オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

主は羊飼いのように

2013-09-22 00:00:00 | 礼拝説教
2013年9月22日 伝道礼拝(イザヤ40:9-11)岡田邦夫


 「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」イザヤ40:11

 柴又教会の牧師が、「日本人の心の故郷・柴又の~」、と自己紹介されます。48作と続いた映画「男はつらいよ」の寅さんの故郷は葛飾柴又の団子屋。そこには「さくら」や「おいちゃん」「おばちゃん」が帰りを待っていてくれる、ケンカ相手の「たこ社長」もいる。寅が放浪に出ていても、「今ごろ寅はどうしているのか…」と待ってくれている人たちがいる。甘える場所がある。そこに観客は心の故郷を感じるのでしょう。

◇帰るべきところに帰って行く
 聖書・ルカの福音書15章には放蕩息子のたとえ話が載っています。父親から財産を分けてもらい、家を出て旅立ち、放蕩に身を持ちくずし、困った末、悔い改めの心を持って、父親のところに帰っていく。父親は待っていた。走り寄って迎え、嬉しくなって、祝宴を始める。これはたとえで、神の国のイメージです。言おうとしていることは、本物の父なる神が、神から離れていた現実の私たちを待っていて、無条件で迎えて、喜んでくださるのです。放蕩息子の帰還を題材にしたレンブラントの絵は有名です。息子を抱え込む父親の腕と慈しみの眼差しがたいへん印象的です。人が帰るべきとことは父なる神がおられるところ、父なる神の懐なのです。これがイメージを膨らますだけではなく、それが信仰によって現実になっていくことが重要なのです。

◇帰るべきところに帰るのだが
 私たちは人生の厳しい現実を見ます。エデンの園で神に対して罪を犯した人間に宣告します。「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」(創世記3:19)。土から造られたのだから、土に帰る=死ぬという定めです。その無常観をうたった詩篇があります。神の永遠性と人生のはかなさを歌っています。「山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。あなたは人をちりに帰らせて言われます。『人の子らよ、帰れ。』まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます」(詩篇90:2ー6)。そして、祈ります。「帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください」(90:13ー14)。
 どんなに地位や名誉や財産があっても、土に帰されいくという人生のはかなさをよく知って、魂は永遠から永遠にいます神のもとに行けるように信仰を持ちましょう。

◇帰るべきところに帰してもらう
 これはたとえでもイメージでもなく、歴史です。小さなユダ王国は消えかかった灯心のようでした。北からの敵が押し寄せてきている。バビロン帝国である。エジプトに向かって南下してきたのだ。近隣諸国は次々に征服され、ユダ王国も滅ぼされるのは時間の問題。それらの世界情勢を熟知していながら、イザヤという預言者は世界に向けて、堂々と神の裁きと救済の預言をします。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(40:7-8)。
 ユダはどうなるのか、バビロンに捕らえられていく。それは単なる敗北ではなく、神に背を向けた民としての、神の刑罰なのであり、その補囚の期間が満ちると、バビロンに代わってペルシャが台頭し、神の見えない働きかけでその王クロスがユダの民を解放し、エルサレムに帰すのだと預言したのです。そして、それは後に成就します。ユダの人々は祖国に帰って来たのです。その歴史的現実となった記録はエズラ記、ネヘミヤ記にあります。
 自分では帰れないのですが、神が帰してくださるという救いがそこにあるのです。「シオン(エルサレム)に良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。『見よ。あなたがたの神を。』見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」(40:9ー11)
 なお、これは人類の救いを言っているのです。あなたの人生の救いを告げているのです。「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導」かれるのです。迷った羊は愚かで群に帰れないのです。しかし、迷える子羊である私をイエス・キリストは羊飼いのように御腕に引き寄せ、ふところに抱き、優しく導かれるのです。帰るべきところに帰してくださるのです。
 人は罪によって、心の目が曇り、その罪過が足かせとなり、帰るべき方の元に帰れないのです。しかし、イエス・キリストが私たちの罪を贖い、滅びに向かう足かせをはずし、心の目を明らかにし、悔い改めに導き、信仰に導き、帰るべき父なる神の元に帰してくださるのです。迷える子羊である私を良い羊飼いであるイエス・キリストがその御腕に引き寄せ、ふところに抱き、優しく帰るべきところに帰してくださるのです。そこに天における喜びがわくのです。

