ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

幾山河 6 瀬島龍三

2016-12-20 12:28:00 | 

瀬島龍三に関する最大の疑惑は、シベリア虜囚時期にある。

関東軍の代表の一人として、戦勝国であるソ連と交渉した際に、日本兵を労働力として提供することを提案して、自らの保身を買ったと噂された。また、その後の虜囚時期に、ソ連のスパイとして教育されたとの噂もあった。

山崎豊子の傑作「不毛地帯」の主人公・壱岐のモデルとされた瀬島ではあるが、このシベリア虜囚期の疑惑は非常に根深い。だが、戦後判明したのだが、日本兵を労働力にと指示したのは、他ならぬ独裁者スターリンであった。

またスパイ疑惑も、あの酷寒のシベリアで生き延びるため、ある程度ソ連の要望に応じざるを得ないのは必然であり、そこを責めるのは、いささか酷に思う。妙な話だが、瀬島をソ連のスパイだと思っていたのは、他ならぬ日本の公安であり、実際にマークしていたようだ。

ただし、彼がソ連のスパイとして暗躍した事実はない。少なくても、公安は彼を逮捕したり、事情聴取したことはないようだ。ただ、天皇に対する批判的言動や、国際法廷でソ連の意を汲んだ証言を繰り返したのは事実である。その程度のスパイであったようだ。

では、彼は無実なのか?

そう断言出来にないから、この人の評価は難しい。ソ連にゴルバチョフが登場し、ペレストロイカの号令のもと、情報公開がされたのは周知のとおり。瀬島の疑惑を追及するシベリア収容所に収監された日本兵やジャーナリストが、瀬島の情報を求めてロシアに行ったのは当然である。

しかし、成果はなかった。証拠となる文章は見つからなかった。だが、おかしなことも分かった。彼らがロシアに入る少し前に、瀬島本人がロシアに渡り、人にあったり、なにやら画策した形跡があったのだ。

一体、なんのためにロシアに行ったのか。瀬島龍三は黙して語らずである。だが、怪しいと疑われても仕方ないと思う。

一方、スパイ疑惑であるが、これは本人が如何に否定しても無駄である。なにせ、瀬島をスパイとして使っていた当のKGBの元スパイが回顧録などで、そのことを記述しているからだ。

ただし、彼のスパイ行為は、公安が黙認する程度のものであり、深刻なものではないであろうと思われる。切れ者で知られた後藤田官房長官(当時)が、瀬島がソ連のスパイであることは常識だよとオフレコで喋っているくらいである。そのわりに、平気で臨調などに採用しているのだ。もっとも、瀬島本人は、この件に関しても黙して語らずを貫いている。

ここまで周囲から疑われている以上、まともにスパイ行為など出来ようがない。だが、一定の情報提供等はしていたようだ。これは、元KGBのスパイの回顧録などから分かる。瀬島の個人名は出てこないが、前後の文脈から瀬島であることが分かる。

実は東芝の潜水艦のスクリューの機密情報流出事件でも、その関与を疑われていたが、結局は何事もなく終わっている。これは中曽根のブレーンであったことも考慮されたようだが、完全な黒ではないことの証左であろう。

これはほぼ断言できるのだが、瀬島本人はマルクス主義の信奉者ではない。またソ連に忠誠を誓ったことはあっても、真実の忠誠ではなく、その場を切り抜けるための方便であろう。

もし瀬島がロシアの地に生まれ育ち、日本で特高警察に捕まれば、意図も容易に大日本帝国の間諜役を引き受け、天皇に忠誠を誓っただろうと思う。そういう人なんだと思う。でも、その場合でも、その忠誠はティッシュペーパーよりも薄いことも請け合いだ。

このシベリア虜囚期における最大の謎である、日本兵の労働力提供交渉疑惑は、おそらく白だと思う。思うけれど、そう疑われるのは、これまでの瀬島の生き方からして致し方ないだろうと思う。

うろ覚えだが、20年以上前にTVの座談会で、臨調を議題とした企画のなかで瀬島氏本人の話を聞いた時のことだ。話の流れで、戦時中の参謀役としての心構えを問われての返答であったと思う。

多少、言葉遣いは違うと思うが、彼は「参謀というものは、戦場で悲惨な場面を見たとしても、それに動揺してはいけないのです」と答えていたことが心に残る。瀬島龍三は、ガダルカナル島で兵站物資の不足から、餓死に追いやられ、病死した日本兵を見ているはずである。

それでも、彼は作戦の失敗を認めようとせず、ガ島死守を命じた。その後しばらくたってからガ島撤退作戦を企画し、それに成功したと上記の自伝にさり気なく記述している。私は、その記述を読んだとき怒りで顔面が紅潮したのを自覚したほどだ。

そんな瀬島であるから、シベリアの収容所での悲惨な暮らしも、平然と受け入れられたのであろうし、部下の兵士たちの苦悶に対しても冷静でいられたのであろう。上記の自伝で述べていることと、同じ収容所暮らしを共にした下級兵からみた瀬島は、まるで別人である。彼が憎まれ、また疑われるのも、ある意味当然な気がするのです。

ただし、瀬島が日本兵帰国のために彼なりに努力したことを嘘だとは思っていません。ただ、彼の生き方は、少なかれぬ讃美者を出す一方で、多くの人から嫌われたのも事実なのです。

10年余りの虜囚生活そのものが辛くない訳はなく、帰国しても一年以上、彼は静養を必要としました。まァ、私に言わせれば、その程度の期間で社会復帰可能な程度なのですが、エリートには相当辛かったのも事実だと思います。

次回以降は、戦後の瀬島を中心に追っていこうと思います。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする