オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

すべての事について感謝

2012-12-30 00:00:00 | 礼拝説教
2012年12月30日 主日礼拝(1テサロニケ5:16-18)岡田邦夫

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」1テサロニケ5:16-18

 空に浮かぶ雲を見て、あなたは何か思うところがありますか。司(し)馬(ば)遼(りよう)太(た)郎(ろう)の長編歴史小説「坂の上の雲」のあとがきに、明治の人たちのことをこう述べています。「楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながら歩く。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」。題そのものが不思議と印象に残る文学的表現です。

◇雲の中の話
 聖書にもしばしば「雲」は神の啓示や神の臨在と関係して出てきて、重要な役割をもっています。特にイエス・キリストが高い山に三人の弟子を連れて行った時がそうでした。御姿が真っ白に変わり、モーセとエリヤが現れて、「そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、『これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした」のです(マルコ9:7)。また、ご自身の再臨をこう予告されました。「そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです」(同13:26、14:26)。イエス・キリストが昇天された光景も雲に包まれており、同じ有様でまた来ると約束されました(使徒1:9-11)。
 そして、そのイエス・キリストの再臨の時のことです。キリストにある死者がまずよみがえり、「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(1テサロニケ4:17)。年末はこのような終末を思う時かも知れません。しかし、再臨が近いという終末意識が過剰になりますと、健全な日常生活から脱線していく危険性があります。そのような心配があったのがテサロニケの教会の人たちでした。そこでパウロが健全な信仰生活を送るようにと手紙を書きました。

◇雲の下の話
 「人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。…あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」と勧めます(5:3ー11)。そして、再臨の主にお会いするためには、何よりも主が望んでおられる信仰の生き方をするようにと勧めています(1テサロニケ5:16ー18)。
 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
この箇所をある方は「『燦(さん)然(ぜん)たるダイヤモンドの一(いち)連(れん)』の如(ごと)き勧戒(かんかい)」とタイトルをつけています。ジョン・ウェスレーはこう注解しています。「罪から救われて、キリストの愛にあって歓喜することこそ福音の本来意図するところなのです。真の祈りは感謝と不可分です。真の祈りには必ず感謝が含まれています。常に祈る人は常に賛美しています。安楽の中にいようと苦痛の中にいようと、ものごとがうまく行こうと最大の逆境にあろうとつねに賛美しています。彼は起こってくるすべてのことを神に感謝し、それを神から来たものとみなし、それをただ神のために喜び受けるのです。そしてどんなことでも、それが神の完全なみこころに一致するか否かのみを考えて、選び取るか拒否するか、好むか嫌うかをきめるのです」。

◇非常時でも
 ホーリネスの指導者であった米田豊先生は私が聖書学院に入学した時、82才でしたが、教(きよう)鞭(べん)をとられていました。米田師は8人のお子さんが与えられたのですが、そのうち6人の方を亡くされ、また、戦時中のホーリネスの弾圧で獄中におられた時に痛風だった奥様を亡くされました。その苦難のために「昭和のヨブ」と呼ばれました。しかし、獄中にあって、この聖句の漢文「常時喜悦、不断祈祷、万事感謝」を言い続けたと言います。修養生(学生)だった私はどうしてこの先生はそうできたのかと考えました。家族を亡くすことで、ひとり子を犠牲にされた父なる神の痛みの愛を他の誰よりも知られたからではないだろうか、また、再臨が来て「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。」という人たちに加えられると確信しておられたからだと、想像していました。

