オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

五時から働いた人の話

2012-02-26 00:00:00 | 礼拝説教
2012年2月26日 伝道礼拝(マタイ20:1-16)岡田邦夫


 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。(マタイ20:14)

 みなさんは何に、あるいは誰に憧れていますか。人それぞれだと思います。時代の影響だったでしょうか、私の若い頃は、何となく西洋に憧れました。洋画を見に行ったり、印象派の絵画展に行ったり、背伸びして、西洋文学の本を読みかじったり、クラシックのレコードを聞きかじったり…、かじっているだけですから、特に身につくものはなかったようです。そんな青春だったのですが、その西洋の文化がキリスト教と深く結びついていることだけは感じました。その一つがロマン・ロランのジャン・クリストフという小説。その中に「魂」という言葉です。英語ではソウルで、日本語では日常あまり使わない言葉です。聖書に出てくる、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」の命は英語だとソウル・魂と訳されています(マタイ16:26 )。
 小学生の時に誘われて、同級生の家に行ったことを覚えています。たくさん子供が集まっていて、どたばたと何か楽しいことをして、あと何があったかは忘れましたが、帰り際に小さな本とカードをもらったことだけは不思議と覚えています。その小冊子は上下二段になっていて、びっしり文字で埋められていたので、今思うと、聖書の分冊だったと思います。また、カードも普段見ないようなきれいな絵のあるものでしたから、みことばカードだったのだろうと思います。なぜ、覚えているかというと、何かよく判らないが良い意味の不思議な世界があるのではと子供心に感じたからだと思います。そして、これまたよくわからないのですが、ソウル・魂という言葉を通して、内的世界というようなものが広がっているように感じたことと、どこか共通しているような気がします。
 そうして、駅前でキリスト教の集会案内をもらったことがきっかけで教会に行きました。明治からの路線、「和魂洋才」のせいでしょうか、西洋風のものには憧れたり、取り入れたりすることがあっても、なかなか、洋魂を求めることは少ないです。しかし、私にとっては教会に行ったことで、魂のことを求めるようになったことは幸いでした。ただ、日本人の精神性や文化の良さを否定しているわけではなく、私の魂の問題なのです。
 今日の聖書の箇所からいうと、私が憧れ、求めていたのは「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。」という「御国」という世界でした。

◇人生としての五時
 早朝の人には一日一デナリの約束、九時ごろと十二時ごろと三時ごろには相当のものと約束してぶどう園で労働。五時ごろの人には『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』と聞くと『だれも雇ってくれないからです。』と言うので、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』と言って雇います。夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言います。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい』。その通りにすると、文句がでます。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです』。主人は答えます。
 『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか』。
 天の御国、神の国はイエス・キリストが来られて、やってきた神の恵みの支配のある所です。「あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」という逆説のように見える世界です。私は何時ごろに来た者かはわかりませんが、とにかく、主人である神にぶどう園という見えない神の国に招かれたのです。私の母は65才で洗礼を受けました。子供のころ、長野県の善光寺の境内で、子どもたちを集めて何やらやっているの顔を出したそうです。先生らしき女性が太陽や草木を造られた方は誰でしょうと聞かれたので、母は「神さま」と答えて、誉められたことを覚えていると言っていました。その後、姉とカトリック教会に行ったとのことでした。また、結婚して最初の子を4才で亡くした時に、お経の本と共に新約聖書も読んだことがあると言っておりましたが、教会に行くことはありませんでした。時代の影響か、無神論者になっていました。私の姉が教会に行ったところ、猛烈に反対した程でした。しかし、私が誘った時には不思議と教会に行ったのです。不思議な程、素直に神を信じたのが65才。自分で言っていました。私は5時に雇われた労務者のようだ、ただただ、神の憐れみによって、御国に入れていただき、救われたのだと。

