オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

なんででしょう

2017-04-30 00:00:00 | 礼拝説教
2017年4月30日 主日礼拝(ヨブ記2:1~10)岡田邦夫


 「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならない。」(ヨブ記1:21、2:10)

 「なんでだろう」といえば、あるお笑いコンビの歌のこと、2003年の流行語大賞を受賞したぐらい流行した歌です。流行語も奇抜なのはその時だけで、消えていきます。しかし、この「なんでだろう」は普通の言葉です。普遍的な問いかけなので、生き残っていると私は思います。幼児が初めに「これ、なあに?」WHATとやたらと聞き、その次は「どうして?」WHYと聞きまくって、言葉やセンテンスを覚えていきます。それは人が一生問い続けていくこと、生きること、そのものだと思います。特に人はどうして苦しむのかは宗教の大きな課題です。それと取り組んだのがヨブ記です。

◇打っても、命には触れるな…試練
 この「なぜ、なんでだろう」という意味付けを古代から人は天と結び付けてきました。帝王となったのはそうなる星のもとに生まれてきたのだと権威付けをする。苦しいことが続けば、そうなる星のもとに生まれてきたのだから、運命に甘んぜよと生きるすべを説く、等々。しかし、それらは天上のことと地上のことがはたして結びついているでしょうか。
 このヨブ記に至っては明瞭です。天上でなされたことが地上になされていくというものです。ヨブ記の形式は対話で構成されています。初めは神とサタンとの対話、ヨブと友人との対話、ヨブと神との対話です。その対話の中で「人はなぜ苦しむのか」の問いに闇と光が見えてくるのです。ですから、その言葉を拾って、話を展開したいと考えています。
 まず、ヨブは潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。妻と七人の息子と三人の娘がおり、東の人々の中で一番の富豪であった。絶えず祝宴を開き、罪の赦しの祭儀をし、敬虔で幸福な生活をしていた。そこで天の会議、主はヨブを評価して「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが」(1:8)。
それに対して、サタンが訴えます。それは家族や財産があるからだ、目に見えた祝福を主が与えているからだ。「しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません」(1:11)。主は許可します。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない」(1:12)。
 これはヨブをサタンが打つのを主が許した結果です。打たれるという事、すなわち、試練です。信仰のテストです。
 パウロが「肉体に一つのとげがあたえられました。高ぶることのないように、私を打つためのサタンの使いです」と言っているところがあります(2コリント12:7)。サタンにとっては信仰をなくさせよう、堕落させようと、誘惑してくるのです。しかし、神にとっては信仰を深め、成長させようという試練を与えているのです。そこがヨブ記の明瞭なところです。ヤコブ書はこう教えています。「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです」(5:11)。

◇打たれても、愚痴をこぼすな…信仰
 ヨブの耳に不幸の知らせが次々と入ります。遊牧民に使用人が殺された。落雷で羊と人が死んだ。略奪隊に襲撃され、何もかも奪われた。大風で家が倒壊、その下敷きになり、息子、娘たちが全員死んだ。財産と子供のすべて失ったのです。しかし、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかったのです。こう言いました。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(1:21)。
 再度、天上会議。サタンが訴えます。「今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません」。主は許可します。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」(2:5-6)。サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打ったのです。ヨブは土器のかけらで身体をかき、灰の中にすわったという悲惨なことになってしまいました。妻も言いたくなりました。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい」。しかし、彼は罪を犯すようなことを口にせず、これ以上ないという程の信仰の言葉で返します。彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」(2:10)。
 どうしてこんな目に合うのか、なぜ、これほどの喪失経験をしなければならないのか。天上に結び付けて、初めから答えはわかっている。サタンが打つのを主が許されたのだ。これはサタンの不信仰への誘惑、神の試練。神に愚痴を言うことも、まして、のろうこともしまい。それが信仰者のあり方だ。いうべき信仰の言葉はこれだ。…
「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(1:21)。「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならない」(2:10)。

