小沢一郎は無罪だ。
現行法では、そう判断せざる得ない。そんなことは裁判が始まる前から分かっていたことだ。司法関係者も分かっていた。だが、限りなく黒に近い灰色の無罪であることも分かっていた。
だからこそ検察は当初、起訴を見送った。だがマスコミに煽動された世論に押されて、無理矢理に起訴に持ち込んだ。司法が大衆に迎合しての裁判開始であった。世論の支持があれば、有罪に持ち込めると見込んだらしい。
これには前例がある。小沢の元・親分でもあった田中角栄がそれだ。反対尋問なしの一方的な断罪により、田中角栄は有罪とされた。アメリカの陰謀だとか、いろいろ噂されたが、検察が世論の後押しを受けて正義の味方役を演じたがゆえの有罪判決であった。
何度か書いているが、田中角栄の裁判は異常なものであった。いくら外国人の証人喚問とはいえ、被告側からの反対尋問なしの証言を証拠に取り上げた裁判なんざ、中世の魔女狩り裁判と大差ない。
司法が大衆に迎合し、司法を捻じ曲げた悪しき実例である。
その裁判を実際に自分の目で見て政治家としてのキャリアを重ねた小沢一郎だけに、容易に尻尾をつかませるわけがない。資金源も含めて、限りなく黒に近い灰色の無罪を勝ち取る自信はあったのだろう。
だが、小沢を嫌う政治勢力とマスコミの煽動に踊らされた大衆の的とされたがゆえの裁判であった。ろくでもない裁判であったが、唯一効果があったと認められるのは、小沢一郎を政権与党の中心から遠ざけることだけであろう。
無法な裁判で有罪とされた田中角栄が、怨念に凝り固まって目黒の裏将軍と化したように、小沢が怨念を抱えて今後の政局をひねくり回すのが目に見えるようだ。いやな予測だが、日本の政局はより一層混迷を深めると思う。
その混迷を作り出すのは、間違いなく小沢一郎だろう。政治家としてやるべきことよりも、自らを追いやった奴らへの恨みから政治を動かそうとする小沢と、それに抵抗し反撃しようとする政治家たちが日本の政治を停滞させる。
彼らの視点には、長きにわたるデフレ不況に喘ぐ国民の姿が目に入らない。震災復興、原発処理、景気回復といった国民の望みは遠ざけられ、小沢と反小沢といった内輪もめに政治家としての力を傾唐オている今のが今の政治だ。困ったことに、この混迷は今後も続く。
この状況を作り出したのは、不況に苦しむ国民に目を向けない政治家も悪いが、反小沢の意志の下に国民を煽動したマスコミも悪い。その煽動に悪乗りした司法関係者も同罪だ。
更に付け加えれば、現行の政治資金規正法はザル法だ。抜け道が多すぎる。ここを改正しようとしない国会議員たちに小沢を非難する資格はないと思う。
繰り返すが、小沢は現行法では有罪とはできない。マスコミがすべきことは、その灰色の事実を国民の前に示すことだけでいい。その事実を有権者がどう判断するか、それだけで十分だ。
自分たちが政局を動かし、作っていくのだとの野望に燃えたマスコミのミスリードが、国民不在の今の政治を作り出した。現状で判断する限り、日本の景気はいまだ回復基調へは乗らないと予測できてしまう。
3年前の衆議院選挙が、これほど日本に不幸をまき散らすとは思いもしなかった。民主主義って奴は、つくづく怖いと思いますね。
お風呂、好き?