 19世紀、失明した身でありながら、生涯に6000以上の賛美歌を書いた奇跡の女性がいました。米国のファニィー・クロビーです。幼い時に医師の間違った治療で失明したのですが、それさえも神の恵みと感じ、繊細な感受性と豊かな感情を持って、盲学校の教師をしながら、余暇に詩作をしていました。結婚して子どもが与えられたのですが亡くなってしまうという悲痛な出来事がありました。しかし、ブラッドベリという賛美歌作曲者の薦めで、彼女は福音賛美歌を多く作くるようになりました。1868年、親しくしていたドーンという人が彼女を訪ねてきて「汽車の出発までに40分しかないが、自分のこの曲に歌詞を作ってください」と言って、メロディをーを口ずさみました。クロスビーはそれを聞いて、部屋にこもり、祈ってから、30分で書き上げドーンに渡しました。それが、3年後には米国中で歌われるようになり、世界の人々に愛されるようになりました。

変わらない風景

2013-09-15 00:00:00 | 礼拝説教
2013年9月15日 主日礼拝・紙上説教(ヘブル13:81、ペテロ1:23)岡田邦夫


 「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル13:8口語訳)。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです」(1ペテロ1:23)。

 山田洋次監督が「寅さんの教育論」で変わらない風景が人には必要であると言っています。映画「男はつらいよ」では柴又の団子屋です。たとえば、故郷の川です。小さい頃はその川は怖いものですが、もう少し大きくなると遊び場となります。思春期になると、川辺に坐り、川を眺めながら、失恋の痛みをいやすす場となります。川は変わらないけれど、人は成長していくのだと言っています。
 教会においては変わらない礼拝風景です。賛美にしろ、説教にしろ、変わるのですけれど、基本は変わりません。それが安心感を与え、そう言う中で、信仰に成長していくのでしょう。
 人は色々な求め方で、教会に来ます。苦しみにあい、試練に会い、心の平安を求めてきて、それが与えられます(安心立命)。人生とは何か、生きる目的は何かと求めてきて、それが与えられます(真理探究)。あるいは、親しい人がいて、その人がクリスチャンで、交わっている内に感化され、洗礼を受ける事があります(交流感化)。求めてくることは多様ですが、入口は一緒です。入った神の国は同じです。2000年前も今も同じです。

◇変わらないお方
 そして、そこにおられる方は変わらないのです。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(ヘブル13:8)。=「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(口語訳)。時代は変わります。生活様式も、スタイルも、考え方も、流行があり、変化していきます。しかし、私たちが信じたイエス・キリストはきのうも、きょうも、いつまでも変ることがないのです。2000年の歴史においても、これからも変ることがないのです。教会においても、人生においても、快晴の時もあれば、嵐の時もあります。しかし、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」とそこに臨在される主はきのうもきょうも、いつまでも、同じです。

◇変わらない教え
 「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです」(1ペテロ1:23)。天地が滅びても、神のことばは変わらないのです。神の言葉といえば聖書です。しかし、その聖書の何を信じるか、何を神の言葉として聞くのか、その信仰告白が「使徒信条」です。神はどういう方か、救いとは何かが言い表されています。ほかの信条もありますが、これが全世界の、全歴史を通しての、共有の信仰告白です。
 それは教えでもあり、その教えはきのうもきょうも、いつまでも、同じなのです。時代が変われば、思想も変わります。教会にも流行があり、歴史に左右されることがあります。しかし、これは変わらないのです。巨人軍は不滅ですと言った人がいますが、聖書と使徒信条は不滅ですと言えます。これまで、使徒信条から説教をしてきましたが、なお一層、これを大事にし、心に納め、血となり肉となり、不動の信仰者になりたいものです。