 しかし、この後、ヨブは大声で泣き、衣服を裂き、灰をかぶって、嘆きに嘆きます。新たな「なんでだろう」が沸きあがってくるのです。正しく信仰に生きてきたのに、どうしてこのような苦しみに合わなければならないのかという、苦悩です。キルケゴールという人の言葉をもじって言えば、ヨブ記1~2章は試練を乗り越える宗教的Aの経験です。そして、3章からは友人との論争、神との論争を通して、新たな神からの回答を得ていくという宗教的Bの経験に達するのです。
 ただ、経験というものはそうすっきり説明できるものではなく、きわめて複雑です。説明できない深さがあります。しかし、聖書は明瞭です。「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならない。私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」。なんでだろうという試練に合った時、この信仰にたどり着きましょう。そう告白してもそれでも、何で信仰者にこのような苦しみが来たのかと紋々と問う時、この信仰の言葉に帰っていくのだという事を知っている信仰者は幸いです。
 私たちは生涯「なんでだろう」を神にぶつけていきましょう。天に答えがあれば、地に答えもあるでしょう。身近なところに答えがあれば、ずっと先に答えがあることもあります。私の母は息子、タカちゃんが4歳のとき、疫痢という病で、突然亡くなりました。母親ですから、どうして愛子は幼くして死んでしまったのか、自分のせいではないかと自分を責め、1年泣き明かしました。それから、約40年たってクリスチャンになりました。65歳で受洗。この問いをイエス・キリストにぶつけました。光が来ました。幼子へのイエス・キリストのみ言葉によって解答を得ました。さらに、私たちを救うため、神のひとり子をお与えになった、その心痛む神の愛が深く感じられたのです。その答えをもって、平安の内に75歳で召されていきました。


ごたいせつ

2017-04-23 00:00:00 | 礼拝説教
2017年4月16日 コンサート礼拝(ヨハネ3:16)岡田邦夫

◇これさえあるならば…
 料理番組で、これさえあれば何にでも役立つというお手製の万能調味料が紹介されたりします。これさえあればという便利グッズ、これをしておけばという災害対策があります。しかし、何といってもこの人さえいてくれれば、何が来ても大丈夫という頼りになる人物がいると心強いですね。
 さて、今からちょうど500年前、マルティン・ルターが宗教改革をしました。宗教改革というのは端的に言うと、聖書さえあれば、信仰さえあれば、人は救われるのだと言って、教会を改革したことです。そのルターがこのようなことを言ったと言われています。「もし、聖書の御言葉が全て失われたとしても、このヨハネの福音書3章16節だけが残れば、福音(救い)の本質は誤りなく伝えられるであろう」。福音のメッセージがこの一節に集約されているという意味で、彼はこの節を「小福音書」と呼びました。それが以下の聖書の言葉です。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。

 父なる神が神の御子・キリストを十字架において犠牲にし、世すなわち私たちを愛し、滅びないように、また、永遠の命に生きられるようにしてくださったのです。ですから、その神の「愛」を受入れさえすれば、キリストを信じさえすれば、その信仰さえあれば誰でも救われるのです。

◇あなたのためならば…
 皆さん、この「愛」の語は英語のLOVEをイメージしてませんか?
400年以上前、日本にキリスト教がもたらされたとき、神の愛をどう訳したらよいか宣教師たちは苦心しました。当時、「愛」というと男女の愛などに使われていて、ふさわしくないので、神の愛をわかりやすいように「デウスの御大切」と訳しました(デウスはラテン語)。大切は大いに迫る、切迫するという意味で、愛を直観で感じるようでいいですね。
また、「愛する」という動詞が誕生したのは、明治時代。“I LOVE YOU”の翻訳語として誕生しました。それまでは夏目漱石は「月が綺麗ですね」、二葉亭四迷は「(あなたのためなら)死んでもいい」と表現していました。それもいい訳です。「神はあなたを愛しています」を、「神はあなたのためなら死んでもいい」と言ったら、実感できるような気がします。事実、神の御子はあなたが誰よりも、何ものよりも大切で、滅びることないようにと、十字架上で死んでくださったのです、そして、永遠の命を与えるためによみがえられたのです。
 神に大切にされているのですから、ご自分の人生を大切にしましょう。そして、神と隣人を大切にして、生きていきましょう。これさえあれば、死んでも、天国が約束されています。

