2015年10月25日 みのお泉・三田泉教会の合同礼拝 岡田邦夫
「愛」は英語で、“LOVE”です。結婚披露宴でのお祝いスピーチで聞いたことがあります。夫婦で互いにそのLOVEを大切にし、忘れないでください。
L:Listen(リツスン)(相手の話に耳を傾けること。心の声を聞くこと。)
O:Overlook(オーバールツク)(大目に見ること。寛大であること。)
V:Voice(ボイス)(話しかけること。声をかけること。)
E:Effort(エフォート)(努力すること。)
◇自分に気付くことから…
これは夫婦にかぎらず、家族の中で、教会の中で、大切なことですね。これができれば平和で楽しい家族や教会になっていきます。しかし、なかなか、相手の話は聞けないし、大目には見れないし、必要な声かけも出来ないし、努力もおこたります。そのことに気付くことから始まります。
小説家ドストエフスキーの言葉にこのようなものがあります。「人類を愛することは簡単だけど、隣人を愛することは容易ではない」。私、うる覚えですが彼の小説の中に、ある貴婦人がこう言っていたかと思います。「私はこよなく人類を愛しています。しかし、真夜中、隣の部屋から泣きじゃくる赤ん坊の声を聞くと絞め殺したいと思う」。お互いに思い当たる節があると思います。隣人を愛することは容易ではありません。
また、饗宴(きようえん)という本の中にこんなおもしろい話が出てきます。人間はもともと頭が二つ、手が四本、足が四本あって、まん丸い玉のような形をしており、八本の手足を風車のように回して走り回っていた。この人間が傲慢になり、ゼウスの神に反抗しようとしたので、ゼウスの神が怒り、殺そうとした。しかし、思いとどまり、生意気にならない程度にしようと、人間を真ん中から真っ二つにしてしまった。頭が一つ、手が二本、足が二本の人間に分けられ、それが男と女になった。それぞれ半分だから、お互いに探し求める。その情熱がギリシャ語の愛、エロスだというプラトンの説です。崇高なイデアとかいうところに上っていこうと解きます。自分にない価値を相手に求める愛です。しかし、その愛には自己中心的な臭いがします。
◇神の愛に気付くことから…
しかし、聖書で使徒ヨハネはそれを越えた神の愛をくりかえし、伝えています。ヨハネは主張します。「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」。神の私たちへの“LOVE”を知ることが一番です。リッスン・神は私の話・祈りを聞いてくれます。私の気持ちを解ってくれます。一つ飛んで、ボイス・神は苦しい時や困った時に、やさしくみ声をかけてくれ、はげましてくれます。エフォート・神はつとめて、いつもいっしょにいてくださり、み国に行けるように守り導いてくださいます。イエス・キリストは眠ることもなく、まどろむこともなく、とりなしていてくださいます。
しかし、最も難しいのはオーバールック・大目に見ることです。見過ごすことです。聖にして、義なる方ですから、人の罪、私の罪を、それがどんなに小さな事でも、隠されていて他者には解らないことでも、本人が気付かない罪でも、決して見過ごすことは出来ないのです。国際空港の税関には麻薬探知犬がいます。人の目で見て解らなくても、荷物に隠していた麻薬を発見してしまいます。そのように隠れた罪も神はかぎつけます。そして、良心に働きかけ、警鐘を鳴らします。心が痛みます。
神は愛です。その愛はギリシャ語で「アガペー」です。アイのアです。人の愛を越えた無限の愛、惜しみなく与える愛です。赦せないものを赦す愛です。アイのイですが、「イクノス」、足跡です(聖書に3回しか出てこないのですが重要な語です)。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」(1ペテロ2:21)。足で踏んで跡を残された。愛の実行をなさったのです。
アガペーゆえに、神の御子イエス・キリストを世に遣わし、御子は人となられ、十字架にかけられ、私たちの罪を見過ごせないという神の怒りを私たちの代わりに受けてくださいました。なだめの供え物でした。父なる神の思いは断腸の思いでした。ご自分の愛子が苦しみ死んでいく、そして、赦せない私たちを赦すという、二重の断腸の思いをなさったのです。アガペーの愛の足跡、イクノスを十字架において残されたのです。
