ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

幾山河 5 瀬島龍三

2016-12-19 12:00:00 | 

どうしても瀬島に辛い評となってしまうが、負けた戦争を美化するよりもマシだと思うので、今少しご寛容を頂きたい。

瀬島龍三は、間違いなく優秀な軍官僚であった。それゆえに多くの陸軍上層部からの信頼を勝ち得たのは事実だ。ただし、戦争は企画書の出来ではなく、その結果で評価されるべきものである。

その見地からすれば、彼は決して優秀とは言い難い。ただ、戦争の勝ち負けは相手あってのものであり、相手は20世紀最強の軍事力を誇ったアメリカである以上、敗戦を瀬島個人のせいにするのは間違いだと思う。

それでも、瀬島龍三は非難されることの多い参謀であった。その原因の一つに、彼は自ら主役を張るのではなく、常に強者の傍にあって、その陰で画策する参謀であったことがある。

南方作戦を担う課に在籍している時、彼は常に補佐の立場であったが、一度だけ責任者に任じられたことがある。表題の自伝では、自分は断ったが周囲に押されて止む無くと謙虚に書いている。

私は、そこに疑問を感じた。これは証言や論拠なき妄想の類いではあるが、おそらく意趣返しではないかと思っている。軍隊は官僚組織であり、責任者の席は立候補したり、辞退したりできるものではない。

この人事は、南方作戦が失敗に終わることが、ほぼ決まりかけた時期になされている。それまで瀬島総参謀長とまで揶揄されたほど、辣腕を奮った結果が、あの悲惨な失敗であった。

まったくの根拠なき邪推だが、「瀬島よ、責任者として最後を締めろ」との意地悪な人事であったのではないかと思う。そのせいだろうか、自伝でもこの時期の作戦企画については、ほとんど触れていない。

幼年期の記述でも、自らの失敗や恥をかいた場面をあまり書かなかったことから察して、この人事は瀬島には不本意なものであったのだろう。その後、一度本土に戻されるが、体調を崩して休養しているのが、なによりの証拠だと思う。

その後、ソ連の参戦が予測されていたので、再び満州軍の参謀本部に赴任することになる。が、既に作戦参謀として出来ることは限られており、なだれ込むソ連軍に抗することも出来ずに、あたふたと逃げ出しているが、それは瀬島中佐の責任とはいえまい。

この後、シベリア虜囚時代に入るが、どうしても取り上げなくてはならないことがある。それは電報握り潰し疑惑である。これは台湾沖で行われてた戦闘に関して、過大評価がされていると伝えた電報を、瀬島が握り潰し上層部に伝えなかったとの噂を根拠にしている。

この疑惑は瀬島自身、かなり気にしていたようで、表題の書でも執拗に否定している。ただ、この噂の出どころは、他でもない瀬島自身の告白を元にしている。電報の発信者に対して、すまなかったと述べていたとされていたことが発端なのだ。

しかしながら、言い間違い、聞き間違いの可能性もあり、確実に黒と決められるような証拠はないことも確かである。この疑惑の背景にあるのは、当時の陸軍参謀本部に対する不信感が根底にあるように思えてならない。日本本土で大本営発表を耳にする日本国民と異なり、現場の軍人たちが戦場で肌で感じる戦況との違和感があった。

そのことが、参謀本部を陰で仕切る瀬島参謀への疑念となって噴出したのではないだろうか。私は瀬島龍三に関する本を、おそらく7~9冊ほど読んでいるが、この件に対して決定的な証拠を示したものはない。

ただ、これは瀬島に限らないが、企業でも官庁でも、上層部が決めた施策等が実際には上手くいかなかった場合、その情報はなかなか上に伝わらないことは、良くある話である。

更に付け加えれば、瀬島龍三という軍人は、独断独行型の人ではない。参謀としては先輩にあたる辻正信のような越権行為を平然とするようなタイプではなく、周囲の意見をよく聞き、その上で説得する協和型のタイプである。

それだけに性質が悪い気もするが、率直に言って電報握り潰しについては黒と断言はできないと思う。だが、最大の疑惑は、次回に取り上げるシベリア虜囚時代の瀬島である。

コメント (1)
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