わたしは、天地(てんち)の造(つく)り主(ぬし)、全能(ぜんのう)の父(ちち)である神(かみ)を信(しん)じます。
わたしはそのひとり子(ご)、わたしたちの主(しゅ)、イエス・キリストを信(しん)じます。
 主(しゅ)は聖霊(せいれい)によってやどり、おとめマリヤより生(うま)まれ、ポンテオ・ピラトの もとで苦(くる)しみを受(う)け、十字架(じゅうじか)につけられ、死(し)んで葬(ほうむ)られ、よみにくだり、  三日目(みっかめ)に死人(しにん)のうちからよみがえり、天(てん)にのぼられました。そして全能(ぜんのう)の父(ちち) である神(かみ)の右(みぎ)に座(ざ)しておられます。そこからこられて、生(い)きている者(もの)と死(し) んでいる者(もの)とをさばかれます。
わたしは聖霊(せいれい)を信(しん)じます。きよい公同(こうどう)の教会(きょうかい)、聖徒(せいと)の交(まじ)わり、罪(つみ)のゆるし、 からだのよみがえり、永遠(えいえん)のいのちを信(しん)じます。
アーメン。

体のよみがえり

2013-09-08 00:00:00 | 礼拝説教
2013年9月8日 主日礼拝(ピリピ3:17-21)岡田邦夫


 「キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」ピリピ3:21

 美しくありたい、若くありたい、健康でありたい…そのための食べ物、サプリメント、運動、化粧品等々、しきりに紹介されて、「からだ」への関心が高いこの頃です。私たちはよく、からだだけは大事にしてくださいとあいさつします。
 私が高校3年の時にロマン・ロラン著「ジャン・クリストフ」をある人から借りて、読み始めました。全10巻もあるので、ごく初めの方だけ読んで返してしまいました。19世紀から第一次大戦までの間のクリストフという男性音楽家の精神遍歴を扱った、「あらゆる国の悩み、闘い、それに打ち勝つ自由な魂たち」に捧げて執筆した作品だと言われています。ほんの少し読みかじっただけですから、評価もお勧めもしませんが、当時の私には、その書に出てくる「魂」という言葉が衝撃だったのです。見える外的世界だけでなく、見えない内的世界が無限大に広がっているというのを感じられた、目が開かれた瞬間でした。魂という言葉は身長、体重がいくらで、成績とか収入がいくらとか、人はその様なものでは測れない、測り得ない私という人間を表しているようにも思えるのです。詩篇にでてくる「わが魂よ」もそう感じるのです。

◇無垢なからだ
 聖書に出てくる「からだ」という言葉も、私たちが日常で使っているからだの意味を越えたものです。朗読されたピリピ3:21などは特にそうです。「キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」。昔のギリシャ人は人間には精神と肉体があって、分けることが出来るという霊肉二元論を考えたり、体が死ねば魂は解放されるという霊魂不滅を考えました。しかし、ヘブライ人は人間をそのように分けたりしませんでした。「からだ」という時も人間の「全体」を言っているのです。聖書学者J.A.T.ロビンソンは聖書の表現によれば、「人間がからだを持っているのではない。人間がからだなのである」と言っています。
 「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」もそれぞれが別れているのではなく、霊もたましいもからだも人間を表す言葉、それをくりかえして、強調する表現です(1テサロニケ5:23)。聖書の神は人間を、一人一人をその全体を見ておられるということです。一人の人間をワンノブゼン、多くいる中の一人としてではなく、唯一無二の存在として見ておられるのです。他人も自分も認識していないところも、すべてひっくるめて、あなたという人を、一つの宇宙を見るようにご覧になっているのです。神の眼差しは実に暖かいまなざしです。ペテロがイエスを三度も知らないと言いはって、主を裏切り、主のお心を痛める言葉をはいているのに、裁判に引かれていき、やがて処刑されようとしているのに、振り返って、そのペテロをご覧になったのです。その眼差しは決して恨む眼差しでも、叱責の眼差しでもなく、ペテロの弱さをいたわり、信仰に立ち直るようにとの祈りの眼差し、ペテロのからだ全体を包み込む眼差しでした。だからこそ、後に使徒の働きが出来たのです。
 主は暖かい愛の眼差しで、あなたの全体、聖書でいうからだをご覧になっているのだとすれば、その眼差しをわけていただいて、人を、神が造られたその全体を暖かく見ることは出来ないのでしょうか。私は最も小さい者ですという謙遜は必要です。その上で、神は私を大きな存在として暖かく見ていてくださるということをますます解れば、他者を大きな存在として暖かく見れるようになるのではないでしょうか。