私たちは見過ごしてもらえない罪を神の前に悔い改め、神の愛の足跡、十字架を信じ受け入れるなら、その十字架のなだめの供え物のゆえに、見過ごしていただける、過ぎ越していただけるのです。最後の裁きの日が来ても、信じた者は頭の上を過ぎ越していただけるのです。
私は高校生の時に、授業でインク消しの液を作りました。友人の真似をして、都電(路面電車)の定期券を修正して、いろんな所に行けるようにしました。いたずらで何回も使ってみました。次に電車の定期券に手を加えて、3ヶ月余計に乗りました。ワルでした。図に乗ってその定期で乗り越して、改札をすり抜けることも何回か成功。しかし、ついに駅員につかまり、定期券を取り上げられました。学校の帰り、乗り越し料金と罰金をもって、駅長室に行ったけれど、偽造はばれていなかった。懲りたので次から正規に定期券を買って使用するようにしました。
そのあと、チラシをもらって教会へ行くようになりまた。正規に切符を買って電車に乗り、降りる時に、「もし、もし」という駅員の呼び止める声を聞くと、それが他の人で自分ではないのに、心臓が飛び出るぐらい、どきっとしたものです。それから3年が過ぎ、救いの時がきました。決心をして、罪を悔い改め、主を信じ救われ、洗礼を受けました。示されたので、不正な料金はつぐないました。「キリスト・イエスのある者は罪に定められない」のみ言葉をいただき、良心の呵責から解放されました。
定期券の件、人には見破られなかったのですが、神は見破っておられた。見過ごせなかったのです。しかし、父なる神が悔い改めに導き、御子のなだめの供え物によって、この赦せない者を赦し、オーバールック、見過ごしてくださっているのです。私たちはこの充ち満ちた神のLOVEの中で、永遠の命に生かされているのです。ですから、神が言われるように互いのLOVEを実践していきましょう。
「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」。
最後に、一つの詩を紹介しましょう。頸椎損傷(けいついそんしよう)で首から下がまったく動かせなくなった星野富弘さんが筆を口にくわえて、詩画を書かれておられます。その中に星野さんらしい詩があります。
どんな時にも 神さまに愛されている そう思っている
手を伸ばせば届くところ 呼べば聞こえるところ
眠れない夜は枕の中に あなたがいる
「愛」は英語で、“LOVE”です。結婚披露宴でのお祝いスピーチで聞いたことがあります。夫婦で互いにそのLOVEを大切にし、忘れないでください。
L:Listen(リツスン)(相手の話に耳を傾けること。心の声を聞くこと。)
O:Overlook(オーバールツク)(大目に見ること。寛大であること。)
V:Voice(ボイス)(話しかけること。声をかけること。)
E:Effort(エフォート)(努力すること。)
◇自分に気付くことから…
これは夫婦にかぎらず、家族の中で、教会の中で、大切なことですね。これができれば平和で楽しい家族や教会になっていきます。しかし、なかなか、相手の話は聞けないし、大目には見れないし、必要な声かけも出来ないし、努力もおこたります。そのことに気付くことから始まります。
小説家ドストエフスキーの言葉にこのようなものがあります。「人類を愛することは簡単だけど、隣人を愛することは容易ではない」。私、うる覚えですが彼の小説の中に、ある貴婦人がこう言っていたかと思います。「私はこよなく人類を愛しています。しかし、真夜中、隣の部屋から泣きじゃくる赤ん坊の声を聞くと絞め殺したいと思う」。お互いに思い当たる節があると思います。隣人を愛することは容易ではありません。
また、饗宴(きようえん)という本の中にこんなおもしろい話が出てきます。人間はもともと頭が二つ、手が四本、足が四本あって、まん丸い玉のような形をしており、八本の手足を風車のように回して走り回っていた。この人間が傲慢になり、ゼウスの神に反抗しようとしたので、ゼウスの神が怒り、殺そうとした。しかし、思いとどまり、生意気にならない程度にしようと、人間を真ん中から真っ二つにしてしまった。頭が一つ、手が二本、足が二本の人間に分けられ、それが男と女になった。それぞれ半分だから、お互いに探し求める。その情熱がギリシャ語の愛、エロスだというプラトンの説です。崇高なイデアとかいうところに上っていこうと解きます。自分にない価値を相手に求める愛です。しかし、その愛には自己中心的な臭いがします。
◇神の愛に気付くことから…
