オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

あなたを一人にはしない

2010-10-31 00:00:00 | 礼拝説教
2010年10月31日 主日礼拝(ルカ福音書15:1~7)岡田邦夫

 「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」ルカ福音書15:7

 小学生の時、結婚式で父母も兄弟もみな出かけ、私ひとり留守番でした。初めは何ともなかったのですが、夕暮れ時が近づいてくると、不安になってきて、自分は橋の下でひろわれた戦争孤児で、家族は面倒になったので自分をひとりおいて、どこかへ行ってしまったのではないかと疑っていました。そう思っているうちに家族が引き出物を下げて帰ってきました。一安心、思い過ごしでした。子供が行ってもとても退屈で耐えられなかったでしょうから、これで良かったのです。今、笑ってそのことを話していますが、もし、ほんとうにひとりおいて行かれたら、どれほど、不信と不安にさいなまれたことでしょうか。学校や職場でのいじめの最大の悲劇は何にもまして「ひとりにしてしまう」ということでしょう。今日の社会で、ひとりにしてしまう、ひとりになってしまうという問題が多くあります。私たちは何はなくとも、ひとりにしてしまわない、ひとりになってしまわないことに努めていきたいものです。

◇人がひとりでいるのは良くない
 聖書には、神が土から最初の人を造られた後、あばら骨からもうひとり、女を造られました。最初のカップルは土地という意味のアダムと、生命という意味のエバでした。それは「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」と言われたからです(2:18)。創世の初めから、人がひとりでいるのは良くないことなのです。男と女というだけでなく、根本的に人間はひとりでいるのは良くないということです。
 しかし、アダムとエバが神の前に罪を犯し、本来あるべき、神と人との関係、人と人との関係が失われてしまい、そのまま、歴史をたどることになりました。そこで、神は助け手ではなく、「救い主」を私たちに送ってくださいました。イエス・キリストです。それをたとえで話されました。

◇いなくなったひとりを探し出し救う
 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう」(15:4ー6)。いなくなった一匹はひとりになってしまった人間、失われた人間のことです。イエスはその失われた人間を捜し出し、救うために来られたのです。
 パリサイ人、律法学者たちは清い生活をしようとしていたので、清い食べ物を食べ、汚れた食べ物は食べない、汚れた物には自分が汚れるからふれない、ふれたら洗いの儀式をして清くするというライフスタイルでした。しかも、汚れた「者」にもふれないのです。ハンセン病などのような病も汚れているからふれないとか、取税人、罪人たちも汚れているから、家に行くことも、食事を共にすることも汚れるから、絶対しないというわけです。同胞から税金を取り立てて、ローマ帝国に治める取税人は裏切り者で汚れているとされていました。また、何かの理由で律法にてらして不浄とか、不従順な人を「罪人」と言い、宗教的に汚れているとされていました。パリサイ人や律法学者にたとい非難されようと、主イエス・キリストはこの汚れた者とされた、失われた人たちを受け入れ、このたとえを通して、メッセージをされたのです。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」と(15:7)。
 事実、ザアカイという取税人がいちじくわの木の上からイエスを目にした時、むしろ、イエスの方が彼に目をとめ、彼の家に行くことになり、彼は大喜びで主イエスを迎えました。また、悔い改めました。その時、イエスはこう言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(19:9ー10)。迷える羊・ザアカイを羊飼い・イエスは見つけ出し、かついで帰ってきたのです。

