goo blog サービス終了のお知らせ 

のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

ゆく年のこと

2012-12-31 | 映画
まあそんなわけで
クリストファー・ノーランのバットマン三部作が美しく完結した2012年も暮れていったわけです。



この一年、これ以外に何か美しいことってあったっけ。

という記事を何故2013年1月1日の夜にupしているかといいますと、イラストが間に合わなかったためです。
頑張ったのですよ。すごく頑張ったけど間に合わなかったのですよ。
新年早々これですよまったく。

いーのいーの人類なし崩しよ。(by山口晃)

ちょっと大声で言ってみよう。
いーのいーの人類なし崩しよ!

ああ、なんかこれでいいような気がして来ましたよ。

というわけで
年ふるごとに高まる希死念慮と人間嫌いをずりずり引きずりつつ
今年は「なし崩し人生」をモットーに生きてみようかと思いました次第。

ところでイラストや漫画の類いをお描きんなるかたは大なり小なりご経験のことと思いますが、人の顔を描いている時は、自分も自然とそれと同じ表情になってしまうものでございます。
ジョーカーさん描いてる時ののろさんの顔ったら。


『Welcome To The Punch』のことなど

2012-12-13 | 映画
なんかもう
時代錯誤という形容すら超越しちゃった感がございますな。

自民党が公式に国民の基本的人権を否定し、さらに改憲案で日本国憲法第18条「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」を削除してしまいました - Togetter



さておき。
ソーターさんことマーク・ストロングと、ハリウッド御用達英国産悪役俳優の一人であるチャールズ・ダンスが声優として共演するという、のろさんにとってはたいへんおいしい企画であるところのアニメーション作品『JUSTIN AND THE KNIGHTS OF VALOUR』のトレーラーが公開されたわけです。

JUSTIN AND THE KNIGHTS OF VALOUR - Official Teaser Trailer


うーむ。
悪くはないんでございますが
『ヒックとドラゴン』の大幅劣化版のように見えてしまうのはワタクシだけでしょうか。
大幅、とまで申しますのは、とりもなおさず『ヒックとドラゴン』という(日本ではそれほどヒットしなかった)作品が、ストーリー、映像、音楽、演出、そしてテーマ性と、あらゆる点において完成度が非常に高い映画であるからでございます。
このトレーラーも『ヒックとドラゴン』を念頭に置かずに、これ単独で見るならば、冒険コメディとしてなかなか楽しそうな代物ではございます。しかし、ヒーロー志望のひ弱な主人公やら、愛はあっても理解のない父親やら、気が強くてしっかり者のヒロインやら、サポート&コメディ担当の変人やら、機能不全気味のドラゴンやら、こう並べてみますとあまりにも『ヒック~』と重なる要素が多く、あの傑作との比較は免れ得ないのではないかと懸念いたします。
できれば続編を作ってほしくなかった『ヒック~』の続編も、同じく2013年公開予定であることを考えますと、ううむ、どっちも心配でございます。
ちなみに↓によるとソーターさんはここでもやっぱり悪役。笑

Justin and the Knights of Valour (3D) | Timeless Films

それからワタクシが目下の所、ソーターさん関連の新作の中では一番楽しみにしているクライムドラマ『Welcome To The Punch』も、つい先頃トレーラーが公開されました。

Welcome To The Punch Official Trailer _ James McAvoy - Mark Strong


ソーターさん、年齢とともに眉間の皺がますます深まっていらっして、実に素敵でございますね。
共演はジェームズ・ザ・童顔・マカヴォイ。Wikipediaによると、スコットランドに拠点を置くサッカーチーム、セルティックの大ファンなんだそうで。ロンドンに拠点を置くアーセナルの大ファンで、俳優業のかたわら趣味でサッカーを続けて来たソーターさんとは、サッカー談義でさぞ盛り上がったことでございましょう。
そのソーターさんの今回の役どころは、悪人ではあるものの、トラブルに巻き込まれた息子のために、マカヴォイ演じる刑事と協力して巨悪に立ち向かうという、いわば準主役的な位置づけでございまして、単純な悪役というわけではないようで
ございます。そうそう、こういう「ワルだけど人間的」な役柄にこそソーターさんですよ!

