2012年12月30日 主日礼拝(1テサロニケ5:16-18)岡田邦夫
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」1テサロニケ5:16-18
空に浮かぶ雲を見て、あなたは何か思うところがありますか。司(し)馬(ば)遼(りよう)太(た)郎(ろう)の長編歴史小説「坂の上の雲」のあとがきに、明治の人たちのことをこう述べています。「楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながら歩く。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」。題そのものが不思議と印象に残る文学的表現です。
◇雲の中の話
聖書にもしばしば「雲」は神の啓示や神の臨在と関係して出てきて、重要な役割をもっています。特にイエス・キリストが高い山に三人の弟子を連れて行った時がそうでした。御姿が真っ白に変わり、モーセとエリヤが現れて、「そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、『これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした」のです(マルコ9:7)。また、ご自身の再臨をこう予告されました。「そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです」(同13:26、14:26)。イエス・キリストが昇天された光景も雲に包まれており、同じ有様でまた来ると約束されました(使徒1:9-11)。
そして、そのイエス・キリストの再臨の時のことです。キリストにある死者がまずよみがえり、「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(1テサロニケ4:17)。年末はこのような終末を思う時かも知れません。しかし、再臨が近いという終末意識が過剰になりますと、健全な日常生活から脱線していく危険性があります。そのような心配があったのがテサロニケの教会の人たちでした。そこでパウロが健全な信仰生活を送るようにと手紙を書きました。
◇雲の下の話
「人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。…あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」と勧めます(5:3ー11)。そして、再臨の主にお会いするためには、何よりも主が望んでおられる信仰の生き方をするようにと勧めています(1テサロニケ5:16ー18)。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
この箇所をある方は「『燦(さん)然(ぜん)たるダイヤモンドの一(いち)連(れん)』の如(ごと)き勧戒(かんかい)」とタイトルをつけています。ジョン・ウェスレーはこう注解しています。「罪から救われて、キリストの愛にあって歓喜することこそ福音の本来意図するところなのです。真の祈りは感謝と不可分です。真の祈りには必ず感謝が含まれています。常に祈る人は常に賛美しています。安楽の中にいようと苦痛の中にいようと、ものごとがうまく行こうと最大の逆境にあろうとつねに賛美しています。彼は起こってくるすべてのことを神に感謝し、それを神から来たものとみなし、それをただ神のために喜び受けるのです。そしてどんなことでも、それが神の完全なみこころに一致するか否かのみを考えて、選び取るか拒否するか、好むか嫌うかをきめるのです」。
◇非常時でも
ホーリネスの指導者であった米田豊先生は私が聖書学院に入学した時、82才でしたが、教(きよう)鞭(べん)をとられていました。米田師は8人のお子さんが与えられたのですが、そのうち6人の方を亡くされ、また、戦時中のホーリネスの弾圧で獄中におられた時に痛風だった奥様を亡くされました。その苦難のために「昭和のヨブ」と呼ばれました。しかし、獄中にあって、この聖句の漢文「常時喜悦、不断祈祷、万事感謝」を言い続けたと言います。修養生(学生)だった私はどうしてこの先生はそうできたのかと考えました。家族を亡くすことで、ひとり子を犠牲にされた父なる神の痛みの愛を他の誰よりも知られたからではないだろうか、また、再臨が来て「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。」という人たちに加えられると確信しておられたからだと、想像していました。
◇日常でも
また、何事もなく過ぎたということは最高の感謝ではないかとも言います。エレナ・ポーター 著「少女パレアナ」にこんなほほえましい話が記されています。パレアナは両親を亡くし、気難しい独身の叔母さんにひきとられ、冷たい態度をされます。けれどもパレアナは天(てん)真(しん)爛(らん)漫(まん)。お手伝いさんや老僕のおじいさんや近所の人たちとすぐに仲良くなるのです。パレアナは牧師であった父親から教わった「なんでも喜ぶ」遊びを、出会った人たちとやっては楽しむのです。するとその遊びは村中に広がっていったほどでした。まだ話は続きますが、「なんでも喜ぶ」遊びというのは、たとえばこうです。何もない屋根裏の部屋を与えられ、ガックリしていたパレアナが、「鏡のないのもうれしいわ。鏡がなければ、ソバカスも見えませんものね」と発想するのです。
この少女のように幼心を持ちたいものです。素直になって福音による遊び心を持ち、「いつでも喜ぶ=絶えず祈る=何でも感謝する」信仰遊びをしてみませんか。天を楽しむと楽天的になります。その信仰による楽天家たちは、そのような終末の時代に生きる人として、再臨をのみ見つめながら歩くのです。のぼってゆく人生・歴史という坂の上に、主がいます天にまことに一朶(いちだ)の白い雲がかがやいていますので、それのみをみつめて坂をのぼってゆくです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」1テサロニケ5:16-18