◇どうしてわたしをひとりにしたのですか
 主イエスは「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。」と言われた。また、最後の晩餐の時に弟子たちに「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」と安心の言葉を残しました(14:18)。この後、イエスが逮捕され、十字架に処刑されていく中で、弟子たちはイエスを捨てて逃げてしまいます。さらに十字架において、すべての人の罪によって、神のひとり子が見捨てられたのです。すべての人の罪を身代わりに背負ったイエスを神は見捨てたのです。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)と大声で叫ばずにはおられませんでした。人からも神からもひとりにされてしまった最大の悲劇です。しかし、そこまで深い所までおりて、私たちを探しだし、救ってくださったのです。私たちのとっては最大の祝福劇です。そのお方が「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」と確かなことを言われるのです。その言葉が、私には「わたしは決してあなたを捨ててひとりにはしない。」「わたしはあなたをひとりにはしない。」と聞こえてくるような気がするのです。
 「百万人の福音」11月号に西山哲穂(てつお)さんの証詞が載っていました。三代目のクリスチャンですが、迷いの中を通り、生まれ変わりの経験など、色々の信仰経験をしました。細胞検査士の仕事をしながら、ゴスペルグループを結成し、コンサート活動をしていますが、その中でも、大切にしているのが、少年院や刑務所の慰問コンサートだそうです。それはお父さんが法務教官だったからかも知れませんが、キリストの愛に押し出されて、奉仕しておられます。私は彼の生き方に感心しましたが、そのゴスペルグループ名が気に入りました。“Without You”-関西弁で言うと「あんたがおらんかったらあかんねん」です。あなたはひとりでは生きられない、キリストなしでは生きられないのです。逆に神の国はあなたなしにはあり得ないのです。「あんたがおらんかったらあかんねん」、主はあなたをひとりにはしないのです。

◇わたしはあなたをひとりにはしない
 そして、私たちも神のもと、すなわち出てきたところに帰ろうという方向転換が必要です。聖書の用語「悔い改め」は罪を悔いて改めるという意味ですが、方向を改める、方向転換を意味しています。神から離れて行く心の方向を神に向かう方向に、方向転換することで、神はそれを最も喜ばれるのです。人は神から離れて、ひとりになろうとする傲慢な者です。しかし、神なしには生きられない、人がひとりでいるのはよくない、神の愛のもとに帰ろうと心を神に向けるなら、神はそれを何よりも喜ばれるのです。
 南米チリにおいて、2010年8月5日、地下約400メートル付近で落盤事故が発生し、作業員たちは地下約700メートルの避難所に退避しました。救助隊が同22日、避難所付近まで掘り下げた掘削ドリルに、作業員らがメモ2通を取り付けたことで生存が判明し、望みがつながれました。準備が進められ、10月12日から救出作業がなされ、14日朝、33人全員の救出が完了しました。事故発生から69日ぶりに地上への生還を果たした「奇跡の救出劇」は大成功のうちに終わりましたと報道されました。本人も家族も関係者も実に大喜びでした。案じていたチリの国民も世界中の人たちも喜びました。
 そのようにイエス・キリストによる失われた者の救出劇は「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」というものです。天に喜びがあふれるのです。回復した者だけが喜ぶのではありません。天の総勢がいっしょになって喜ぶのです。あなたの存在そのものが天で喜ばれているのです。喜ばれていると思えば、生きがいがあり、死にがいもあるのではないでしょうか。地においても、天においてもWithout Youあなたなしで、真の喜びはないのです。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」。

石を枕の夢

2010-10-24 00:00:00 | 礼拝説教
2010年10月24日 伝道礼拝(創世記28:10~19)岡田邦夫

 「こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」創世記28:17

 「人生は往復切符を発行していません。ひとたび出発したら、再び帰ってきません。」はフランスの小説家ロマン・ロランの言葉です。人生を旅にたとえることがよくあります。たとえではなく、事実、片道切符の旅となってしまった旅がありました。20世紀初頭に建造され、安全設計された不沈船と宣伝された豪華客船タイタニックです。イギリスのサウサンプトン港からニューヨークへとむけ2,200人以上を乗せて、処女航海に出航しました。北大西洋のニューファンドランド沖に達したとき、1912年4月14日の深夜に氷山に接触し、翌日未明にかけて沈没していきました。犠牲者数は1,513人とも言われており、当時世界最悪の海難事故でした。
 私は柴又教会の教会学校で奉仕をしていた時、この「タイタニック」の紙芝居を子どもたちに読んであげたのですが、自分自身が感動しました。助かる見込みもなく沈んでいく船の中で、賛美歌を歌っている人たちがいる場面でした。「主よ御許に近づかん」です。穏やかに賛美しながら、死に向かっていくクリスチャンの証詞を描いた作品でした。
 白黒の映画「SOSタイタニック 忘れえぬ夜」(A Night to Remember・1958)も見ました。沈没していく中で、楽団が「主よ御許(みもと)に近づかん」を演奏し、賛美している場面は深い感動に包まれました※。私は母の葬儀の時に天に旅行く者に送る証詞として、この賛美を独唱しました。
 1 主よ、御許に近づかん 昇(のぼ)る道は十字架に
   ありともなど悲しむべき 主よ、御許に近づかん
 2 さすらう間に日は暮れ 石の上の仮寝の
   夢にもなお天(あめ)を望み 主よ、御許に近づかん
 3 主の使いはみ空に 通う梯(はし)の上より
   招きぬればいざ登りて 主よ、御許に近づかん ※