◇魂としての五時
 このたとえはそう時間的な感じで受けとめても良いでしょうが、人は様々な形で、神の国に招かれていることを示しています。パウロという人はイエス・キリストの生前の十二使徒とは違い、死後、復活されたイエス・キリストに出会い、使徒となった人です。ですから、自分は神の恵みによって月足らずに生まれた者だと言っています。その意味では5時からの人でしょう。しかし、異邦人伝道に関しては誰よりも働いた人です。晩年、走るべき工程を走りつくし、今や、イエス・キリストに与えられる義の冠が待っていると言って、確信していました。さらに、すべてのクリスチャンにもその冠が授けれれるとも言っています。このたとえで言うなら、デナリです。
 人は自分の功績で救われるのではなく、神の憐れみによって救われるのだということです。人それぞれ違うけれど、神は惜しみなく、気前よく、恵みをくださるのです。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32)。ぶどう園という神の国において、主人である神が、これ以上ない、最も大切なもの、大切なお方、大切な御子を憐れみによって、私たちに下さるのです。それは消え去るものではなく、永遠の命です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16新共同訳)。
 直接的にはこのたとえで、九時に雇われ働いていて、文句を言った人たちはユダヤ人をさし、五時に雇われ、わずかしか働かないのに同じデナリをもらった人たちは異邦人をさしています。そして、何よりもイエス・キリストがおっしゃりたいことは、神の憐れみ深さ、気前よさ、恵みの大きさを言っているのです。

 第二次世界大戦の末期、東京大空襲でわが家も跡形もなく、焼失したので、終戦後はやむなく、長屋に住んでおりました。家族がとにかく働いて、少し郊外に家を建てまして、引っ越ししたのは私が小学校6年生の時でした。隣の姉妹と近くの川で魚とりをして帰ってきて、縁側に腰掛けて休んでいました。その姉妹が泥だらけの玉網を振り回して、それが戸袋に当たって泥がついてしまいました。新築の家、私がムッとして、やめろよと言ったのが面白かったのか、何度もやっては笑い転げる始末。頭に血が上って、そのお姉ちゃんの方の後ろに回って、思い切り首を絞めたのです。「くんちゃんがお姉ちゃんの首締めてる!」と妹が叫んだので、我に返って、手を離したということがありました。憎いと思ったら、人を殺しかねない罪を心に持った人間だ、自分は神の前に罪人だと思わされたのは、教会に行くようになってからです。
 こんな人間のこの魂が救われるだろうか、このたとえの労務者のように「だれも雇ってくれないからです」と救い手を求めている状態でした。ある伝道会で、聖書を何度も読んで、キリスト教を研究しても、判らないでしょう。しかし、イエス・キリストを信じたら判るのです。あなたは今信じますか?と伝道者に、言い換えれば背後の神に招かれたのです。たとえの主人が「あなたがたもぶどう園に行きなさい」と招いたのと同じです。一時間しか働いていないのに一デナリを憐れみで与えられたように、私も神の前に犯した罪を悔い改めて、その罪のためにイエス・キリストが十字架で身代わりに裁かれてくださって、私の罪は赦され、神の子にされたとただ信じるだけで、魂が救われました。五時から男への一デナリは過分な贈り物、私の魂にとっては永遠の命という超・過分な贈り物を神からいただいたのです。ぶどう園という魂の本来の居場所に導かれたのです。
 このような者が魂のおるべきところに招き入れられたのですから、気前の良い神があなたも招き入れてくださり、永遠の命に導いてくださるに違いありません。

何回赦すか

2012-02-19 00:00:00 | 礼拝説教
2012年2月19日 主日礼拝(マタイ18:21-35)豊中泉教会にて・岡田邦夫


 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七回を七十倍までも赦しなさい。」(マタイ18:22新共同訳)

