2010年10月31日 主日礼拝(ルカ福音書15:1~7)岡田邦夫
「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」ルカ福音書15:7
小学生の時、結婚式で父母も兄弟もみな出かけ、私ひとり留守番でした。初めは何ともなかったのですが、夕暮れ時が近づいてくると、不安になってきて、自分は橋の下でひろわれた戦争孤児で、家族は面倒になったので自分をひとりおいて、どこかへ行ってしまったのではないかと疑っていました。そう思っているうちに家族が引き出物を下げて帰ってきました。一安心、思い過ごしでした。子供が行ってもとても退屈で耐えられなかったでしょうから、これで良かったのです。今、笑ってそのことを話していますが、もし、ほんとうにひとりおいて行かれたら、どれほど、不信と不安にさいなまれたことでしょうか。学校や職場でのいじめの最大の悲劇は何にもまして「ひとりにしてしまう」ということでしょう。今日の社会で、ひとりにしてしまう、ひとりになってしまうという問題が多くあります。私たちは何はなくとも、ひとりにしてしまわない、ひとりになってしまわないことに努めていきたいものです。
◇人がひとりでいるのは良くない
聖書には、神が土から最初の人を造られた後、あばら骨からもうひとり、女を造られました。最初のカップルは土地という意味のアダムと、生命という意味のエバでした。それは「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」と言われたからです(2:18)。創世の初めから、人がひとりでいるのは良くないことなのです。男と女というだけでなく、根本的に人間はひとりでいるのは良くないということです。
しかし、アダムとエバが神の前に罪を犯し、本来あるべき、神と人との関係、人と人との関係が失われてしまい、そのまま、歴史をたどることになりました。そこで、神は助け手ではなく、「救い主」を私たちに送ってくださいました。イエス・キリストです。それをたとえで話されました。
◇いなくなったひとりを探し出し救う
「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう」(15:4ー6)。いなくなった一匹はひとりになってしまった人間、失われた人間のことです。イエスはその失われた人間を捜し出し、救うために来られたのです。
パリサイ人、律法学者たちは清い生活をしようとしていたので、清い食べ物を食べ、汚れた食べ物は食べない、汚れた物には自分が汚れるからふれない、ふれたら洗いの儀式をして清くするというライフスタイルでした。しかも、汚れた「者」にもふれないのです。ハンセン病などのような病も汚れているからふれないとか、取税人、罪人たちも汚れているから、家に行くことも、食事を共にすることも汚れるから、絶対しないというわけです。同胞から税金を取り立てて、ローマ帝国に治める取税人は裏切り者で汚れているとされていました。また、何かの理由で律法にてらして不浄とか、不従順な人を「罪人」と言い、宗教的に汚れているとされていました。パリサイ人や律法学者にたとい非難されようと、主イエス・キリストはこの汚れた者とされた、失われた人たちを受け入れ、このたとえを通して、メッセージをされたのです。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」と(15:7)。
事実、ザアカイという取税人がいちじくわの木の上からイエスを目にした時、むしろ、イエスの方が彼に目をとめ、彼の家に行くことになり、彼は大喜びで主イエスを迎えました。また、悔い改めました。その時、イエスはこう言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(19:9ー10)。迷える羊・ザアカイを羊飼い・イエスは見つけ出し、かついで帰ってきたのです。
◇どうしてわたしをひとりにしたのですか
主イエスは「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。」と言われた。また、最後の晩餐の時に弟子たちに「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」と安心の言葉を残しました(14:18)。この後、イエスが逮捕され、十字架に処刑されていく中で、弟子たちはイエスを捨てて逃げてしまいます。さらに十字架において、すべての人の罪によって、神のひとり子が見捨てられたのです。すべての人の罪を身代わりに背負ったイエスを神は見捨てたのです。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)と大声で叫ばずにはおられませんでした。人からも神からもひとりにされてしまった最大の悲劇です。しかし、そこまで深い所までおりて、私たちを探しだし、救ってくださったのです。私たちのとっては最大の祝福劇です。そのお方が「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」と確かなことを言われるのです。その言葉が、私には「わたしは決してあなたを捨ててひとりにはしない。」「わたしはあなたをひとりにはしない。」と聞こえてくるような気がするのです。
