オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

「天に栄光、地に平和を」続

2011-12-25 10:00:00 | 礼拝説教
2011年12月25日 主日礼拝(ルカ2:8-16)岡田邦夫


 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ福音書2:14)

 先日、フローラ88という所の通路で人と待ち合わせのため、ベンチに座っていましたら、目の前で、若いお父さんが歩き始めの子どもを正面から写真を撮っているのが目に入りました。その子がちょっと横を向いて私が視野に入ったようなので、私はクビをちょっと動かして見せると関心を寄せました。パパがこっちと言うと前を向いて、写真。しかし、子どもは気になるらしく、横向いて私の方を見る。今度はこちらが会釈すると、むこうも頭を下げる。するとお母さんがこんにちわと言葉を添えてくれた。帽子をかぶり、ジャンパーを着た、初老の怪しげなおじさんなのに、幼子はコミュニケーションをとってくれたのです。ちゃんと手を振ってバイバイのあいさつをして、この見知らぬ家族と別れました。言葉がわからなくても、何かが通じてしまうという妙な経験をしました。
 本日の礼拝でヴァイオリンとピアノの美しい音色を聞かせていただいています。私は不思議に思うのです。器楽の音色が空気を媒介に、その振動で伝わって来るのですが、その音色を媒介に奏者の思いや気持ち、人柄というその人の色が伝わってくるということです。
 2000年前、ベツレヘムの野で羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた時でした。神の栄光でまわりが明るくなり、そこに天使があらわれ、その厳粛さに畏れていると、天使が神のみ告げを知らせる不思議な声が聞こえたのです。聖書にはこう記録されています。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」。民全体のための知らせなのに、名もない貧しい羊飼いたちだけに伝達したのです。きっと、話が通じる人だけに知らせたのでしょう。伝えた言葉が心に響く人だけに知らせたのでしょう。羊飼いたちは神を信じる信仰の心で受けとめたのです。だからこそ、天使に天の大軍が加わり、神を賛美するという光景を見、天のコーラスを聴いたのです。
 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
  地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
 最高の賛美が彼らの心を震わせました。天使が去って、羊飼いたちが急いで出かけました。ヨセフとマリヤと飼い葉おけに寝かされている乳飲み子を探し当てたのです。聞いたことが、その天のニュースが事実だったので、彼らは神を賛美しながら、帰っていったのです。その賛美は今聞いた、天使の賛美だったかも知れません。

 人が救われるというのは地位や名誉や財産を得ることではありません。歌うようになること、創造者である神を賛美するようになることです。しかし、人間という者は高慢で、罪深く、神に感謝したり、神を称えようとしません。むしろ、自分を称え、自分を偶像化し、神を無視して生きていく、罪深い存在です。聖なる神から見れば、鼻持ちならない、この宇宙から掃き出してしまいたい程の存在です。しかし、神に造られた者ですから、そのような私たちのところに降りてきて、救い主イエス・キリストが世に人として生まれて来られたのです。人間の傲慢さとは対照的に、神の御子は家畜小屋という最も低い所に降りて来られたのです。それはすべての民を、すべての人を救うためでした。そして、彼を受け入れた者には賛美が回復するのです。神を賛美する喜びに導かれるのです。人類の救いは賛美の回復です。天国は賛美にあふれた所です。

