2013年9月22日 伝道礼拝(イザヤ40:9-11)岡田邦夫
「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」イザヤ40:11
柴又教会の牧師が、「日本人の心の故郷・柴又の~」、と自己紹介されます。48作と続いた映画「男はつらいよ」の寅さんの故郷は葛飾柴又の団子屋。そこには「さくら」や「おいちゃん」「おばちゃん」が帰りを待っていてくれる、ケンカ相手の「たこ社長」もいる。寅が放浪に出ていても、「今ごろ寅はどうしているのか…」と待ってくれている人たちがいる。甘える場所がある。そこに観客は心の故郷を感じるのでしょう。
◇帰るべきところに帰って行く
聖書・ルカの福音書15章には放蕩息子のたとえ話が載っています。父親から財産を分けてもらい、家を出て旅立ち、放蕩に身を持ちくずし、困った末、悔い改めの心を持って、父親のところに帰っていく。父親は待っていた。走り寄って迎え、嬉しくなって、祝宴を始める。これはたとえで、神の国のイメージです。言おうとしていることは、本物の父なる神が、神から離れていた現実の私たちを待っていて、無条件で迎えて、喜んでくださるのです。放蕩息子の帰還を題材にしたレンブラントの絵は有名です。息子を抱え込む父親の腕と慈しみの眼差しがたいへん印象的です。人が帰るべきとことは父なる神がおられるところ、父なる神の懐なのです。これがイメージを膨らますだけではなく、それが信仰によって現実になっていくことが重要なのです。
◇帰るべきところに帰るのだが
私たちは人生の厳しい現実を見ます。エデンの園で神に対して罪を犯した人間に宣告します。「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」(創世記3:19)。土から造られたのだから、土に帰る=死ぬという定めです。その無常観をうたった詩篇があります。神の永遠性と人生のはかなさを歌っています。「山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。あなたは人をちりに帰らせて言われます。『人の子らよ、帰れ。』まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます」(詩篇90:2ー6)。そして、祈ります。「帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください」(90:13ー14)。
どんなに地位や名誉や財産があっても、土に帰されいくという人生のはかなさをよく知って、魂は永遠から永遠にいます神のもとに行けるように信仰を持ちましょう。
◇帰るべきところに帰してもらう
これはたとえでもイメージでもなく、歴史です。小さなユダ王国は消えかかった灯心のようでした。北からの敵が押し寄せてきている。バビロン帝国である。エジプトに向かって南下してきたのだ。近隣諸国は次々に征服され、ユダ王国も滅ぼされるのは時間の問題。それらの世界情勢を熟知していながら、イザヤという預言者は世界に向けて、堂々と神の裁きと救済の預言をします。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(40:7-8)。
ユダはどうなるのか、バビロンに捕らえられていく。それは単なる敗北ではなく、神に背を向けた民としての、神の刑罰なのであり、その補囚の期間が満ちると、バビロンに代わってペルシャが台頭し、神の見えない働きかけでその王クロスがユダの民を解放し、エルサレムに帰すのだと預言したのです。そして、それは後に成就します。ユダの人々は祖国に帰って来たのです。その歴史的現実となった記録はエズラ記、ネヘミヤ記にあります。
自分では帰れないのですが、神が帰してくださるという救いがそこにあるのです。「シオン(エルサレム)に良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。『見よ。あなたがたの神を。』見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」(40:9ー11)
なお、これは人類の救いを言っているのです。あなたの人生の救いを告げているのです。「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導」かれるのです。迷った羊は愚かで群に帰れないのです。しかし、迷える子羊である私をイエス・キリストは羊飼いのように御腕に引き寄せ、ふところに抱き、優しく導かれるのです。帰るべきところに帰してくださるのです。
人は罪によって、心の目が曇り、その罪過が足かせとなり、帰るべき方の元に帰れないのです。しかし、イエス・キリストが私たちの罪を贖い、滅びに向かう足かせをはずし、心の目を明らかにし、悔い改めに導き、信仰に導き、帰るべき父なる神の元に帰してくださるのです。迷える子羊である私を良い羊飼いであるイエス・キリストがその御腕に引き寄せ、ふところに抱き、優しく帰るべきところに帰してくださるのです。そこに天における喜びがわくのです。
19世紀、失明した身でありながら、生涯に6000以上の賛美歌を書いた奇跡の女性がいました。米国のファニィー・クロビーです。幼い時に医師の間違った治療で失明したのですが、それさえも神の恵みと感じ、繊細な感受性と豊かな感情を持って、盲学校の教師をしながら、余暇に詩作をしていました。結婚して子どもが与えられたのですが亡くなってしまうという悲痛な出来事がありました。しかし、ブラッドベリという賛美歌作曲者の薦めで、彼女は福音賛美歌を多く作くるようになりました。1868年、親しくしていたドーンという人が彼女を訪ねてきて「汽車の出発までに40分しかないが、自分のこの曲に歌詞を作ってください」と言って、メロディをーを口ずさみました。クロスビーはそれを聞いて、部屋にこもり、祈ってから、30分で書き上げドーンに渡しました。それが、3年後には米国中で歌われるようになり、世界の人々に愛されるようになりました。
