のろや

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ウォルシンガム話1

2011-04-06 | 忌日
本日は
女王陛下のスパイマスター、サー・フランシス・ウォルシンガムの忌日でございます。

この人。



フェリペ2世みたいだって。
怒りますよ、本人が聞いたら。
けっ こうコワイ人なので、怒らせないのが得策ってもんでございます。

エリザベス1世の忠臣であり(好かれてはいなかったようですが)、国内はもとより欧州全土にくまなく張り巡らせたスパイ網を駆使して内外の問題に当たり、英国諜報組織の礎を築いたウォルシンガム卿。そのネットワークたるやイングランド国内や隣国スコットランドはもちろん、フランス、ネーデルラント(オランダ・ベルギー)スペイン、イタリア、神聖ローマ帝国(ドイツ・オーストリア)、そして遠くはコンスタンティノープルにまで及んでいたというから驚きでございます。

最近この人にふと興味をもちまして、調べてみたらこれがなかなかに面白い人物だったのでございますよ。
というわけで、数回に渡ってウォルシンガムばなしをさせていただきたく。
初めに謝っておきます。
すみません。
長いです。

*以下の記事を書くにあたっては概ね”Oxford Dictionary of National Biography(2004)”と”Burley: William Cecil at the Court of Elizabeth I(2008)”を参考にしました。生年を1532年としたのもOxford ~に準拠したためです。その他のソースについては記事の最後に列挙します。また、英国国教会と新教徒(プロテスタント)は厳密に同じものというわけではありませんが、ややこしいので以下では英国国教会=新教徒として記述します。


では。

時は1532年、アン・ブーリンが後のイングランド女王エリザベスを産む1年前のこと。
ドイツに発した宗教改革の波は島国イングランドにまでひたひたと押し寄せ、政治的・宗教的に大きな変化がもたらされようとしておりました。

裕福な新教徒(プロテスタント)で法廷弁護士であったウィリアム・ウォルシンガムのもとに生まれたフランシス、1歳の時に父親を亡くし、母親の再婚相手であるジョン・ケアリのもとで育ちます。この継父ジョンさんのお兄ちゃんのウィリアム・ケアリって人、実はアン・ブーリンの妹であるメアリ・ブーリンと結婚しております。つまり系図上ではエリザベス1世とウォルシンガムはいとこ同士ってことになりますね。

16歳の時ケンブリッジのキングズ・カレッジに入学。学長ジョン・チークのもと、プロテスタント色の強い教育方針のもとで法学を学びます。チーク学長の義理の兄弟に、ウィリアム・セシルという若者がおりました。のちにウォルシンガムと共にエリザベスに仕え「黄金時代」を支えた宰相として歴史に名を残す人物でございます。10代のウォルシンガムと、彼より12歳年上ですでにケンブリッジを卒業していたセシルの直接的な交流を示す史料は残されていないものの、のちの軌跡を見ればここで2人が顔見知りになっていた可能性は大いにあります。

18歳でケンブリッジを卒業後、フランスやイタリアに学んだのち帰国して名門グレイズ・イン法学院に入学。ここは実のお父ちゃんのウィリアム・ウォルシンガムが生前所属していた学校で、上記のウィリアム・セシルも籍を置いております。(ウィリアムばっかりだなあ)ここで勉強を続けていた頃はフランシス君も、父と同じく弁護士にでもなるつもりでいたかもしれません。

ところが。
1553年、フランシス23歳のとき、新教徒である彼にとっては、ちょっぴりがっつり大変なことが起こります。メアリ1世がイングランド女王の座に就いたのです。そう、ブラッディ・メアリ(血まみれメアリ)のメアリさんですよ。ワタクシが子供のころ読んだ『まんが世界の歴史』とか何とかいう本には、火あぶりにされる人々を背景に「あっはっは、プロテスタントは皆殺しよ!」と大口空けて笑っているメアリさんの姿が描かれておりましたっけ。あれは強烈だった。
まあ皆殺しとまではいきませんけれども、メアリさんが新教徒を厳しく弾圧したのは事実で、5年半に満たない彼女の治世の間に300人余りの人々がその信仰ゆえに処刑されたのでした。


メアリ姉ちゃん顔恐い。

このメアリ時代に、熱心な(かつ裕福な)新教徒800人ほどがオイオイ冗談じゃないよとばかりに大陸へ亡命。ウォルシンガムもその1人でした。ところがこの人、亡命者らしくひっそり息をひそめていたわけでもなく、語学力を活かしてフランス、スイス、イタリアなどを廻り、大学で法律を学んだり、外交や情報収集のノウハウを身につけたり、各地の新教徒たちと交友を結んだりと、実に活発な亡命ライフを送っております。振り返ればこの時に築いた知識と人脈が、のちにスパイ網を構築する礎となったのでしょう。
ちなみにあちこち行った中でもスイスはたいへん居心地がよかったらしく、後年メアリ・スチュアート関連のあれこれや対スペイン戦のそれこれで仕事のストレスが溜まった折には、友人のレスター伯に宛てた手紙の中で「今スイスにいるんだったらいいのになぁ...」とこぼしております。

1558年、メアリが亡くなり、新教徒であった義妹エリザベスが王位を継承。25歳の新女王の誕生に、縮こまって暮らしていたイングランドの新教徒たちは喜びに湧きます。キャッホーと帰国するメアリ時代亡命者たちの中に、もちろんウォルシンガムの姿もありました。帰国後ほどなく、すでに国政の中枢に座を占めていた例のケンブリッジの先輩ウィリアム・セシルの引き立てもあり、晴れて庶民院(下院)議員となります。

これから10年ほど、若手下院議員としてのウォルシンガムに目立った活躍はありません。どうもセシルのために国外情報収集活動をしていたようです。1568年8月には、それに先立つ3ヶ月の間にイタリアに在住していた全ての(エリザベスにとっての)危険人物のリストをセシルに提出したとか。ほんまかいな。
その情報収集能力が認められ1569年、秘密情報部の責任者に任命されます。秘密情報部なのでこっそりと。この頃書かれたセシル宛の手紙には、以降の彼の外交と安全保障に対する信条を裏付けるような言葉が記されております。

There is nothing more dangerous than security. 安全な状態ほど危険なものはありません」
There is less danger in fearing too much than too little. 心配しすぎる方が、心配しなさすぎるよりも危険が少ない」

うーむ。こんな言葉から見ると、おっそろしく慎重な人物といった印象ですね。しかしこの人、敵側の人間を転向させて二重スパイに使ったり、敵国の宮廷内に密偵を送り込んだり、傍受した手紙を開封してすっかり読んだ上で、何事もなかったかのように封をして本来の受け取り手に届けたりと、情報収集の手法はけっこう大胆です。またひとたび充分な情報を手にした後の行動は素早く、総合的に見るとウォルシンガムはむしろ「先手必勝」とか「虎穴に入らずんば虎子を得ず」といったモットーがぴったりな人物のような気がするのです。


次回に続きます。

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