「世の罪を取り除く神の小羊」イエス・キリストに心を寄せましょう。あなたにお出会いできて、良かった、あなたがいてくださって良かったと感謝しましょう。

最初のクリスマス賛美歌

2009-12-20 00:00:00 | 礼拝説教
2009年12月20日 主日礼拝(ルカ福音書2:8~20)岡田邦夫


 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」(ルカ福音書2:14)。

 Merry Christmasはクリスマスおめでとう、良いクリスマスを、楽しいクリスマスを、の意味です。音楽というのは音を楽しむと書きます。神は音を楽しむようにと人間に音楽を与えてくださいました。そして、私たちの最高の楽しみは神を賛美することなのです。
 では、世界で最初のクリスマスの賛美をしたのはだれでしょう。小さな村のベツレヘムで貧しい羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。オオカミや羊泥棒が現れたら、追い払わなければならないのですから、たいへんです。ところがです。主の使いが現れ、神の栄光が回りを照らしたので、羊飼いたちはサプライズ、驚いてしまいます。さらにサプライズ、神が全世界に伝える、重大ニュースを、彼らが代表で聞いたのです。
「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」(2:10-12)。
 そのような素晴らしい知らせを聞いても、羊飼いたちは色々なことが心配でそこを動けません。そこで、神は音楽で感動させて行かせました。み使いとたくさんの天の軍勢の混声合唱団が現われて、神を賛美しました。
 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」(2:14)。
 「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」。そう互いに話し、急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てました。羊飼いたちは、全部み使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行ったのです(2:20)。一番最初のクリスマスの賛美は、天使の賛美と羊飼いの賛美でした。その時は飾りも、ご馳走も、贈り物もありませんでしたが、救い主の誕生を心から喜び楽しんだのでした。

 アメリカの賛美歌集にはたいてい治められている、最も古い曲の一つに「み使いよふして」聖歌181(オリバ・ホルドン作曲)があります。その賛美歌にまつわる話をしたいと思います(「聖歌詞100選」より)。
 アメリカからスコットという宣教師が、イエス・キリストの福音を伝えたいと思って、インドの奥地に行って伝道をしていました。ある日、道で、見たことのある不思議な服装をした一人の人に会いました。スコットははっとしました。それは以前、山奥で暮らすある部族に伝道していた時に、見かけた服装でした。その時は伝道に失敗して引き上げてしまっていたのです。そこで、彼は思い直して、もう一度山奥のあの部族の所に入り込んで伝道しようと決心しました。
 友だちはそのような冒険はやめるようにしきりにとめましたが、「あの人たちにこそ福音を伝えなくてはいけない。」と言って、バイオリン一つを持って、急いで出かけて行きました。山の谷間を歩き回り、2日かかって、ようやく、そのにたどり着くことができました。
 しかし、不意にやってきたものですから、部族の男たちが出てきて手に手にヤリをもって彼の胸元に迫ってきました。殺されるのか、言葉は通じないし、どうしようか。とっさに持ってきたバイオリンを取り上げ、目をつむったままで、「み使いよふして」(聖歌181)をひき始め、それにあわせて自分も歌い出しました。
  み使いよふして 主をかしこみ 冠(かむり)をささげて ほめよイエスを
と無我夢中に歌い続け、4節の
  世のなかの民は 声あわせて みいつをかしこみ ほめよイエスを
と歌ったところで、はじめて、目を開いてみましたら、とても不思議なことが起こっていたのでした。サプライズ。今にも殺そうと迫ってきた部族の人たちが、手に持っていたヤリを捨てて、彼の足もとにひざまずき、大粒の涙を流していたのでした。この美しい賛美歌と祈りをこめた彼の姿に心をうたれたのでしょう。これがきっかけで、スコットは2年半、伝道に献身することができました。帰国して多くの人に証しし、そして、その部族のところに帰って死ぬまで伝道を続けたいと言って、再び、インドに行きました。
 神が与えてくださった音楽は人の心を変えます。神を喜び、救いを喜び、人生を楽しむように変えてくださいます。神を賛美する最高の楽しみに導かれます。このクリスマス、み使いと共に「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」と賛美しましょう。