◇日常でも
 また、何事もなく過ぎたということは最高の感謝ではないかとも言います。エレナ・ポーター 著「少女パレアナ」にこんなほほえましい話が記されています。パレアナは両親を亡くし、気難しい独身の叔母さんにひきとられ、冷たい態度をされます。けれどもパレアナは天(てん)真(しん)爛(らん)漫(まん)。お手伝いさんや老僕のおじいさんや近所の人たちとすぐに仲良くなるのです。パレアナは牧師であった父親から教わった「なんでも喜ぶ」遊びを、出会った人たちとやっては楽しむのです。するとその遊びは村中に広がっていったほどでした。まだ話は続きますが、「なんでも喜ぶ」遊びというのは、たとえばこうです。何もない屋根裏の部屋を与えられ、ガックリしていたパレアナが、「鏡のないのもうれしいわ。鏡がなければ、ソバカスも見えませんものね」と発想するのです。
 この少女のように幼心を持ちたいものです。素直になって福音による遊び心を持ち、「いつでも喜ぶ=絶えず祈る=何でも感謝する」信仰遊びをしてみませんか。天を楽しむと楽天的になります。その信仰による楽天家たちは、そのような終末の時代に生きる人として、再臨をのみ見つめながら歩くのです。のぼってゆく人生・歴史という坂の上に、主がいます天にまことに一朶(いちだ)の白い雲がかがやいていますので、それのみをみつめて坂をのぼってゆくです。

この方こそ主キリスト

2012-12-23 00:00:00 | 礼拝説教
2012年12月23日 主日礼拝(ルカ2:8-14)岡田邦夫


 「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」ルカ福音書2:11

 クリスマスにはクリスマスキャロル、靴屋のマルチン、賢者の贈り物など…美しい物語が多くあります。アメリカの昔話「クリスマスの鐘」は心温まるお話しです。要約しますとこうです。昔、ある田舎町に立派な鐘をつるした高い高い塔のある教会がありました。その鐘には神さまに素敵な贈り物をすれば、クリスマスの夜にだけ鳴ると言う不思議な言い伝えがありました。今年こそ、あの鐘の鳴る音が聞けるのだろうかと期待しますが、鐘の鳴る音を聞いた人は、もう何年もいなかったのです。
 町はずれの小さな村のペドロと言う男の子とその弟がコインを一枚をもって教会に向かいました。ところが町の入口で一人の女の人が倒れているのを見つけます。このままでは死んでしまうかも知れない、ペドロは一枚のコインを、弟に手渡し「これは神様への大事な贈り物。僕はこの人を助けるから、一人で教会へ行っておいで」と言います。教会では誰もが、高価な贈り物をして、教会の鐘を鳴らそうとしたのですが、その鐘は鳴りませんでした。国王が金の冠と財宝を捧げたのですが、やはり鳴りません。人々があきらめて、帰りかけたその時、突然その音が鳴り響きました。言い伝え通り、それまで聞いたことのない美しい響きでした。贈り物の主(ぬし)を見るために、いっせいに振り返ると、そこにはコイン一枚を捧げたペデロの弟がおり、「女の人がたすかりますように」と祈っている姿を見たのです。

◇天使の歌声
 日本人がヨーロッパの鳴らなくなったオルガンを直したという有名な話があります。スペインの西部のサラマンカにあるユネスコの世界文化遺産とされている地区があります。そこに12世紀以来何度も手が加わえられたサラマンカ大聖堂がそびえ立っています。そこには「天使の歌声」と呼ばれる世界最古のルネサンス様式オルガン(16世紀)があります。ところがこれが直せる職人がいないため、壊れて200年以上使われていませんでした。そこに日本人クリスチャンのパイプオルガン建造家(奏者)辻宏さんが訪れた時に、これを修復したいという願いが起こされます。ふらっと立ち寄った日本人に街の誇りである文化遺産を触らせたくないというのがスペイン人の気持ちです。そこで、彼は「時が来て、神が(自分を)用いられるようになること」を待ち望み、14年通い続け、1988年にスペインからオルガン修復を委託するという正式な返答が届きました。ただし、修復費用は日本持ちというのですが、相当の額の寄付を集め、修復にかかります。200年分のほこりをのぞき、くぎ一本も古いものを使い(改造ではなく、修復だから)、1032本ものパイプをていねいに修復しました。8ヵ月後の1990年3月25日作業は終了、オルガンの奉献式が行われました。このオルガンこそ、その音色を聞きたいという辻宏さんの願いはかない、ルネッサンスの美しい音色が復活したのです。(この12/20、NHK「検索deゴー!」の「とっておき世界遺産ニッポン発見」でも放映。彼は2005年召天)
 さらに、驚くべきことが2000年前にありました。本物の天使の歌声が響き渡ったのです。ユダヤのベツレヘムで、「羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので」す。そして、天の知らせを告げると、「その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』そして、御使いたちが彼らを離れて天に帰っていったのです(2:8-9、13-14)。この最高に素晴らしいコンサートに招かれたのは当時、下層階級で、蔑視されていた羊飼いたちでした。いわゆる小さい者たちでした。それは御心にかなうことでした。

