ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「なんでも見てやろう」 小田実

2006-05-17 09:24:28 | 
70年代から80年代にかけて、「進歩的文化人」と呼ばれた人たちがマスメディアの世界にはびこっていました。

多分、今の若い人には何が進歩的なのか分からないであろうと思います。当時は、社会主義が資本主義の次に来るべき理想的社会の礎になると信じられていました。その社会主義を賛美し、資本主義社会である日本を誹謗することで知識人としての見識を誇示していたのが、いわゆる「進歩的文化人」でした。

今にしてみると、単なる知的流行におもねっていただけなのでしょう。でも当時は、公害問題、泥沼のヴェトナム戦争など資本主義社会の破綻を示していると思われる現実が、社会主義の虚像を輝かせていた時代でもあったのです。それだけに、未来の理想像である社会主義の立場から発言する「進歩的文化人」には、それなりにブランド力があったものです。

その「進歩的文化人」の代表的な人物が、この小田実でした。今でこそ奇妙な屁理屈をごねる、偉そうな関西のおっちゃんですが、70年代は彼を若者の教祖とみなす風潮すらありました。ベルリンの壁が崩壊し、輝かしいと見られた社会主義諸国の惨めな実情が世間に曝されて、進歩的文化人の立場は逆転しました。今じゃ退歩的とでも言いたくなる頑迷ぶりを誇示している有様。

でもね、小田実が若かりし頃、世界を旅して回った「なんでも見てやろう」は、今読んでも面白い読み物です。彼の瑞々しい感性が、世界の世情を新鮮な切り口で語る本書に憧れて、世界へ旅立った若者は数知れず。かくゆう私だって、その一人でしたからね。

どこで彼等「進歩的文化人」は道を誤ったのでしょう。「なんでも見てやろう」と意気込んでいたのに、社会主義の歪んだ実態を見ずに、理想像ばかり見つめていたのは何故なのでしょう。

若さゆえに未熟さなのか、あるいは知識人の机上の知識の限界なのか、私には今でも分かりません。理想を追い求め、理想と相反する現実を蔑視したつけのようにも思われます。

反対すれども反省はない、かつての「進歩的文化人」たちは現在、自虐的日本人として中国に媚びへつらい、韓国に上っ面だけの笑顔を振りまき、反日反米の姿勢を崩していません。ジェンダーフリーとかゆう現実離れした理想論を学校という箱庭にばら撒き、子供への洗脳教育に余念がありません。

愚かさは頑迷さに通ず、とでも云うのでしょうか。若い頃の誤りをついに正せなかった人間の半生の見苦しさを感じざる得ません。
コメント
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