真のニューリーダー

2009-12-13 00:00:00 | 礼拝説教
2009年12月13日 主日礼拝(イザヤ書9:1~7)岡田邦夫


 「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」イザヤ書9:7

 先週、私は夢を見ました。ある所で私が何か講演をして終わった時に、ひとりの人が詰め寄ってきて、レジメのプリントがなかったではないかと言って大変な怒りを私にぶつけてきました。私は逃げるようにそこを去り、町に出ました。見当をつけて駅の方に向かうのですが、なぜか、違う方向にどんどん行ってしまってあせります。すると駅が見えてきて、ほっとしました。しかし、それは自分が乗ろうとしていたJRの駅ではないのです。でも、とにかく乗れば、遠回りでも家に帰れると思って乗りました。千住大橋行きの都電でした。これで家に帰れるのか、心配しているうちに目が醒めました。道に迷った夢だったのですが、あらためて私は考えました。人は迷うことが大事なのではないか、迷うからこそ、そこから、ほんとうのことは何かと探っていくのではないかと考えた次第です。。
 NHKスペシャルで「日本海軍400時間の証言」というのが3回にわたって放映されました。HPにこう紹介されていました。太平洋戦争で亡くなった日本人はおよそ300万人。アジアでは更に多くの人命が失われました。太平洋戦争の開戦の鍵を握っていたのが大日本帝国海軍「軍令部」で、全ての基本作戦の立案・指導にあたり、絶大な権力を持っていました。戦後35年が経過した昭和55年から11年間、この軍令部のメンバーが中心となって秘密に集まって「海軍反省会」の会合がもたれていました。開戦に至る経緯、その裏で行った政界・皇族・陸軍などへの働きかけなどを400時間にわたって仲間内で語ったものです。戦争を避けるべきだと考えながら、組織に生きる人間として「戦争回避」とは言いだせなくなっていく状況を伝えている当事者の証言です。当時の日本のエリートたちがなぜ開戦を決意したのかを要約した言葉が、第一回のタイトル「開戦 海軍あって国家なし」です。組織の中で生き、大局を見失った、大いなる悲劇です。

◇私たちを平和に導く方
 箴言に「指導者がなければ民は倒れ、助言者が多ければ安全である。」とありますように、私たちは良い指導者、良い助言者を必要としています(11:14口語訳)。イザヤは全世界を治める真の指導者、助言者の現れを預言しました。それはイエス・キリストの降誕の預言です。
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(9:6-7)。
 どんなに優れた指導者でも、時代の影響を受け、利権がからみ、罪の下にあるのですが、この方は時代を超え、犠牲を惜しまず、義をつらぬく方として、お生まれになりました。この方は「不思議な助言者」言い換えれば「驚くべき指導者」(新共同訳)です。民のこと、私たちのことをよく判ってくださる、真の指導者、助言者です。ヘブル人への手紙にこう証言されています。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(4:15)。決して間違えることのない指導者であり、私たちの弱さをご存じで導かれる助言者なのです。
 子供の頃、プリズムに光を当てると屈折して、七色の光になるというのが、何とも言えない不思議さを感じ好きでした。世界の救い主=真の指導者の光のプリズムは、4つの光に分光されます。「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」の4つの救い主の色です。
 私たちの弱さをご存じで導かれる不思議な助言者は死人の中から復活され、神の右に上げられた力ある神であり、私たちを復活の世界に導いてくださる指導者です。弱さを知り、強さをもつ指導者は、神の子らを威厳と慈しみをもって導く、永遠の父です。父は子に対して、ご自分に似た者にしようと導かれる助言者です。ご自分に似た者にしようと威厳と慈しみをもって導かれる父なる助言者は、私たちを平和に導かれる君主なのです。イエス・キリストは神との和解をもたらし、人と人の間の隔ての中垣を壊し、平和をもたらすために、十字架でなだめの供え物となってくださいました。主はだれも成し遂げられなかった絶対の平和、充足の平和に私たちを導く平和の君としての指導者なのです。
 日本においても、アメリカにおいても政権が代わり、ニューリーダーに期待が寄せられています。現実は厳しいです。私たちは為政者のために祈らなければなりません。それ以上に、クリスマスを前にして、イエス・キリストという真のニューリーダーに私たちがしっかり信頼をよせ、多くの人が、世界中の人がこの方に導かれるように祈ってまいりましょう。