◇キリスト者の歌声
 そして、聖書によれば、ヨセフとマリヤ以外で、神の御子の誕生の知らせを聞いたのはこの小さい者たちだけでした。その知らせは歴史上、最大のグッド・ニュ-スでした。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」(2:10ー12)。
 世の中は「大きいことは良いこと」だというのが風潮です。わたしたちは世界一が好きです。今年は世界一の電波塔、634mの東京スカイツリーが完成し話題になっています。また、iPS細胞の研究で京都大学の山中伸弥教授がノーベル生理学・医学賞を受賞したこともビッグなニュースでした。しかし、イエスは「小さいことは良いこと」とお考えのようです。ベツレヘムはパンの家という意味で、ごく小さな村です。人類の救い主は人が寝かせられるような所ではない家畜の「飼い葉おけに」布にくるまって寝ておられるみどりだというのです。それが救い主のしるしだというのですから、逆説です。小さい者となって誕生されたのです。そして、主イエスは漁師や収税人のような小さい者たちを選び、弟子たちとしました。寄ってくる子どもたちを愛し、天国はこのようなものの国であると言われ祝福しました。当時、重い皮膚病の人など、社会から蔑視されていた小さい人たちを愛し、癒され、神の国のしるしを見せました。ご自身も金持ちになるのでもなく、立派な家に住むのでもなく、優れた書物を残すのでもなく、寝食を忘れて、小さい者たちと共に生き、癒し、救われました。ついにユダヤの権力者、宗教家、貴族、金持ちたちが寄ってたかって、このイエス・キリストをむち打ち、十字架にかけて、虫けらのように殺してしまいました。しかし、虫けらのように小さくされることをイエスは受けたのですし、それが神の御心でした。人類を罪から救うために、御子が犠牲になることが絶対条件でした。わたしたちは神のように大きくなろうという傲慢な罪があります。その罪を贖うために、御子が身代わりに裁かれて、小さくなってもみ消されることを通して、わたしたちを救おうとされたのです。そして、悔い改めて、イエス・キリストを受け入れる者たちが救われるのです。

 先ほどのオルガンの話では改造ではなく、修復だと言っていました。イエス・キリストはわたしたちを救うというのは改造ではなく、修復なのです。人は本来、神を賛美するために造られた楽器のようなものです。神から離れていては、壊れたオルガンのように、見た目はきれいで、立派でも、鳴らなければ意味がありません。イエス・キリストはあなたが本来もっている音色を響かせるために、修復士として来られ、あなたにあわせて、ていねいに徹底的に神のかたちを回復してくださるのです。
 イエス・キリストは小さい楽器がお好きです。小さくなって、謙虚になって、神の修復のみ手に人生を委ねましょう。小さいことにも忠実に従いましょう。そうすると、あなたの最も良い音色が響くことでしょう。それは他の人とも共鳴して、天使にまさる賛美となるでしょう。このクリスマス、飼い葉桶の小さなみどりごを思い巡らし、賛美しましょう。