 私は豊中から三田に行って14年になります。三田というのは三田駅近辺の城下町だった市街地とそれを取り巻く山と農村があったところに、ニュータウンができて、人口増加率が一時全国一位だったという地域です。それで三田開拓に踏み切り、家庭集会から始め、1998年に築40年の農家を買い取り、現在に至っています。三田にはこのような歴史があります。織田、豊臣に仕えた九鬼水軍というのがありましたが、関ヶ原の戦い以降、徳川にはその力を警戒されて、九鬼家は海のない摂津三田に領土替えをさせられました。その後、徳川幕府が終わるまでその藩を変わることはありませんでした。そして、摂津三田藩の第13代で最後の大名となった「九鬼隆義」がデービスという宣教師に妻と共に導かれ、キリスト者となり、明治8年、九鬼家の大広間で兵庫県で三番目のプロテスタント教会摂津第三公会が開所しました。九鬼隆義は藩士だった白洲(しらす)退蔵とともに、神戸の屋敷を提供するなどして、神戸女学院の創設にも尽力を尽くした人です。
 その白洲退蔵の孫が白洲次郎で、2009年のNHKドラマスペシャルで放送されました。彼はケンブリッジ大学に入学し、帰国後、吉田茂と親交を深め、戦争回避のための政治活動にすすむのですが、戦争に突入したので、田舎に引きこもり、農業に汗を流します。敗戦と同時に彼は吉田茂に終戦連絡事務局次長に抜擢され、「従順ならざる唯一の日本人」と呼ばれるほど、GHQと英語で堂々と渡り合うなどして、戦後の日本復興に尽力しました。彼の墓も九鬼家の墓も三田市の心月院という寺にあります。ドラマでは彼の母、白洲芳子(よしこ)が教会で讃美歌461番を関西弁で歌うシーンが印象深かかったです。「イエスはん わてを好いたはる イエスはん 強いさかいに 浮世はいうたかて 怖いことあらへん わてのイエスはん わてのイエスはん わてのイエスはん わてについたはる アーメン」。この「主我を愛す」の曲が主題歌のように流れていましたのは、彼がよく口ずさんでいたからだと娘が証言していたからでしょう。
 彼が決して戦時中、田舎に逃避していたわけではなく、カントリージェントルマンとして、待機していたのです。英国で、いつもは地方に住んでいながら、中央の政治にも目を光らせていて、いざという時には直接中央に乗り出していって御意見番となる人たちをそう呼ぶのです。それを身をもって生きた人です。実にかっこいい人です。
 私も三田に引っ込んで田舎暮らしをしているのではなく、カントリージェントルマンなのだとかっこをつけたいところですが、人間の中身がないから、そうはいかないのが現実です。しかし、自然に囲まれた所にいますと、純粋に聖書の言う福音とは何かということが見えてくるような気がします。今日の聖書にある「赦し」こそ、福音の神髄だと思います。

◇七回を七十倍
 ペテロが「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか。」と聞くと、イエスは「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。」と答えられました(18:21-22)。ユダヤ教の教師は三度まで赦せと言っていますから、ペテロは七たびゆるせば完全だろうと思って、イエスに聞いたのでしょう。イエスの答は七たびを七十倍、限りなく赦しなさいと言われるのですから、ペテロはさぞ驚いたことでしょう。その様なことは人には不可能なことです。
 私自身のことですが、昨年のある日、ホームセンターに買い物に行き、レジでお金を払おうとしたした時でした。札はすっと出せたのですが、小銭入れが小さいものですから、なかなか出てこなくて、あせってしまう。余計指が引っかかって出せない。レジの男の子はアルバイトらしいが、貧乏ゆすりをしてるから、顔を見ると明らかに早くしろよと迷惑そうにしている。こっちは客なんだぜ、なんだその態度はと思いながらムッとした態度で、小銭を投げるよう出して、レシートをわしづかみにして、一目散に駐車場に向かいました。それから、「あいつは赦せない」とずっと腹が立ったまま、収まらなかったという情けない話です。
 もし、牧師という名札が胸につけてあったとしても、あるいは、以下の聖フランシスコの「平和の祈り」を祈っていたとしても、表面は取り繕えたとしても、きっと「ゆるせない」と思ったに違いありません。そのような些細なことでことでも、そうなるのですから、人が人をすっきりと赦すというのは難しいことなのです。
  わたしをあなたの平和の道具としてお使いください
  憎しみのあるところに愛を いさかいのあるところにゆるしを
  分裂のあるところに一致を 疑惑のあるところに信仰を
  誤っているところに真理を 絶望のあるところに希望を 闇に光を
  悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください
  慰められるよりは慰めることを 理解されるよりは理解することを
  愛されるよりは愛することをわたしが求めますように 
  わたしたちは与えるから受け ゆるすからゆるされ 
  自分を捨てて死に 永遠のいのちをいただくのですから