◇私たちを喜びに導く方
 「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる方がもたらす平和の時が来ますなら、私たちは大いに喜ぶのです。「あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ」(9:3)。言い換えれば、神は私たちを心の底から、喜ばせたいのです。
 今、高齢者、子ども、障害者を一緒にケアする共生型介護の施設が注目され始めています。幼児が「ご飯だよ、行こう」と言うと、一人で立てなかったおじいさんが立ち上がって食堂に歩いていきますし、幼児の手を引いて階段を登っていったのです。互いに世話をすることで、能力が引き出されていったということです(NHKクローズアップ現代より)。人を喜ばせようとする関係が、能力を引き出させ、人を生き生きさせるのだと私は思います。
 祖父母は孫を喜ばせたい。孫は祖父母を喜ばせたい。親は子を喜ばせたい。子は親を喜ばせたい。夫は妻を、妻は夫を、先生は生徒を、生徒は先生を、監督は選手を、選手は監督を…素直であれば、喜ばせたいものです。信仰者として、私たちは誰かを喜ばせるために、奉仕をし、生きていきたいと思います。そして、神ご自身が私たちを喜ばせたいと思っておられることを心にとめておきましょう。真の平和の世界、真の喜びの世界に導くことのためにはよほどの熱意が必要です。「今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」のです。その熱心は御子をみどりごとして生まれさせ、イザヤ書53章にあるような耐え難い十字架の苦難を受けさせ、私たちを救いに導こうとされた熱心です。このような罪人を救うために、どんな犠牲をもおしまず、どんな苦難にも耐え、私たちが罪から解放され、永遠の命に与った大いなる喜びに導こうとする、究極の熱心です。
 万軍の主の熱心が新しい天と新しい地をもたらします。そこでは、「あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ」とあるように、私たちは喜びをいただくです。そして、「花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ」のです(イザヤ62:5)。万軍の主の熱心によって、このように、神と民が喜び合う日が来るのです。真のニューリーダーの愛に満ちた熱意がこのような充足した平和の世界、神人共に喜ぶ世界へと導いてくださるのです。
 この世にあって、私たちは色々なことで、迷います。その都度、みどりごとして生まれ、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる方の導きをいただい経験をつなげて生きていきましょう。また、悲しいこと、辛いこと、厳しいことのある中で、その都度、神が喜ばそうと導き、与えて下さる喜びの経験を重ねて生きていきましょう。

インマヌエルというしるし

2009-12-06 00:00:00 | 礼拝説教
2009年12月6日 主日礼拝(イザヤ書7:1~17)岡田邦夫


 「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」イザヤ書7:14

 2006年、トリノ五輪の女子フィギュアスケートで、荒川静香選手がアジア選手として史上初の金メダルに輝きました。ミスは少なく、得点には結びつかない背を反ったイナバウアーの演技をも見せ、観客はスタンディングオベーション、滑り終えた時には最高の得点でした。他の選手が緊張で、動揺して失敗する中で、彼女は実にクールに滑り、競技に集中できたことが勝因となったようです。

◇救援のメッセージ(みことば)
 しかし、何かにつけ、人は動揺するものです。事故にあうなど、急なことや、試験など緊張を強いられる時など、心は騒ぎます。それが国家の一大事ともなれば、大変なことです。BC735、アハズ王のユダ国に向かって、レツィン王のアラム国とペカ王の北イスラエル国の連合軍が責めてきました。しかし、首都エルサレムを落とせないでいたのすが、この報告を聞いて、「王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。」のです(7:2)。
 北の脅威がありました。アッシリヤ帝国が進軍し、間近に迫ってきて、恐怖を感じていました。アラムと北イスラエルはユダを含めた三国が連合して、迎え撃とうとしたのですが、ユダが加わらないというので、アラムと北イスラエル軍がユダを攻めてきたというわけです。こんなことをしていたら、余計に強大国アッシリヤにたちまち餌食にされてしまいます。最悪の事態です。林の木々の風で揺らぐように、心が動揺してしまうような事態です。
 そこで、主は預言者イザヤを遣わし、アハブ王にこう告げます(7:4ー9)。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし…に、心を弱らせてはなりません」。脅かし、攻め入ろうとしても、そのようなことは起こりえないし、「六十五年のうちに、エフライム(北イスラエル)は粉砕されて、もう民ではなくなる」。「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない」。
 私たちは何かつけ動揺しやすい者です。不測の事態で動転してしまうこともあります。そのような時に、このような主の言葉があるでしょう。ひと言で言うなら、「冷静でありなさい。神を信じていなさい」。message(メッセージ)の語源は「送る」です。阪神淡路大震災の時に、多くの救援物資、救援活動がありましたが、多くの人のメッセージが被災者を慰め、励ましました。信仰の世界においては、私たちの緊急事態に、天からの救助の手が差し伸べられますが、何よりも助けは天からの救援メッセージが送られてきます。今日の救援メッセージは「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。」です。

