のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

赤壁

2006-11-20 | Weblog
本日は 赤壁の戦い の日です。

まあ旧暦で、ではございますが
吉川英治の『三国志』に影響されて東洋史を専攻したのろとしては
1800年前の長江河岸に遠く思いを馳せたい所なんでございます。

吹けよ東風!
燃えよ軍船!
逃げろ曹操!

ふうむ
とまあ こんなわけで
何故、戦争というものは
時を経るとロマンチシズムと結びついてしまうのでしょうか。


歴史は
泥にまみれて死んでいった一兵卒の視点で書かれることはありません。
◯◯村の1人の若者の死は、それがどんなに悲惨な死に方であろうと
史書に取り上げられる際にはただの数字になってしまいます。
その若者がどんなにいいやつだったとしても
彼の両親や恋人が、どんなに彼の死を悼もうとも
そんなことは大文字の「歴史」には絶対に表れません。

史家は 時の重要人物プラスその他大勢 という視点で記述せざるを得ないのですが
その際、戦争の個別的・具体的な悲惨さは
死んでいった数知れぬ一兵卒の名前と共に、切り捨てられてしまいます。
戦争を、史書を編むにあたって切り捨てられた無数の惨事に思いを致さずに見るならば
それは容易に 英雄譚 になり得てしまいます。
英雄寄りの視点で歴史を、戦争を、読むならば
泥にまみれた死体も
女たちの悲鳴も
叙事詩に添えられた色どりになってしまいます。
「名誉の戦死」などという馬鹿げた言葉も、こうした視点から出て来るのではないでしょうか。

実際の所
赤壁も、テルモピュライも、トラファルガー
大いにロマンチシズムをかき立てます。
白状すれば、冒頭に示しましたとおりのろ自身、戦乱をめぐる史話が大好きです。
しかし戦争を何かロマンチックな思いで眺める時、その視点は
ハリウッド産のパニック映画を見るときのそれと
大変似た位置にあるということを
自覚せねばなりません。
即ち、恐ろしい話だけれども自分とは現実的に関わりがないものである。
大勢の死もエンターテイメント効果のひとつであって
何が起ころうとも最重要人物は生き延びるはず、もしくは
皆(=映画の登場人物たち、あるいは見ている観客たち)に惜しまれながら、英雄的に死を迎えるはずである。
私達は安心してこの壮大な物語を受け取り、感慨にふければいい。
と いう視点です。

過去を物語として、楽しみとして眺める際には、これでもよかろうと思います。
しかし、歴史として見るにあたっては採用してはならない視点です。

この世にはいまだに、戦争をしたがる人間が存在しておりますが
彼らは「英雄」の視点から、あるいは「観客」の視点からしか歴史を見ていないということに
全く無自覚なのではないでしょうか。
さもなくば、歴史が何のためにあるのか、全く知らないかです。

これからも歴史/戦争は「重要人物プラスその他大勢」方式で書かれることでしょう。
しかし「一兵卒の戦争」に思いを致すことに
人類はもうそろそろ、軸足を置くべきではないか?
と のろは思うのですが
どう思います?
孔明さん。


爆笑三国志 1991 光栄 Illustration;唐沢なをき 

話 聞いてないっスね。




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