◇旅:自分で道を開こうと… これは創世記28章のヤコブが石を枕に野宿した時のことを歌詞にしたものです。ヤコブは双子の兄弟の弟、生まれながらに長子の権利がなく、父から受け継ぐ神の祝福も得られないと定まっていました。その意味で夢も希望もなかったのです。しかし、彼はあきらめられませんでした。ある時、空腹で帰ってきた兄エサウに、美味しい煮豆と長子の権利とを交換しようと話を持ちかけます。兄はこの話にのってしまいます。冗談ではなかっだのです。父イサクがいよいよ年老いて、相続の遺言をしようという時、再び、ヤコブは一計を案じます。父は鹿の肉を食べたいというので、兄が狩りにでたすきに、彼は手近なやぎの肉を料理し、手と首に子やぎの皮をつけ、毛深い兄になりすまし、兄の晴れ着を着て、衰えた父に近づきます。父はエサウと思い込み、神の祝福の言葉を言い渡してしまいます。兄が狩りから帰ってきた時には終わっていて、祝福は取り消せません。兄は怒り、弟を殺そうとします。そこで母リベカは案じて、兄の怒りの収まるまでと、ハランにいる自分の兄ラバンのところに、ヤコブを逃がすのです。
 母親に愛され、天幕にいるのを好んで生活していたので、ひとり荒野の旅は相当淋しく、不安だったに違いありません。日が暮れて、石を枕の野宿です。体は疲れたが、頭は冴えいて、ほしいものを手に入れるため、兄や父をだましたことなど、過去を思い出してしまうし、兄の怒る顔、母の悲しむ顔が浮かんできてしまいます。叔父のラバンはどんな人か、自分を受け入れてくれるだろうか、そして、結婚して家族を持てるだろうか、心配が押し寄せてきます。そうしているうちに寝てしまいました。そう言う時は夢を見るものです。しかし、兄に追いかけられる夢でも、叔父に追い返される夢でもありませんでした。何とも素晴らしい夢を見たのです。

◇旅:天の道が開かれて… 人は孤独の中で神に出会うということを忘れてはなりません。聖書には短く記されています。「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている」(創世記28:12)。とても神秘的です。彼は生まれる時、兄のかかとをつかんでいたことから、押しのけるという意味のヤコブと名付けられ、人間的にその名の通りの、きれいではない人生をたどってきました。しかし、石を枕にしたこの彼に、天の光が差し込み、これまでの歩みが洗われるようでした。祭壇もなければ、祭司もいません。しかし、神が「夢」という場で出会ってくださったのです。人生は出会いで決まると言います。生まれた時、親と出会い、そして、友だちに出会い、教師に出会い、異性に出会い…、良い人との出会いがあれば良い人生になると。ヤコブには良い出会いがあったとは言いにくいでしょう。しかし、家を出て、天涯孤独の中で人生を決定的に変える神との素晴らしい出会いを経験しました。
 ただの夢を見たのではなく、人格的な出会いでした。人格は言葉を語ります。「見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた」のです(28:13)。もう、夢を越えて、現実には見えない神がかたわらに立っておられ、それを実感しました。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。」と名のられたのです(28:13)。
 科学者として知られているパスカルですが、死後に彼の胴衣の縫い込みから一枚の紙切れが発見されました。“メモリアル”と言われています。決定的な「回心」のメモです。「火」と題し、回心の日を前置きにして(キリスト紀元1654年11月23日)、こう綴られています。「『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』哲学者や学者の神に非(あら)ず。確信、確信、感情、歓喜、平和。イエス・キリストの神。『わたくしの神、また汝の神』汝の神はわたくしの神であろう…」。そして、罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架を信じ、主に従う決意と救われた歓喜の言葉が続き、最後に「アーメン」で終えています(人と思想「パスカル」より)。
 私たちはヤコブやパスカルと共に、神の前に人間の悲惨さ、虚しさ、罪深さを知らなければなりません。それでも、神は私たちを赦し、私たちの歴史の上で出会ってくださるそのイエス・キリストの神に回心をしましょう。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、イエス・キリストの神、汝の神、わが神を信じますと。そして、神との出会いの喜びを、時をまたいでヤコブやパスカルと共に甘受したいと思います。