『The Long Firm』の極悪非道かつナイーヴな悪党ハリー・スタークス、『リボルバー』の情緒不安定かつ心優しい殺し屋ソーター、悪人だらけの『ロックンローラ』の良心にして犯罪組織の有能なNo.2であるアーチーおじさん、『ワールド・オブ・ライズ』の善とも悪とも呼びがたいヨルダン諜報局長ハ二・サラーム、そして人情無用のスパイ稼業に従事しつつも、人間味を捨てきれず、またそれを隠しきれない『裏切りのサーカス』のジム・プリドーなどなど、複雑で繊細で多面的な役柄こそ、マーク・ストロングの俳優としての力量が存分に発揮される所でございましょう。
極悪街道を脇目も振らず突き進む『スターダスト』のセプティマス王子や『Kick Ass』のダミーコ親分、そしてオモシロ系悪人な『オリバー・ツイスト』のトビーなどもワタクシは大好きですけれどね。

英国ではこれまた来年に公開予定の『Welcome To The Punch』、監督・脚本は御歳36歳のイーラン・クリーヴィーというかた。前作『Sifty』はなかなか好評であったようですが、これが初監督作品ではあり、監督としての技量はまだ未知数と申せましょう。トレーラーを見る限りでは、冷たい色合いのスタイリッシュな映像にはそれなりに期待できそうでございます。アクションシーンにおけるスローモーションの多様は、ちと引っかかる所ではございますがね。


マーク・ストロングばなし色々

2012-11-06 | 映画
なんだかくたびれておりまして
冬布団をひっかぶるや10時間も寝てしまいました。
さらに夢の中でも同じ布団をもそもそとひっかぶって、眠りについておりました。
そこでまた夢を見たかどうかは覚えておりません。

夢の中でさらに夢を見たとなると、話がいささか『インセプション』じみてまいります。しかし遠路はるばる無意識の深層まで目を覚まさせに来てくれるなら、刑事プリオよりジョゼフ・ゴードン・レヴィットでお願いしたい所ですな。刑事プリオさんに起こされても、その後さらに一悶着ありそうで安心できません。ジョゼフ・ゴードン・レヴィットなら孤軍奮闘に慣れてらっしゃいますから、何かあっても任せておけば一人で何とかしてくれるでしょう。レヴィットさんが一人で頑張ってもどうにもならないようなら、どこからともなくコウモリの格好をしたタフガイが現れるでしょうから、すかさず「アルフィー泣かすな馬鹿やろー」と怒声を浴びせつつ、石の詰まったカバン、あるいはそこらの角材でタフガイの後頭部をぶん殴るわけです。そしてマーク・ハミル声で高笑いするわけです。

ぐへははははははははははは。


何の話でしたっけ。
そうそう、クリストファー・ノーランですよ。
ノーラン監督がマーク・ストロングと組んで映画撮ってくれないかと、ワタクシもう久しく期待しているんでございますがね。堅実な演技力としゅっとした風貌の持ち主であるソーターさん、割とノーラン好みの俳優だと思うのですよ。

そのソーターさんといえば、ウサマ・ビン・ラディン暗殺を題材とした、キャスリーン・ビグロー監督による新作『Zero Dark Thirty』の北米公開が来月に迫ってまいりました。

ZERO DARK THIRTY - Official Trailer - In Theaters 12/19


Zero Dark Thirty - Official Trailer #2 (HD)


今回はまともな↓髪型のようです。よかったよかった。

From his command post inside the CIA, Mark Strong directs the fight against the world's most dangerous man in Columbia Pictures' revealing new thriller directed by Kathryn Bigelow, ZERO DARK THIRTY. | Rope of Silicon

ソーターさんはCIAの作戦司令官という役どころのようで。題材からして悪役というポジションではなさそうではございますが、トレーラーの苛立ちもあらわなセリフ回しから鑑みるに、なかなかイヤな奴のような予感がいたします。