 バッハといえば、今は音楽の父とも言われていますが、彼の死後約80年間、世間に忘れられていた作曲家でした。しかし、天才メンデルスゾーンが復活させたのです。メンデルスゾーンが14歳の時、クリスマス・プレゼントとしてバッハの「マタイ受難曲」の写譜を贈られ、感動したので、熱心にバッハを研究するようになり、1829年3月11日に、そのマタイ受難曲を再演しました。それが評判となり、バッハの音楽と信仰が多くの人に感動を与えるようになったのです。こうして、バッハの賛美の回復を見るのです。
 神は救い主イエス・キリストを送られ、天の聖歌隊を送られて、羊飼いたちが救い主に出会い、神への賛美を回復したように、私たちもそうなることが救いです。この最高の賛美が一緒に歌えれば、ほんとうに素晴らしいことです。
 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
  地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
 戦争のない平和もそうですが、神との間にある罪がイエス・キリストの十字架によって、赦された魂の平安が与えられるなら幸いです。身近な人との間の平和も祈っていきたいです。東日本大震災で被災され、家が流され、家族が亡くなられた方に、ある立場の人がこういう言葉を投げかけ、その人は生きる勇気を与えられたとと言うことを聞きました。
 「生きていてくれて、ありがとう」。
 もし、すべての人がそう言えたら、差別も対立もなくなり、人の社会はほんとうに平和になるでしょう。そして、何よりも、神にとって生きていては困るほどの罪深い私たちを、御子の降誕により、十字架の贖いにより、「生きていてくれて、ありがとう」という存在にしてくださるのです。ただ、神を信じて、神につながることでです。そして、賛美を回復するのです。

「天に栄光、地に平和を」

2011-12-18 00:00:00 | 礼拝説教
2011年12月18日 主日礼拝(ルカ2:8-16みのお泉教会)岡田邦夫


 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。」(ルカ福音書2:14)

 クリスマスというと町にも家にも教会にも「ツリー」が飾られます。ツリーの由来は8世紀前半、修道士ボニファティウスがゲルマン人に宣教に行った時のことです。聖木とされる樫の木の前で子供がいけにえにされようとしたの見たので、それを止め、樫の木を切り倒し、かわりにもみの木を持ち出して、これをキリスト教の三位一体の象徴としたという伝説があります。ところで、宗教改革者ルターがクリスマス・イブにもみの木のを通して見た冬の星が美しかったので、それを再現しようと伐ってきたツリーにキャンドルの明かりを灯しました。これがドイツの風習となり、世界に広まったのです。
 暗闇を照らすキャンドルは世の光として来られたキリストを思わされます。羊飼いたちが夜の暗闇の中、羊の群を見守って、野宿をしていました。「すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた」のです(2:9)。人は暗い夜に人生とは何かと考えるものです。羊飼いたちは人生が辛いものであり、世界を見渡しても、心をのぞき込んでも、罪に汚れ、醜く、深い闇に覆われていると思わされ、救いの光はないものかと神を求めていたに違いがありません。
 南米チリの標高5,000mアタカマ高地に巨大なアルマ望遠鏡というのが来年できます。それは目に見えるものを観測する光学望遠鏡ではなく、目に見えないものを観測する電波望遠鏡です。すなわち、宇宙の闇を捕らえることによって、宇宙の起源を探ろうというものです。
 17日、A兄の葬儀前夜式がありました。9年前、B姉と結婚された時に彼はクリスチャンでは無かったのですが、一つの約束を守って、月一回は一緒に教会の礼拝に出席していました。ところが、今年の1月、脳腫瘍が見つかり、手術したのですが、全部取り切れず、あと一年の余命と宣告されました。退院後、教会に通うようになり、一時は良くなったかのようでしたが、病状が悪化して来て、強く死を意識した時に、心は闇に覆われ、耐え難いところにおかれました。その時、「神を信じるしかない」という気持ちがわいてきました。牧師の導きで、悔い改めて、イエス・キリストを信じ、永遠の命が与えられたと確信しました。すると、先は真っ暗なはずなのに、救いの光が差し込んで、たいへん嬉しくなって、それを押さえきれないほどでした。そして、10月23日、豊中泉教会の新会堂、最初の礼拝で受洗されました。そして、昨日の早朝、平安の内に天に召されていきました。49年の生涯でした。生前、クリスチャンになった彼はこの闘病生活で奥様に「幸せだ」と言っていたとのこと。肉体は病魔にむしばまれましたが、霊魂は神の平安が与えられ、自由でした。