主が右にいますゆえ

2017-04-16 00:00:00 | 礼拝説教
2017年4月16日 イースター礼拝(詩篇16:1~11)岡田邦夫

 「それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」使徒の働き2:31~32(ハデス=よみ)


◇詩人が見た目の前のこと
 披露宴のお祝いの言葉の定番に「人生には三つの坂があります。上り坂もあれば下り坂もありまが、もう一つ、まさかという坂もあります。その坂を…」というのがあります。ダビデの生涯を見ます時に、ゴリアテを倒したり、サウル王に召し抱えられ、王女と結婚するなど、上り坂、王に嫉妬され、追われる身になる下り坂、サウル王に殺されそうになるという、まさかを経験しています。他にも数多くの三坂を経験しています。そうした経験の中で、信仰によって歩んだ道を「詩」にしています。
 この詩篇でも冒頭が「神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。」ですから、そうとうの「まさか」があったのでしょう。そういう、たまらなく辛いときに「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」と信仰の告白をして、耐え忍び、そこを抜けてきたのでしょう。通ってみれば、最善でした。測り綱は好む所に落ちた、良い賽の目がでたのです。どうして、そんな苦境を通ってこられたかというと、一番苦しいときに主なる神が適切で、力ある「助言を下さった」からです。ダビデは主をほめたたえずにはいられません。
 しかもです。その苦境は「死の淵」に追いやられ、絶望のただ中に置かれるような苦境でした。そこでこそ主は避けどころとなってくださったのです。「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」。どん底からの救い、究極の助けをいただいたのです。
 思い返せば、その秘訣はこうだと言います。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない」。まさか、何でこんな苦境に立たせられるのかという問題の前に、主を置き、主を意識し、主を信頼するのが秘訣だ。私たちもこの秘訣をもって信仰に生きてまいりましょう。上り坂、下り坂、まさかのどの坂でも、主を目の前に意識していきましょう。きっと、測り綱は好む所に落ちるに違いありません。
 命より大事なものはないとよく言われます。その通り命は尊いものです。しかし、余命いくばくもないがん患者にしてみれば、死がネガティブなもの、命の敵になって、死におびえて生きるものなると、「がん哲学外来」の樋野医師は言います。だから「自分の命より大切なものがある」と思ったほうが幸せな人生が送ることができるようですと述べています。それは人生の役割や使命だと言います。それで「明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい」というタイトルの本を書いています。ルターの「もし、明日、世界が終るとしても、私は今日もリンゴの木を植えるでしょう」からもじったと言っています。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない」からです。

◇詩人が見た先の先のこと
 ダビデが死線をさまよったからでしょうか。この詩篇は救い主の預言と認識されたのです。誰もが死にます。例外はありません。意味なく消滅していくとしたら、これほど虚しいことはありません。死後に犯した罪に対して神の裁きがあるとしたら、魂は恐れます。人は滅びの淵に立たされているのです。
それだからこそ、そこにこそ、救い主、イエス・キリストが来られたのです。十字架にかかられ、ありとあらゆる、私たちの罪を背負いこんで、身代わりとなり、贖いとなられ、悔い改めて、信じる者の罪を赦し、きよめてくださったのです。そして、御子は死んで葬られ、イースターの日によみがえられ、天に昇り、神の右にあげられたのです。それは蘇生ではなく復活です。天の体、栄光の体に変えられたのです。それは私たちがその同じ天の体、栄光の体に変えられるためです。
 主の弟子たちに聖霊が下った時、目が開かれて、自分たちが目の当たりに見た、復活のイエス・キリストとこの詩篇の預言がにぴたりと符合したのです。啓示を受けらのです。最初の説教でこう言いました。
「それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデス(よみ)に捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です」(使徒の働き2:31~32)。主は人となられ、仕えるものとなられ、死の苦しい状況まで下り、よみにまで、最も低いところまで下られたのです。そこから、引き上げられ、栄光の体によみがえり、弟子たちに現れた後、最も高い天に上げられ、神の右という最高の座にまで引き上げられたのです。
いいかえれば、神の御子が人となり、十字架で死ぬ、それこそ、まさかです。よみまで下り、昇天された。まさかのまさかです。それはすべて、神に背を向け、神に敵対し、罪に罪を重ねた私たち、罪びとのかしらを滅びから救うため、栄光の復活体にして、天国で神と共に永遠におらせるためだったとは、まさかのまさかのまさかなのです。
 ですから、私たちが人生のまさかにおいても、大丈夫なのです。この復活の主を目の前において信頼して生きればいいのです。まさか自分が死に直面するとは思わなかったという時が来るでしょう。でも、この神の右に上げられた主が死線上の私の右にいてくださるのです。だから、「明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげる」という余裕があるのです。

