永井秀樹が遂に引退した。
国見高校で全国優勝して、憧れの読売クラブのプロ化により作られたヴェルディ川崎で活躍し、ナビスコ杯優勝、リーグ優勝などヴェルディの全盛期に活躍しだした期待の若手であった。その才能は確かで、その後フリューゲルス、マリノスへ移籍しても優勝に貢献した。いくつものチームを渡り歩いた。
驚いたことに、40を過ぎても現役選手に拘り、J3のチームにも移籍してサッカーを続けていた。三浦カズとゴン中山に次ぐ長命のサッカー選手であった。
ただ、ここ数年はほとんど試合に出られない日々が続いていたので、その名前を憶えている人は少ないかもしれない。若い頃の永井は、ルックスも良く、ジャニーズ事務所に入れそうなくらいの人気者であった。
私は永井を軽いというか、チャラい選手だと思っていた時期もあるが、どうもそれは照れ隠しからくる彼の意識した演技であったようで、本音はサッカーが好きで好きで、とにかくボールを蹴っていたい、グランドを走っていたいサッカー馬鹿であった。
長く現役でいるために、酒もほとんど飲まず、身体に悪そうなことは一切避けるストイックさも持ち合わせていたようだ。だからこそ、40過ぎまで大きな怪我をすることなく選手を続けられたのだろう。
彼は最初もヴェルディならば、引退もまたヴェルディでありたいと切望していて、一時は喧嘩別れしたフロントとも和解して、最後はヴェルディの選手として選手生活を終えた。
かつて、Jリーグが始まった頃は、ヴェルディの全盛期であった。これには、ヴェルディをサッカー界における巨人軍たらしめんと目論んだ、読売新聞社のナベツネの意向が強く働いていた。
しかし、プロ野球の二の舞いを踏まないとの強い決意を持っていた当時の川渕チェアマンは、ヴェルディを特別扱いしなかった。それに怒ったナベツネが、ヴェルディに対する支援を止めたことで、サッカー・バブルは一気に崩壊した。
その結果、日本サッカーは実力相応に地位低下したが、Jリーグの存在がしっかりしていたため、日本代表チームは、今やワールドカップの常連となりつつある。各チームの実力が均衡化しているため、毎年優勝チームが変わり、かつての王者も二部落ちすることは珍しくない。
それこそ、リーグの自由競争が本物であることを示している。Jリーグ開幕当初のバブル人気の一端を担った永井は、その生き証人の一人だ。彼は大好きなサッカーを続けるため、ストイックな選手生活を選び、華やかな世界に背いて生きた。
そんな永井だからこそ、今の若い選手に伝えられることがある。最近のヴェルディでは、永井選手が若手を集めての講習がしばしばみられ、永井塾と呼ばれている。長くサッカーを続けられるためのノウハウや、プロとしてのテクニック、チームとの交渉などを若手に伝えているようだ。
資金力のないヴェルディは、クラブで育てた選手が一人前になると、その選手を他のクラブに売却してチームを維持運営している。まるでイタリアやドイツ、スペインの古豪チームのようなスタイルだ。
これこそが、Jリーグを作り、育てた川渕チェマン(当時)の目指していたものだろう。なにも世間から注目され騒がれるだけがプロではない。このような地味な生き方により、日本サッカーの底上げをしていくこともプロ化の功績である。
Jリーグで活躍し、若くして引退して、すぐに指導者になった選手は少なくない。だが、監督として成功している人は、あまりいない。私は永井のように、地味に地道にサッカーを続け、若手の手本として、また指導者として頑張ってきた選手こそが、真の監督として成功することを願っています。
永井選手は決してサッカーの世界から離れないでしょう。きっと次は指導者として、監督として新たな姿を見せてくれると信じています。今までお疲れ様でした。