インマヌエル

2012-12-16 00:00:00 | 礼拝説教
2012年12月16日 主日礼拝(マタイ1:18-25)岡田邦夫


 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)マタイ1:23

 クリスマス・イブのわが家では、兄が会社の帰り、デコレーション・ケーキを買ってきて、夕食の後、家族5人で切り分けて、誰もクリスチャンはいなかったのですが、「メリー・クリスマス」と声をあわせてから食べたものでした。何かほのぼのとしたものがありました。日本が高度経済成長の始まった昭和30年頃の話です。欧米ではクリスマスにデコレーション・ケーキを食べる習慣はなく、日本のある洋菓子メーカーが売上増進のために仕掛けた新しい風習だそうです。それはさておき、クリスマスには良き家族的な「暖かさ」を思わせられる雰囲気があるようです。キアラ・ルービック(フォコラーレ運動の創始者)がこう言っています。「クリスマスはわたしたちの中に、家族の暖かさへの憧(あこが)れを呼び起こす。他のどの日よりも強くわたしは感じる、わたしたちはみな一つであり、兄弟であるといことを。喜びも悲しみもお互いに分かち合う兄弟、姉妹の間柄であるということを」。
 また、クリスマスのイメージにはきよしこの夜の賛美歌にあるように「清らかさ」があります。フリードリッヒ・ボーデルシュヴィング(ナチの優生学的政策に対し障害者を守った人物)がこう言っています。「聖なる夜の奇跡はこれである。無力な幼子が、わたしたちみんなの救い主となったこと。真っ暗な地上に、明るい太陽が現れたこと。悲しんでいる人々が、心から喜ぶことができること。これがクリスマスの奇跡である。幼子はわたしたちの人生をみ手に引き受け、それを離されるとは決してない」と。この聖なる夜の奇跡について、大工のヨセフに御告げがありました。たいへん清らかな光景が聖書に記されています。

◇御子降誕
 「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、「神は私たちとともにおられる」、という意味である。)ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた」(マタイ1:18-25)。
 神の子が幼子として生まれてこられ、「神は私たちとともにおられる」インマヌエルとなられたのです。共にいるということは易しいことではありません。夫婦でしたら、お互いに相手を理解し、相手に自分を合わせなければうまくいかないでしょう。他の人間関係においても長く「共に」生きようとすれば、相手に自分を合わせる必要があります。もし、相手が自分と違いすぎる場合は共にいることはとても困難で、不可能かも知れません。聖なる神と俗なる人間、罪ある人間とは違いすぎて、共にあることはほとんどありえないことです。
 神にはできないことがある。自分を変えること、死ぬことだとある哲学者は言っています。しかし、神は人をとことん愛し、救おうとされ、ご自分を人にあわせ変えられたのです。全能の神が弱い人間と共に生きるために、主は弱い人間になられて生まれてきたのです。人が罪人のままでは神と共存できませんから、神の方から罪人の罪を赦して、清らかな間柄となって共にあることができるように、神の御子が人となり、十字架において身代わりの死をとげられて、復活され、天に帰られたのです。わたしたちは背く罪深い人間です。それにもかかわらず、神はあふれる愛をもって、仕えられるべき方が仕える者になられたのです。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」(ピリピ2:6-8)。
 わたしたちも神の前に自分を変えるのです。神への不信仰や人への罪を悔い改めて、イエス・キリストを受け入れ、十字架の贖いを信じて、神と共なる生き方をしようと自分を変えるのです。

◇処女降誕
 人の罪を赦すためには罪のないきよらかないけにえでなければなりませんでした。イエス・キリストは何の罪もない方として生まれてくる必要がありました。神がとられた方法は絶妙でした。聖霊による処女降誕でした。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』の預言の成就でした(イザヤ7:14)。事実、「主は聖霊によってやどり、おとめマリヤより生まれ」たのです(使徒信条)。処女降誕は信じられないという人がいます。確かに信じがたい奇跡です。創造の秩序からすれば、創造者にとってもあってはならないことです。わたしたち罪人を救い、神が人と共にあり、人が神と共にあるという新しい世界を造るために、インマヌエルとなるために、神は創造の秩序を変えられたのです。ご自身の誉れである創造の秩序を一度だけ変えて処女降誕という聖霊の業をなされたのは「万軍の熱心がこれを成し遂げる」ことだったのです(イザヤ9:7)。
 主は人生の旅路にインマヌエルです。「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、…あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(創28:15)。主は人生の戦いにインマヌエルです。「馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、あなたとともにおられる」(申20:1)。主は試練の時にインマヌエルです。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ」(イザヤ43:1-3)。
 主はわたしたちが死の恐れに見舞われた時にインマヌエルです。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」(詩23:4)。世があらたまって新しい天と新しい地が造られる時、そこはインマヌエルなのです。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」(黙21:4)。