「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」イザヤ40:11
柴又教会の牧師が、「日本人の心の故郷・柴又の~」、と自己紹介されます。48作と続いた映画「男はつらいよ」の寅さんの故郷は葛飾柴又の団子屋。そこには「さくら」や「おいちゃん」「おばちゃん」が帰りを待っていてくれる、ケンカ相手の「たこ社長」もいる。寅が放浪に出ていても、「今ごろ寅はどうしているのか…」と待ってくれている人たちがいる。甘える場所がある。そこに観客は心の故郷を感じるのでしょう。
◇帰るべきところに帰って行く
聖書・ルカの福音書15章には放蕩息子のたとえ話が載っています。父親から財産を分けてもらい、家を出て旅立ち、放蕩に身を持ちくずし、困った末、悔い改めの心を持って、父親のところに帰っていく。父親は待っていた。走り寄って迎え、嬉しくなって、祝宴を始める。これはたとえで、神の国のイメージです。言おうとしていることは、本物の父なる神が、神から離れていた現実の私たちを待っていて、無条件で迎えて、喜んでくださるのです。放蕩息子の帰還を題材にしたレンブラントの絵は有名です。息子を抱え込む父親の腕と慈しみの眼差しがたいへん印象的です。人が帰るべきとことは父なる神がおられるところ、父なる神の懐なのです。これがイメージを膨らますだけではなく、それが信仰によって現実になっていくことが重要なのです。
◇帰るべきところに帰るのだが
私たちは人生の厳しい現実を見ます。エデンの園で神に対して罪を犯した人間に宣告します。「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」(創世記3:19)。土から造られたのだから、土に帰る=死ぬという定めです。その無常観をうたった詩篇があります。神の永遠性と人生のはかなさを歌っています。「山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。あなたは人をちりに帰らせて言われます。『人の子らよ、帰れ。』まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます」(詩篇90:2ー6)。そして、祈ります。「帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください」(90:13ー14)。
どんなに地位や名誉や財産があっても、土に帰されいくという人生のはかなさをよく知って、魂は永遠から永遠にいます神のもとに行けるように信仰を持ちましょう。
◇帰るべきところに帰してもらう
これはたとえでもイメージでもなく、歴史です。小さなユダ王国は消えかかった灯心のようでした。北からの敵が押し寄せてきている。バビロン帝国である。エジプトに向かって南下してきたのだ。近隣諸国は次々に征服され、ユダ王国も滅ぼされるのは時間の問題。それらの世界情勢を熟知していながら、イザヤという預言者は世界に向けて、堂々と神の裁きと救済の預言をします。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(40:7-8)。
ユダはどうなるのか、バビロンに捕らえられていく。それは単なる敗北ではなく、神に背を向けた民としての、神の刑罰なのであり、その補囚の期間が満ちると、バビロンに代わってペルシャが台頭し、神の見えない働きかけでその王クロスがユダの民を解放し、エルサレムに帰すのだと預言したのです。そして、それは後に成就します。ユダの人々は祖国に帰って来たのです。その歴史的現実となった記録はエズラ記、ネヘミヤ記にあります。
自分では帰れないのですが、神が帰してくださるという救いがそこにあるのです。「シオン(エルサレム)に良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。『見よ。あなたがたの神を。』見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」(40:9ー11)
なお、これは人類の救いを言っているのです。あなたの人生の救いを告げているのです。「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導」かれるのです。迷った羊は愚かで群に帰れないのです。しかし、迷える子羊である私をイエス・キリストは羊飼いのように御腕に引き寄せ、ふところに抱き、優しく導かれるのです。帰るべきところに帰してくださるのです。
人は罪によって、心の目が曇り、その罪過が足かせとなり、帰るべき方の元に帰れないのです。しかし、イエス・キリストが私たちの罪を贖い、滅びに向かう足かせをはずし、心の目を明らかにし、悔い改めに導き、信仰に導き、帰るべき父なる神の元に帰してくださるのです。迷える子羊である私を良い羊飼いであるイエス・キリストがその御腕に引き寄せ、ふところに抱き、優しく帰るべきところに帰してくださるのです。そこに天における喜びがわくのです。
19世紀、失明した身でありながら、生涯に6000以上の賛美歌を書いた奇跡の女性がいました。米国のファニィー・クロビーです。幼い時に医師の間違った治療で失明したのですが、それさえも神の恵みと感じ、繊細な感受性と豊かな感情を持って、盲学校の教師をしながら、余暇に詩作をしていました。結婚して子どもが与えられたのですが亡くなってしまうという悲痛な出来事がありました。しかし、ブラッドベリという賛美歌作曲者の薦めで、彼女は福音賛美歌を多く作くるようになりました。1868年、親しくしていたドーンという人が彼女を訪ねてきて「汽車の出発までに40分しかないが、自分のこの曲に歌詞を作ってください」と言って、メロディをーを口ずさみました。クロスビーはそれを聞いて、部屋にこもり、祈ってから、30分で書き上げドーンに渡しました。それが、3年後には米国中で歌われるようになり、世界の人々に愛されるようになりました。