◇一万タラントと百デナリ
 イエスは続いて、「それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。」という決算のたとえ話をされます。
 「決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった」。一万タラントというのは一国の王の身代金にも匹敵する高額です。それが免除されたというのですから、常識では考えられないたいへんなことです。
 しかし、続きがあります。「その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた」。百デナリは百日分の給料くらいの額、相当な額、返してもらうのは当然だし、常識。赦せないものは赦せないわけです。
 それを知った主人は立腹して、「悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」と言って、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたしたと神の国のたとえ話を終えます。そして、主はこうメッセージします。「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」(18:35)。
 読者は僕をひどい人だと思うでしょうが、私たちは百デナリの人を赦せないように、人を赦せるものではないのが現実です。赦せないものは赦せないのです。正義感が強ければ強い程、赦せないものは赦せないのが心情です。しかし、神の国では赦せないものを赦せというのです。無理難題なのではないのか、神の国では恵みによって可能なのです。私たちは一万タラント免除された者なのです。主人である神の前に、とうてい返せない罪という負債があったのです。しかし、イエス・キリストが十字架において、命の代価を払われて、私たちは返せない無限大の負債を帳消しにしていただいたのです。悔い改めて、お願いして、イエス・キリストの贖いを信じて、ただただ、恵みによって、赦されているのです。神は義に満ちた方です。私たちの罪のひつつをも、小さなうそさえも、密かに憎む思いも、決して赦せないお方です。しかし、その赦せない者を赦すために、その怒り、裁きを御子イエス・キリストに負わせたのです。
 義なる神が赦せない罪人を赦すということは断腸の思いであったろうと、ある日本の神学者が言いました。断腸の思いとは父なる神が御子を犠牲にするということ、そして、義なる神が赦しがたい者を赦すという、二重の断腸の思いがあったのです。そのように神の愛は痛みの愛なのです。私たちはそのような痛みの愛の中で赦されて、しかも、何事もなかったかのように、復活の主の御前におらせてもらっているのです。一万タラントの負債を無条件に赦されているのです。それがわかれば、その感謝がわいてくれば、御霊のとりなしで百デナリの人をすっと赦せていけるのです。神の国の恵みに身をおくキリスト者は「七回どころか七回を七十倍までも赦」すという奇跡に生きられるのではないでしょうか。また、もしあなたが人を赦そうとした時に、きっと、自分を赦してくださった神のみ思い、神の痛みの愛を知ることになるでしょう。
 一万タラントを赦されたから、百デナリの人を赦すという御前に生きる生き方をしているキリスト者こそ、最もかっこいい存在なのです。

からしだね一粒の信仰

2012-02-12 00:00:00 | 礼拝説教
2012年2月12日 主日礼拝(マタイ17:14-21)岡田邦夫


 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(マタイ17:20)

 昨年、ドイツで開催されたFIFA女子ワールドカップで日本チーム・なでしこジャパンが優勝し、東日本大震災で大きな打撃を受けている日本人を大いに励ましました。女子サッカーがこれまでなかなか人気もなく、悔しい思いをしていた中で、その悔しさをバネに懸命に努力され、遂に世界一となり、脚光を浴びるようになりました。スポーツの世界では、悔しさをバネに猛烈な練習をかさね、結果を出されることが良くあります。悔しさをバネにというのは勉強でも、仕事でも、人生にはあることですが、しかし、努力や頑張りではどうにもならないことがあります。

◇状況を嘆く人
 息子がてんかんで、何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりして、たいへん苦しんでいるのだと言って、ある人がイエスのところにやってきました。どうして、この息子ばかり、こんなひどい目に合わなければならないのかと嘆き暮らしていたことでしょう。心ない人からは何か罪を犯しているから、神に懲らしめられているんだ、悔い改めなよ、と言われたこともあって、何も悪いことをしていないのに、そんな言われようはないと悔しい思いもしたことでしょう。
 そして、こう訴えるのです。「そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした」(17:16)。この親が相当まいってしまっていることは判りますが、実に失礼な物言いに私には思えます。あなたの弟子たちにはうちの子を治せないんですか。その程度の弟子なんですかね。先生だったら、経験もあるし、実績もあるし、噂のように治せるでしょうね。ひとつ、よろしく頼みますわ。彼がそんな風に身勝手な態度でやってきたようにも思えます。あるいは、この悪霊につかれたこの病が弟子たちに治せない病であれば、師であるイエスにいやしの奇跡が起こせるかどうかわからないと疑いつつも、お願いしようとして来たのかも知れません。半信半疑の様子だったかも知れません。
 しかし、読者としての私はこの人に同情してしまいます。息子が何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりして、世間体が悪いだけでなく、絶えず死の危険にさらされているのです。親として、身が持たない程、嘆き苦しんでいたのですから…。