どうして…

2017-04-09 00:00:00 | 礼拝説教
2017年4月9日 棕梠の主日礼拝(詩篇22:1~10)岡田邦夫


 「イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです」。ヘブル人への手紙2:9-10

 今日はパームサンディ、棕梠(しゅろ)の主日です。エルサレムの都は城壁に囲まれていました。そこにイエス・キリストがロバの子に乗って入城してきます。人々は救い主がやってきたという評判にたいへんな期待を込めて、棕梠の葉や上着を道に敷いていきます。ロバの子に乗ったイエスに向かって、だれかがホサナと叫ぶと、周囲はホサナ、ホサナの大合唱が起こります。平和の君として入城されたのですが、その後に、この罪のない方がこれ以上ないという、残虐な仕方で処刑されるという惨劇が待っていたのです。しかし、その一週間こそ、私たちにとってはきわめて重要な一週間なので、私たちは主イエスの受難に思いをはせ、計り知れない恵みをくみ取るのです。

◇どうして…人が
 日曜、エルサレムに入城され、月曜、宮をきよめ、火曜、終末の預言をされ、水曜、ユダが裏切り、木曜、最後の晩餐をなさり、ゲッセマネで祈り、当局に逮捕され、金曜、不当な裁判にかけられ、十字架刑に処せられ、埋葬されます。土曜、安息日のため墓はそのまま、しかし、日曜、キリストは復活されます。売布の黙想の家に行きました時、庭にこんもりした林があり、その受難を忍ぶ「道行き」というコースがありました。順番に上記の場面のレリーフが立っていて、そこで黙想するというものです。この週、どんな所にいましょうとも主の受難に思いをはせながら、過ごし、イースターの日を迎えましょう。
受難の中で、大変衝撃的なのは十字架上で主が叫ばれた「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)」です(マタイ27:40、※エリはヘブル語、後半はアラム語)。今も、心に響いてくるようです。苦しみの絶頂の叫びですが、主イエスは詩篇22篇の詩を大声で言われたのです。この詩全体をうたわれていたのです。
この詩篇は苦しみにあったダビデの嘆きの詩篇ですが、救い主の受難の預言でもありました。福音書を見ると、それが成就されていることがよくわかります。本編を見てみましょう。「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。『主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。』」(22:6-8)。
「犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします」(22:16-18)。
 どうして、御子をそのようにしたのでしょうか。人というのはなんとも残忍なのです。ホサナ、ホサナとたたえていた、その舌の根も乾かないうちに、十字架につけろ、十字架につけろと叫んでいる。お前が神の子なら、自分を救ったらどうかと、あざける。自分は絶対正しい、悪意はないと言い張る。自分の思い、欲が優先。人の命を何とも思わない。そういう、罪に満ちた私たちの思いと行状が神の御子を十字架の死の苦しみへと引きずり込んだのです。アダムが「神のようになる」とサタンにそそのかされ、傲慢になり、その原罪を引き継いでいるのです。ユダヤの当局や群衆は私たち自身なのです。「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(使徒2:36)。
 私たちが十字架を仰ぐとき、この私の罪が御子を「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」と叫ばせるほど、苦しめてしまったことを悔い改めざるをえません。親不孝ならぬ、神不幸をお詫びし、信仰によって贖いによる赦しをいただくのです。私たちでも、人を赦すというのはきわめて難しいのに、まして、聖なる神が赦しがたい罪びとを赦すとうのは至難の業。しかし、御子において、それをなされたのです。

