2010年8月29日 主日礼拝(1列王紀18:1~46)岡田邦夫
始め、私が教会に行ったのは興味本位でした。西洋の映画などを見て、そこに出てくるキリスト教へのあこがれがどこかにあったからだと思います。何となく行ったので、何となくしか分からず、何となく行かなくなってしまいました。それでも、心に残った言葉がありました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7: 7)。その後、私の魂が神を求めるようになり、イエス・キリストの救いが与えられました。このみ言葉が嘘ではなく、現実味をおびたものであることを知らされました。
聖書の宗教というものが、決して、観念を積み重ねて、構築し、体系にした宗教ではなく、神が語り、事をなした歴史を積み重ねて、連鎖し、結集した宗教なのです。旧約聖書での救いというのは、イスラエルの人々が主を求めると、神がそれに答え、モーセを立て、主の奇跡によって救出された出エジプトという恵みの出来事です。新約聖書では主の十字架における救いの出来事です。そのことについて、事前に、イエスが山で輝く姿に変わった時に、モーセとエリヤが栄光の内に現れ、三者会談をしていたのです(ルカ9:30-31)。モーセと並ぶそのエリヤこそ、今日の話しの主人公です。次々に主の奇跡を起こし、主が現実に生きておられることを強烈に示した代表的な人物、行動預言者エリヤです。冒頭の言葉にそれがよく現れています。
「『あなた方は自分たちの神の名を呼べ。わたしは主の名を呼ぼう。その時、火をもって答える神、その方が神である。』民はみな答えて、『それがよい。』と言った」(1列王18:24)。
◇チャレンジ…「雨」
エリヤは主の言葉に従って、実に信じがたい奇跡を次々に起こしていきました。まず、アハブ王に大胆に告げます。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう」(17:1)。この預言のように、3年6ヶ月、干ばつが続き、再び、彼が祈ったところ、大雨が降りだしました(18:41-46)。その干ばつの間、彼自身はカラスの運ぶパンと肉で養われ、食糧が尽きようとしていたやもめのところで、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならないという奇跡で養われました。また、やもめの子が死にますが、彼が祈るとその子が生き返るという奇跡が起こり、彼女は素直な告白をします。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました」(17:24)。
◇チャレンジ…「火」
この素直なやもめとは対照的なのが、アハブ王とイゼベル妃です。彼らへの聖書の評価は最悪です。「オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行なった。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。さらに彼は、サマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前のイスラエルのすべての王たちにまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行なった」(16:30ー33)。
バアルはカナンの偶像神で、主とか、所有者という意味ではありますが、豊穣(ほうじよう)の神で、天候を司り、植物を育てる神として、女神アシェラと共に祭られることが多かったようです。そして、豊穣と生殖が結びついて、神殿娼婦が置かれ、神々の像の前で香をたき、酒を注ぎ、犠牲の動物を焼き、性的放逸にふけり、ときには息子や娘を火で焼いて捧げることさえ行ったのです(エレミヤ19:5)。世界には豊穣繁栄を求め、それが性と結びついた宗教というのが共通してあったでしょう。このような偶像とは欲望の化身と言えましょう。そこで、預言者エリヤが問題にしたのは、イスラエルの王がそれを導入し、民が真の神、主を忘れ、豊穣繁栄を求めて、堕落の道を進んでいることでした。そして、「イゼベルが主の預言者たちを殺した」のですから、もう黙ってはおられません。エリヤは主に示されて、アハブ王に会い、一人で挑戦状を突きつけるのです。
「現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく(イゼベル直属のえり抜きの)四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい」(18:18ー19)。そして、二頭の牛をそれぞれ切り裂き、バアル用とエリヤ用の二つのたきぎにそれを載せ、「『あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。』民はみな答えて、『それがよい。』と言った。」のです(18:24)。実に真剣勝負です。命をかけた戦いです。しかし、「主は生きておられる」という信仰と確信があってのチャレンジです。