しかし、聖書で使徒ヨハネはそれを越えた神の愛をくりかえし、伝えています。ヨハネは主張します。「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」。神の私たちへの“LOVE”を知ることが一番です。リッスン・神は私の話・祈りを聞いてくれます。私の気持ちを解ってくれます。一つ飛んで、ボイス・神は苦しい時や困った時に、やさしくみ声をかけてくれ、はげましてくれます。エフォート・神はつとめて、いつもいっしょにいてくださり、み国に行けるように守り導いてくださいます。イエス・キリストは眠ることもなく、まどろむこともなく、とりなしていてくださいます。
しかし、最も難しいのはオーバールック・大目に見ることです。見過ごすことです。聖にして、義なる方ですから、人の罪、私の罪を、それがどんなに小さな事でも、隠されていて他者には解らないことでも、本人が気付かない罪でも、決して見過ごすことは出来ないのです。国際空港の税関には麻薬探知犬がいます。人の目で見て解らなくても、荷物に隠していた麻薬を発見してしまいます。そのように隠れた罪も神はかぎつけます。そして、良心に働きかけ、警鐘を鳴らします。心が痛みます。
神は愛です。その愛はギリシャ語で「アガペー」です。アイのアです。人の愛を越えた無限の愛、惜しみなく与える愛です。赦せないものを赦す愛です。アイのイですが、「イクノス」、足跡です(聖書に3回しか出てこないのですが重要な語です)。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」(1ペテロ2:21)。足で踏んで跡を残された。愛の実行をなさったのです。
アガペーゆえに、神の御子イエス・キリストを世に遣わし、御子は人となられ、十字架にかけられ、私たちの罪を見過ごせないという神の怒りを私たちの代わりに受けてくださいました。なだめの供え物でした。父なる神の思いは断腸の思いでした。ご自分の愛子が苦しみ死んでいく、そして、赦せない私たちを赦すという、二重の断腸の思いをなさったのです。アガペーの愛の足跡、イクノスを十字架において残されたのです。
私たちは見過ごしてもらえない罪を神の前に悔い改め、神の愛の足跡、十字架を信じ受け入れるなら、その十字架のなだめの供え物のゆえに、見過ごしていただける、過ぎ越していただけるのです。最後の裁きの日が来ても、信じた者は頭の上を過ぎ越していただけるのです。
私は高校生の時に、授業でインク消しの液を作りました。友人の真似をして、都電(路面電車)の定期券を修正して、いろんな所に行けるようにしました。いたずらで何回も使ってみました。次に電車の定期券に手を加えて、3ヶ月余計に乗りました。ワルでした。図に乗ってその定期で乗り越して、改札をすり抜けることも何回か成功。しかし、ついに駅員につかまり、定期券を取り上げられました。学校の帰り、乗り越し料金と罰金をもって、駅長室に行ったけれど、偽造はばれていなかった。懲りたので次から正規に定期券を買って使用するようにしました。
そのあと、チラシをもらって教会へ行くようになりまた。正規に切符を買って電車に乗り、降りる時に、「もし、もし」という駅員の呼び止める声を聞くと、それが他の人で自分ではないのに、心臓が飛び出るぐらい、どきっとしたものです。それから3年が過ぎ、救いの時がきました。決心をして、罪を悔い改め、主を信じ救われ、洗礼を受けました。示されたので、不正な料金はつぐないました。「キリスト・イエスのある者は罪に定められない」のみ言葉をいただき、良心の呵責から解放されました。
定期券の件、人には見破られなかったのですが、神は見破っておられた。見過ごせなかったのです。しかし、父なる神が悔い改めに導き、御子のなだめの供え物によって、この赦せない者を赦し、オーバールック、見過ごしてくださっているのです。私たちはこの充ち満ちた神のLOVEの中で、永遠の命に生かされているのです。ですから、神が言われるように互いのLOVEを実践していきましょう。
「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」。
最後に、一つの詩を紹介しましょう。頸椎損傷(けいついそんしよう)で首から下がまったく動かせなくなった星野富弘さんが筆を口にくわえて、詩画を書かれておられます。その中に星野さんらしい詩があります。
どんな時にも 神さまに愛されている そう思っている
手を伸ばせば届くところ 呼べば聞こえるところ
眠れない夜は枕の中に あなたがいる