 羊飼いの話にもどりましょう。夜、野宿をしていた時、「主の栄光」という、自然界にはない光に遭遇したのです。他の人には見えない、闇の中で、神を求めていた、貧しい彼らだけに見えたのです。ただ、光を観察したというのではなく、聖なるものに出会ったのです。それでひどく畏れたのです。神のメッセージが御使いを通して告げられます。「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」(2:10ー12)。このメッセージを信じ受けとめた羊飼いたちは急いでベツレヘムに捜しに行くと、告げられた通り、「マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた」のです(2:16)。救い主が現れたというのに、見た目は何の輝きもない、私たちと変わらない姿のみどりごであり、神の栄光を汚すのではないかとイメージされるような、家畜の飼い葉おけに寝ておられるたのです。そこで、羊飼いは闇の世に救いをもたら救いの光を信仰によってキャッチできたのです。ですから、「羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った」のです(2:20)。

 羊飼いは地に現れた幼子の救い主を心の目で見たのですが、天に現れた御使いたちを見たのです。救い主誕生の福音を聞いた後に、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびしている光景でした。「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(2:14)。神に栄光があるというのと人々に平和があるとうのはイコールです。神に敵対して、罪を犯す私たちが十字架にかかりその罪を取り除かれたイエス・キリストを通して、神との平和を得るところに真の救いがあります。神との平和のあるところに魂の平安というものが生まれます。神との平和のあるところに、人々の平和が生まれるのです。
 このような文章を思い出します。
「凍えるような寒さのなかで迎えた クリスマス・イブ…。
 敵対するドイツ軍の陣営と、イギリス軍の陣営から、
 期せずして、賛美の歌が起こりました。
 故郷を離れ、愛する人の面影をしのびながら、
 兵士たちは“きよしこの夜”をそれぞれのことばで歌ったのです。
 これは第一次世界大戦で起こったクリスマス休戦のエピソードです。
 けれど、この物語は、激しい銃声と共に打ち破られました。
 それは、あまりにも短い平和の訪れでした。
 しかし、瞬時とはいえ、兵士たちの心に、
 あの幼子の微笑みが確かに宿ったのでした。
 それを決して忘れたはならないでしょう。
 今年のクリスマス。
 戦争の絶えない悪い時代の中で、
 私たちは、あの幼子の微笑みに出会い、
 平和の主を自分の心のに迎えることができるでしょうか。

ミカの預言

2011-12-11 00:00:00 | 礼拝説教
2011年12月11日 主日礼拝(ミカ5:1-15)岡田邦夫


 「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2)

 先週、ある方が私に面白いからと言って経済新聞を持ってこられました。先日行われた、3万人が参加した大阪マラソンのお医者さんの話で、849人の医療救援スタッフの本部長が書いたものでした。その医師の名が岡田邦夫、私と同姓同名。私の名の意味は叔父にそういうな名前の人がいて、その人にあやかったのだと母から聞いたことがあります。
 聖書に出てくる人の名前にも意味があります。今日、お話しする預言者「ミカ」、発音だけ聞くと日本の女性にもいそうな名前ですが、ヘブル語ではミカヤフーの短縮形で「だれが主のような方であろうか」という意味です。きっと彼はその意味のように預言者として生きたことでしょう。彼のメッセージの中心は6章8節です。「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」。
 彼はイザヤと同時代の預言者で、両者は対照的です。イザヤは王の家系出身で宮廷人、ミカは田舎の出身で農夫です。救い主・メシアについても、イザヤは「ダビデの位に座する者」と預言し(9:6、11:1)、ミカは「田舎のベツレヘムの牧者」と預言しています。ミカ書の4~5章に終わりの日の救いの約束が述べられ、その中に、救い主・メシアの預言が5章2節あります。
 「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」。
 その約束の通り、救い主イエス・キリストがダビデの町(ダビデ王の出身地)ベツレヘムでお生まれになりました(マタイ2:3-6)。ベツレヘムは「パンの家」という意味で、町は小さな町です。人口調査でヨセフとマリヤが故郷に帰った時にみどりごイエスがそこで誕生されたのです。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」の預言の通りです。御子は最も大いなる方ですのに、最も小さい者となられて、地上に来られたのです。世の小さい者に救いが届くために、小さい者となられたのです。無限大の方が無限小の方になられたのです。罪深く、御前には無限小の存在の私たちのところに来られたのです。そして、十字架の贖いにより、復活の福音により、永遠の命、無限大の救いを与えてくださるのです。