バアルの預言者たちは朝から昼まで祭壇のまわりで、バアルの名を呼び、踊りますが、何も起こらないので、剣や槍で、身を傷つけ、大声で呼ばわりますが、それでも、何の声もなく、答える者もありませんでした。真実という字は、まことの実と書きます。バアルは実がない、虚実だったのです。バアルはいなかったのです。今度はエリヤの番です。預言者の言葉は真実なのか。主に導かれて、祭壇を築き、切り裂いた雄牛を載せ、その上に、水を三度もたっぷりと注いで、真実に祈りました。「…あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻(ひるがえ)してくださることを知るようにしてください」(18:36ー37)。
すると、現に火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまったのです。これを見た民はたまらず、ひれ伏して「主こそ神です。主こそ神です。」と告白したのです。この後、バアルの予言者たちを処分します。エリヤの宗教改革でした。
◇チャレンジ…「主」
私たちは偶像信仰を警戒しなればなりません(1ヨハネ5:21)。豊穣、繁栄、成功を求めることは自然かも知れませんが、求めるあまり、いつのまにか、私たちの中でその欲望が化身となり、有形無形の偶像となり、それが支配するようになり、真の神を脇に置いていってしまうということを警戒しなければなりません。偶像信仰が侵入してこないように、良心という監視カメラを作動させていましょう。もし、入り込んだことに気付いたら、救い主イエス・キリストを呼んで、信仰によって締め出し、「主こそ神です。主こそ神です。」と告白しましょう。
さらに大事なことは、主は呼べば答えてくださる生ける神だということを知ることです。聖書の知識もキリスト教の思想も、正しく生きるには大いに必要ですが、生き生きとクリスチャンが生きるには主を呼べば、必ず答えてくださる生ける神だということを知ることです。主を呼びましょう。父・子・聖霊の神を呼び求めましょう。三一の神は言葉をもって、行為をもって答えられるのです。それがクリスチャンの生涯学習です。先輩エリヤに習っていきましょう。「わたしは主の名を呼ぼう。その時、火をもって答える神、その方が神である」。
始め、私が教会に行ったのは興味本位でした。西洋の映画などを見て、そこに出てくるキリスト教へのあこがれがどこかにあったからだと思います。何となく行ったので、何となくしか分からず、何となく行かなくなってしまいました。それでも、心に残った言葉がありました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7: 7)。その後、私の魂が神を求めるようになり、イエス・キリストの救いが与えられました。このみ言葉が嘘ではなく、現実味をおびたものであることを知らされました。
聖書の宗教というものが、決して、観念を積み重ねて、構築し、体系にした宗教ではなく、神が語り、事をなした歴史を積み重ねて、連鎖し、結集した宗教なのです。旧約聖書での救いというのは、イスラエルの人々が主を求めると、神がそれに答え、モーセを立て、主の奇跡によって救出された出エジプトという恵みの出来事です。新約聖書では主の十字架における救いの出来事です。そのことについて、事前に、イエスが山で輝く姿に変わった時に、モーセとエリヤが栄光の内に現れ、三者会談をしていたのです(ルカ9:30-31)。モーセと並ぶそのエリヤこそ、今日の話しの主人公です。次々に主の奇跡を起こし、主が現実に生きておられることを強烈に示した代表的な人物、行動預言者エリヤです。冒頭の言葉にそれがよく現れています。
「『あなた方は自分たちの神の名を呼べ。わたしは主の名を呼ぼう。その時、火をもって答える神、その方が神である。』民はみな答えて、『それがよい。』と言った」(1列王18:24)。
◇チャレンジ…「雨」
エリヤは主の言葉に従って、実に信じがたい奇跡を次々に起こしていきました。まず、アハブ王に大胆に告げます。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう」(17:1)。この預言のように、3年6ヶ月、干ばつが続き、再び、彼が祈ったところ、大雨が降りだしました(18:41-46)。その干ばつの間、彼自身はカラスの運ぶパンと肉で養われ、食糧が尽きようとしていたやもめのところで、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならないという奇跡で養われました。また、やもめの子が死にますが、彼が祈るとその子が生き返るという奇跡が起こり、彼女は素直な告白をします。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました」(17:24)。