◇どうして…神が
 私のことですが、鼻の手術をした時のことです。全身麻酔で、鼻の中にできたものを切除し、そこに止血用、消毒用のガーゼをぎゅうぎゅうに詰めて、手術室から出てきました。局部麻酔が聞いているせいか、ほぼ痛くはないし、酸素マスクをしているので、何ら問題はないのですが、私自身はなぜか息苦しくてたまらない。おおげさですが、死ぬんじゃないかと思うほど。横になれない、眠れない、朝になっても、その状態。医師に言っても、何の問題もないとそっけない。いよいよ、ガーゼを引っ張り出す日がきた。これがものすごく痛い。以前、その痛さで失神したことがある。しかし、今回は嬉しいのです。終わった時の解放感は何とも言えませんでした。後から思うと、あの耐え難い息苦しさはパニック障害か何かだったらしい。苦しまれている方の苦しみははたから見ている以上なのではないかと思わされる経験でした。きっとイエスのお苦しみは私たちの想像をはるかに超えたものでしょう。
 イエスの叫びの矛先は「わが神、わが神」なのです。罪びとに数えられ、裁きを担わされ、神に捨てられたのです。父と子は一つ、「アバ父よ」と祈れる間柄であったのに、「どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも」と嘆かざるを得ない、絶望状況におかれたのです。納得がいかない、理不尽だ、苦しすぎる、肉体的に、精神的に、霊的に苦しみの限界たっしていての「どうして」なのです。
その苦しみをこう表現しています。「私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました」。「私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます」(22:14-15)。罪のない方なのに、罪びとの代表となられ、また、身代わりとなって、御子が苦しみを全うすることで、神の怒りをすっかりなだめてくださったのです。
ヘブル人への手紙で御子の受難は遠大な目的があったのだと述べています。「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです」(2:9-10)。
 「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」(2:18)。
赦せないものを赦すために、御子が死の苦しみをなめつくし、飲み干し、人々を罪と苦しみから解放するということが神の大事業だったのです。限りない愛の御業だったのです。「わたしは傷を持っている。でも、その傷のところから、あなたのやさしさがしみてくる」(星野富弘さんの詩)。受難しつくされた十字架の傷から、神の優しさがしみてきているのです。
 さかれたパンをいただき、注がれたぶどう液を飲む時に、十字架の傷から注ぎだされた神のはかりしれない優しさが私の全身全霊にしみわたっていくのです。信仰をもって、聖餐式にあずかりましょう。


主に信頼せよ

2017-04-02 00:00:00 | 礼拝説教
2017年4月2日 主日礼拝(詩篇37:3~4)岡田邦夫


 「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ、主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」詩篇37:3~4共同訳

日本で初の鉄道が新橋-横浜間を開通したのは明治 5 年(1872 年)、イギリス人技師により工事、イギリスから輸入した蒸気号機関車が走りました。まだ、日本には技術がなかったからです。それから140年、イギリスから日本の高速車両が受注され、輸出されました。その日本の鉄道技術の高さが評価されています。逆になったわけです。
 日本の技術の高さはすでに江戸時代、戦国時代、それより前にありました。さかのぼれば、発掘されたものを見ても、縄文時代にも見受けられます。海に囲まれ、四季のある島々で、ほぼ外敵に襲われず、そこにある自然を工夫に工夫をかさね、改善に改善をかさねてきました。また、集まった者たちの穏やかな過ごし方も同様にして、文化を育んできたと思います。創造者が提供してくれた「この地に住み着」いて、生きてきたともいえます。ただ、この言葉の前後の大事な部分がなかったことです。真の神、救い主であるところの「主に信頼し………信仰を糧とせよ。」です。それは無くてはならぬメッセージです。

