ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

五月病

2012-05-24 11:20:00 | 日記

五月病。

よくいわれることだが、新学期、新社会人を迎えた若者が5月になると、やる気を失いうつ状態に陥り、登校拒否や出社拒否に至るとされる。

白状すると、私は一回も五月病にかかったことがない。新しい環境、新しい人間関係に悩んだことがないわけではない。ただ、それほど意気込んだこともないので、理想と現実のギャップに悩むことが少ない上に、あまり夢をみない乾いた現実志向が強いので、落ち込むことに意義を見いだせないだけだ。

そりゃ落ち込むこともある。でも、落ち込んだって新たな展開が期待できるはずもないのは、幼い頃から分かっていた。大体、小学生低学年の頃から、新しい担任教師や新しいクラスメイトとのトラブルには慣れていたので、期待もしない代わりに落ち込む必要もなかった。

だからといって、無味乾燥な人生を送ってきたわけでもない。現実志向が強いと書いたが、私の本性は夢見がちな暢気ものである。つまらぬ授業に耳を傾けるぐらいなら、空を呆然と眺めて雲に空想を描くほうが楽しい。なにが書かれているか分からない黒板を写すより、写すふりして空想を絵にして描くほうが楽しかった。

つまるところ、過酷な現実よりも、自分の甘ったれた空想世界に逃げ込むだけの卑怯な子供であったのかもしれない。

妙な言いかただが、家が裕福で金に悩むことがない環境であったのなら、私は文字通りろくでなしに育った可能性がある。ただ、現実には貧乏な家庭であり、中学に入る前から、中卒で働くことが当たり前だと思っていた。

生きていくためには金が必要で、金のためには働かねばならないことは身に染みて分かっていた。盗みや詐欺などは、警察に目を付けられ、かえって不自由になることも知っている性悪なガキでもあった。

悪さをするなら巧妙に、しかも覚悟を決めてやらねばならぬと知っていた。あの頃、私は日の当たる人生を歩むことは、自分には無関係だと思っていた節がある。誤解を招くと困るので断言するが、私の親も祖父母たちも堅気の人間であり、まっとうな生き方をしていた。

にもかかわらず、私は自分はそうはならないだろうと漠然と考えていた。理由は今も分からないが、高校や大学に進む真面目っ子たちとは違う生き方をすることを自覚していたがゆえに、人生の裏街道を進むことが当然だと思い込んでいたのかもしれない。

あの頃、貧しい家庭の子供は朝早く起きて、新聞配達や牛乳配達などをして家計を助けるのが当たり前であった。ところが私はやったことがない。家計を助ける気持ちだけならあったが、まじめな仕事はする気がなかった。

これは小学校に入る前にやっていたライフルの薬きょう拾いや、打ちっぱなしのゴルフ場からのゴルフボール拾いなどで稼ぐことの醍醐味を知っていたからで、真面目に働くよりも、面白く稼げる裏仕事をやっていた経験からだと思う。

事実、中学に入ってからやった仕事といえば、賭場の掃除兼見張り役や、夜店の店番と片付けなど、あまり一般的でない仕事ばかりであった。このまま、この世界に身を置くものだと勝手に決めつけていた。

本当のところ、裏社会はかなり厳しい世界だ。しくじれば鉄拳制裁が当たり前であり、子供であろうと仕事は仕事。それなりの責任を負わされる厳しさがあった。見知らぬ年長の仕事仲間との付き合いや、道理が通じない仕来りの世界の厳しさは、大人子供関係なく強いられる世界でした。

だから五月病なんていって、さぼれる世界でもなかった。無理矢理首根っこ捕まれて、現場に立たされるのが当然だった。あの人たち相手では、家に逃げ込んだって無駄だと知っていた。だから五月病とかいって学校や会社を休む若者には、まるっきり同情を感じない。

