2012年2月26日 伝道礼拝(マタイ20:1-16)岡田邦夫
自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。(マタイ20:14)
みなさんは何に、あるいは誰に憧れていますか。人それぞれだと思います。時代の影響だったでしょうか、私の若い頃は、何となく西洋に憧れました。洋画を見に行ったり、印象派の絵画展に行ったり、背伸びして、西洋文学の本を読みかじったり、クラシックのレコードを聞きかじったり…、かじっているだけですから、特に身につくものはなかったようです。そんな青春だったのですが、その西洋の文化がキリスト教と深く結びついていることだけは感じました。その一つがロマン・ロランのジャン・クリストフという小説。その中に「魂」という言葉です。英語ではソウルで、日本語では日常あまり使わない言葉です。聖書に出てくる、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」の命は英語だとソウル・魂と訳されています(マタイ16:26 )。
小学生の時に誘われて、同級生の家に行ったことを覚えています。たくさん子供が集まっていて、どたばたと何か楽しいことをして、あと何があったかは忘れましたが、帰り際に小さな本とカードをもらったことだけは不思議と覚えています。その小冊子は上下二段になっていて、びっしり文字で埋められていたので、今思うと、聖書の分冊だったと思います。また、カードも普段見ないようなきれいな絵のあるものでしたから、みことばカードだったのだろうと思います。なぜ、覚えているかというと、何かよく判らないが良い意味の不思議な世界があるのではと子供心に感じたからだと思います。そして、これまたよくわからないのですが、ソウル・魂という言葉を通して、内的世界というようなものが広がっているように感じたことと、どこか共通しているような気がします。
そうして、駅前でキリスト教の集会案内をもらったことがきっかけで教会に行きました。明治からの路線、「和魂洋才」のせいでしょうか、西洋風のものには憧れたり、取り入れたりすることがあっても、なかなか、洋魂を求めることは少ないです。しかし、私にとっては教会に行ったことで、魂のことを求めるようになったことは幸いでした。ただ、日本人の精神性や文化の良さを否定しているわけではなく、私の魂の問題なのです。
今日の聖書の箇所からいうと、私が憧れ、求めていたのは「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。」という「御国」という世界でした。
◇人生としての五時
早朝の人には一日一デナリの約束、九時ごろと十二時ごろと三時ごろには相当のものと約束してぶどう園で労働。五時ごろの人には『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』と聞くと『だれも雇ってくれないからです。』と言うので、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』と言って雇います。夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言います。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい』。その通りにすると、文句がでます。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです』。主人は答えます。
『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか』。
天の御国、神の国はイエス・キリストが来られて、やってきた神の恵みの支配のある所です。「あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」という逆説のように見える世界です。私は何時ごろに来た者かはわかりませんが、とにかく、主人である神にぶどう園という見えない神の国に招かれたのです。私の母は65才で洗礼を受けました。子供のころ、長野県の善光寺の境内で、子どもたちを集めて何やらやっているの顔を出したそうです。先生らしき女性が太陽や草木を造られた方は誰でしょうと聞かれたので、母は「神さま」と答えて、誉められたことを覚えていると言っていました。その後、姉とカトリック教会に行ったとのことでした。また、結婚して最初の子を4才で亡くした時に、お経の本と共に新約聖書も読んだことがあると言っておりましたが、教会に行くことはありませんでした。時代の影響か、無神論者になっていました。私の姉が教会に行ったところ、猛烈に反対した程でした。しかし、私が誘った時には不思議と教会に行ったのです。不思議な程、素直に神を信じたのが65才。自分で言っていました。私は5時に雇われた労務者のようだ、ただただ、神の憐れみによって、御国に入れていただき、救われたのだと。
◇魂としての五時
このたとえはそう時間的な感じで受けとめても良いでしょうが、人は様々な形で、神の国に招かれていることを示しています。パウロという人はイエス・キリストの生前の十二使徒とは違い、死後、復活されたイエス・キリストに出会い、使徒となった人です。ですから、自分は神の恵みによって月足らずに生まれた者だと言っています。その意味では5時からの人でしょう。しかし、異邦人伝道に関しては誰よりも働いた人です。晩年、走るべき工程を走りつくし、今や、イエス・キリストに与えられる義の冠が待っていると言って、確信していました。さらに、すべてのクリスチャンにもその冠が授けれれるとも言っています。このたとえで言うなら、デナリです。
