2013年10月27日 みのお泉・三田泉教会と合同礼拝(民数記6:24-26)岡田邦夫
『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
昨日は台風接近による雨の予報でしたが、天候が守られ雨は降らず、予定通り宝塚泉・豊中泉教会の豆狩りが楽しく行われました。本日も天候が祝され、午後のみのお泉・三田泉教会の豆狩りが青空の下で出来そうで感謝です。天候の祝福、健康の祝福…とありますが、本日は信仰の祝福について、お話ししたいと思います。この御言葉は祝祷です。詩文であり、一つのことを似た言葉や内容を繰り返して、神の恵みを豊かに表現しています。1節、2節、3節と歌うようなものです。経済、進学、就職、結婚、出産等々、色々な祝福はありますが、ここではほんとうの祝福は「主が御顔を照らすこと」、「主が御顔を向けること」なのだと言っています。
NHK・朝の連続ドラマは月曜から土曜まで、毎日15分、半年続きます。主人公の顔を毎日見続けるわけですから、心理的にその人が好きになってしまうという現象があるそうです。ですから、朝ドラに出るとその俳優はたいていCMに採用されていきます。
生まれたての赤ちゃんで、まだ良く目が見えない時に、白い紙に二つの小さな黒丸を20センチ間隔で描いたものを近づけて見せます。そして、動かすと目がそれを追う反応が見られるそうです。自分が生きていくために最も必要なお母さんのお乳なので、本能がそうさせるのでしょう。さらに重要なのは、授乳の時に、赤ちゃんはお母さんの顔を見ています。そこで安心します。聖書に生まれた乳飲み子のように霊の乳を慕い求めなさいとありますが、その時こそ、私たちは神の御顔を見ることが重要じゃないかと私は思います。そして、安心する。生きる力、証しする力を得るのです。
聖書の初めに、人は神のかたちに、被造物の冠として造られたにもかかわらず、アダムとエバは唯一の禁止命令を破り、神のようになろうという傲慢の罪を犯してしまいました。その結果、「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」のです(創世3:8)。そこから、人類の罪の歴史が始まるのです。それ以来、私たちは御顔を見られなくなったのです。
ですから、神が人類を救いに導く最終的な目標は人びとが御顔を見られるようになることです。私、豊中にいました時に、自転車で阪急・岡町駅のところにある踏切を渡ったところに、お巡りさんが立っていて、私を呼び止めて、職務質問されました。どこに行くのか聞くのです。挙動不審者と思われたのでしょうか。そのとき、一瞬逃げようかと思いました。図書館かどこかに行くような、何も法律を犯すような悪いことはしていないのです。人間というは、やはり、後ろめたさを感じているところがあるのですね。人は誰でも、過去を探り、心を探れば、聖なる神の御顔は見られないのです。預言者イザヤは神殿で「神を見た」と聖書に記しています。その時、「わたしはもうだめだ」、「禍なるかな、我滅びなん」と言ったのです。御使いが臨んできよめられます。もう一度言います。神が人類を救いに導く最終的な目標は人びとが御顔を見られるようになることです。愛の憲章と言われる第一コリント13章にこうあります。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」(13:12)。
そこで、そのために父と顔と顔を合わせていた、御子イエス・キリストが地上に来られました。伝道がすすめられ、人類の贖いのため、十字架に向かう決意をされたことがルカ福音書9章に記されています。「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された」(9:51-52)。十字架において、人間の罪と向き合うために、また、罪人を救うために御子を犠牲にしようとする父なる神と向き合うために、「御顔をまっすぐ向けられた」のです。火打ち石のように固い決意の言葉です。
人間の罪によって十字架にかけられ、その罪を負って十字架にかかられたのですから、神はそれを見ることが出来なく、全地は暗くなったのです。御顔を背かれたのです。私たちは御顔を背かれたら、それは、呪いであり、地獄です。そして、御子は叫びました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。完全に御顔が背かれたのです。地獄の叫びです。私たちがそうされるはずなのに、代わってイエス・キリストはしてくださったのです。ですから、悔い改めて、すなわち、私の顔を神に背を向けた方向を転換し、神の御顔を見ようとするのです。イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦され、私たちは御顔を直接見えないけれども、心の目で見るのです。イエス・キリストを通して、聖霊によって、私を目に入れても痛くないほど、愛すべき存在として、暖かい眼差しで見てくださるのです。また、御顔を向けてくださるとは、全身耳のように、私たちの声や気持やすべてに心を傾けてくださってるということです。もっとも、必要な御言葉、命の言葉を最もタイミング良く語ろうとしてくださってるのです。