冷淡だと謗られるかもしれないが、生きるのに必死だと悩んでいる余裕なんて持ちえない。

私自身は離別した父からの経済的援助を受けて、あの世界から抜け出てしまったので、殊更五月病には冷淡であるのは確かだ。あれは贅沢病だと思っている。本当に生きるのが厳しい世界に身を置けば、悩んでいるだけなんて贅沢だと言わざるえない。

肩に食い込む荷の重さと、足腰にずっしりとくる疲労感。床に就けば疲れ果てて、悩む暇もなく熟睡するしかない過酷な世界。私は幼い頃から、そんな世界を垣間見ることが多い環境で育ったので、悩める余裕があることさえも贅沢に思っていた。

さすがに堅気の世界に身を置いて数十年。堅気には堅気の苦労があることが分かるし、人間関係が与える苦悩が肉体的苦痛よりも辛いことも分かる。分かるけど、それがどうした!とも思っている。

人間、生きてさえすれば、なんとかなる。布団にもぐり込んだっていいけれど、いつかは出なくちゃならない。出るなら早いほうがいい。甘ったれた心に鞭打って、まずは外に出てみて歩き出せ。

当てなんてなくても生きていけるさね。まずは体を動かして、肌で風を感じ、陽のぬくもりを思い出し、空腹に腹を鳴らしてみろ。案外、人間ってやつはしぶとくて、借金があろうと、孤独であろうと生きていける。

それでもダメなら、足掻くだけ足掻いて、無様に惨めにくたばろうじゃないか。どうせ、そんなに長生きできやしない。とりあえず、のた打ち回れ。案外、泥にまみれ、傷だらけで手を開くと、そこに答えがあったりするものです。

はっきり断言できるのは、家に閉じこもっても解決策は見つからないこと。それだけは確かだと思います。

本気で悩んでいる方には、むごい言いようだとは思います。でも机上の空論を語ったつもりはありません。二十代の若さの盛りの大半を、病気療養のために閉じこもっていたからこそ確信をもって言えるのです。

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蒸気機関車

2012-05-23 16:57:00 | 社会・政治・一般
鉄道が出来たことにより、都市化は急速に進んだ。

鉄道ができる前に、大量の物資を運べるのは船だけだった。だからこそ、古来より大都市は大河のほとりに作られた。都市というものは、本質的に物資を消費する機能が勝る。工場があっても、その原材料は他から運び込まざるえない。

それは食糧から水、そして人に至るまで、都市は本質的に外部から支えられないと存続しえない。だからこそ、河川や運河が都市には必要不可欠であった。鉄道以前には、大量の物資を運ぶのは船に頼らざるえなかった。馬での輸送は物理的に限界が低く、それゆえ如何に強大な軍事力を持とうと、遊牧民の国家は大都市を築くことはできなかった。

大都市を築くには、大河の畔におくほかない。そこに定着することで遊牧民出身の王が都市を築くことが出来た。川の水は飲料水として重要だが、それに劣らず物資の流通を支える大動脈として船舶を利用できたことが大きい。

しかし、産業革命により火力を動力源として用いた鉄道がすべてを変えた。蒸気機関車の登場により、鉄道という陸路での物資の大量輸送が可能となった。鉄道は食糧、生産財、鉱業資源のほか、人間をも大量に移動させた。

なかでも着目すべきは、軍隊の大量高速移動が可能になったことだ。近代国家、とりわけ帝国主義国家の進展と鉄道建設は、きわめて密接な関係がある。鉄道は、文字通り歴史を変えた発明の一つだ。

ちなみに蒸気機関車は、やがてディーゼル機関車へ、そして電気機関車へと進歩していったが、人々の郷愁を誘うのは、いつの時代も蒸気機関車であった。たしかに電気で動く今の電車や、ディーゼル機関車には、蒸気機関車のような力強さを感じることはない。