人は自分の功績で救われるのではなく、神の憐れみによって救われるのだということです。人それぞれ違うけれど、神は惜しみなく、気前よく、恵みをくださるのです。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32)。ぶどう園という神の国において、主人である神が、これ以上ない、最も大切なもの、大切なお方、大切な御子を憐れみによって、私たちに下さるのです。それは消え去るものではなく、永遠の命です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16新共同訳)。
直接的にはこのたとえで、九時に雇われ働いていて、文句を言った人たちはユダヤ人をさし、五時に雇われ、わずかしか働かないのに同じデナリをもらった人たちは異邦人をさしています。そして、何よりもイエス・キリストがおっしゃりたいことは、神の憐れみ深さ、気前よさ、恵みの大きさを言っているのです。
第二次世界大戦の末期、東京大空襲でわが家も跡形もなく、焼失したので、終戦後はやむなく、長屋に住んでおりました。家族がとにかく働いて、少し郊外に家を建てまして、引っ越ししたのは私が小学校6年生の時でした。隣の姉妹と近くの川で魚とりをして帰ってきて、縁側に腰掛けて休んでいました。その姉妹が泥だらけの玉網を振り回して、それが戸袋に当たって泥がついてしまいました。新築の家、私がムッとして、やめろよと言ったのが面白かったのか、何度もやっては笑い転げる始末。頭に血が上って、そのお姉ちゃんの方の後ろに回って、思い切り首を絞めたのです。「くんちゃんがお姉ちゃんの首締めてる!」と妹が叫んだので、我に返って、手を離したということがありました。憎いと思ったら、人を殺しかねない罪を心に持った人間だ、自分は神の前に罪人だと思わされたのは、教会に行くようになってからです。
こんな人間のこの魂が救われるだろうか、このたとえの労務者のように「だれも雇ってくれないからです」と救い手を求めている状態でした。ある伝道会で、聖書を何度も読んで、キリスト教を研究しても、判らないでしょう。しかし、イエス・キリストを信じたら判るのです。あなたは今信じますか?と伝道者に、言い換えれば背後の神に招かれたのです。たとえの主人が「あなたがたもぶどう園に行きなさい」と招いたのと同じです。一時間しか働いていないのに一デナリを憐れみで与えられたように、私も神の前に犯した罪を悔い改めて、その罪のためにイエス・キリストが十字架で身代わりに裁かれてくださって、私の罪は赦され、神の子にされたとただ信じるだけで、魂が救われました。五時から男への一デナリは過分な贈り物、私の魂にとっては永遠の命という超・過分な贈り物を神からいただいたのです。ぶどう園という魂の本来の居場所に導かれたのです。
このような者が魂のおるべきところに招き入れられたのですから、気前の良い神があなたも招き入れてくださり、永遠の命に導いてくださるに違いありません。
自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。(マタイ20:14)
みなさんは何に、あるいは誰に憧れていますか。人それぞれだと思います。時代の影響だったでしょうか、私の若い頃は、何となく西洋に憧れました。洋画を見に行ったり、印象派の絵画展に行ったり、背伸びして、西洋文学の本を読みかじったり、クラシックのレコードを聞きかじったり…、かじっているだけですから、特に身につくものはなかったようです。そんな青春だったのですが、その西洋の文化がキリスト教と深く結びついていることだけは感じました。その一つがロマン・ロランのジャン・クリストフという小説。その中に「魂」という言葉です。英語ではソウルで、日本語では日常あまり使わない言葉です。聖書に出てくる、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」の命は英語だとソウル・魂と訳されています(マタイ16:26 )。
小学生の時に誘われて、同級生の家に行ったことを覚えています。たくさん子供が集まっていて、どたばたと何か楽しいことをして、あと何があったかは忘れましたが、帰り際に小さな本とカードをもらったことだけは不思議と覚えています。その小冊子は上下二段になっていて、びっしり文字で埋められていたので、今思うと、聖書の分冊だったと思います。また、カードも普段見ないようなきれいな絵のあるものでしたから、みことばカードだったのだろうと思います。なぜ、覚えているかというと、何かよく判らないが良い意味の不思議な世界があるのではと子供心に感じたからだと思います。そして、これまたよくわからないのですが、ソウル・魂という言葉を通して、内的世界というようなものが広がっているように感じたことと、どこか共通しているような気がします。
そうして、駅前でキリスト教の集会案内をもらったことがきっかけで教会に行きました。明治からの路線、「和魂洋才」のせいでしょうか、西洋風のものには憧れたり、取り入れたりすることがあっても、なかなか、洋魂を求めることは少ないです。しかし、私にとっては教会に行ったことで、魂のことを求めるようになったことは幸いでした。ただ、日本人の精神性や文化の良さを否定しているわけではなく、私の魂の問題なのです。
今日の聖書の箇所からいうと、私が憧れ、求めていたのは「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。」という「御国」という世界でした。
◇人生としての五時