公開が待たれる『Welcome to the Punch』や刑事ドラマ『Blood』でも悪役ではなさそうですし、ドラマ『The Long Firm』に始まり『シリアナ』『トリスタン+ イゾルデ』『サンシャイン2057』『スターダスト』『バビロンAD』『ヴィクトリア女王 世紀の愛』『シャーロック・ホームズ』『キックアス』『ロビン・フッド』『グリーン・ランタン』『ジョン・カーター』『ザ・ガード』と6年に渡る怒濤の悪役道からもそろそろ降りられるかに見えるソーターさんではございます。しかしファッション雑誌が悪役俳優特集をするとなれば、この人を外すという手はございません。

Bad Guys: The GQ Villains Portfolio featuring Benicio Del Toro, Malcolm McDowell, and Others: Movies + TV: GQ

唇から安全ピン。よくお似合いです。
動画では1分の枠内で「スーツケースに何かを押し込んでいる所」を演じるソーターさん、無駄に怖い。しかし去り際が何ともカッコいいですなあ。一方インタヴューでは温和で地に足の着いたお人柄が伺われます。悪役としてはシェイクスピアのリチャード三世がお気に入りとのこと。

インタヴューは一部を動画で見ることができます。こちらで。左側にある点線矢印をクリックすると質問の項目が切り替わります。とりわけ、前から三番目の「役から抜け出すのは大変じゃありませんか?」への受け答えはマーク・ストロング好きなら必見のステキ動画でございます。「悪役を演じて帰ったからって、家で奥さんや子供たちを怖がらせるようなことはないよ」、「よく言われるんだけど、僕が初めて悪人(The Long Firmのハリー)を演じることになった時、僕なんかじゃ、あの役が持つ悪の深みを表現できやしないだろう、とみんな思ったらしい。僕は”いい人すぎる”から、だってさ。実際、いい人でありたいと思うよ」とおっしゃる時の表情なんて、実によろしうございますね。

最後の「”お~、いい天気だなあ”という台詞をまずは普段の自分として、次に悪役として、言ってみてください」という項目もたいへん面白い。しかし何故マルコム・マクダウェルだけBGMつきなんでしょうか笑。
ソーターさんはといえば、このリクエストに対してあえて「自分/悪役」の演じ分けをすることなく、こう答えてらっしゃいます。
「文脈から切り離されたかたちでは演じられないと思う。演じるとしても、普段の僕と同じ喋り方をになるだろう、(善人役も悪人役も)演じ方自体に違いはないから。善玉たちは、自分が正しいと信じていることをやっているわけだし、悪役たちだって、自分のことを必ずしも悪人と思っているわけじゃない。それに、本当に悪い奴なら、自分が悪人だと気付かれないように気をつけるだろうから、あえて邪悪そうな喋り方をしたりはしないんじゃないかな」

全体に「役から抜け出すのが大変だから、ホテルの部屋はいつも緩衝剤を張り巡らせた精神病院仕様にしてるんだ」とか「自分の邪悪度?47.6998%かな」といったジョークを交えながらのベニチオ・デル・トロや、「夢にまで出て来るほど怖い悪党」の例として家主や国税庁の役人を挙げるロン・パールマンと比べますと、わざわざ「こういう言い方が許されるとして...」という留保をつけながら”悪役を演じる楽しさ”について語ったり、今あなたが一番怖いものは何かという質問に対して「他の人に対してきちんと振る舞わない人とか、市民を殺す独裁者とか」と言うソーターさんの受け答えはたいへん生真面目であり、生真面目すぎる感さえございます。

いいのです。
何度でも申しましょう、ギャングや殺し屋や冷血漢や卑劣漢やおっかない独裁者の役どころに引っ張りだこである一方、実際は謙虚で人当たりのいいナイスガイとしてよく知られているソーターさんでございますもの。それはもう、テレビ、映画、小説、漫画などの創作作品をテーマとした用語集サイト「TV Tropes」も”super nice and humble(謙虚だし超いい人)”と太鼓判を押すほどのナイスっぷりでございます。
Mark Strong - Television Tropes & Idioms