石炭を燃やし、蒸気を使って車輪を駆動させる機関車には、ある種の力強さを感じる。その動作の仕組みが分かりやすいが故に、共感しやすのかもしれない。なにしろ、この蒸気機関車って奴を愛好するマニアは世界中にいるのだから、相当な魅力があるのだろう。

もっとも私自身は蒸気機関車に乗ったことはない。TVや映画などの映像で見た程度で、あとは鉄道博物館などで見かける程度だ。

いや、よくよく思い出すと、高校まで過ごした三軒茶屋の近くにある世田谷公園に、蒸気機関車が置いてあった。漆黒の機関車は、私たち子供たちの絶好の遊び場であり、上ったり潜ったりして遊んだ記憶がある。

もっとも、この機関車、鉄道マニアに狙われたようで、年を経るたびに部品が減っていく。そのせいで、妙にうらぶれた風情があった。好きな遊び場を荒らす鉄道マニアに対して、私があまり好感を持ちえないのは、この盗難被害にあったと思う。

この鉄道マニア、通称「鉄ちゃん」とかいうらしい。私は車や飛行機、船舶のプラモデルは好きだったが、この鉄道マニアに対する悪印象のせいで、鉄道模型には興味を持たなかった。

また、この「鉄ちゃん」とか言われる人たちが大事にしている時刻表という奴にも、それほど関心を持ちえなかった。いささか理解に苦しむが、この時刻表を後生大事に抱えて、全国を鉄道で旅することが好きな人たちもいる。全ての駅に行くことが夢だと言われて、答えに窮した経験がある。正直、理解できない。駅なんて、どれも似たり寄ったりに思えるからだ。駅を降りて、その地の風情を味わうなら、少しは分かるのだが、駅に降りて、すぐ乗って、それで満足なんて・・・

まぁ、蓼食う虫も好き好きというから、あまり人様の趣味を馬鹿にするものではない。ただね、盗難は盗難。子供たちの遊び場の遊具まで壊していくんじゃない。あれは子供心にも不愉快であった。

それはさておいても、鉄道は現代文明を代表する利器である。船舶、自動車、航空機器といった従来の馬に代わる交通手段を得たことにより、人類は飛躍的に発展した。それは武器を運び、兵隊を運び、時には武器そのものにさえなった。

私は博物館を回るのが好きだが、時折物足りなく思うのは、ハードの展示だけで終わって、そのハードが如何に人類の歴史のなかで重要な役割を果たしたのかが、十分に説明されていないと不満を感じることがあるからだ。

黒光りする力強い蒸気機関車にロマンを掻き立てられるのは良い。だが、それだけで終わって欲しくないな。道具は目的を達成するための手段。人類の歴史のなかで、いかにその道具がつかわれてきたのか。そこまで考えさせてこその博物館だと思うな。
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Facebook上場に思うこと

2012-05-22 12:18:00 | 社会・政治・一般
過大評価だと思う。

先だってアメリカの株式市場にFaceBookが上場した。どえらい株価がついて騒ぎになっているが、私はいささか批判的にみている。

SNSとしての魅力を否定しているわけでないが、しょせんはコミュニケーションの一手段に過ぎない。そう遠くない将来に、SNSに替わるツールが出現して、とってかわられるに違いないと考えているからだ。

かつてのAOL(アメリカ・オン・ライン)がそうだった。インターネット・プロバイダーとしてアメリカを代表する企業であった。使いやすいツールであり、私なんぞその独特なメールシステムも含めて完全にはまってしまったぐらいだ。

だが、AOLの最大の魅力は会員同士のチャット機能にこそあった。インスタント・メッセージ(通称IM)こそがAOL最大の魅力であった。これを他のプロバイダーに真似されたことで、AOLは大きく価値を下げた。

その後、AOLは他の会社と合併をしたりしてみたが、いずれも失敗に終わり、必然的に株価は大きく値を下げた。

SNSの代表格であるFaceBookも、本質的には似たようなものだ。便利な道具ではあるが、やはりコミュニケーション手段の一形態に過ぎず、独占的でも先進的でもない。