◇チャレンジ…「火」
この素直なやもめとは対照的なのが、アハブ王とイゼベル妃です。彼らへの聖書の評価は最悪です。「オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行なった。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。さらに彼は、サマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前のイスラエルのすべての王たちにまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行なった」(16:30ー33)。
バアルはカナンの偶像神で、主とか、所有者という意味ではありますが、豊穣(ほうじよう)の神で、天候を司り、植物を育てる神として、女神アシェラと共に祭られることが多かったようです。そして、豊穣と生殖が結びついて、神殿娼婦が置かれ、神々の像の前で香をたき、酒を注ぎ、犠牲の動物を焼き、性的放逸にふけり、ときには息子や娘を火で焼いて捧げることさえ行ったのです(エレミヤ19:5)。世界には豊穣繁栄を求め、それが性と結びついた宗教というのが共通してあったでしょう。このような偶像とは欲望の化身と言えましょう。そこで、預言者エリヤが問題にしたのは、イスラエルの王がそれを導入し、民が真の神、主を忘れ、豊穣繁栄を求めて、堕落の道を進んでいることでした。そして、「イゼベルが主の預言者たちを殺した」のですから、もう黙ってはおられません。エリヤは主に示されて、アハブ王に会い、一人で挑戦状を突きつけるのです。
「現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく(イゼベル直属のえり抜きの)四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい」(18:18ー19)。そして、二頭の牛をそれぞれ切り裂き、バアル用とエリヤ用の二つのたきぎにそれを載せ、「『あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。』民はみな答えて、『それがよい。』と言った。」のです(18:24)。実に真剣勝負です。命をかけた戦いです。しかし、「主は生きておられる」という信仰と確信があってのチャレンジです。
バアルの預言者たちは朝から昼まで祭壇のまわりで、バアルの名を呼び、踊りますが、何も起こらないので、剣や槍で、身を傷つけ、大声で呼ばわりますが、それでも、何の声もなく、答える者もありませんでした。真実という字は、まことの実と書きます。バアルは実がない、虚実だったのです。バアルはいなかったのです。今度はエリヤの番です。預言者の言葉は真実なのか。主に導かれて、祭壇を築き、切り裂いた雄牛を載せ、その上に、水を三度もたっぷりと注いで、真実に祈りました。「…あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻(ひるがえ)してくださることを知るようにしてください」(18:36ー37)。
すると、現に火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまったのです。これを見た民はたまらず、ひれ伏して「主こそ神です。主こそ神です。」と告白したのです。この後、バアルの予言者たちを処分します。エリヤの宗教改革でした。
◇チャレンジ…「主」
私たちは偶像信仰を警戒しなればなりません(1ヨハネ5:21)。豊穣、繁栄、成功を求めることは自然かも知れませんが、求めるあまり、いつのまにか、私たちの中でその欲望が化身となり、有形無形の偶像となり、それが支配するようになり、真の神を脇に置いていってしまうということを警戒しなければなりません。偶像信仰が侵入してこないように、良心という監視カメラを作動させていましょう。もし、入り込んだことに気付いたら、救い主イエス・キリストを呼んで、信仰によって締め出し、「主こそ神です。主こそ神です。」と告白しましょう。
さらに大事なことは、主は呼べば答えてくださる生ける神だということを知ることです。聖書の知識もキリスト教の思想も、正しく生きるには大いに必要ですが、生き生きとクリスチャンが生きるには主を呼べば、必ず答えてくださる生ける神だということを知ることです。主を呼びましょう。父・子・聖霊の神を呼び求めましょう。三一の神は言葉をもって、行為をもって答えられるのです。それがクリスチャンの生涯学習です。先輩エリヤに習っていきましょう。「わたしは主の名を呼ぼう。その時、火をもって答える神、その方が神である」。