 インマヌエル。神と共にある人生はどれほど神の愛の暖かさに包まれているでしょうか。インマヌエル。神と共にある人生はどれほど神の愛の清らかさに包まれているでしょうか。クリスマス、「主は聖霊によってやどり、おとめマリヤより生まれ」に始まり、永遠に続くインマヌエルの恵みに浴しましょう。


いと高き方の子

2012-12-09 00:00:00 | 礼拝説教
2012年12月9日 主日礼拝(ルカ1:26-38)岡田邦夫


 「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」ルカ福音書1:31

 教会はお隣から畑を借りています。牧師は三田に来るまではほとんど畑仕事をしたことがないので、地主さんがやり方も秘訣も何でも教えてくれます。ところが、教会員が牧師を先生と呼ぶので、地主さんも牧師にこう言うのです。「先生、これはこうしたほうがいい」。畑に関しては地主さんが先生のはずですが…。一般にその道に秀でた人を、発明王とか、野球の神さまとか、神の手を持つ人とか呼んで賛辞します。ところが、イエス・キリストの場合、生まれてくる前から、どう呼ばれるかということが預言されていたのです。
 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」(イザヤ9:6)。
 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる(訳すと、神は私たちと共におられる、という意味である。)」(マタイ1:23)。

◇偉大な人
 ルカ1:31ー32にもあります。「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者(「偉大な人」新共同訳)となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります」。
 イエスは生まれてくる前から、まだ何もわからない時に、「偉大な人」となると告知されたのです。その告知を受けるマリヤにとってはとても受けとめがたい事柄です。ヨセフとはいいなずけであり、彼は正しい人で、二人は結婚前のきよい関係を保っていましたのに、もし妊娠をしたと世間に知られれば、ユダヤの社会では重い罪を犯したと見なされる事態です。
 しかし、ほんとうは素晴らしい事態なのでした。聖書には神から御使いガブリエルが遣わされて、ガリラヤのナザレという町の処女マリヤに告知をしたことが記されています。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」(1:28、1:30-31)。処女なのにそれはありえないと戸惑うマリヤにこう告げられるのでした。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。…神にとって不可能なことは一つもありません」(1:35、37)。彼女は普通のおとめでした。聖書では後には「イエスの母マリヤ」と記されているだけで、称賛されたり、特別扱いをされたりしていません。謙虚で、素直で、御言葉に親しんでいたことは確かですが、普通の人でした。しかし、神が臨んだのです。その恵みのメッセージに、マリヤは抗しがたいほど圧倒されたのです。聖霊に促されて、信じ受けとめたのです。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と(1:38)。私たちはこのマリヤの信仰にならいたいと思います。
 ここで重要なのは告知の内容です。受胎される神の子、救い主・イエスという方がどう呼ばれるようになるのかを預言していることです。「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者(「偉大な人」新共同訳)となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります」(1:32)。
 世界の偉人物語というのは小中学生に読んでほしい本です。その中にはキリストも偉人の一人として出てきます。イエス・キリストは世界で最も影響を与えた偉大な人物です。福音書によると救い主の先駆者、洗礼者(バプテスマの)ヨハネも「 彼は主の御前に偉大な人になる」と預言された人物で(ルカ1:15)、イエスから「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と評された預言者でした(マタイ11:11共)。しかし、そのヨハネが「わたしの後から来る方(救い主(キリスト))は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない(低い奴隷以下です)。」とイエスを紹介したのです(マタイ3:11)。ヨハネの偉大さは「荒野で叫ぶ声」でした。声は人に伝わりますが、消えていくものです。最小限の質素な生活で、救い主の到来のために道備えをするという使命に徹し、ついにヘロデ大王に首を切られて殉教していきました。そのことがあってから、イエスの活動が始まるのです。ヨハネの偉大さは「自己犠牲」にありました。その彼が足もとに及ばないのはイエスの受難であり、自己犠牲でした。彼をはるかに越えた、人類史上、最も偉大なものでした。この「偉大な」はギリシャ語でメーガスです。その語からきたのが、英語のメガポリス=巨大都市、メガトン=100万トンの「メガ」です。主イエスの十字架における犠牲の愛はメガトン級の、いえ、それをはるかに越えたもので、全世界、全歴史の人々、私たちのすべてを救えるところの偉大なアガペーの愛なのです。

