オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

落ち着いて、信頼すれば

2018-05-20 00:00:00 | 礼拝説教
2018年5月20日(日)主日礼拝(イザヤ書28:16、30:15)岡田邦夫

「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』」。(イザヤ30:15)

 本日はペンテコステ、五十日祭です。もともとはユダヤ教の祭りで過ぎ越しの祭りから50日目の春の収穫感謝祭でした。主イエスが十字架にかけられたのが過ぎ越しの祭りの日でした。復活して、40日後に昇天され、残された弟子たちが祈っていると、10日後の五十日祭(ペンテコステ)の日に弟子たちの上に聖霊が降りました。それで新しい時代が始まり、教会が始まりました。ですから、教会では聖霊降臨日として、教会の創立記念日として、祝うのです。
 その聖霊が降った時、弟子たちはイエス・キリストが救い主であることがはっきり解り、何ものをも恐れないほどの霊的力をいただき、福音の証人として立ち上がったのです。私たちはその聖霊によって、イエスが私の救い主であることが解り、聖霊によって、信じることも、信仰の確信も告白もできるのです。今日はイザヤ書からその信仰について話したいと思います。

◇ざわつき
 神への信仰がないと心はざわつきます。南ユダ王国にそういう時がありました。迫りくるアッシリヤ帝国に対抗しようとシリヤと北イスラエルが一緒に戦おうとユダ王国に呼びかけてきたのですが王は断ってしまいます。すると相手は怒って、シリヤとイスラエルが連合してユダに攻め込んでくるという情報が飛び込んできました。すると「王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した」のです(イザヤ9:1-2)。
 この事態に預言者イザヤは神からのメッセージを告げます。決して責めてはこない。だから、「気をつけて、静かにし、恐れてはならない。…心を弱くしてはならない。…もしあなたが信じないならば、立つことはできない」。事実、北イスラエルはその65年後、アッシリヤ帝国軍に敗れ、国をなさないようになるのです(イザヤ7:8)。神は最善にしてくださるし、お救いくださるのですが、それを受け止め、受け入れるという私たちの信仰が求められます。
 絶望の淵に立たせられたり、気になることが起こったり、人生の最後を迎えるようなこともあります。誰でも心がざわつくものです。そこにサタンが付け込んで落胆の沼へと引きずり込もうとします。しかし、聖霊が促します。気をつけて、静かにし、恐れてはならない。心を弱くしてはならない、主のもとに行くように、祈るように、み言葉を求めるようにと、声なき声で導かれます。

◇落ち着き
①30章15節
 信仰に関して、同じ内容の言葉が28:16にあります。見てみましょう。
「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』」(30:15)。
 私にとって、このみ言葉は牧会していく中で、何度も何度も与えられ、多くの人を励まし、救ってきたか、数え切れないほどです。手術を前にして、困難な事情を前にして、受験を前にして…実に様々でした。Tさんは男の人では珍しい乳ガンと診断され、手術することになりました。前日、私と家内で、このみ言葉を持って、病院にお見舞いに行きました。そして、聖霊に促されて言いました。この聖書の言葉を信じて手術に臨んでください。必ず、主はいやしてくださいます。手術が成功したら、洗礼を受けましょうね…と。すると彼は廊下の電灯が十字に見えると指さしました。それが彼流の信仰の告白なのだと受け止め、主を信じて祈りました。手術は短時間に終わり、ガンはきれいに摘出されました。退院後、受洗準備をして、約束した通り、洗礼を受けられました。後から聞いたのですが、万一のことを覚悟しているが、手術が成功したら、受洗するという手紙をご家族に渡されていたとのことでした。
与えられた「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」のみ言葉が真実であると私たちは知らされたのでした。しかし、時にはいやされないことが神のみこころであることもあります。その病に負けずに穏やかに乗り越える力が与えられる恵みがあるのです。

この聖句の後にさいわいなみ言葉が続きます。「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである。シオンにおり、エルサレムに住む民よ、あなたはもはや泣くことはない。主はあなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される。主がそれを聞かれるとき、直ちに答えられる」(30:18-19)。
主はこちらが祈る前から待っておられ、祈るこちらも主を待ち望むという、すなわち、お互いが「待つ」という、信頼関係が述べられています。相手を思う、たいへん麗しく、素晴らしい信頼の関係です。聖書を通して、「神について」知ることができます。しかし、信仰というのは「神を」知ることです。神ご自身を信頼すること、私という人間の全部を受け入れてくれる主イエス・キリストに信頼することです。唯一の神として、人格的に信頼することです。幼子が母親に全面的により頼むように、理屈抜きで単純にすなおに信頼するのです。

②28章16節
幼子が3歳ごろまでに、愛情をもって育てられれば、精神的に基本的信頼というものが身に付き、その後、健全に成長し、精神病になりにくいと医師が言っています。お腹がすいて泣いている時にお母さんが抱っこをして、授乳してくれるとか、寝ていて目が覚めた時にそばに誰かがいてくれて声をかけてくれるたかが大事だそうです。そういう愛情が100パーセント無理ですが、およそ60パーセントあれば、基本的信頼がその子の中にできていくそうです。
しかし、神の私たちに注ぐ愛情というのはまさに100パーセントです。28章16節を見てみましょう。「見よ、わたしはシオンに/一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』。」(28:16)。家の建設で土台がしっかりすえれば、嵐がきても、建物は揺れ動きません。そのようにイエス・キリストはユダヤ人ならびに私たち人類に捨てられた、いえ、私たちの罪をになって、神に見捨てられたのですが、その捨てられたイエス・キリストという石が私たちの救いの揺るぎない土台となられたのです。それが十字架の救いです。まさに全身全霊の愛が私たちに注がれたのです。この御方の愛を受け入れるなら、基本的信頼というよりは根本的信頼が生まれてくるのです。「信ずる者はあわてることはない」のです。

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