◇旅:未来の道が開かれて…  そして、ヤコブには遠大な将来の夢が提示され、それはイコール、確かな神の約束の言葉として告げられます。「わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(28:13-15)。ひと言で言うなら、神が祝福するという約束の言葉と神が共にいますという救いの言葉です。それは神を信じるすべての人に与えられているものです。神との出会いは救いと祝福をもたらすのです。ヤコブと共に神の国を受け継ぐ者となるとは大変素晴らしいことです。
 タイタニック号のクリスチャンたちはすぐにでも海の中に沈んでしまうけれど、天国に行けるとの約束を信じて「主よ御許に近づかん」と賛美したのです。創世記のこのことをさして、英語でJacob's ladder(ヤコブのはしご)と言います。そして、航海用語では避難用の縄ばしごのことをJacob's ladderと言います※。人生の航路で難破した時、ヤコブのはしごという天に通じる非難ばしごがあるのです。人生の旅で、暗闇の中にひとり石を枕にするような時、イエス・キリストの神がかたわらに立ってくださり、救いの言葉を投げかけてくださるのです。するとそこは恵みにあふれ、石がごろごろ転がっている荒野のど真ん中なのに、ここは「神の家」(ベテル)、「天の門」だと聖霊によって思わされるのです(28:17)。

 イエスが十字架にかけられた時、両隣に重罪人が磔(はりつけ)にされました。ひとりはイエスを呪いますがひとりは「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と求めました。すると、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と主は答えられました(ルカ福音書23:43)。彼の人生は重罪を犯し、されこうべと呼ばれる刑場で死んでゆくという悪夢の旅でした。旅の最後、磔にされた者として救い主イエスに出会いました。周囲は皆、自分をのろうばかりですが、救い主はかたわらで「あなたはきょう、わたしとともにパラダイス(楽園)にいます。」と告げてくれたのです。地獄に行け!と罵倒されている今、この場こそ地獄です。しかし、主は悔い改めた自分がキリストといっしょにパラダイス=天国に行くのだと言うのです。だれひとりはしごをかけて十字架からおろして助けてくれる人はいませんが、ヤコブのはしごが天から下ろされたのです。彼にとって、ゴルゴダ(されこうべ)が天の門、神の家になったのであります。
 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、イエス・キリストの神、汝の神、わが神、十字架の男の神、パスカルの神はリアルにあなたと出会ってくださり、石の枕の場を天の門、神の家としてくださいます。そして、生き生きと神の国を夢見る者としての旅をさせてくださいます。あなたは信じますか。

※主よ御許にの歌詞は同じでも、米国版の曲は新聖歌510が知られています が、英国版の曲は讃美歌21の435です。
※「主よ御許に近づかん」続き
 4 目覚めてのち枕の 石を立てて恵みを
   いよよ切にたたえつつぞ 主よ、御許に近づかん
 5 うつし世をば離れて 天翔(あまが)ける日来たらば
   いよよ近く御許に行き 主の御顔を仰ぎ見ん
※私、瀬戸内海のオレンジフェリーというのに乗った時に、ペンキでJacob's ladderと記されているのを見ました。