◇ナザレの人
 ヨセフとマリヤとイエスはヘロデ王の殺害の手から、エジプトに一時避難し、やがて、ガリラヤ地方に帰り、ナザレという町に行って住みます。マタイ2:23 には「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」と記されています。実際、「ナザレのイエス」と呼ばれるようになったのです。旧約聖書にはこのような預言の言葉は出てきませんが、たぶん、預言の意味だけを記したと思われます(教父ヒエロニムスの説明)。ナザレは新芽という意味なので、救い主はダビデの子孫から生まれるという預言、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」の実現ととれます(イアザヤ11:1)。また、寒村なので「ナザレから何の良いものが出るだろう。」(ヨハネ1:46)と言われているところから、救い主が私たちの救いのために「さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」という受難の預言を指しているともとれます(イザヤ53:3)。
極限に「さげすまれた」のは十字架にかけられた時です。そのさげすみによって、私たちは癒されたのです。本来、どんなにさげすまれてもおかしくない私たち罪人を罪と滅びの中から救い、神との関係、本来的な癒しをもたらすために、主は十字架でさらし者にされ、さげすまれたのです。これほど、偉大な愛はないでしょう。

◇いと高き方の子
 ところで、イエスはそうなる運命だったのでしょうか。運命というのは何かそれをあやつる何ものかがあるということです。しかし、イエス・キリストは決して、あやつられていたのではありません。皇帝アウグストの人口調査の命令で、やむなくベツレヘムに行ったのではなく、ダビデの町で生まれるためでした。ヘロデ王に殺されそうになったので、やむなくエジプトに逃げたのではありません。かつてエジプトの奴隷から解放させたモーセにまさる、罪の奴隷から解放する救い主として、象徴的にエジプトに下ったのです。ユダヤ人の陰謀により、総督ピラトの前でやむなく十字架刑に処せられ、殉教したのではありません。人類救済のための贖いとなるために、自らすすんで犠牲のいけにえとなられたのです。
 そこには気高い意志をもって、救いの業がなされていったのです。ですから、「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります」とマリヤに告げられたのです(1:32)。神々(実際にはいないのであるが)の最高位におられる神、「いと高き方」の子なのです。いと高き神は「天と地を造られた方」です(創世記14:19)。神の救いの歴史が実現する時、「いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え」ます(ダニエル4:17)。そして、そのために「いと高き神が自分たちを贖う方」となられたのです(詩篇78:35)。救い主誕生のことは野宿している羊飼いたちに知らされ、天の軍勢の賛美がありました。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」(ルカ2:14)。クリスマスは、救い主イエスにおいて、いと高き天と地がつながった瞬間でした。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」とイエス・キリストをお迎えした地に属するあなたは、いと高き天とつながって、天に属する者となったのです。

光が我らを訪れ

2012-12-02 00:00:00 | 礼拝説教
2012年12月2日 主日礼拝(イザヤ書9:1-7)岡田邦夫


「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」ルカ福音書1:78-79(新共同訳)

 アメリカでは毎年クリスマスの日に必ずテレビ放送されるクリスマス映画の定番の一つが1946年制作の「素晴らしき哉(かな)、人生!」(It's a Wonderful Life)です。アメリカ人から最も愛されている映画ともいえましょう。自分の夢を追いながらも父親の急死にともない家業を継ぐこととなったジョージ・ベイリーが主人公です。彼は田舎の小さな町で低所得者のための住宅金融会社を継いで経営に尽力を注いでいきます。町一番の富豪である銀行家ポッターの圧力に負けず、真面目に働いて、家庭にも恵まれて、事業も好転しつつありました。その様な時に会社の大金が紛失する大事件が起こってしまいます。絶望した彼が橋から身を投げて自殺を図ろうとしたその時に、翼を得るために、翼のない二級天使が彼を助けます。見た目は普通の老人です。「自分は生まれてこなければ良かった」と言う彼のため、天使は特別に彼が生まれて来なかった場合の世の中を見せます(幻想)。それによって彼はこれまでいかに素晴らしい人生を送ってきたかを理解し、「メリー・クリスマス!」と歓び叫びながら走って帰ります。すると、奇蹟が起こります。彼の窮地を知った町じゅうの人々がカンパしに来てくれて助けられるのです。家族や町の人々の温かさに、改めて人生の幸福をかみしめた主人公でした。この映画で自殺しようとした彼に天使が言った言葉はこうでした。「君は実に素晴らしい人生を送った(You see, George, you really have had a "Wonderful Life.")。捨てるのは間違いだと思わんかい?」。

