ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

幾山河 4 瀬島龍三

2016-12-14 12:28:00 | 

陸軍幼年学校から陸軍入隊し、やがては士官学校に入り、最終的には中佐にまで昇進した瀬島龍三だが、実は下士官時代にも、その後も実戦経験はまるでない。

もちろん戦地を視察しているし、その道中が安全であった訳ではないが、彼自身が銃を持ち、泥と埃にまみれて戦った経験はない。おそらく人を撃った経験はないだろう。

彼は一貫して書類屋であった。巨大で複雑な官僚機構でもある軍隊にあって、書類仕事を苦手とする軍人は少なくない。彼が筆を執って書いた書面は非常に優れていて、多くの軍関係者が手直しの必要のない完璧な書面だと評している。

そして、瀬島本人はそれを、上司の意向を正確に読み取り、それを文章化するだけだと謙遜する。彼は常に上司を補佐する役割を任じていた。自らが決定する立場にはなく、あくまで上司の判断を上手に文面に表現する名人であった。

だが、それは彼の一面でしかない。本当に恐るべきは、瀬島自身の意向を、その文面に紛れ込ませる手腕にある。いや、数多くの軍の作戦行動を起草したのは、他ならぬ瀬島本人であり、それゆえに彼は陰で瀬島総参謀長と揶揄されていた。

繰り返すが、瀬島自身は運転経験のないペーパードライバーのようなものである。その彼の手により、上司の覚え良く書かれた作戦が、満州や南方諸島で実施されたのである。正直、それを採用していた上司の責任は重大だと思う。

幸いにして、満州ではノモハン事件以降、実戦はなかったので、もっぱら満州軍の再編作業等が大半であった。ここで瀬島は軍官僚として優れた手腕を発揮したようだ。その実績をもってして南方作戦を担当する作戦課に赴任する。ただし、立場は課長を補佐するだけで、彼自身に決定権はない。あくまで作戦課の新人に過ぎない。

しかしながら、彼は特質である上司の意を汲むことに長けており、きわめて上司受けの良い部下であった。そして、巧妙に自身の意見を上司の考えに取り込ませる名人であった。

そして、その結果があの南方作戦である。特にヒドイのはガダルカナル島を巡る攻防戦である。飢島とも呼ばれたあの惨劇の島では、アメリカ軍の銃や爆弾で死傷した日本兵よりも、味方からの補給物資が届かず、栄養失調と病気により死んだ日本兵のほうが圧涛Iに多い。

もちろん、瀬島の立案した補給計画に基づき物資を運ぶ船舶を沈めたのは、アメリカ軍であり、瀬島一人の責任だなどと追及するつもりはない。だが、私が憤懣やるかたないのは、無責任な瀬島の言動にある。

実は瀬島は、ガダルカナル島へ視察に赴いている。その惨状を目の当たりにしているのである。にもかかわらず、ガ島撤退の決断は、あくまで上司が決断するまで先送りにしているのだ。表題の自伝では、上司を説得しているかに読めるが、保坂氏など瀬島の行動を論評した著作を読むと、あくまで決断は上司任せであり、決して積極的に撤退を奨めたとは思えない。

私が許せなく思うのは、自らが起草した作戦が失敗した以上、早期の撤退を上司に訴えるのが筋であろう。本気で悔いているのならば、辞表を懐に入れて、自らの進退を賭けてもやるべきではないのか。

ガダルカナル島は、餓死者の島と云われるほどの生き地獄であった。その一端を見ておきながらも、瀬島参謀はあくまで自己の保身を第一に、責任は上司に押し付ける。これほど嫌悪を催す卑怯者は、そうそう居るものではない。

もし仮に瀬島が自らの立案した南方作戦の失敗を認めて、早期の撤退を上司に強く主張していたのならば、多くの兵士が救われたのではないか。作戦の失敗は、敵であるアメリカあってのものなので、それを責めようとは思わない。しかし、その失敗を認めるのを保身目的で、先延ばし、他人任せにした卑怯さは断固として批難されるべきである。

これが名参謀と謳われた瀬島龍三の実態である。表題の書を読んだだけでは決して分からないはずだ。(もっと、続きます)

コメント (1)
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