私はやっていないので、断言するのことには躊躇いを感じるが、おそらくはツイッターの方がより先鋭的だと思う。やもするとFaceBookは株式を上場した時点がピークで、あとは下り坂をゆるやかに落ちていく可能性すら高いと思う。

これは検索ソフトとして最大手であったYAHOOにも言える。誰がGoogleに抜かれるなんて予想していただろうか。いくら便利でも道具は道具。その機能が便利な間だけもてはやされる。いずれは、もっと便利な道具が出てきて、その第一人者としての地位を追われる。それが市場経済というものだ。

もう一度確認するが、FaceBookにせよGoogleにせよ、その使いやすさ、便利さは確かだが、決して革新的なわけではない。コミュニケーション手段としての一形態に過ぎず、電話や無線の延長線上の技術に過ぎない。

つまり文明を大きく変えるだけの力はない。実のところ、現代文明は既に停滞期に入っている。産業革命以来、人類を大きく飛躍させてきた技術的発明は枯渇している。火力から始まった技術革新は、化学、電気、原子力と花開いたが、20世紀後半になると限界に達している。

バイオやコンピューター、ITに期待する人は多いと思うが、残念ながら文明を牽引するだけの力はない。私が学生の頃、これからは産業の米である半導体が主役だなんて新聞紙面に勇ましい記事が載っていたものだが、現状をみればそれが短い期間であったことが分かると思う。

つまるところ、便利な周辺技術に過ぎない。石油化学製品のように文明を一新させるような革新的な技術は、すでに半世紀近く見つかっていない。バイオにせよコンピューターにせよ、その基礎理論は20世紀前半に確立している。今あるのは、その発展上に過ぎない。

だからこそアメリカは、グローバリズムの名のもとに、かつての発展途上国の発展に賭けて投資を進めている。もはや国内は開発の余地はないと見きっているのだ。そのような悲観的な状況下で、新たに生まれ、巨大なシステムに育ったのがFaceBookだ。

しかし、その実態はインターネット上の便利なコミュニケーション・ツールに過ぎない。そんなFaceBook程度の会社の上場に、多額の資金が集まってしまうのだから、ネタ枯れしているからこその現象だと思っていい。

間違っても大事な虎の子資金を投じるようなことはしないほうが賢明でしょう。
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スティームタイガーの死走 霞流一

2012-05-21 11:59:00 | 

残念ながら、はずれ。

私がわりと当てにしているのが「このミステリーが凄い」のランキングだ。その2002年の第四位が表題の作品。昨今、やたらと長編が多いミステリーに挑むがごとき短さで、これはこれで評価できる。

問題は中身だ。アイディアてんこ盛りなのは間違いない。幻の蒸気機関車に、密室殺人、風水に、政治家と企業家と材料は多彩にそろえている。しかも、ミステリー・ファンならにやけずにはいられないほど、いろんなアイディア、パロディが組み込まれている。

だからこそのランキング4位だと思うが一つの小説としてみると、物足りなさが強い。アイディアの一つ一つに必然性が薄くて不満を抑えきれない。章を短く区切り、読みやすいのは確かだが、その掘り下げが不足していて、印象が薄すぎる。

本当に多彩なアイディアを盛り込んでいるだけに、この物足りなさは致命的といっていい。ライトノベルだって、もう少し掘り下げるぞ。

そんな訳で、今年一番の「がっかり賞」なのです。だからお奨めはしませんが、読みやすいので時間つぶしには役立ちます。

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居眠り運転

2012-05-18 11:44:00 | 日記

車内にまで響くトラックの警報音で目が覚めた。

場所は東名高速の上り車線。箱根を越えて、厚木に向かう広々とした緩やかなカーブに差し掛かったあたりだ。

昨年のことだが、どうしてもやむを得ない事情で、日帰りで大阪に車で出張した帰りのことだ。夕刻に大阪を出て、渋滞の京都を抜けて、雨が振り出した深夜の東名高速を一路疾走して東京を目指した。