日本人でお風呂が嫌いなものがいようか。そう思っていたが、世の中には奇特な人がけっこういて、お風呂どころかシャワーすら碌に浴びない無精者もいるようだ。高温多湿な日本で、お風呂に入らないことは犯罪に近いと思っている私にとって、奴らの体臭は悪夢に近いものがある。
もっとも学生の頃、3週間近い長期登山をしている時は、まったく風呂に入らない毎日であった。これは致し方ない。水は貴重品であり、アルプスの稜線上だと、山小屋で水を買うことさえあった。
稜線から400メートル近く下り、往復2時間かけて水を汲みにいったこともある。水場がない藪山だと、一人8リットルを背負っていたことさえある。水は命を支える貴重品だと痛感していた。
そんな私でも、風呂に入らないでいる自分の姿が、如何にむさ苦しく、野犬のような臭いがしていることは自覚していた。白状すると、その野人状態でいるときは、ほとんど気にならない。自覚するのは、山を下りて里へ出てきた時だ。
とりわけ観光地化している里へ下山した時は最悪だ。お洒落な服装の観光客から、あからさまに敬遠されるのは致し方ないが、逃げることないだろう。口元にハンチィーフあててる品のいい老婦人、あんた失礼だぞ。
まぁ、場所が場所だ。誰だ八ヶ岳山麓の長閑な山里を、あんなコテコテの観光地にしやがったのは。今でこそ廃屋が立ち並び、寂れた観光地以外のなにものでもないが、バブル期前後の清里は、私ら山屋にとって鬼門に近かった。軽井沢も似たようなもんだ。
しかし、幸いなことに日本の山里には、たいがい温泉がある。事前に調べておいた温泉や銭湯に入って、数週間ぶりの垢を落として風呂に入る快楽は、なにものにも代えがたい悦楽であった。
もっとも、世界的にみると風呂に全身を浸かって入るスタイルは、例外というか特異な風習であったようだ。なぜなら水は貴重品だからだ。
地球上にある水の9割近くは海水であり、残りの真水のうち人間の飲料に適するのは1%程度である。水は生命維持に欠かせない貴重なものであり、その水を温めて全身を洗うだけでなく、全身を浸かるなんて王族の贅沢に等しい。
古代の四大文明のうち、大規模な入浴施設があったのはインダス文明ぐらいだが、後の研究でこれは神殿の清めの儀式に使われた施設だとの説が濃厚で、一般的な入浴施設ではないらしい。余談だが、四大文明なんて概念は時代遅れで、実際は20から30ぐらいの文明があったことが判明している。いい加減、歴史教科書書き換えろよ。
それはともかく、入浴という概念を一般化したのはローマ帝国からだと考えて、ほぼ間違いないようだ。この土木技術に優れた古代の帝国は、さまざまな遺跡を今日に残しているが、公衆浴場をこれほどまでの多く残した文明は、ほとんどないと言っていいようだ。
そのローマのあるイタリア半島自体は、それほど降雨量の多い地域ではない。それゆえ遠方から水路を引いて、ローマなどの諸都市に公衆浴場を設けた。なんで、そんなことをしたのかというと、やはり「パンとサーカス」政策同様、大衆からの人気を得るための方策であったらしい。
入浴という極めて贅沢な行為を、ローマ市民に楽しませることにより、王の権威を高める目的であったらしい。ただ、残念なことにローマ帝国崩壊以降、水は貴重品となってしまい、中世にもなると廃れてしまった風習となってしまった。
やはり水は貴重なもの。全身を浸かっての入浴なんて、やはり王侯貴族の楽しみであったのだろう。
ところが、世界で唯一、その王侯貴族の悦楽を庶民が楽しんでいた国がある。それが我が日本だ。もともと高温多湿な国であると同時に、きわめて降雨量の多い地域でもある。しかも山岳地帯が多く、森林も豊富で保水力が高い。流れが速くて、清潔な川水が多く流れていることも大きい。
しかも、世界屈指の火山地帯だ。地震と噴火という天災が伴う不幸もあるが、日本全国どこを掘っても温泉が噴き出す点は見逃せない。おかげで古来より、温かい温泉に浸かって安らぎを得ることが、珍しくもない稀有な国となった。