『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
昨日は台風接近による雨の予報でしたが、天候が守られ雨は降らず、予定通り宝塚泉・豊中泉教会の豆狩りが楽しく行われました。本日も天候が祝され、午後のみのお泉・三田泉教会の豆狩りが青空の下で出来そうで感謝です。天候の祝福、健康の祝福…とありますが、本日は信仰の祝福について、お話ししたいと思います。この御言葉は祝祷です。詩文であり、一つのことを似た言葉や内容を繰り返して、神の恵みを豊かに表現しています。1節、2節、3節と歌うようなものです。経済、進学、就職、結婚、出産等々、色々な祝福はありますが、ここではほんとうの祝福は「主が御顔を照らすこと」、「主が御顔を向けること」なのだと言っています。
NHK・朝の連続ドラマは月曜から土曜まで、毎日15分、半年続きます。主人公の顔を毎日見続けるわけですから、心理的にその人が好きになってしまうという現象があるそうです。ですから、朝ドラに出るとその俳優はたいていCMに採用されていきます。
生まれたての赤ちゃんで、まだ良く目が見えない時に、白い紙に二つの小さな黒丸を20センチ間隔で描いたものを近づけて見せます。そして、動かすと目がそれを追う反応が見られるそうです。自分が生きていくために最も必要なお母さんのお乳なので、本能がそうさせるのでしょう。さらに重要なのは、授乳の時に、赤ちゃんはお母さんの顔を見ています。そこで安心します。聖書に生まれた乳飲み子のように霊の乳を慕い求めなさいとありますが、その時こそ、私たちは神の御顔を見ることが重要じゃないかと私は思います。そして、安心する。生きる力、証しする力を得るのです。
聖書の初めに、人は神のかたちに、被造物の冠として造られたにもかかわらず、アダムとエバは唯一の禁止命令を破り、神のようになろうという傲慢の罪を犯してしまいました。その結果、「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」のです(創世3:8)。そこから、人類の罪の歴史が始まるのです。それ以来、私たちは御顔を見られなくなったのです。
ですから、神が人類を救いに導く最終的な目標は人びとが御顔を見られるようになることです。私、豊中にいました時に、自転車で阪急・岡町駅のところにある踏切を渡ったところに、お巡りさんが立っていて、私を呼び止めて、職務質問されました。どこに行くのか聞くのです。挙動不審者と思われたのでしょうか。そのとき、一瞬逃げようかと思いました。図書館かどこかに行くような、何も法律を犯すような悪いことはしていないのです。人間というは、やはり、後ろめたさを感じているところがあるのですね。人は誰でも、過去を探り、心を探れば、聖なる神の御顔は見られないのです。預言者イザヤは神殿で「神を見た」と聖書に記しています。その時、「わたしはもうだめだ」、「禍なるかな、我滅びなん」と言ったのです。御使いが臨んできよめられます。もう一度言います。神が人類を救いに導く最終的な目標は人びとが御顔を見られるようになることです。愛の憲章と言われる第一コリント13章にこうあります。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」(13:12)。
そこで、そのために父と顔と顔を合わせていた、御子イエス・キリストが地上に来られました。伝道がすすめられ、人類の贖いのため、十字架に向かう決意をされたことがルカ福音書9章に記されています。「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された」(9:51-52)。十字架において、人間の罪と向き合うために、また、罪人を救うために御子を犠牲にしようとする父なる神と向き合うために、「御顔をまっすぐ向けられた」のです。火打ち石のように固い決意の言葉です。
人間の罪によって十字架にかけられ、その罪を負って十字架にかかられたのですから、神はそれを見ることが出来なく、全地は暗くなったのです。御顔を背かれたのです。私たちは御顔を背かれたら、それは、呪いであり、地獄です。そして、御子は叫びました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。完全に御顔が背かれたのです。地獄の叫びです。私たちがそうされるはずなのに、代わってイエス・キリストはしてくださったのです。ですから、悔い改めて、すなわち、私の顔を神に背を向けた方向を転換し、神の御顔を見ようとするのです。イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦され、私たちは御顔を直接見えないけれども、心の目で見るのです。イエス・キリストを通して、聖霊によって、私を目に入れても痛くないほど、愛すべき存在として、暖かい眼差しで見てくださるのです。また、御顔を向けてくださるとは、全身耳のように、私たちの声や気持やすべてに心を傾けてくださってるということです。もっとも、必要な御言葉、命の言葉を最もタイミング良く語ろうとしてくださってるのです。
『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』