◇救援のサイン(しるし)
 人は弱いもので、神が助けてくれるといっても、目で見えないので、見える形の「しるし」を求めるものです。一般では「お守り」があります。合理主義者なら、そのようなものは気休めだと言うでしょう。心理学者の中には気を休めるのだから、あっても良いのではという人がいるかも知れません。しかし、人の弱さをご存じの神は、アハズに告げました。「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから」(7:11)。アハブは不信仰で、それを求めませんでした。浅はかな知恵で解決しようと、イザヤの忠告にもかかわらず、アッシリヤに助けを求め、貢ぎ物を送りました。それは一層悪い結果を招くことになりました(2歴代28:16-21)。
 旧約、新約において、多くの聖徒たちが「みことばに伴うしるし」を主から与えられました。しるしを見て信じるのではなく、信じる者にしるしが伴うのです。なお「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから」の救援のしるしを求めましょう。

 アハブ王にイザヤが会いに行った時に一緒に連れて行ったのが、息子のシェアル・ヤシュブでした。「残りの者が帰ってくる」という意味の名前です。
どんな絶望的な状況の中でも必ず残る者が帰ってくるという希望のメッセージであり、しるしとしての名前です。旧約時代にそれはユダにおいて成就します。そして、新約時代の人類の救いに展開していきます。
 その人類の救いがもたらされることの、そのしるしを「よみの深み、あるいは、上の高いところから」告げられたのが、次のインマヌエル預言です。
 「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」(7:14)。
処女がみごもって、男の子を産むということはあり得ないことです。このことについて、様々な説明がなされています。単性でも妊娠可能だという科学的なような説明も、聖母は無原罪だという神学的なような説明も(私は決してカトリック信仰を問題視しているのではありません。)、処女ではなく若い娘なのだという合理的なような説明も、それらをいっさい排除するものです。処女懐妊はまさに人類史上、最も不思議なことであり、それこそが救い主、降誕の真性の「しるし」です。
 「そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」とあります。インマヌエルは「神がわたしたちと共におられる」という意味です。イエスに会いにきたユダヤの議員ニコデモがこう言いました。「神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません」(ヨハネ3:2)。私たちの間にお生まれになった主イエス・キリストはその生涯において、「インマヌエル」の真性のしるしを示されました。
 私たちはこのように生きていく者なのです。「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた」(マルコ16:20)。

◇救助のしるし
 「エスキモーと鯨」の話をしましょう。日基出版「愛と自由のことば・一日一章」の11/16分のH・W・バルチェの文章です。
 最初の宣教師のひとりがグリーンランドへ来て、そこでしばらく働いた時に、そこへ恐ろしい飢饉がやって来ました。エスキモーたちはどんな努力をしても、彼らのいのちの糧である鯨をほとんど見つけることができませんでした。灯油がなくなって、長い極地の夜の間、小屋の中はくらやみになりました。犬は飢え、一匹また一匹と殺されました。そこで人々はその宣教師のところへやって来て、お前の神がわれわれに鯨をくれるように、と彼に強要しました。もしくれなければ、それは、その宣教師がここで働くのを自分たちが許したことを古い神々が怒っておられる証拠である、というのであります。彼らは彼に期限をきり、それまでに鯨をくれなければならない。もしくれなければ、お前の小屋の立っている断崖からお前を突き落としてやる、といいました。
 そこでその宣教師は夜も昼もこの徴を求めて祈りました。けれども鯨は一匹もとれませんでした。それでエスキモーは怒って、その男を断崖から突き落として殺してしまいました。それから死骸を探しに下へ降りてみますと、驚いたことに、そこには、死骸があっただけでなくて、一匹の巨大な鯨が横たわっていました。そしてこの鯨が住民たちを餓死から救ってくれました。これは偶然でしょうか。エスキモーたちはこの宣教師を葬って、彼のために鯨の骨で作った十字架の墓標を立てました。そして悔い改めて、この宣教師の神に改宗しました。彼らは奇跡の前にひざまずいたのです。いいかえれば、宣教師の死と、奇跡的な救助の背後に現れたもうた神の前にひざまずて、-「主よ、わたしから離れて下さい。わたしは罪ある人間です」と告白したのです。

 アドベント第2主日。聖歌124番を賛美しましょう(4節)。
  神の御子イエスよ いざ降りて 汚れしこころを なが御座とし
  とこしえまでも 座したまえや インマヌエルの主よ わが御神よ