神の前に富む者

2010-10-17 00:00:00 | 礼拝説教
2010年10月17日 主日礼拝(ルカ福音書12:13~21)岡田邦夫:みのお泉教会にて

 「朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。」ルカ福音書12:33

 星野富弘さんは頚椎(けいつい)損傷(そんしよう)で全くからだを動かせなくなった絶望の状態から、神を信じて立ち上がりました。からだは全く不自由ですが、こころは信仰の世界をかけめぐり、口に絵筆を挟んで詩画をかき、多くの人に慰めと希望を与えています。彼の珠玉の作が「いのち」という詩だと私は思います(詩画集「鈴の鳴る道」)。
 いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった
 いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった
 普通はこの逆で、地位や名誉や財産などを得るために一生懸命だったけれど、ある時、それよりもいのちが一番大切なのだと気付くというものです。しかし、彼はすべてを失って、生命そのものも危機にさらされて、あがいていたのでしょう。その時にいのちより大切なものがあると知ったのです。すべてを失ったかに見えたことが、その日、すべてを得たと思えたのでしょう。きょうはほんとうに大切なものは何か、考えてみたいと思います。

◇一番大切なもの…
 いつの時代にもありそうな、相続の問題が福音書にもでてきます。群衆の中のひとりがイエスに言いました。「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」。ご自分は裁判官や調停者ではないと言われて、人々に向かって教えます。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです」(12:15)。「人のいのちは、持ち物にはよらないのである。」という言い回しもあります(口語訳)。人のいのちは持っているもので、きまるのではないということです。
 財産や物を持ち過ぎることはよくないという人生訓は、賢人たちが経験から学んで教えてきました。以前、豊中泉教会の伝道礼拝で、トルストイの民話集のひとつをアニメにした「夕日が沈むまで」を上映したことがあります。小作人のパホームが好きなだけの土地が買えるというので、バキシールという遠い土地に行った。わずか千ルーブリで、一日歩きめぐった土地を売ってくれるというので、日の出と共に歩き出した。欲張ってかなり遠くまで来てしまったが、日没まで帰れるように、走りに走った。スタート点すなわちゴールに、力をふりしぼりにしぼって、倒れ込んだ。「よう、おみごと!たくさん地面をとりましたな。」と地主が叫んだ。しかし、彼は息絶えていた。作男がそこに穴を掘って、埋葬した。彼が得たのはその墓地だけだった。この話の題は「人にはどれだけの土地がいるか」と問いかけるものです。

◇いのちより大切なもの…
 「人のいのちは、持ち物にはよらないの」ですが、なお、主イエスはそれと似てはいますが、「神の国」のたとえ話をされました。
 ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』(12:16ー20)
 この逆転劇にショックを覚えますが、話は単純明瞭です。どんなに物や財をたくわえ備えても、死後の備えが出来ていなければ、ほんとうは安心は出来ないものです。自分の財産の問題ではなく、自分の「たましい」の問題に関心をもたなけばならないということです。持っている物ではなく、裸のたましいを大事にしなければ、愚かなことだということです。ここでは、財産の多さ、少なさを問題にして取り上げてはいません。ただ、さきほど話しましたように貪欲を警戒するようにということです。それはたましいへの関心を忘れさせ、無くしてしまうからです。主イエス・キリストのたとえを通してのメッセージはこうです。多くの人が持っている物で満足しているのは、「人の前」のこと、しかし、重要なのは神に造られた人間として「神の前」にどうあるかということです。「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」(12:21 )。

