のろや

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ウォルシンガム話3

2011-04-08 | 忌日
4/7の続きでございます。

リドルフィ事件が発覚したとき、ウォルシンガムはイングランドにはおりませんでした。
高い語学力と外交能力を買われて1570年にフランス大使に抜擢され、家族とともにパリに駐在していたのです。
ここでちょっとこの時期のものすごくおおまかな諸国宗教地図を見てみましょう。

赤はカトリック、青はプロテスタント。ものすごくおおまかなのでスイスもアイルランドもありません、悪しからず。



主要国との関係を見て行きましょう。
まずスペイン。何せ財力と軍事力のある国で、イングランドとしてはできれば喧嘩したくない相手ではあります。しかしガチガチの旧教国である上、先だってのリドルフィ事件に加担してちゃっかり攻め入ろうとしていたぐらいですから、とても仲良くできそうもない相手でもあります。

次にフランス。国内の新教徒(ユグノーと呼ばれます)と旧教徒の対立が激化して、1560年代から断続的にユグノー戦争というのが起きておりました。そのまんまなネーミングですな。ともあれスペインと違って、フランス国内の新教徒は少なくともある程度の勢力を持っておりましたし、新教国イングランドに対しても、表向き友好的な顔を向けておりました。王弟アンジュー公とエリザベスとの縁談まで持ちかけていたぐらいで、イングランドにとっては、スペインよりはまだしも「話せる相手」であったわけです。英仏ともに「スペインがこれ以上強くなるのはよろしくないよね」という認識では一致しておりましたし。

そして、ネーデルラント。
ああ、がんばれネーデルラント。がんばれ。栄光の17世紀までもう少しだ。
で、16世紀のこの時期はどうなのかと言うと、これが対スペイン独立戦争の真っただ中。「フェリペってさ、あいつカトリックじゃん。だし、俺等はプロテスタントで行くべ」という軽いノリ...では決してなかったのですが、とりあえず新教を精神的支柱に据え、結束してスペインと大喧嘩をしております。これは英仏ともに成り行きが気になる所です。

こんな状勢のもと、38歳のウォルシンガムは仏王室とユグノーとの関係緩和、エリザベスとアンジュー公の縁談交渉、および緊迫したネーデルラント状勢の偵察という重い使命を引き継ぐ外交官として渡仏したのでした。嫌がったんですけどね。身体が悪いのでって。
ともあれ交渉の甲斐あって1572年、英仏間で「宗教的にはちょっと違いがあるかもしれないけど、誰かに攻め込まれた時にはお互いを助け合おうね」という、どう見ても”誰か”にスペインを想定したブロワ条約が締結されます。フランスと結んだ上でネーデルラントの反乱を支援してスペインと対抗するべし、と考えていたウォルシンガム、とりあえず一安心。

ところが。
ウォルシンガムがパリ滞在中の1572年8月24日、ちょっぴりがっつりどころではなく大変な事件が起きます。有力な新教徒であったコリニー提督の暗殺を皮切りに、旧教徒がフランス国内の新教徒を無差別に殺戮した「サン・バルテルミの虐殺」です。



ひええ。犠牲者はパリだけでも数千人、フランス全土では数万人に及んだとか。
この時、ウォルシンガムの住まいは新教徒たちの避難所となりました。外交官に危害が及んではまずいと判断した国王シャルル9世はウォルシンガム邸に護衛を送ります。それでも保護を求めてウォルシンガム邸に向かっていた数人のイングランド人はその途上で殺害され、コリニーの部下であったボーヴェという将校は家々の屋根を伝って何とか逃げてきたものの、兵士たちによって館から引きずり出され、吊るされたのでした。

邸内に避難していた新教徒の中には、のちに詩人として有名になるフィリップ・シドニー(←将来の娘婿)や、近代速記の祖とされるティモシー・ブライトもおりました。ブライトは後年、この時のことを「16年たった今でも鮮明に覚えているし、これからもそうだろう」という言葉とともに振り返り、ウォルシンガムが英国人だけでなく多くの”strangers”も保護したことに触れ、謝辞を捧げております。

事態の沈静化を待って妻と5歳の娘を帰国させたウォルシンガム、自分もすぐに帰りたかった所でしょうが、何せ外交官なのでそうも行きません。状況を本国に知らせたり、この事件の黒幕の一人とも囁かれる王母カトリーヌ・ド・メディシスに謁見して遺憾の意を伝えたり、本国から明確な指示がないことにイライラしたりと忙しかったのです。この時枢密院に送った報告の中には「敵意も偏見も交えずに申し上げますが、この地の現状を鑑みますと、彼ら(フランス)とは友としてよりも敵として付き合った方が危険が少ないであろう、というのが私の見解です」と記されております。
「◯◯よりも××の方が危険が少ない」というこの言い回し、いかにもウォルシンガム的でよろしい。

翌年5月、やっと後任の外交官がやって来ますとウォルシンガム、後任者を引き継ぎのためシャルル9世に紹介して、その3日後にはさっさと帰国しております。
いやはや、お疲れ様。でも本当にキビシいのはこれからですよ。しっかり、フランシス。女王陛下のセキュリティは君にかかっているのだ。

帰国の約半年後、principal secretary (国務長官)に就任。国務長官は内政にも外交にも広い権限を持つ要職で、前任者は例のウィリアム・セシルでした。後輩に席を譲った形のセシルは財務長官に就任します。国務長官としての滑り出しはウォルシンガムと、ケンブリッジでのセシルの恩師で元フランス大使でもあったサー・トマス・スミスという爺さんとの二頭体制だったのですが、1576年にスミス爺さんがぽっくり他界して以降、その職責がどさっ とウォルシンガムにのしかかります。
スミスの後任とその補佐官はすぐに任命されたものの、1576年には国王のハンコを管理する王璽尚書も兼任することに。残念ながら1619年のロンドン大火で史料が失われたため、彼の王璽尚書としての職責のほどは分からないということです。

分かっているのは、この泣く子も黙る諜報局長、実はあんまり身体の強いほうではなかったということ。とりわけ腎臓が悪かったものと見え、フランス大使時代から亡くなるまで何度も、泌尿器系疾患で数ヶ月に渡って病床についております。特に冬場に症状が悪化していることが多いので、腎臓結石ですとか尿路結石ですとか、そのあたりを患っていたのではないかと推測されます。
そして1576年はそんなウォルシンガムにとって、体力的にかなりキツイ年であったらしいということ。この年の秋にはセシルに対して、疲労のため職を辞したい旨を伝えているほどです。40代半ばのワーカホリックが「辞めたいんですけど」なんて言うのですから、まあ相当なものだったんでしょう。


次回に続きます。

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