↑の見出し画像に使われているのは『ロックンローラ』のアーチーおじさんでございますが、『ロックンローラ』といえば続編の話はどうなったんでございましょうか。ガイ・リッチーは続編の脚本をもう書き上げたというようなことを随分前に言っていたようですが、果たして制作のめどはついているのやら。アーチーおじさんことマーク・ストロングも、ハンサム・ボブことトム・ハーディも、この5年の間にすっかり売れっ子になったことですし、この忙しい二人を招集するだけでも大変そうです。といいますか、トム・ハーディはもはや別人としか思えないほど筋肉隆々になってしまいましたから、もし再びなよっとしたハンサム・ボブを演じるとあれば、『マシニスト』前のクリスチャン・ベール並みの苛酷なダイエットをせねばなりますまい。
そうこうしているうちに、ソーターさんにはさらなる新作のお声がかかったりしておりますし。
 
Mark Strong set for 'Sleep' - Entertainment News, Film News, Media - Variety

ニコール・キッドマンとの共演ですって。
バットマンやスーパーマンがそろい踏むアメコミ『ジャスティス・リーグ』の実写映画化企画も進んでいるとのことで、ソーターさんが『グリーン・ランタン』に続いて悪役シネストロとして出演なさるのかどうかも気になる所です。ワタクシとしてはソーターさんには、全身黄色タイツのおっさんシネストロよりも、黒いスーツをビシッと着込んで、スーパーマンの宿敵レックス・ルーサーを演じていただきたいのです。まず実現しないキャスティングだとは分かっておりますけどね。何せルーサー役には、ケヴィン・スペイシーというこの上なく強力で魅力的な先任者がいるわけですから。
しかし、もし、もしもですよ、マーク・ストロング演じる仏頂面ルーサーのハゲ頭を、ジュード・ロウ演じるジョーカーさんがニヤニヤスマイル全開でおちょくるといったシーンが、もしも実現したなら!
おお、ワタクシは2秒かそこらのそのシーンを見るためだけにでも、喜んで劇場に足を運びますとも。

『アイアン・スカイ』

2012-10-14 | 映画
近所の幼稚園で、運動会のBGMに「ルパン三世テーマ(’78)」が使われておりました。
何だか納得がいきません。
とても。

それはさておき
米共和党を全力でコケにした映画『アイアン・スカイ』を観てまいりました。

映画『アイアン・スカイ』オフィシャルサイト

SFアクションという位置づけで売り出されているようでございますが、本作をジャンル分けするならむしろ「風刺コメディ」でございましょう。風刺の対象はアメリカのみに留まらず、国連を通じて地球上の全大国(と、大国のフリをしたい国)におよび、映画的お約束が惜しげもなくつぎ込まれてはこれまたコケにされ、『博士の異常な愛情』的にある意味爽快なエンディングを迎えるのでございました。
原案はフィンランド発ながら、出来上がったものはフィンランド、ドイツ、そしてなぜかオーストラリア(オーストリアではなく)の合同制作。こういう作品に協力してしまうドイツ、懐が深いですね。

映画『アイアン・スカイ』予告編


予告編↑では単にナチが月から攻めて来るというトンデモSFとしか見えないのが残念でございます。
まあ実際、トンデモSFアクションとして見ても、なかなかに楽しめる作品ではございました。
ハイテクとローテクの入り交じった月ナチスのメカデザインは無駄にカッコよくて、見ているだけでもワクワクしますし、完成はしたものの稼働できずにいた超巨大要塞(その名も”神々の黄昏”)が偶然手に入ったiphonひとつで動き出すというバカバカしさもいい。また宇宙での戦闘シーンは、インディペンデント映画でよくぞここまで、と思うほど迫力がございました。
その戦闘シーンでは観客の期待を裏切ることなく「ワルキューレの騎行」が高らかに鳴り響き、どさくさに紛れてドイツ国歌の一節が飛び出したりと、サントラの悪ノリっぷりにも気合いが入っております。