◇絶対に大切なもの…
 この“神の前に”は聖書の重要なキーワードであり、ラテン語でコーラム・デオといい、キリスト教会において、最も大切な言葉のひとつとして受け継がれてきました。神の前にある者として人が造られたのですが、神の前に人が罪を犯してしまいました。しかし、イエス・キリストが神の前に贖いをなしとげ、それを信じる者は神の前に義とされ、終わりの日に神の前に立つことができる救いの道が開かれました。救われた者は生ける神の前に生きるのです。
 ですから、神の前に富むというのは、ほんとうに魂に平安と祝福が与えられることなのです。例をあげてみましょう。
 良い牧者のもとにある豊かさがあります(詩篇23篇、ヨハネ10:10-11)。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。…たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。…私の杯は、あふれています」。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」。
 まことのぶどうの木につながる豊かさがあります(ヨハネ15:5口語訳)。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」。
 キリストを知る豊かさがあります(パウロの手紙)。「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」。「キリストの無尽蔵の富」「聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか」「神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるか」…(ピリピ3:8、エペソ3:8、エペソ1:18、コロサイ1:27、口語訳)
 与えて生きる愛の豊かさがあります(ルカ12:33)。「持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい」。
 このように、神の前に富むことがいかに素晴らしいかを聖書は枚挙のいとまがないほど、記しています。私たちはこう言いたいものです。「たましいよ。神の前の富が無限に、永遠にある。さあ、安心して、イエス・キリストの恵みをいただき、聖霊によって楽しもう」。

よきサマリヤ人

2010-10-03 00:00:00 | 礼拝説教
2010年10月3日 主日礼拝(ルカ福音書10:25~37)岡田邦夫



 「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」ルカ福音書10:27

 こんな川柳がジパング倶楽部という雑誌に載っていました(瀬戸さん投稿)。「正直に言えば許すと言った嘘」。親子や夫婦の間でのかけひきの様子が浮かんでくる句です。ところで、福音書にはユダヤ教の宗教家たちとイエス・キリストとのかけひきがけっこう出てきます。素朴に疑問を投げかける人もいますが、多くはイエスをおとしめようとして、質問を投げかけてきます。もし、ストレートに答えると逮捕の口実になるか、民衆の反感をかうようになるか、巧みにわなをしかけてきます。しかし、イエスはみごとに切り返していきます。

◇そのとおりです。それを実行しなさい。
 今日のところも、律法の専門家がき然と立ち上がり、イエスをためしに来た話です。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」という問いです(10:25)。問いそのものは実に難問です。「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」という人の根源的求めと難題です(伝道3:11)。
 ここでちょっと、テレビの話です。法律のクイズ番組はためにはなるのですが、お笑い色の強い番組になっているものもあります。法律的な深刻な問題でも、当事者でなければ、笑って見てしまいます。法律の知識も頭のすみに残れば、いい方かも知れません。もし、実際に自分が問題に巻き込まれれば、笑ってはいられません。
 律法(法律)の専門家がイエスを試そうとして、ふっかけた問いですから、自分自身のこととしてでなく、ただ、持っている知識を振り回し、言葉だけで議論し、相手の言葉尻をとらえて、あわよくば、ユダヤ当局に訴える口実を作ろうとしているのは目に見えています。自分は傷つかないで、相手をおとしめようとしているのです。とにかく専門家だから、ナザレの田舎者に負ける気はしないと思っていたでしょう。しかし、その自負心は崩されます。どういう「質問」をするかで、その人の人物というものが分かると言われています。そこで、主イエスは逆に質問を返して、矛先を自分自身に向けさせるのです(10:26ー29)。私たち、聖書に問う者は聖書に問われる者になるということを知るべきです。
○イエス:「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
○律法の専門家:「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
○イエス:「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
 そこで、イエスによって、彼が自分を正当化しようとしていることがむき出しされるのです。彼の「では、私の隣人とは、だれのことですか。」の問いに表されます(10:29)。彼はある人は隣人であり、別の人はそうではないという線引きをして、規定をもうけて、自分の気に入った人たちを愛することで、自分は安全圏にいて、自分の正当性を示したいのでしょう。そもそも「愛する」というのは規定されるものではないはずです。そこで、イエスはたとえ話をされます(10:30-36)。注をいれて読んでみましょう。

