ヌマンタの書斎

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幾山河 3 瀬島龍三

2016-12-13 13:11:00 | 

瀬島龍三は組織のなかにあってこそ輝く。

だが、その組織を成功と繁栄に導いたとは言い難い。むしろ、その組織を内側から蝕み、減耗させて最後には衰退させてしまった。そんな寄生虫あるいは寄生木のようなイメージが付きまとうのが瀬島龍三の生涯であった。

その最初が、日本帝国陸軍での高級士官としての瀬島龍三であったと思う。彼が優れた知性の持ち主であることは疑いようがない。この自伝を読んでみて、その文章の的確さに感心した。

特に太平洋戦争全般にわたる考察は、一読に値すると私は高く評価できる。特に戦争に至る過程を冷静に考察し、日本政府の政策決定過程にまで捉えている。私が驚いたのは、瀬島氏が日本の権力構造を「政府と陸軍、海軍の三者」であると断じていることであった。

彼の眼には内閣も枢密院も、また元老院さえも一体であり、現在の財務省以上の権限を持っていた内務省でさえ眼中にない。このような考えを持っていたことが驚きであった。確かに戦前の陸軍、海軍は強大な権限を持っていたと思うが、陸軍の高級士官であった瀬島龍三がこのような認識であったことは十分銘記すべきだと思う。

彼は陸軍はシナとソ連を第一に考え、海軍は対アメリカを考えていて、相互の意思疎通が十分でなかったと悔いる。そして日華事変は起こすべきではなかったと断言し、仏領インドシナへの軍事的行動が、取り返しの付かないアメリカ参戦を決定づけたと判じる。

これは瀬島自身もそうなのだが、戦前の日本は対アメリカを意識していたにも関わらず、そのアメリカに対する情報分析が極めて未熟であった。それは海軍も同様であった。

山本五十六は、アメリカと戦った場合を問われて「1~2年は思う存分戦えましょう。しかし、その後は・・・」と言葉を濁している。渡米経験もあった山本には、あの国の巨大な経済力が分かっていた。

アメリカと開戦すれば、二年目にはその巨大な経済力が生み出す兵器が、次々とパナマ運河を超えて太平洋に渡ってくる。そうなっては勝ち目がない。だから、山本元帥は二年と区切り、その後は政治交渉だと考えていた。

ところが、上層部はその先を考えていなかった。陸軍はシナとソ連しか考えていなかったので、尚更政府は対アメリカ戦争の終結点をどうするのかのグランドデザインを描くべきであった。しかし、現実には如何にアメリカと和平を講じるかの政略が存在しなかった。

そして、それは陸軍も同様だと瀬島は嘆く。せめて陸軍と海軍を統合するような形がとれていれば、無理な戦争をしなくても済んだと悔恨と共に冷静に述べる。

おそらくだが、アメリカに対する判断ミスの主犯は、やはり外務省であろう。アメリカに対する理解不足は決して陸軍、海軍だけではなかった。瀬島自らが筆を執ったとされる表題の回顧録でも、そのことは何度となく触れられている。

私も同感だが、瀬島氏の認識も、まだまだ甘いと思う。戦後の日本のように経済視点中心のアメリカ観よりはマシだが、文化的視点、歴史的視点、宗教的視点が十分ではない。特に何故にアメリカが日本ではなく、シナに肩入れしがちなのかへの考察が足りない。

それは現代の日本も同様だ。アメリカはキリスト教原理主義の国であり、キリスト教会にとっては、文明化が進んだ日本よりも、遅れたシナのほうが布教し甲斐のある地だと考えていたことが、アメリカの外交政策に強く反映している事実を見逃すべきではない。

それは瀬島龍三も同様である。これは宗教に鷹揚というより、鈍感な日本人の悪しき性癖だと思う。それはさておき・・・

陸軍士官学校を出てからは、一貫して参謀本部の作戦課に所属していた瀬島龍三は、軍人ではあるが、どちらかといえば軍官僚である。組織の一員であり、巨大な官僚組織でもある陸軍の歯車の一部に過ぎない。

にも関わらず、瀬島龍三は戦後、批難されることの極めて多い人物である。これは非常に特殊であり、特異でもある。何故なら瀬島大尉(終戦時は中佐)に過ぎず、組織の歯車ではあっても、決して陸軍や海軍の最終決定機構に関与できるはずがないからだ。

瀬島龍三は、そのあたりを表題の書で盛んに指摘して自らへの批難を不当だと巧みに弁解している。この瀬島自ら書いた自伝だけを読めば、そう信じられるであろう。しかし、そこにこそこの人の姑息さ、卑怯さがある。(まだまだ、続きます)

コメント (1)
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