「百万人の福音」11月号に西山哲穂(てつお)さんの証詞が載っていました。三代目のクリスチャンですが、迷いの中を通り、生まれ変わりの経験など、色々の信仰経験をしました。細胞検査士の仕事をしながら、ゴスペルグループを結成し、コンサート活動をしていますが、その中でも、大切にしているのが、少年院や刑務所の慰問コンサートだそうです。それはお父さんが法務教官だったからかも知れませんが、キリストの愛に押し出されて、奉仕しておられます。私は彼の生き方に感心しましたが、そのゴスペルグループ名が気に入りました。“Without You”-関西弁で言うと「あんたがおらんかったらあかんねん」です。あなたはひとりでは生きられない、キリストなしでは生きられないのです。逆に神の国はあなたなしにはあり得ないのです。「あんたがおらんかったらあかんねん」、主はあなたをひとりにはしないのです。
◇わたしはあなたをひとりにはしない
そして、私たちも神のもと、すなわち出てきたところに帰ろうという方向転換が必要です。聖書の用語「悔い改め」は罪を悔いて改めるという意味ですが、方向を改める、方向転換を意味しています。神から離れて行く心の方向を神に向かう方向に、方向転換することで、神はそれを最も喜ばれるのです。人は神から離れて、ひとりになろうとする傲慢な者です。しかし、神なしには生きられない、人がひとりでいるのはよくない、神の愛のもとに帰ろうと心を神に向けるなら、神はそれを何よりも喜ばれるのです。
南米チリにおいて、2010年8月5日、地下約400メートル付近で落盤事故が発生し、作業員たちは地下約700メートルの避難所に退避しました。救助隊が同22日、避難所付近まで掘り下げた掘削ドリルに、作業員らがメモ2通を取り付けたことで生存が判明し、望みがつながれました。準備が進められ、10月12日から救出作業がなされ、14日朝、33人全員の救出が完了しました。事故発生から69日ぶりに地上への生還を果たした「奇跡の救出劇」は大成功のうちに終わりましたと報道されました。本人も家族も関係者も実に大喜びでした。案じていたチリの国民も世界中の人たちも喜びました。
そのようにイエス・キリストによる失われた者の救出劇は「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」というものです。天に喜びがあふれるのです。回復した者だけが喜ぶのではありません。天の総勢がいっしょになって喜ぶのです。あなたの存在そのものが天で喜ばれているのです。喜ばれていると思えば、生きがいがあり、死にがいもあるのではないでしょうか。地においても、天においてもWithout Youあなたなしで、真の喜びはないのです。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」。
「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」ルカ福音書15:7
小学生の時、結婚式で父母も兄弟もみな出かけ、私ひとり留守番でした。初めは何ともなかったのですが、夕暮れ時が近づいてくると、不安になってきて、自分は橋の下でひろわれた戦争孤児で、家族は面倒になったので自分をひとりおいて、どこかへ行ってしまったのではないかと疑っていました。そう思っているうちに家族が引き出物を下げて帰ってきました。一安心、思い過ごしでした。子供が行ってもとても退屈で耐えられなかったでしょうから、これで良かったのです。今、笑ってそのことを話していますが、もし、ほんとうにひとりおいて行かれたら、どれほど、不信と不安にさいなまれたことでしょうか。学校や職場でのいじめの最大の悲劇は何にもまして「ひとりにしてしまう」ということでしょう。今日の社会で、ひとりにしてしまう、ひとりになってしまうという問題が多くあります。私たちは何はなくとも、ひとりにしてしまわない、ひとりになってしまわないことに努めていきたいものです。
◇人がひとりでいるのは良くない
聖書には、神が土から最初の人を造られた後、あばら骨からもうひとり、女を造られました。最初のカップルは土地という意味のアダムと、生命という意味のエバでした。それは「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」と言われたからです(2:18)。創世の初めから、人がひとりでいるのは良くないことなのです。男と女というだけでなく、根本的に人間はひとりでいるのは良くないということです。
しかし、アダムとエバが神の前に罪を犯し、本来あるべき、神と人との関係、人と人との関係が失われてしまい、そのまま、歴史をたどることになりました。そこで、神は助け手ではなく、「救い主」を私たちに送ってくださいました。イエス・キリストです。それをたとえで話されました。
◇いなくなったひとりを探し出し救う
「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう」(15:4ー6)。いなくなった一匹はひとりになってしまった人間、失われた人間のことです。イエスはその失われた人間を捜し出し、救うために来られたのです。