◇あなたも行って同じようにしなさい。
 「ある(ユダヤ)人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、(神殿で仕える)祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じように(祭司の補佐役)レビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、(ユダヤ人とは犬猿の仲の)あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼は(一日の給料に相当する)デナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」。
 祭司やレビ人が反対側を通っていったというのは、非情だったというよりは、事情があったからでしょう。死体やけが人の血に触れると「汚れる」という「祭司規定」にあり、もし汚れたら、神殿で再び任務に戻るには清めの儀式を行わなければならなかったので、それを恐れて近づかなかったのでしょう。規定に従ったということで、正当化できる話かも知れません。一方、ユダヤ人もサマリヤ人も元々はイスラエル人で、歴史の経緯の中で別れて、この時代、互いに不信感を抱いていた状況がありました。しかし、このサマリヤ人はそのような事情、社会通念を乗り越えて、ひとりの人の命を助けたというわけです。イエスは答を求めます(10:36-37)。最初のやりとりと同じパターンで、聖書に問う者が聖書に問われる者になっていくのです。イエスは律法の専門家に、あるいは私たちに問いかけてきます。
○イエス:「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」。
○律法の専門家:「その人にあわれみをかけてやった人です」。
○イエス:「あなたも行って同じようにしなさい。」
 トルコは遠い国ですがたいへん親日的です。そのわけは1890年にさかのぼります。NHK・TVかんさい特集で放映され、ネットの紹介文にこう記されています。オスマン皇帝の命を受け、親善目的で来日したトルコの軍艦「エルトゥールル号」が帰国の途上、和歌山県・串本沖で遭難・沈没してしまいます。死者600人近くの大事故の中、当時の串本の人たちが不眠不休で乗組員の救助を行い69人の命を救いました。これが今につながる日本とトルコの友好の礎となっています。事故から120年目の今年、両国の子孫たちが初めて出会いました。人々の思いが現代にどのように受け継がれていくかを見つめていきます。…というものです。これは確かに両国が語り継いでいく「隣人愛」の出来事だと思います。
 私たちは良きサマリヤ人のように、串本の人たちのように、隣人愛を実践していきたいと思います。私たちは誰かの隣人になるために、召されているのではないでしょうか。この良きサマリヤ人の教えから、現代のユダヤ人哲学者はこのようなことを言っています。「偶然に出会った助けをもとめている人、傷ついた人、死にかけている人にどこまでも関わること、これが他者と出会うことであり、責任を担うことである。責任とは自分で選ぶものではない。それは逃れようもなく課せられてくるのである。人間の自己同一性、すなわち、現代流行の言葉でいえば『人間のかけがえのなさ』とは、苦しむ他者に出会ったとき逃れようもなくその苦しみをともに背負うこと、この責任の引き受け、においてのみ成り立つのである。それ以外に、人間の『かけがえのなさ』などというものは存在しない」(ヨーロッパ思想入門より…エマニュエル・レヴィナスの紹介)。私たちは誰かの隣人になるために、召されているのです。そして、主に導かれて隣人愛に生きるところに、神の栄光が現され、命を得る道があるのです。

◇わたしがおまえをあわれんだように(マタイ16:18)
 イエスのたとえは神の国のメッセージです。この良きサマリヤ人はイエスご自身のように見えてきます。半殺しの人のように、傷つき倒れた旅人の私たちをご自分の血を注いでいやし、命を与え、なおも必要な面倒を見てくださっている良き牧者イエス・キリストです。その行為は私たちが倣う(ならう)ものです。模範なのです。私たちは究極の良きサマリヤ人になられた愛の主に倣って、小サマリヤ人として愛に生きるのです。愛は規定されるものではなく、模倣されるものです。愛というのは「同じようにする」ことです。新聖歌382を次のように少し歌詞をかえて、歌いたいものです。「心から願うのは愛に富み優しく、迷う人見いだして主のもとに導く。主のように主のように生きさせてください。この心奥深くみ姿をうつして」。
 主の声が聞こえてきませんか。「あなたも行って同じようにしなさい」。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」。