すでに江戸時代には銭湯が一般化し、庶民の楽しみとなっている。こんな国、世界中見渡しても、ほとんどありません。豊富な降雨量、豊かな森林といった天然の環境に恵まれたことも大きいが、平地が少ないがゆえに都市化が進みやすく、施設の集約化が可能であったことも大きい。
実のところ、21世紀を迎えた今日でさえ上下水道の整備は、発展途上国のみならず先進国でも大問題である。真水が貴重な資源である現実は、今も昔も変わりない。都市で蛇口から出る水を、そのまま飲める国はそれほど多くないのが実情だ。
にもかかわらず、相変わらず日本人は、その貴重な水を風呂に浪費する。私も若い頃ずいぶんと世話になた銭湯は数を大きく減らしている。しかし、スーパー銭湯や健康ランド、スパなどの都市型温泉施設は今も盛況だ。
それは外国人には珍しいようで、お台場の大江戸温泉や、箱根のユネッサンなどには観光客でにぎわっている。私なんぞ、地方に旅行に行くときは、ビジネスホテルよりも24時間のスパを利用しているぐらいだ。
お風呂王国、日本万歳である。
そんな日本にタイムスリップしてきたのが、古代ローマのテルマエ(入浴施設)の設計技師。見るもの触るもの、ビックリの銭湯に驚愕する古代ローマ人が、そのアイディアを活かして新しいテルマエを設計して大人気になる。
それは皇帝の目に留まり、やがて権力闘争にまで巻き込まれる一大騒動となる。そんな挙動天地のお話が、表題の漫画である。とにかく面白い。漫画賞も受賞したようだが、ついには映画化されてしまい、しかもヒットしているらしい。
映画も先日、見てきましたが、なかなか悪くないと思います。でも原作の漫画も読んで欲しいな。ほんと、楽しいですよ。
税理士としての仕事の一つに、相続財産の評価査定がある。昨年、民主党は税制改正法案のなかに相続税の増税を組み込んでいた。
もともと、日本では相続があっても、相続税を納めるような相続は100件に4件程度しかない。そこで財務省は、100件に7~9件程度は、相続税の納付があるように法改正を望んでいた。つまり非課税枠を引き下げる法案であった。
だが、如何なる経緯か知らないが、平成23年度の税制改正では、相続税の増税案は継続審議とされていた。別に財務省が諦めたわけではなく、継続審議なのだから、いずれ復活して国会に提出される可能性はある。
そのせいで相続税を心配する方々からの相談は増えた。おかげで、昨年から相続税の試算の依頼が少なくない。相続税を心配する方の多くは、所有する不動産の評価額が高く、納税資金に不安を感じる場合が多い。預貯金ならば取り崩せばいいが、不動産は簡単には換金できない。だから、予め納税すべき相続税額の概算を知っておきたいそうだ。
それほど難しい仕事ではないが、油断できない仕事でもある。基本的には路線価で評価するので、その土地の謄本や地形図などがあれば、概算でならば簡単に出来る。資料さえ揃っていれば半日程度で出来る仕事だ。
しかし、ここに落とし穴がある。不動産、とりわけ土地という奴は地図をみただけでは分らない。例えば傾斜地にある土地とか、あるいは土地の上に高圧電線が通っていたりといった評価減額の要素があることもある。これは現地に行ってみなければ分らない。
実際、行ってみて現場を見てみて初めて分り、慌てて評価のやり直しをした経験は何度もある。現場に行くことは、極めて大事だと思う。
昨今、インターネットなどで現場に行かなくても、かなり詳細な情報が入手できるようになったのは事実だ。でも、やっぱり現場に行かねば分らないことは少なくない。
これは土地評価の仕事だけではなく、様々な場面で起こり得ることだと思う。だから私は自ら足を運び、自分の目で見て、話を直に聞くように心がけている。
先月のことだが、ある方からの紹介があり、北関東にある某避難所にボランティアに行って来た。主に福島からの避難している方々が滞在している避難所で、放射能のために帰郷が叶わぬため、震災後一年以上たっているにもかかわらず、未だ避難所暮らしを続けている人たちだ。