◇卑しいからだ
 ところが、アダムが罪を犯して以来、私たちは罪のからだ、私全体が罪人になってしまってるのです。聖書では、肉の体とも古き人とも言います。そこで神は人を救うために御子を遣わしました。すっかり罪にまみれたものをすうにはそれこそ、からだを張らなければなりませんでした。肉体をとられたのです。受肉です。そして、十字架にかかり、贖いをなしとげ、信じことで罪の裁きから救われる道が開かれたのです。イエス・キリストは死ぬ必要がありました。
 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます」(ローマ6:4-8)。
 信じるのは今なのですが、あなたがバプテスマを受けた時にイエスと共に罪のからだ、古き人が死んだのであり、キリストと共に義のからだ、新しき人によみがえったのです。さかのぼれば、二千年前の十字架の時にすでに神がしてくださったのです。信じ、確認するのは今です。

◇栄光のからだ
 これで終わりではありません。現実は厳しい状況にあります。テレビや新聞やネットなどで流れくる情報から、あるいは身の回りから、人間の罪深さが伝わってきます。ところが自分自身も罪深さを思い知らされ、「ああ、この罪のからだからだれが救ってくれるのか」と嘆かざるを得ません。そういう時に、十字架の上で、父よ、彼らをお赦しくださいと祈られ、暖かい眼差しをこちらに向けてくださる方の御許に行くのです。
 また、天を仰ぐのです。パウロの言葉を聞いてみましょう。「私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ3:18ー20a)。
 そして、次に希望の言葉がくるのです。「そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」(ピリピ3:20bー21)。私たちの卑しいからだ、罪によって、滅び朽ちていくからだ、それをだれも、どんな力も止められないのですが、全被造物、ありとあらゆるものを従わせることがおできになる方、イエス・キリストが絶対的力を行使して、栄光のからだに変えてくださるのです。しかも、イエス・キリストと同じ、復活のからだ、栄光のからだ、涙も死もないからだに一瞬に変えられ、いつまでも、主と共にいるようになるのです。
 そこでは栄光のからだを与えた神はどれほど、暖かい眼差しでご覧になっているでしょうか。何しろ、主と同じ栄光のからだなのですから。そこにいる聖徒たちはまるでひとりのからだのように、一つとなっているのです。ですから、互いを見る眼差しは、どれほど温かいか。
 「キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」ピリピ3:21