浜松を抜けて、静岡を通過した頃には疲労を感じ、清水のスパに立ち寄って休憩するつもりであった。しかし、思ったよりも快適に走れたため、もうひと踏ん張りと気負ったのが原因であった。

トンネルとカーブが連続する箱根外縁を越えて、関東平野に入ったあたりで気持ちが緩んだ。走りなれた道であったので、油断したのだろう。次第に目が重くなってきたのは自覚していたのだが、いつのまにかウツラウツラ・・・

トラックのホーンに起されて、はじめて自分の車が蛇行していることに気がついた。トラックは私の車を追い越して、急に車線変更して私の前に立ち塞がり、尻をふってみせてからスピードアップして去っていった。

多分、嫌がらせだろう。

私の蛇行に驚いた腹いせなんだと思い、苦笑してやり過ごす。いや、本当は感謝するべきなのだろう。あのまま居眠り運転を続けていれば、間違いなく大惨事を引き起こしていたはずだから。

居眠り運転は怖い。あの時、はじめて体験したが、分っていても、あの疲労感からの居眠りを完全に防ぐのは難しいと思う。

5月の連休に相前後して、居眠り運転が原因と思える交通事故が多発した。京都や千葉、群馬と死傷者が出たので、ニュースなどで目にした方も多いと思う。記事を読みながら、他人事ではないなぁと思わざる得なかった。

高速道路の居眠り運転は、休憩を十分とる以外に根本的な解決策はないと思う。経験的に、ほんの十分程度の仮眠でも眠気は治まる。だが、やはり不安は残る。車によってはレーダーなどの技術を駆使して、安全な車間距離をとったり、ブレーキまでかけてくれるものがあるらしい。

長年ホンダ車にこだわっていた知人の方が、最近スバルに乗り換えたので理由を聞いたら、上記の自動ブレーキング・システムに興味があったからだと言っていた。ドライブの好きな方だが、高速の長距離運転には最近若干不安を感じていたらしい。すでに高齢といって良い方なので、賢明な選択だと思う。

もっとも乗り換えた後に感想を聞いてみたら、低重心のスバル独特の運転感覚が面白く、高速よりも一般道の山道などをドライブしているそうだ。まだ一度も自動ブレーキのお世話になっていないとも言っていたが、そのシステムを信用しているようだ。

高速の居眠り運転はともかく、ここ最近目立ったのが、通学通勤に使われる生活道路での死傷者事故だ。これはいくら警告の看板を掲示してもダメだと思う。スピード出す奴は出すからね。そこで思い出すのは、ヨーロッパでよく見られる石畳の道だ。

アスファルトやコンクリート敷きの道は、凹凸がなく快適に走れる。しかし、市内の生活道路などは、わざわざ石畳を残して、スピードが出せないようにしてある。これだと低速運転を強いられるので、歩行者などにつっこむような死傷事故を大幅に減らすことが出来ると思う。

実際、日本でも意図的に凹凸を設けてスピードを抑える仕組みがある道路を散見することがある。主に坂道のカーブ手前などに多いようだが、歩行者の多い市街地でも活用できるシステムだと思う。

ただ、路面改修工事が必要なので建設費用がかかるうえに、維持管理の費用も必要となる。だから、いまだ普及しているとは言いかねるが、通学途上に車に突っ込まれて死傷した子供を嘆く親の映像などを見ると、予算をかけても設置したほうが良いように思う。

少なくても、何に使うかさえ不確定な箱ものに税金を投じるならば、交通事故を減らす効果がある凹凸道路にこそ税金を投じる価値があるのではないか。

失った命は戻らないが、今後のことを考えるなら十分検討の価値はあると思います。

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