◇不信仰を嘆く主
 それに対して、主イエスはあなたの信仰はおかしいというような、個人を責めることをしません。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう」(17:17)。この時代の者たちの不信仰を嘆かれたのです。批判したり、非難したりする時はたいてい、自分自身が痛まないものです。しかし、嘆くというのは、自分も深く痛むのです。忍耐の限界まで、主は嘆かれたのです。
 そこで、主イエスはその子をご自分のところに連れて来させ、当時、てんかんは悪霊につかれていると思っていたものですから、主イエスが「その子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った」というのです(17:18)。主イエスの嘆きは救いをもたらすのです。
 NHK教育テレビで、こころの時代~宗教・人生~ ・山浦玄嗣(やまうらはるつぐ)「ようがす 引ぎ受げだ」は良い番組でした(昨年5月22日放送、昨日2月11日再放送)。東日本大震災の被災地岩手県大船渡市で、医院を営むカトリック信者、山浦玄嗣医師の話です。題名の「ようがす 引ぎ受げだ」はケセン(気仙)語です。以前、山浦医師は医業のかたわら、新約聖書を原語から、地方の言語に翻訳された方です。それが「ケセン語聖書」でそのCDも出ています。
 先生の住む医院も津波の被害にあいます。日曜日、ミサのために瓦礫の中を歩いて丘の上のカトリック教会に行き、丘の下を見て驚きます。大船渡市の市街地が跡形もない、そして向こうから自衛隊が10人ぐらい何か戸板を持って歩調を整えてズッズッズッと歩いてくるのを見たら、死体を運んでいたのです。そういう中で、医師として、医療活動をなし、使命に生きます。そして、こう話されました。まるで原子爆弾が落ちたように何にも無くなってしまったのに、この津波の後、一つは「あっぱれだなあ~」と思ったことがあるんですよ。誰一人として、「なんでこんな目に遇わねばならんのけぇ」。という怨みごとを言う人が一人もいないということです。
 もう一つは、あの津波の惨害、瓦礫の野原。あの場に呆然と立ち尽くした時に、私の心の中に、浮かんできた言葉は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(我が神よ、我が神よ、何ゆえ我を見棄て賜(たま)いし)という言葉なんです。これはイエスが十字架の上で、むごたらしく殺された時の、本当に絶望のことば、怨みのことばなんです。しかし、これは詩編の22篇の失意のどん底にあったとき、絶望と苦難の中でなお神様の救いを確信してやまない嘆きの中の信頼の讃歌の発句なのです。絶対にこの苦しみはこのままでは終わらない。復活に続くのです。必ず新たな命へのあなたの新たな喜びへの出発点になるはずだというメッセージです。
 まだまだ、被災経験の中からの深い信仰の言葉を語られましたが、一部紹介しました。身も魂も裂かれ、嘆く「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の言葉は私たちを罪と死と滅びの絶望から、贖い、救ってくださるのです。だからこそ、あなたの嘆きの「その子をわたしのところに連れて来なさい」と招いておられるのです。

◇不可能を嘆く弟子
 今度は弟子たちです。イエスのもとに来て嘆きます。また、求めでもあります。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか」。主イエスの答は「あなたがたの信仰が薄いからです。」と始めつつも、激励の言葉を告げます。「まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません」。からし種はケシ粒より小さい、直径0.95~1.6ミリ、重さ約1ミリグラムの黒い種ですが、大きく成長して1.5メートル~3メートルにもなるのです。主はこう言われました。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります」(マタイ13:31ー32)。端的に言えば、神のみこころであれば、山を移すこともできるように、どんな困難な問題も解決することができるということです(注解書)。
 信仰というのは分数のようなものだと思います。分子は神のこと、分母は人のこと。分子が大きければ大きい程、逆に分母が小さければ小さい程、その値は大きくなるものです。「人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。」という信仰です(マタイ19:26)。自分にはできると過信があり、神への期待が弱ければ、その信仰は薄い信仰です。自分にはできないという認識が大きくなればなるほど、それに反比例して、神にはできるという信頼が大きくなればなるほど、その値である信仰は篤い信仰になるのです。それが、からし種の信仰であり、「どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」という祝福になるのです。
 最後にカッコして、〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕と付記されています(17:21)。このような、信仰の問題は、安易に考えてはならない、真剣に神の前に魂を注ぎだして、取り組むべきことだと言っているのでしょう。
 私たちは大山が立ちふさがるような困難や問題に遭遇するかも知れません。あるいは日頃、小山があるでしょう。それを嘆くでしょう。それを御前に持ち出して、自分にはできないが神にはできるという過分数の信仰、からし種の信仰にたち、「どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」という祝福に与りましょう。そうして、信仰をバネにして御国に向かって生きていきましょう。十字架の上で嘆かれ、死んで黄泉の中からよみがえられたイエス・キリストがそのただ中に、おられるのですから。