空に浮かぶ雲を見て、あなたは何か思うところがありますか。司(し)馬(ば)遼(りよう)太(た)郎(ろう)の長編歴史小説「坂の上の雲」のあとがきに、明治の人たちのことをこう述べています。「楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながら歩く。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」。題そのものが不思議と印象に残る文学的表現です。
◇雲の中の話
聖書にもしばしば「雲」は神の啓示や神の臨在と関係して出てきて、重要な役割をもっています。特にイエス・キリストが高い山に三人の弟子を連れて行った時がそうでした。御姿が真っ白に変わり、モーセとエリヤが現れて、「そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、『これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした」のです(マルコ9:7)。また、ご自身の再臨をこう予告されました。「そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです」(同13:26、14:26)。イエス・キリストが昇天された光景も雲に包まれており、同じ有様でまた来ると約束されました(使徒1:9-11)。
そして、そのイエス・キリストの再臨の時のことです。キリストにある死者がまずよみがえり、「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(1テサロニケ4:17)。年末はこのような終末を思う時かも知れません。しかし、再臨が近いという終末意識が過剰になりますと、健全な日常生活から脱線していく危険性があります。そのような心配があったのがテサロニケの教会の人たちでした。そこでパウロが健全な信仰生活を送るようにと手紙を書きました。
◇雲の下の話
「人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。…あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」と勧めます(5:3ー11)。そして、再臨の主にお会いするためには、何よりも主が望んでおられる信仰の生き方をするようにと勧めています(1テサロニケ5:16ー18)。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
この箇所をある方は「『燦(さん)然(ぜん)たるダイヤモンドの一(いち)連(れん)』の如(ごと)き勧戒(かんかい)」とタイトルをつけています。ジョン・ウェスレーはこう注解しています。「罪から救われて、キリストの愛にあって歓喜することこそ福音の本来意図するところなのです。真の祈りは感謝と不可分です。真の祈りには必ず感謝が含まれています。常に祈る人は常に賛美しています。安楽の中にいようと苦痛の中にいようと、ものごとがうまく行こうと最大の逆境にあろうとつねに賛美しています。彼は起こってくるすべてのことを神に感謝し、それを神から来たものとみなし、それをただ神のために喜び受けるのです。そしてどんなことでも、それが神の完全なみこころに一致するか否かのみを考えて、選び取るか拒否するか、好むか嫌うかをきめるのです」。
◇非常時でも
ホーリネスの指導者であった米田豊先生は私が聖書学院に入学した時、82才でしたが、教(きよう)鞭(べん)をとられていました。米田師は8人のお子さんが与えられたのですが、そのうち6人の方を亡くされ、また、戦時中のホーリネスの弾圧で獄中におられた時に痛風だった奥様を亡くされました。その苦難のために「昭和のヨブ」と呼ばれました。しかし、獄中にあって、この聖句の漢文「常時喜悦、不断祈祷、万事感謝」を言い続けたと言います。修養生(学生)だった私はどうしてこの先生はそうできたのかと考えました。家族を亡くすことで、ひとり子を犠牲にされた父なる神の痛みの愛を他の誰よりも知られたからではないだろうか、また、再臨が来て「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。」という人たちに加えられると確信しておられたからだと、想像していました。
◇日常でも
また、何事もなく過ぎたということは最高の感謝ではないかとも言います。エレナ・ポーター 著「少女パレアナ」にこんなほほえましい話が記されています。パレアナは両親を亡くし、気難しい独身の叔母さんにひきとられ、冷たい態度をされます。けれどもパレアナは天(てん)真(しん)爛(らん)漫(まん)。お手伝いさんや老僕のおじいさんや近所の人たちとすぐに仲良くなるのです。パレアナは牧師であった父親から教わった「なんでも喜ぶ」遊びを、出会った人たちとやっては楽しむのです。するとその遊びは村中に広がっていったほどでした。まだ話は続きますが、「なんでも喜ぶ」遊びというのは、たとえばこうです。何もない屋根裏の部屋を与えられ、ガックリしていたパレアナが、「鏡のないのもうれしいわ。鏡がなければ、ソバカスも見えませんものね」と発想するのです。
この少女のように幼心を持ちたいものです。素直になって福音による遊び心を持ち、「いつでも喜ぶ=絶えず祈る=何でも感謝する」信仰遊びをしてみませんか。天を楽しむと楽天的になります。その信仰による楽天家たちは、そのような終末の時代に生きる人として、再臨をのみ見つめながら歩くのです。のぼってゆく人生・歴史という坂の上に、主がいます天にまことに一朶(いちだ)の白い雲がかがやいていますので、それのみをみつめて坂をのぼってゆくです。