 人間にしろ、動物にしろ、赤ちゃんというのはかわいいものです。かわいいから、親は育てることができるし、自然界でも、小さい内は危険にさらされますが、時にはかわいいから、命が助かると言うことがあります。保護されるのです。神は幼子をかわいく造られたのです。社会は大きいことは良いことという価値観の中に動いています。しかし、信仰者は逆で、小さいことは良いこととなのです。小さくなることです。イエスの教えがそうなのです。「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです」(ルカ9:48)。ミカのメッセージのように小さくなって、「へりくだってあなたの神とともに歩む」ことこす、価値ある生き方です。このクリスマス、小さくなられ、ベツレヘムにお生まれになったイエス・キリストを思い、小さくなって、へりくだって神とともに歩む者となりましょう。父なる神からご覧になって、我を張るかわいくない強情者ではなく、素直に主と共に生きようとするかわいい信仰者になりましょう。クリスマスの聖歌を素直に歌いましょう(聖歌124・3節)。「くすしきたまもの 神の愛は 静かに地にふる 露のごとし 今なおイエスは やどとしたもう いともへりくだる なが心に」。

 ベツレヘムはパンの家、イエス・キリストはいのちのパンとなられたのだことを表しているとメッセージを聞いたことがあります。主は人の口に入る程、小さくなられたのです。かみ砕かれて、その人の命になるまで、主は小さくなられたのです。そうして、与えられた永遠の命によって、私たちは天において神と共にある大いなる者にならせていただけるのです。これは定めだと預言者は言います。「わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」。定められた時に、定められた方法で、定められた通り、小さくなられた支配者、救い主が2000年前、降誕されたのです。そして、この小さくなられた支配者は最も小さい者と共におられ、終わりの日にすべての人を「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人に」したかどうかで、裁きます(マタイ25:40、45)。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』と言われて、神の国に入れる者となりましょう。

ああ、インマヌエル

2011-12-04 00:00:00 | 礼拝説教
2011年12月4日 主日礼拝(イザヤ7:1-14)岡田邦夫


 「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(イザヤ7:14)