◇住み着くということ
 神の目から見れば、神のはかりにかけられれば、「義人はいない。ひとりもいない」「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」にいるのです(ローマ3:10,23)。しかし、救いの道が人類に開かれました。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」(4:25, 3:22)。妻が高齢の父親に福音を伝えていましたが、この罪ということを認識してもらうのが難しい。牛乳の販売所をしており、信用第一だと言って、毎日、晴れの日も、雨の日も、嵐の日も、一軒一軒、自転車で配達していた、実直な人です。息子に店を任せてからは流行りのサウナ風呂を営業していました。いつも洗濯したタオルが干してありました。それを見て、妻は伝え方を工夫しました。お父さんはこの洗っても薄黄色いタオルのようだ、世間では正直者かもしれないが、神様から見れば汚れている。だから、罪を悔い改めて、イエス様を信じて、救われましょう…と。納得し信じました。余命いくばくもないので、洗礼式は自宅で私が司式をしました。それは忘れもしない、あの忌まわしい地下鉄サリン事件のニュースがテレビで放映されている時でした。それよりも、忘れられないのは、キリストを信じて救われたという確信がありますかとの問いかけに、「いつ?」だと問い返してきたので、すかさず「今です」と返すと「信じます」とはっきりと告白されたことです。
「主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう」(詩37:9)。培われてきた良き文化の「この地に住み着く」ことも大切ですが、イエス・キリストが提供される「神の国」に住み着くことが何よりも必要なことです。「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」(ルカ12:31-32)。

◇染み着くということ
不信仰や罪があっては神の国を継げないので、きよめられる必要はありますが、イエス・キリストの贖いによって、神の国を継げるのです。聖霊が保証してくれます。ですから、「主に信頼し、善を行う」のです。「信仰を糧とし」、神の国がいかに栄光に富んだものであるかを知っていくのです(エペソ1:14、18)。主の祈りの日ごとの糧は食物であり、文化ですが、神の国において、必要なのは「信仰の糧」です。
 神への信仰とは認識であり、信頼であり、告白です。信仰はこれらを重ねもっていますから、信頼という時も神認識や神告白をも含んでいる豊かなものです。
1958年、アメリカの心理学者ハリー・ハーロウが、生まれたてのサルの赤ちゃんで実験しました。布で出来た代理母と、針金で出来た代理母を用意し、その箱の中で赤ちゃん猿を育てました。布製の代理母は体温の温度に暖められているが、ミルクを飲むことは出来ない。針金製の代理母は取り付けられた哺乳瓶からミルクを飲むことが出来る。赤ちゃん猿はお腹が減ったときだけ、針金の代理母からミルクを飲み、お腹が満たされると、直ぐに布製代理母の方に寄り付くという結果になった。ハーロウは母性というものは不用、布でも温かい接触さえあれば、子供は育つと言った。ところが、1~2年経つと布製の代理母でも針金製の代理母で育った猿でも正常に育たなかったのです。そういう物理的母親では子どもは健全には育たない、母親の温もりが重要だということが明らかにされました。要するに、抱っこされたり、愛情が注がれて、「基本的信頼」が育まれるのです。この信頼が健全な成長に最も重要なことなのです。
 神の国においてもそうです。物や金で作られた代理母ではだめなのです。地位や名誉や財産の代理母、すなわち、偶像では正常には育まれないのです。真の神は母親以上にあなたを包み、愛を注いでくださり、健全に育つようにしておられるのです。私たちは時に身近な神の愛にしがみつき、時に広い神の愛の中で自由にふるまい、主を信頼していくのです。基本的信頼というより、根本的信頼が育まれるのです。そういう「信仰を糧とせよ」なのです。そうして、神の子の品性が染み着いていくのです。
 この地に住みながら、神の国に生きるには工夫がいります。それも工夫に工夫を、改善に改善を重ねまいりましょう。聖歌の「罪の世にありて罪に汚れず」というように生きるには信仰の技術がいるのです。神の愛と恵みに満ちた御国という風土の中で、主日においても、平日においても、信仰の技術を磨き、健全な、神に喜ばれるキリスト者に育ってまいりましょう。なにしろ、御国を継ぐ者なのですから。この地と御国に住み着き、主を信頼し、大いに信仰の糧をいただき、御国の恵みがわが人生に、わが教会に恵みが染み着いてくることを願います。そうして、「地の塩」となってまいりましょう。