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森羅万象 ~ 歩く印象派

忌野清志郎逝く! 58歳 がん治療 最復活ならず! 合掌

2009年05月03日 03時08分46秒 | Rock 音故知新

5月2日22時54分配信 毎日新聞より

「ベイベー!」や「愛し合ってるかーい!」などの決めぜりふ、奇抜な衣装と演出で知られるロック歌手、忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名・栗原清志=くりはら・きよし)さんが2日、がん性リンパ管症のため死去した。58歳だった。葬儀は9日午後1時、東京都港区南青山の青山葬儀所。喪主は妻の栗原景子(くりはら・けいこ)さん。

 東京生まれ。68年に中学校の同級生らと、忌野さんをリーダーとする>クセションは、黒人音楽と日本語を初めて結びつけ、またビジュアル系の元祖でもあった。反原発の曲をつくるなど、ロックが反骨であると証明し続けた。妥協もこびることもなく、音楽一筋を貫き通したと言える。死は早すぎた。

 ◇聞く者に力与えた

 ▽音楽評論家、天辰保文さんの話 清志郎さんの根底には黒人音楽への敬意があり、それをエンターテインメントの形で日本に定着させた功績は大きい。権威への反逆も一貫していたが、それをユーモアにくるみ、さりげなく表現していた。実はシャイな人だったと思う。彼の音楽には「彼は常に信頼できる人であり、自分もしっかりしなければ」と、聞く者に思わせる力があった。


>清志郎悼む声(下記は朝日COMより)

清志郎さん死去 泉谷さん「オレは認めん」 悼む声次々

2009年5月3日0時51分朝日COM

 古くからの知り合いで、一緒にバンドを組んだミュージシャンの細野晴臣さん(61)は「亡くなるなんて信じられない。早すぎる。お見舞いに行こうと思っていたところだったのに。本当に残念だ。なんて言ったらいいのかわからない」と言葉をつまらせた。

    ◇

 ビートたけしさん(62)は2日夜、TBSの生放送番組の出演中に悲報を知り、「がんもロックンロールだって言っていた」と硬い表情で語った。たけしさんらが漫才で注目され始めたころ、ともに出演したこともあったという。「デビューのころにRCサクセションに火がついてきた。ぐっと上がっていく時に、よく一緒にやった。前座で漫才をやったこともある。おいらがやっても相手にされなかった」と当時を懐かしんだ。

    ◇

 忌野清志郎さんは、FM802(大阪市北区)の今春のキャンペーンソング「Oh!RADIO」を作詞作曲したばかり。ヒット曲「トランジスタ・ラジオ」を持つ清志郎さんに、「開局20周年の節目に、21世紀のラジオの歌を書いてもらおう」と同局が年明けに依頼。スガシカオらが歌い、4月から5月末までの予定で流している。

 同局編成部の岩尾知明副部長(42)は「突然の訃報(ふほう)に驚いている。体調が悪い中、素晴らしい歌を作ってもらったことを思うと、言葉がありません」と話した。

     ◇

 60年代から共演を重ねてきたミュージシャンの泉谷しげるさん(60)は「オレとしては忌野清志郎が亡くなったコトは受け入れません! 彼はオレの青春そのものだったし、年下なのに師として仰いできたしこれからもだ。忌野さんには一生勝てないし勝つ気もない。若い頃から希有(けう)な天才性を発揮してたし随分まねさせてもらったよ。まだ恩返しもしてないのに彼が勝手に逝くはずもない。だから冥福を祈らないし、告別もしない。オレだけは絶対に忌野清志郎の死は、認めないから」との談話を発表した。

>以下は産経新聞より

「永遠の友」「誇り」清志郎死去に矢野顕子さんら悲しみの言葉
2009.5.3 01:18産経新聞
 ロックミュージシャンの忌野清志郎さん死去の報せに、仲間のミュージシャンらは悲しみに沈んだ。

 シンガー・ソングライターの矢野顕子さんは「心の美しさが歌に表れている人でした。永遠に友達です」と話した。

 劇作家の岩松了さんは「清志郎さんとは同世代。RCサクセション時代のアルバムなどに衝撃を受けた。日本人でこんなすごい歌詞、曲を書ける人がいるんだと驚き、ファンとして活動を追い掛けた。私の映画『お墓と離婚』で、俳優として出てもらって以来、お付き合いしていた。俳優として何とも言えない存在感があった。照れ屋で、人間としての魅力にあふれていた。知り合えて誇りに思うし、亡くなったと聞いてとてもショックです」と話した

>以下はサンスポより

忌野清志郎さん、壮絶死…がん闘病3年

2009.5.3 05:05 サンスポ

「愛しあってるかい」のフレーズで一世を風靡し、日本のキング・オブ・ロックと称えられた歌手、忌野清志郎(いまわの・きよしろう=本名・栗原清志)さんが2日午前0時51分、がん性リンパ管症のため都内の病院で死去した。58歳だった。清志郎さんは2006年7月に喉頭(こうとう)がんであることをHPで公表。その後、08年2月に東京・日本武道館公演を行い復活したが、同年7月に左腸骨にがんが転移し、再入院。感動を与え続けた不屈のロック魂が天国へ旅立った。

 一度は克服したがんだった。再び、ステージに立つことを夢に見、不屈のロック魂で病魔に立ち向かった清志郎さんが、ついに、力尽きた。

 関係者によると、夫人の景子さん(53)と長男の竜平(たっぺい)さん(20)、長女の百世(ももよ)さん(17)ら家族が最期を看取ったという。

 最初にがんが見つかったのは06年7月。医師から声帯摘出手術を勧められたが、歌手生命が絶たれることから拒否、放射線治療を選んだ。玄米菜食法や漢方など民間療法も取り入れ、克服。07年12月「ジョン・レノン・スーパーライヴ」で1年半ぶりに復活を遂げた。

 「完全復活祭」と銘打った08年2月の単独公演では、竜平さん、百世さんがサプライズでステージにあがり、清志郎さんに花束を贈呈。2人が幼少のころ、スタジオに呼び寄せ一緒にレコーディングするほど子煩悩で、家族思いだった清志郎さんが、思わず落涙するシーンもあった。

 同年7月、がんが再び清志郎さんを襲う。左の腸骨に転移し、治療に専念するため、同夏に予定していた野外ライブやイベントをキャンセル。再入院の際の直筆メッセージに「このくらいのことは覚悟してたんで、ぜんぜんヘコんでないから」と気丈に綴っていた。

 高校のとき、「RCサクセション」を結成。どぎついメークと派手な衣装のステージが注目を集め、ヒット曲を連発。ソロに転向後は、俳優にも挑戦した。

 昨年11月20日の東京・青山のブルーノート東京。92年にバンドを組んだ縁で、米ソウル歌手、ブッカーT&THE MG’sの来日公演に姿を見せた。メンバーに請われ、「え~聞いてないよ」と言いながらも、「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」「ソウルメン」の2曲を披露。最後の熱唱だった。

 「ベイベー」「愛してます」「愛しあってるかい」。清志郎さんがステージからかすれた声で叫ぶ、あのキメぜりふはもう2度と聞けない。



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