罪のゆるし

2013-09-01 00:00:00 | 礼拝説教
2013年9月1日 主日礼拝(コロサイ2:8-15)岡田邦夫


 「神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。」コロサイ2:13-14

 ある時、礼拝でバイオリンを弾いていただいた時の感動が忘れられません。選曲されたのが聖歌222番「疲れし者よ」。ヘンデル作曲の「メサイア」20番アリアを編曲したもので、ウィリアム・ディックが、歌詞をつけたものです。(イギリス民謡グリーンスリーブに讃美歌の歌詞をつけたのもディック・新聖歌86「み使いのたたえ歌う」)聖歌の歌詞は…
  「疲れし者よ 来て休め」と 優しくイエスは 招かせたもう
  今なが身を 重荷のあらば あるままにて 罪の都を 振り返らず
  イエスのみ許に とくとく来ずや今」
 メサイヤの方は「彼は羊飼いのように…優しく導かれる(He shall feed His flock like a shepherd)。重荷を背負って苦しむ者は誰でも彼のもとに来なさい。彼はあなた方を休ませて くださるであろう。…」であり、イザヤ書40:11、マタイ11:28~29の聖書をもとにしています。このイザヤ書の言葉は救いを知らせる預言で、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」で始まります(40:1)。
 イザヤという預言者は世界情勢を見渡し、弱小国ユダは北から侵略してくる帝国に滅ぼされるのは目に見えていることは識者として判ってはいましたが、預言者として神の前に出ました。そこで啓示を受けたのが上記のユダは救われる、補囚から解放される、その慰めの福音が伝えられるという預言でした。預言の前半は神による裁き、中央は実際の出来事が入り、後半は神による救いです。端的に言えば、救いとは福音による慰めなのです。苦しむ者に最も必要なのは慰めなのです。詩篇もそう言っています。「死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」(23:4)。

◇「罪の赦し」を広げてみれば
 このこの慰めに満ちた福音はどのようにもたらされるのか、その壮大な人類に対する神のドラマがイザヤ書40~66章に描かれております。また、「慰めよ」で始まるヘンデルのオラトリオ(聖(せい)譚(たん)曲(きよく))、メサイヤも良く知られた作品の一つでしょう。単なる気休めではなく、真の慰めにいたるには「罪の赦し」がなければなりません。人が死ぬ時、地位も名誉も財産もいっさい、向こうには持っていけません。天国に持っていけるとしたら、イエス・キリストによる罪の赦しであります。罪責感にとことん苦しめられたダビデはこう述べています。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は」(詩篇32:1ー2)。
 その様な意味で第1に、救いの本質は、神の御前で罪の赦しが得られたことです。
 第2に、それは罪と死の奴隷であったものがイエス・キリストの命で贖われ、奴隷から解放され、本来あるべきお方のものになったことです(救いの状態)。
 第3に、十字架において、主イエスがなだめの供え物となってくださったので、神に対して反逆の罪を犯し、神の怒りの下におかれていた私たちは神との和解を受け、平和をいただいているのです(関係における救い)。
 第4に、神の律法を犯した罪人の私たちはその法に基づいて神に裁かれ、滅びが宣告されているのですが、「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」(ローマ4:24-25)-法における救い。
 実にイエス・キリストによる救いはこれほど多様で完璧なものです。これらをまとめると、冒頭の聖句げ言い表せるでしょう。「神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです」(コロサイ2:13-14)。

◇「罪の赦し」を掘り下げてみれば
 私たちは厳然とした事実から目を背けるわけにはいきません。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」ということです。聖書に記されていますが、私たちの魂もそれを否定できません。しかし、その聖書の前後に厳然とした救いの事実が述べられています。「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように 、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(ヘブル9:26ー28)。
 罪の赦しというのは「罪の審判からの救い」をもたらすものです。それはイエス・キリストが私たちの罪を負って神に裁かれてくださった「代理のよる救い」なのです。「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」(コロサイ2:14-15)。私たちは信じるだけで救われたのです。また、再臨の時に完全にキリストによって救われるのです。
 その救いの保証は神の聖霊がしてくださるのです。「あなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです」(エペソ1:13ー14)。私たちをおとしめる不利な証書が無効にされたばかりか、御国に入れるキリストの証書をいただき、そこに聖霊の証印が押されているのです。今、生きているこの時に、信仰によって、聖霊による救いの確証をいただきましょう。
 洗礼がまた、見える形での救いの確証となるのです。「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました」(コロサイ2:12-13)。教会における洗礼は一度限りですが、霊的には生涯にわたって、キリストとともに葬られ、キリストとともによみがえらされたと信じ続けていくのです。しかし、原点は父と子と聖霊との名によって、また信仰によってなさた洗礼式です。見える洗礼証書が象徴しています、見えない洗礼証書こそ、罪の赦しの洗礼証書こそ、天の御国にもっていくものです。その証書の発行者は最も権威のある方です。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです」(コロサイ2:9-10)。