姿が変わって

2012-02-05 00:00:00 | 礼拝説教
2012年2月5日 主日礼拝(マタイ17:1-13)岡田邦夫


 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。(マタイ17:5)

 パリのルーヴル美術館に展示されているレオナルド・ダ・ヴィンチの油彩画で半身の女性の肖像「モナ・リザ」はたいへん有名ですが、研究者にはなぞの多い作品で、特にわずかに微笑んだ顔は不思議なものをもっています。人の表情というのは見る者に様々なものを伝えてきます。マリア像やキリスト像のように、像となるとその顔の表情が安らぎや崇敬などを感じさせるものです。しかし、福音書にはイエスのみ顔の表情も顔かたちについてもいっさい記されてはいません。み顔については二カ所に記されているだけです(ルカ9:51、マタイ26:67)。「天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」という、受難に向かわれるイエスの決意のみ顔。大祭司の中庭で裁判がなされた時の「彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、…平手で打って」という受難のみ顔。厳しい、あるいは苦しいみ顔が想像されます。

◇み顔
 しかし、今日のこの箇所にはそれとは対照的に、イエスの「御顔は太陽のように輝き」と記されているのです。「イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」(16:21)、そのことの前にペテロとヤコブとヨハネの三人の弟子たちにだけ、高い山に連れて行かれた時に、そのみ姿、み顔を見せられたのです。
 「そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか」(17:2ー3)。
 実に想像を絶する光景です。ペテロは戸惑ってしまったのでしょうか、このようなとんでもない口出しをします。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」
(17:4)。旧約聖書においての祈りというのは「どうか、御顔を私に隠さないでください。」「どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、み顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。」というものです(詩篇143:7、67:1-2)。新約聖書において最終的な救いの完成は新天新地。ヨハネ黙示録にこう描写されています。「もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である」(22:3-5 )。
 イエスの姿変わり、御顔の輝きはこの素晴らしい救いを示されたことなのです。「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」と主イエスに命じらますが、たしかに、復活の主の栄光の姿に弟子たちはお会いするのです。
 チャールス・ウェスレー作詞の新聖歌211「天(あめ)なる喜び」を共に歌いたいものです。
①天なる喜び こよなき愛を
  携え降れる 我が君イエスよ
  救いの恵みを 顕に示し
  卑しきこの身に 宿らせ給え
③我らを新たに 造り清めて
  栄えに栄えを いや増し加え
  御国に昇りて 御前に伏す日
  御顔の光を 映させ給え

◇み声
 ここに現れたのは律法を代表するモーセ、預言者を代表するエリヤでした。イエスは律法の完成者、預言の成就者としての救い主(キリスト)であることを示しています。「そして、彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした」のです(17:5)。弟子たちはこの声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがったのですが、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われ、目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであったとというのです。
 重要なことはみ声です。そこにメッセージがあり、啓示があるのです。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」。これは主イエスが受洗の時に天からあったみ声と同じです。これはメシヤ預言のイザヤ書42:1と詩篇2:7のみ言葉であり、しかも、受難の僕と栄光の王の重ねた預言です。その父なる神のみ声を聞かれて、み子「イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえら」という受難と栄光の道に進んで行かれたのです。
 主がそうしてくださったからこそ、私たちは罪が贖われ、死と滅びから救われ、永遠の命が与えられ、栄光に入る望みが与えられているのです。み顔は今はおぼろげにしか見えませんが、かの日には顔と顔とを合わせてまみえるのです。今、私たちは主のご人格とふれあい、主の導きを仰ぎ、主の約束をいただくために、祈り、み声を聞いて歩む時です。
 新聖歌316番がそれを良く歌っています。
 ①御言葉なる 光りの内 主と共に歩まば
  行く道筋 照らし給わん 依り頼む我らに
 (くり返し) げに主は  依り頼みて
      従ごう者を  恵み給わん
 ②御顔の笑み 輝く時 雲霧は消え行き
  疑い無く 憂いも無し 依り頼む我らに