 この7月にSF作家の小松左京さんが80歳で亡くなられました。彼の作品は単に奇想天外なSFではなく、科学などの広範な知識に基づき、想像力を駆使して、人類と現代文明の未来を探るメッセージ性のある作品だったと評価されています。特に1973年作の「日本沈没」は地殻変動で日本列島が水没し、日本民族は国土を失い、流浪の旅に出るという小説で、400万部のベストセラーともなりました。今年、東日本大震災の後に、新しくこの作家が見直されているようです。この未来小説は、現代社会のその先にあることを「予測」し、警鐘をならす作品だと思います。
 BC8世紀、ユダという国は時代の流れの中で、国家存亡の危機にありました。アッシリヤ帝国が小国を次々に征服していき、パレスチナの地も戦乱に巻き込まれていきました。ユダ王国にも敵は迫ってきたのですが、この脅威の前で、かつての同胞、北イスラエル王国(エフライム)がアラム王国(シリヤ)と組んで、ユダ王国にも共にアッシリヤに反抗する戦いに加われと、強要してきたのです。ところがユダのアハズ王がそれ拒否したため、二国の王たちは怒り、アラム・エフライム連合軍がユダ王国を攻めてきたのです。
 「すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。」と記されているように祖国が失われるのではないかと追い詰められ、絶体絶命だと動揺したのです(イザヤ7:2)。そこに神から遣わされた預言者イザヤがアハブ王に会い、こう告げたのです。アラムの王もエフライムの王も燃え残っている二つの切り株のようなものだから、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません」(7:4)。エフライムは65年後には消滅するのですから。「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない」(7:9)。そして、「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから」(7:11)。
 ところがアハブ王はこの連合軍を恐れるあまり、アッシリヤに貢(みつ)ぎ物を送って、助けを求めたり、偶像に助けを求めたりして、主なる神を「信じなければ、長く立つことはできない」という結果をもたらします。しかし、主なる神の意志があって、アラムもエフライムも神が遣わしたアッシリヤによって、滅ぼされ、ユダは助けられます。
 このような時に最も重要なこと、それ以外にはないということは「あなたの神、主を求めよ」ということです。御利益の意味ではなく、真実な意味において、「あなたの神、主から、しるしを求めよ。」なのです。真剣にという意味において、「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから」なのです。私でも生きている証し、しるしを誰かに示したいものです。それにまして、主なる神が生きておられるしるしを私たちに示そうとなさるのです。困った時こそ、絶体絶命という時にこそ、神が生きておられるしるしを求めようではありませんか。
 神の民が危機存亡の時に、神はしるしを示されました。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」(7:14)。インマヌエルは「神は私たちと共におられる」という意味です。処女は若い娘、おとめの意味にも使われる言葉です。イザヤの時代に生まれてくる男の子をさす預言だ言われてはいます。神に見捨てられるというのは最大の悲劇ですが、神が共におられるというのは大いなる救いです。神の民の歴史に事実、神が介入され、救うのだという約束です。しかし、預言者はそれ以上の遠大なことを告げています。
 神が意志されておられるのは最後の救いです。終末とその後の永遠なのです。過去から未来に無機質に、無意味にただ時間が流れているように私たちは感じますが、そうではないのです。神の救いの出来事として、終末とその後の永遠が、まず神のご意志の中にあって、それを預言者の口にのぼらせ、神が実行されていくのです。このような救いは救い主を通してなされるのであり、救い主は終末に現れるのですが、男の子として、処女から生まれてくるという現れ方なのです。事実、神の御子イエス・キリストが私たちと同じ「人」となられたのです。肉体をとられるというので、教会では「受肉」と言っています。パラリンピックではマラソンなど、盲人の方も走ります。ただ、目の見える伴走者がいっしょに同じペース走ってくれるので、ゴールできるわけです。イエス・キリストは私たちと同じ人となられ、霊的に盲目の私たちの目となってくださり、同じ鼓動をうち、同じ呼吸をし、救いのゴールまで伴走してくださるのです。逆に、まず救いのゴールがあって、今の私たちはそのゴール前、何キロメートルにいるのかという感じで、終末に生きているのです。
 人は一緒にいると似てくるものです。朱に交われば赤くなります。子は親に似てきますし、夫婦も結婚生活が長いと似てくるものです。インマヌエル(神は私たちと共におられる)なのですから、ずっとそうであれば、私たちがキリストに似たものになっていくのです。イエス・キリストがどれ程恵みに満ちた方であるかがわかってくれば、「主のように、主のように、きよくしてください。この心奥深く、み姿を写して」と祈り、賛美したくなります(新聖歌382)。
 逆に、インマヌエルの祝福により、私たちが御子の姿に似たものとなるという神の定めが先にあることを忘れてはなりません。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」とあるからです(ローマ8:29共同訳)。
 降誕の賛美にこのような素晴らしい歌詞があります(聖歌124静かに眠れる④節)。
神の御子(みこ)イエスよ いざ下(くだ)りて
汚(けが)れし心を 汝(なが) 御座(みざ)とし
永久(とこしえ)までも 座(ざ)したまえや
インマヌエルの主よ 我が御神(みかみ)よ