◇生まれてこなければ
 「彼がふと漏らしたのが、『自分は生まれてこなければ良かった』という言葉だった。この台詞(せりふ)は旧約聖書のヨブ記を連想させる(3:3、11)。ヨブも正直で善良な男だったが、築き上げた財産をすべて失い、愛する家族を奪われ、自らもまた重い病気に苦しめられる中で、『わたしの生まれた日は消えうせよ。…わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。』と語る」。ヨブのことも他にも天使など聖書の世界が隠されていると映画評論家が雑誌・ミニストリーで語っています(服部弘一郎)。
 人は試練にあう時に「自分は生まれてこなければ良かった」と嘆くかも知れません。ヨブのように、神のワンダフルな創造に思いをはせ、神のアメイジングな摂理に心をよせる時に、試練を乗り越えていくことでしょう。しかし、考えさせられる深刻な現実もあります(ローマ3:10-18)。「義人はいない。ひとりもいない。」「善を行なう人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」人ははなはだ良く造られたものですが、上記のように、アダム以来、人は神に背き、罪に罪を重ね、はなもちならない存在となってしまっています。その意味で、「生まれてこなければ良かった」存在なのです。イエスの弟子でありながら、師を裏切ったイスカリオテのユダに対して、主は「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」と嘆いておられます(マタイ26:24)。

◇生まれてきてこそ
 しかし、「生まれてこなければ良かった」という人生を、「生まれてきて良かった」という人生に変えようと、イエス・キリストが天から遣わされてきたのです。イザヤの預言のようにみどりごとして、人の子として生まれてきてくださったのです。イザヤ書の過去預言(未来のことを確実に起こると確信し過去形で預言する)を見てみましょう(9:2、6-7新共同訳)。
 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。… ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」
 クリスマス、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」のです。私たちの生まれて、死ぬまでの、罪の闇の中にある、その人生のすべてを書き換えるために、主はひとりのみどりごとして、ひとりの男の子として、まことに生まれてきて、やがて、十字架にかかり、まことに死んでゆかれ、復活し、天に帰って行かれたのです。私たち「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」のです。ルカ福音書によれば、「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」のです。神への背きの罪を悔い改めて、十字架の贖いを信じた者の人生の、生まれて死ぬまでの、一場一場のすべての場面に、それが過ぎ去ったものであれ、これからのものであれ、イエス・キリストという「光」が訪れ、闇を光に、罪を赦しに、「生まれてこなければ良かった」を「生まれてきて良かった」に書き換え、描き変えてくださったのです。また、書き換え、描き変えてくださるのです。それは神の憐れみの心によるのであり、それは徹底しています。「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」のです。

 このみどりごとして降誕され、十字架の贖いをなし遂げられたお方は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられるのです。「驚くべき指導者」は霊妙(れいみよう)なる議(ぎ)士(し)とも不思議な助言者とも訳され、英語ですとワンダフル・カウンセラー(Wonderful Counselor)と訳されています。イエス・キリストのご人格も、そのご生涯も、実に素晴らしいもの、ワンダフルでした。そして、私たちの人生に光として訪れて、神の前で、天使たちの前で私たちの人生を素晴らしいものにしてくださったのであり、くださるのです。そして、聖霊が私の霊にこう言わさせてださるに違いありません。
 「キリストにありて、素晴らしき哉(かな)、人生!」
 “It’s a Wonderful Life in Christ!”