のろや

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ウォルシンガム話2

2011-04-07 | 忌日
4/6の続きでございます。


さて、表立ってはそれほど動きの見られない1560年代のフランシスさんですが、プライベートではこの10年の間に、けっこうな波がありました。

1560年、母親が亡くなり、前夫(つまりフランシスの実父)ウィリアムのもとに葬られます。
1562年、30歳の折にロンドンのワイン業者アレクサンダー・カーライルの未亡人アン・バーンと結婚。しかし彼女はたった2年の結婚生活ののち、連れ子であるクリストファーを残して他界してしまいます。2人の間に子供はありませんでしたが、ウォルシンガムは10代前半で母を亡くしたクリストファーをたいそう可愛がり、そのキャリアについても何くれと心を砕いてやったのでした。クリストファー・カーライルはのちに海軍将校となり、船団を率いてロシアまで出かけたり、”女王陛下の海賊”ドレイク船長の西インド遠征に参加したりしています。
1566年、やはり寡婦であったアースラ・バーブと再婚。何です。16世紀の英国では寡婦の再婚率が高かったのですよ。参照:英国史の中の結婚と子供(4)
1567年、ウォルシンガムには初子となる娘が誕生。フランセスと名付けます。
お父ちゃんがフランシスで娘がフランセスって家の中で呼ぶのに紛らわしいじゃないか。といういらぬ心配はさておき、34歳で初めて授かった子供、嬉しかったでしょうね。しかし禍福はあざなえる縄のごとくウォルシンガム家を襲い、アースラの2人の連れ子が火薬の爆発事故で命を落としたのもこの年のことでした。

ちなみに映画『エリザベス ゴールデン・エイジ』ではウォルシンガムの娘のメアリーという子が父親の死を看取りますけれども、実際にはメアリーは父親に先立つこと10年の1580年、弱冠7歳で亡くなっております。それにエリザベスは、セシルと違って戦闘的な上に歯に衣着せぬ言葉でビシビシ諫言するウォルシンガムをあんまり好いていなかった、いや率直に言えばかなり嫌っていたフシがあるので、彼の死に際しても映画に描かれているような感動的な別れの挨拶はなかったことでしょう。そうは言ってもあのシーンで泣きましたけどさ、のろは。あの、2人の手の握り方がなんとも...

さておき。
1569年、ウォルシンガムはエリザベスに対する陰謀を企んでいたフィレンツェ出身の銀行家ロベルト・リドルフィを捕え、尋問します。ウォルシンガムファンとしては「いよっ、待ってました!」と声をかけたい所ですが、この時にはまだロンドン塔で拷問→洗いざらい白状→全容解明→首謀者処刑という後年のウォルシンガム・スペシャルは見られません。容疑者リドルフィはウォルシンガムの自宅での取り調べの後あっさり釈放され、以降も着々と、のちに「リドルフィ事件」と称されることになるエリザベス転覆計画を進めるのです。これはどうしたことか。

リドルフィがどんな陰謀を企てていたかと言いますと、イングランド国内の旧教徒が蜂起し、それに連動してお隣のネーデルラントからスペイン軍が攻め入り、エリザベスを廃位、もしくは暗殺する。そして旧教徒で元スコットランド女王のメアリ・スチュアートを王座に据える、というものでした。
スペイン軍を率いてネーデルラントに駐屯していたアルバ公(←現場)はリドルフィと会談してこの話を持ちかけられた時、この男の知識や見積もりを怪しいもんだと思い、現実的に「兵力足らんし、そら~無理!」と判断しましたが、フェリペ2世(←会議室)も、またローマ教皇(←会議室)も、この計画に大いに乗り気でした。
実際の所この陰謀が成功する確率は低めであったものの、1569年秋にはカトリックを信奉するイングランド北部の大貴族たちが反乱を起こしていることもあり、エリザベスやセシルとしては笑って見過ごせるようなものでもなかったのです。

ちなみに69年の北部諸候の反乱には、新教v.s旧教の宗派対立という一面の他に、エリザベスがセシルやウォルシンガムのように中流階級出身の廷臣を重用したため、政権中枢から追い出された大貴族たちが不満を抱いていたという側面もあります。宗教的な不満と政治的な不満という別々のものがからみ合ってひとつの事件に至るというのは歴史上よく見られることでもありますし、それだけに示唆に富むものではないでしょうか。

