ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

幾山河 7 瀬島龍三

2016-12-26 10:14:00 | 

一年余りの静養期間を過ごした瀬島龍三は、誘われていた自衛隊ではなく、コネで関西の繊維大手商社である伊藤忠に就職した。

伊藤忠商事が、その後大きくなり、国際的な大商社へと育ったのは確かである。瀬島本人も、安宅産業合併や、いすずとGMの合弁事業などを成功に導いたと、自伝に淡々と記述していることは嘘ではあるまい。

また、事務部門が前近代的であった伊藤忠商事に、陸軍方式の書類整理を叩き込み、組織を整備した功績も確かだと思う。もっとも官僚的過ぎるとの非難もあったが、組織が大きく成長する過程で、お座なりにされがちの事務部門を整備した功績は、十分評価に値すると思う。

ただ、私が一番知りたいと思っていたことは、まったく書いていない。

伊藤忠商事が戦後、急成長した原動力は、賠償金ビジネスに関与したからであることは、知る人ぞ知る事実だ。瀬島龍三こそ、この賠償金ビジネスの影のフィクサーであった。

瀬島龍三という人は、嘘もつくが、大事なことは決して口外しない。秘密を守ることは、ある意味美徳である。特にこの賠償金ビジネスとは裏金、贈賄、裏契約など秘密の塊であることから、バラすわけにはいかないことは分かる。

しかしながら、表題の自伝では、まったく触れていない。だから、この自伝だけを読むと、何故に瀬島が出世を重ねて常務にまでいきながら代表取締役、つまり社長にはならず、その後いきなり代表権のない会長の席に着いたことに違和感を感じることになる。

この辺りの事情は推測にならざるを得ないが、根幹には瀬島が参謀型であったことが大きな原因だと考えられる。瀬島が仕えた越後社長は、瀬島のような参謀を使うタイプであったが、その後を受けた戸崎社長は参謀を必要としないタイプであった。

越後社長の下での瀬島は、その満州人脈と、陸軍人脈を用いて日本政府が東南アジア各国に支払った賠償金についてフィクサー的な役割を果たし、伊藤忠商事の業績拡大に大いに寄与した。

しかし、その見返りとして、政界の暗部と深く付き合うようになり、必然的に伊藤忠の経営にも暗い影を投げかけた。清濁併せのむ越後社長は、それを承知で会社を大きくしたが、戸崎社長はそれを必ずしも良しとはしなかった。

とはいえ、伊藤忠の暗部を熟知する瀬島を追い払うことは出来なかった。だからこそ、実権なき会長の席を用意して、瀬島の口を封じた。そんなところではないかと、私は推測している。

ところが、ここから瀬島は再び復活する。その契機が財界入りである。経団連のメンバーとなり、やがて行政改革である臨調のメンバー入りを果たす。ここで、中坊弁護士の下で、自民党、財界、霞が関の官僚たちとの仲介役を務め、再び参謀役として辣腕を奮う。

責任はなくても、権力の一端として活躍できる臨調の椅子の座は、瀬島にとって快適であったようで、その後も政府の周辺にあって、様々な調査会などに入り込み、ご意見番として独特な存在感を放つことになる。

特に中曽根元総理との親密な関係は有名で、懐刀として暗躍したことは良く知られている。反面、あまり知られていないがの、右翼の大物である児玉誉士夫との関係である。これは海軍の参謀であった源田実の仲介から始まったようだが、インドネシアへの賠償金がらみ、韓国へのODAなどにおけるトラブルの裏処理が児玉の役割であり、その仲介役が瀬島であったようなのだ。

当然ながら、表題の自伝では、一切触れていないが、瀬島龍三という人物を評価する際には、欠くべからずの要素だと思う。妙な話だが、この自伝に書かれていないことこそ、瀬島龍三の実像をあぶりだしているように思えてならない。

だからこそ、瀬島の人物像を描き出すのは難しいのだと痛感するのです。(次回が最後です)

コメント (1)
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