私は実質ドライバーの立場でボランティアの人たちを運ぶだけだったが、それではなんなので、スーパーで駄菓子などをダンボール3箱につめて持参した。多分、生活必需品は足りていると思うので、必需でないものが喜ばれる気がしたからだ。
私の予想は大当たりで、駄菓子の段ボール箱には人が集まり、午前中で空っぽになってしまった。高齢者が多く、懐かしい味だと喜ばれたので、私も嬉しかった。やはり予想通り、生活必需品はとりあえず足りているようだ。
暇になってしまったので、周囲を見てまわり、避難者の方数人と話をしてみた。長い避難生活に疲れたのが、諦め気味の感じを強く受けた。同時に鬱積している不満が多いことも分った。
不満はいろいろあったが、目だったのは将来への不安だ。行政の手助けや、民間のボランティアなど様々な助けがあるが、この先どうなるのか分らない不安が、心も身体も蝕んでいるようだ。
多少でも元気な人たちは、政治に対する不満をぶちまける。とにかく現場の声が政府に届いているとは思えないことに、どの避難者も強く不信感を抱いている。
当然だと思う。今の与党民主党は党内のことばかりに目が行って、肝心の国民のことがなおざりになっている。いや、民主党ばかりではない。次の政権を担えるとほくそ笑んでいる自民党も似たり寄ったりだ。
だいたい復興プランの呈示が遅すぎる。慎重ならばまだいいが、実際のところは意見聴取不足であり、根回し不足でもある。官僚不信が根強い管・前首相が役所をうまく使いこなせなかったことも大きく響いている。
また後任の野田首相は、財務省の強い後押しがあってこその政権だと自覚しているので、霞ヶ関の意向にきわめて忠実だ。今に始まったことではないが、現在の霞ヶ関には、地方の実態が上手く伝わっていない。
官官接待を廃止して、非公式な折衝の場をなくしたため、現場の本音が霞ヶ関に伝わっていない。おまけにキャリア官僚たちが、現場に出向くのを厭う傾向が近年強く見受けられる。
霞ヶ関のお偉いさんたちは、現場の情報ではなく、よく書かれた、上司に煙たがれない報告書だけを頼りに政策を立案している。だから現場の本当の需要を把握していない。
だからこそ、せっかくの復興予算も空回りしている。政治家に現場に出向いて陣頭指揮をとれるような力量のあるものがいないことも大きい。今の二世政治家たちは、育ちも良く、スーツに泥が跳ねて汚れ、革靴が泥まみれになるのを厭わなかったドブ板選挙とは無縁のスマートな方ばかりで、ますます現場の知識に乏しい。
おかげで現場の人たちは欲求不満がたまるばかり。これは避難者ばかりでなく、村役場や町役場の役人たちからも共通している不満でもある。現場の困惑と不満を知らずして、復興を語るなと言いたい。
現場の実情に合わない政策の齟齬は、民主党政権に限らず近年目立つ悪しき傾向でもある。政治家や官僚は空調の効いた快適なオフィスで、イエスマンに囲まれた安直な仕事に安住するな。現場に出向いて、胸襟開いて市井の声を拾い上げろ。
政治ってやつは○×式の答案用紙を埋める作業ではない。前例を真似れば済む問題でもない。向かい風を浮黷驍ネ、国を支えるのは自分たちだとの気概をもって現場に臨んで欲しいものだ。
溺れる者は、藁をもつかむ。
警句として使われる言葉だが、正直あまり好きな言葉ではない。当然だと思うからだ。
私は溺れた経験こそ、ほとんどないが、それでも雪崩に巻かれたり、逃げ場の無い北アルプスの稜線上で雷雲に囲まれたりと、結構危ない経験はしている。
だから実感として分る。命の危険がひしひしと迫る状況下ならば、藁だって何だってつかみたくなるのが人間の本能だと思う。危機的な状況下で、的確な判断を下し、そ
れを実践することは相当な訓練を積まなければ無離だと思う。
だから相手を騙そうとする時は、危機的な状況を演出して、相手がパニックに陥るように導くことが大切だ。相手が混乱すればするほどこちらには有利になる。
表題の作品において、犯人が作り上げた騙しの構図はミステリー界屈指の悪辣さだ。鴨にネギを背負わせて、タレまで濃厚にぶっかけて、じっくりやんわりといたぶる。
しかも勧善懲悪ではなく、しっかりと逃げおおせる。無実の哀れな鴨を刑務所に残して、だ。あまりに悪辣で、容赦なく、絶望的な犯罪の構図。
楽しめる作品ではないと思う。だが一度読んだら忘れられないことも確かだ。溺れる者は、藁をもつかむ。分っちゃいるが、それでもつかんでしまうのが人間。
その人間の弱さをとことん追求した傑作だと思うが、好きな作品だとは言えませんね。あまりに残酷に過ぎるよ。
なお、この作品は映画化されていますが、小説と映画では最後が異なります。もし映画しか見てないようなら、あまりの違いに驚かれると思いますよ。
だとしたら、平時の功臣、乱世の無能が日本原子力保安院のトップであった寺坂である。福島原発の事故発生3日後に「私は事務系なので、技術的なことは分らない」と言い訳して官邸を後にして逃げ出した卑怯者である。
トップがこの有様なので、当時福島原発に駐在していあ保安員たちは、独断で原発から退去している。おかげで政府は、原発の状況については東京電力しか情報源がなくなった。
福島原発の事後対応の失敗は、これだけが原因とは言わない。しかし危機の際に最も重要なことの一つは、状況を冷静に俯瞰することだ。適切な情報あってこそ、適切な行動がとれる。
その命綱ともいえる情報を政府に提供する義務を放棄した寺坂・日本原子力保安院長(当時)の罪が如何に重いか、誰でも分ると思う。
私が呆れてものが言えないのは、この寺坂の卑怯な行動が判明したのは、事故から一年近くたってからであり、それまで政府はこの失態を国民の目にさらすことを避けていたことだ。
寺坂は既に退任しており、現在は無関係だとマスコミ各社から逃げ回っているらしい。日本原子力保安院は既に解体が決定しており、新組織が今後の原子力行政を仕切るようなので、寺坂に対する責任追及は手打ちにしたい意向らしい。
福島原発の事故の対応の悪さは、管総理(当時)の無能、無策、無茶に大きな責任があると私は考えている。だが原子力行政のトップの醜態が、管をしてパニックに貶め、怒鳴り散らすしかやることが無かったことには、いささか同情を禁じえない。
管総理の最大の欠点は、官僚機構を使いこなす器量に欠けたことだが、当の官僚機構が職場放棄しているのでは、使いこなす以前の問題だと思う。未確認だが、職場放棄しても高額な給与はしっかり全額貰っているらしい。まったく抜け目がない。
ちなみに寺坂はキャリア官僚である。優秀な成績で東京大学を卒業して、官庁を無難に卒なく渡り歩き、日本原子力保安院に天下りしている。震災と原発事故さえなければ、超大物官僚OBとして霞ヶ関に睨みを効かし、高額な報酬と退職金で、豊かな老後を謳歌していたはずだ。
この様な危機さえなければ成績優秀、仕事に瑕疵ない有能な官吏として名を残したはずのエリート様であった。だが、東北大震災と福島原発の事故が、エリートの化けの皮を剥がしてしまった。
昔から私のブログを読んでいる方には、耳にタコかもしれないが、それでも敢えて公言したい。日本のエリートの最大の欠点は、結果責任を取ろうとしないことだ。権限は手放さないが、その権限を行使しての結果には無責任であることだ。
失敗を認めず、失敗がないのだから責任をとる必要がない。これが日本を牽引する霞ヶ関のエリート様の正しき在り様である。だからこそ、寺坂・前日本原子力保安院長は早期退職して退職金をせしめ、現在は官庁の顧問様に収まっている。
緊急時にその所轄官庁のトップが逃げ出しておいて、しっかり退職金を払い、いずれは叙勲する。このような職場放棄のエリートの責任追及をしない国ってどうなんだ?よくよく考えて欲しいものだ。