早朝の人には一日一デナリの約束、九時ごろと十二時ごろと三時ごろには相当のものと約束してぶどう園で労働。五時ごろの人には『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』と聞くと『だれも雇ってくれないからです。』と言うので、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』と言って雇います。夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言います。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい』。その通りにすると、文句がでます。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです』。主人は答えます。
『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか』。
天の御国、神の国はイエス・キリストが来られて、やってきた神の恵みの支配のある所です。「あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」という逆説のように見える世界です。私は何時ごろに来た者かはわかりませんが、とにかく、主人である神にぶどう園という見えない神の国に招かれたのです。私の母は65才で洗礼を受けました。子供のころ、長野県の善光寺の境内で、子どもたちを集めて何やらやっているの顔を出したそうです。先生らしき女性が太陽や草木を造られた方は誰でしょうと聞かれたので、母は「神さま」と答えて、誉められたことを覚えていると言っていました。その後、姉とカトリック教会に行ったとのことでした。また、結婚して最初の子を4才で亡くした時に、お経の本と共に新約聖書も読んだことがあると言っておりましたが、教会に行くことはありませんでした。時代の影響か、無神論者になっていました。私の姉が教会に行ったところ、猛烈に反対した程でした。しかし、私が誘った時には不思議と教会に行ったのです。不思議な程、素直に神を信じたのが65才。自分で言っていました。私は5時に雇われた労務者のようだ、ただただ、神の憐れみによって、御国に入れていただき、救われたのだと。
◇魂としての五時
このたとえはそう時間的な感じで受けとめても良いでしょうが、人は様々な形で、神の国に招かれていることを示しています。パウロという人はイエス・キリストの生前の十二使徒とは違い、死後、復活されたイエス・キリストに出会い、使徒となった人です。ですから、自分は神の恵みによって月足らずに生まれた者だと言っています。その意味では5時からの人でしょう。しかし、異邦人伝道に関しては誰よりも働いた人です。晩年、走るべき工程を走りつくし、今や、イエス・キリストに与えられる義の冠が待っていると言って、確信していました。さらに、すべてのクリスチャンにもその冠が授けれれるとも言っています。このたとえで言うなら、デナリです。
人は自分の功績で救われるのではなく、神の憐れみによって救われるのだということです。人それぞれ違うけれど、神は惜しみなく、気前よく、恵みをくださるのです。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32)。ぶどう園という神の国において、主人である神が、これ以上ない、最も大切なもの、大切なお方、大切な御子を憐れみによって、私たちに下さるのです。それは消え去るものではなく、永遠の命です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16新共同訳)。
直接的にはこのたとえで、九時に雇われ働いていて、文句を言った人たちはユダヤ人をさし、五時に雇われ、わずかしか働かないのに同じデナリをもらった人たちは異邦人をさしています。そして、何よりもイエス・キリストがおっしゃりたいことは、神の憐れみ深さ、気前よさ、恵みの大きさを言っているのです。
第二次世界大戦の末期、東京大空襲でわが家も跡形もなく、焼失したので、終戦後はやむなく、長屋に住んでおりました。家族がとにかく働いて、少し郊外に家を建てまして、引っ越ししたのは私が小学校6年生の時でした。隣の姉妹と近くの川で魚とりをして帰ってきて、縁側に腰掛けて休んでいました。その姉妹が泥だらけの玉網を振り回して、それが戸袋に当たって泥がついてしまいました。新築の家、私がムッとして、やめろよと言ったのが面白かったのか、何度もやっては笑い転げる始末。頭に血が上って、そのお姉ちゃんの方の後ろに回って、思い切り首を絞めたのです。「くんちゃんがお姉ちゃんの首締めてる!」と妹が叫んだので、我に返って、手を離したということがありました。憎いと思ったら、人を殺しかねない罪を心に持った人間だ、自分は神の前に罪人だと思わされたのは、教会に行くようになってからです。
こんな人間のこの魂が救われるだろうか、このたとえの労務者のように「だれも雇ってくれないからです」と救い手を求めている状態でした。ある伝道会で、聖書を何度も読んで、キリスト教を研究しても、判らないでしょう。しかし、イエス・キリストを信じたら判るのです。あなたは今信じますか?と伝道者に、言い換えれば背後の神に招かれたのです。たとえの主人が「あなたがたもぶどう園に行きなさい」と招いたのと同じです。一時間しか働いていないのに一デナリを憐れみで与えられたように、私も神の前に犯した罪を悔い改めて、その罪のためにイエス・キリストが十字架で身代わりに裁かれてくださって、私の罪は赦され、神の子にされたとただ信じるだけで、魂が救われました。五時から男への一デナリは過分な贈り物、私の魂にとっては永遠の命という超・過分な贈り物を神からいただいたのです。ぶどう園という魂の本来の居場所に導かれたのです。
このような者が魂のおるべきところに招き入れられたのですから、気前の良い神があなたも招き入れてくださり、永遠の命に導いてくださるに違いありません。