パリサイ人、律法学者たちは清い生活をしようとしていたので、清い食べ物を食べ、汚れた食べ物は食べない、汚れた物には自分が汚れるからふれない、ふれたら洗いの儀式をして清くするというライフスタイルでした。しかも、汚れた「者」にもふれないのです。ハンセン病などのような病も汚れているからふれないとか、取税人、罪人たちも汚れているから、家に行くことも、食事を共にすることも汚れるから、絶対しないというわけです。同胞から税金を取り立てて、ローマ帝国に治める取税人は裏切り者で汚れているとされていました。また、何かの理由で律法にてらして不浄とか、不従順な人を「罪人」と言い、宗教的に汚れているとされていました。パリサイ人や律法学者にたとい非難されようと、主イエス・キリストはこの汚れた者とされた、失われた人たちを受け入れ、このたとえを通して、メッセージをされたのです。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」と(15:7)。
事実、ザアカイという取税人がいちじくわの木の上からイエスを目にした時、むしろ、イエスの方が彼に目をとめ、彼の家に行くことになり、彼は大喜びで主イエスを迎えました。また、悔い改めました。その時、イエスはこう言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(19:9ー10)。迷える羊・ザアカイを羊飼い・イエスは見つけ出し、かついで帰ってきたのです。
◇どうしてわたしをひとりにしたのですか
主イエスは「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。」と言われた。また、最後の晩餐の時に弟子たちに「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」と安心の言葉を残しました(14:18)。この後、イエスが逮捕され、十字架に処刑されていく中で、弟子たちはイエスを捨てて逃げてしまいます。さらに十字架において、すべての人の罪によって、神のひとり子が見捨てられたのです。すべての人の罪を身代わりに背負ったイエスを神は見捨てたのです。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)と大声で叫ばずにはおられませんでした。人からも神からもひとりにされてしまった最大の悲劇です。しかし、そこまで深い所までおりて、私たちを探しだし、救ってくださったのです。私たちのとっては最大の祝福劇です。そのお方が「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」と確かなことを言われるのです。その言葉が、私には「わたしは決してあなたを捨ててひとりにはしない。」「わたしはあなたをひとりにはしない。」と聞こえてくるような気がするのです。
「百万人の福音」11月号に西山哲穂(てつお)さんの証詞が載っていました。三代目のクリスチャンですが、迷いの中を通り、生まれ変わりの経験など、色々の信仰経験をしました。細胞検査士の仕事をしながら、ゴスペルグループを結成し、コンサート活動をしていますが、その中でも、大切にしているのが、少年院や刑務所の慰問コンサートだそうです。それはお父さんが法務教官だったからかも知れませんが、キリストの愛に押し出されて、奉仕しておられます。私は彼の生き方に感心しましたが、そのゴスペルグループ名が気に入りました。“Without You”-関西弁で言うと「あんたがおらんかったらあかんねん」です。あなたはひとりでは生きられない、キリストなしでは生きられないのです。逆に神の国はあなたなしにはあり得ないのです。「あんたがおらんかったらあかんねん」、主はあなたをひとりにはしないのです。
◇わたしはあなたをひとりにはしない
そして、私たちも神のもと、すなわち出てきたところに帰ろうという方向転換が必要です。聖書の用語「悔い改め」は罪を悔いて改めるという意味ですが、方向を改める、方向転換を意味しています。神から離れて行く心の方向を神に向かう方向に、方向転換することで、神はそれを最も喜ばれるのです。人は神から離れて、ひとりになろうとする傲慢な者です。しかし、神なしには生きられない、人がひとりでいるのはよくない、神の愛のもとに帰ろうと心を神に向けるなら、神はそれを何よりも喜ばれるのです。
南米チリにおいて、2010年8月5日、地下約400メートル付近で落盤事故が発生し、作業員たちは地下約700メートルの避難所に退避しました。救助隊が同22日、避難所付近まで掘り下げた掘削ドリルに、作業員らがメモ2通を取り付けたことで生存が判明し、望みがつながれました。準備が進められ、10月12日から救出作業がなされ、14日朝、33人全員の救出が完了しました。事故発生から69日ぶりに地上への生還を果たした「奇跡の救出劇」は大成功のうちに終わりましたと報道されました。本人も家族も関係者も実に大喜びでした。案じていたチリの国民も世界中の人たちも喜びました。
そのようにイエス・キリストによる失われた者の救出劇は「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」というものです。天に喜びがあふれるのです。回復した者だけが喜ぶのではありません。天の総勢がいっしょになって喜ぶのです。あなたの存在そのものが天で喜ばれているのです。喜ばれていると思えば、生きがいがあり、死にがいもあるのではないでしょうか。地においても、天においてもWithout Youあなたなしで、真の喜びはないのです。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」。