さて1571年にリドルフィ陰謀が発覚するや、密かに計画を後押ししていた駐英スペイン大使は国外に追い出され、メアリ・スチュアートとの関係が認められたノーフォーク公トマス・ハワードは処刑され、陰謀は未然に阻止されたのでした。

えっ。
あの、銀行家のリドルフィさんですか。
あの人はまんまと逃げおおせて故郷イタリアに舞い戻り、フランチェスコ1世・デ・メディチに仕えたり、ピサで知事をやったり、フィレンツェで議員になったりしたのち1612年に亡くなってます。ううむ、ほぼ同い年のくせにウォルシンガムより20年以上も長生きしてるじゃないか。何か腹が立つなあ。

この事件、陰謀の現実性の低さやリドルフィの行動のお粗末さ、そしてリドルフィが尋問後にあっさり釈放されていることなどから、一説にはウォルシンガムが(のちに「バビントン事件」でやったように)拘禁中のリドルフィを説得し、潜在的な陰謀をあぶり出すために二重スパイとして働かせていたではないかとも言われておりますが、真相は分かりません。
あるいはフランシスさんもこの頃はまだまだ未熟で、本当に陰謀の証拠を掴めなかっただけかもしれません。だとすると、この時の教訓はのちの「スロックモートン事件」や「バビントン事件」といったエリザベス暗殺計画を阻止するにあたって大いに活かされたと言えましょう。


ここでエリザベスの後釜にと反乱者たちが名前を挙げたメアリ・スチュアートについて触れておきましょう。



「悲劇の女王」とか「囚われの女王」、「恋多き美女」などロマンチックな形容が付されることが多いメアリ・スチュアートですが、ウォルシンガムに言わせると「悪魔のような女。いやはや、何ともひどい言われようです。しかし彼女はエリザベスにとっては実にやっかいな、しばしば命に関わるほどにやっかいな人物であり、ウォルシンガムがこう呼びたくもなるのもまあ、理解できないではありません。

前述のようにこの人、スコットランドの女王だったのですが、すったもんだのすえ王座を追われ、イングランドに逃げ込んで来ていました。これにはエリザベス、大迷惑。何故かというとこのメアリ、イングランドの王位継承権をばっちり持っている上に旧教徒だったので、カトリック国のスペインやローマ教皇やイングランド国内の旧教信者は彼女をイングランド王位に就けたがっていたからです。
しかも、エリザベスはお父ちゃんのヘンリ8世が「アン・ブーリンと結婚するのやーめた。ってゆーかー、もともと結婚なんかしてなかったもんね」とのたもうたせいで非嫡出子扱いであったのに対して、メアリの方は文句のつけようのない血筋の持ち主でもありました。

こんな人を国内に泳がせておいたら、「打倒エリザベス!」と叫ぶ不埒な輩によって正統な女王として担ぎ出されるに決まっております。実際、そうした試みは国内外から何度も持ち上がり、そのたびにウォルシンガムが計画の阻止と首謀者の摘発に奔走することになるのでした。
一方、もしメアリを殺してしまえば、カトリック側からの激しい非難は免れないことは明白ときております。やれやれ。仕方がないのでエリザベス、メアリを緩やかな軟禁状態に置きつつ、何とか彼女をスコットランド女王に戻してやる道を形だけでも模索することに。

そんな状況下で起こった、リドルフィ事件。
この事件によって明らかになったのは、要するに
「スペインは信用ならん」
「カトリック勢力は放っとくとやばい」そして
「メアリ・スチュアートはやっぱり何とかせにゃならん」ということ。
しかし議会が「メアリ何とかしましょうよ(=処刑するとか、もっと厳しく監禁するとか)」と提案しても、エリザベスは首を縦には振りませんでした。ウォルシンガムはこの時メアリが処刑されなかったことを、のちのちおおっぴらに残念がったということです。だろうね。
メアリが元気でいるかぎりは今後もエリザベスの身と国の安定は危険にさらされ続けるだろうと確信したウォルシンガム、諜報局長としての任務にいっそう精を出し、国内外に当時比肩する者のないほど密な情報網をこつこつと-----私財を投じて-----作り上げて行くのでした。


次回に続きます。

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