しかし本作はやはり風刺映画としての側面がもっと推されてしかるべきではないかと。
地球に派遣された月ナチス(称して”第四帝国”)の先遣隊が、その高いプロパガンダ能力を買われてアメリカ大統領選の広報担当に抜擢されるのなんて、なかなか気の利いた皮肉ではございませんか。
爆撃されるニューヨークの映像を見ながら「やった!戦時の大統領は再選確実よ!」と喜ぶ米大統領(どうみてもサラ・ペイリン)とか、宇宙の平和利用協定を実はどの国も守っていないことですとか、月に資源があるとわかったとたんに始まる国連会議での大乱闘など、風刺がストレートすぎてひねりがない、とお思いの方もいらっしゃいましょう。しかしワタクシはハリウッド的紋切り型への風刺も含めたこの映画のわざとらしさ、「いかにも感」が、いっそ清々しく感じられました。所々テンポの悪い部分もあるものの、全体としては「真剣に馬鹿やってる」感がみなぎっておりまして、何もかもひっくるめていとおしくなってしまう類いの作品でございました。



サラ・ペイリンの物真似で食べて行けそうな米大統領役の方(ステファニー・ポール)も、調子に乗って軍司令官へと怒濤の大出世をとげるセクシーな選挙公報係(ペータ・サージェント)も、型通りの「重大事件に巻き込まれる気のいい黒人」を演じきるヒーロー?(クリストファー・カービイ)も、なぜか出ているウド・キアーも、あらゆるシーンで可愛かったナチス娘、レナーテ(ユリア・ディーツェ)も、みな素晴らしかった。しかし最大の拍手はクラウス・キンスキーを長身にしたような、つまり「こわくて悪いドイツ人」を絵に描いたような風貌のアドラー総統を演じていたゲッツ・オットーさんに送りたいと思います。
ようやった。いろんな意味で。

『誰も知らない基地のこと』

2012-10-01 | 映画
沖縄では10万人以上のひとびとによる反対の声を無視して配備された噂のオスプレイさんですが
アメリカ本国での飛行訓練は、地元民1600人の反対意見を受けて、めでたく無期延期になったのだそうで。
へえ。

米でオスプレイ訓練延期 地元住民が反対運動 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース


映画『誰も知らない基地のこと』予告編


あえてリンクはいたしませんけれども、youtubeには約75分の作品全編がupされております。
”Standing Army - The American Empire”で検索するとヒットします。日本語字幕はございませんが、比較的平易な英語で聞き取りやすいです。ナレーション部分は英語字幕つき。沖縄も舞台となっておりますので、日本語で語られている箇所も少なからずございます。

土地を徴用され、60年以上に渡って基地への抗議を続ける島袋善祐さん
「米軍基地というのは、土地だけ奪ったんじゃなくして、人の命も奪って、文化も歴史もみんな奪ってる。これは許してはならん。世界の平和のために基地を使う、とか言うけれども、朝鮮戦争、ベトナム戦争、あるいはイラク、そこらへんをよく見ると、必ず人を殺している。人を殺すために自分たちの土地が使われるのは非常に心が痛い。コックに『私は料理するから包丁を貸してくれんか』と言われたら貸してもいいけれども、『人を殺すから包丁を貸して』と言われたら...」

元CIA顧問の国際政治学者チャルマーズ・ジョンソン
「ソ連のことは脅威だと思っていた。実際、脅威だったろう。我々は確かに、ソ連に対して自国を防衛する権利を持っていたと思う。考えが変わったのは1991年のソ連崩壊後だ。アメリカは何よりもまず、新たな敵を探し出した。軍産複合体がそのままうまく機能して行くために、そして冷戦構造において最大限の利益を上げるために、敵が必要だったのだ。驚いたよ。ソ連が崩壊したからには、世界中にある米軍基地は解体されるべきだと思っていた。もう基地の存在意義はないのだから。それどころか、彼らはすぐさま新たな敵を求めた。中国、テロ、麻薬...何でもよかったのだ」
「1961年にアイゼンハワー大統領はこう警告した。『軍産複合体は議会の監督を受けない、隠れた権力だ。国益よりも私的な利益を優先し、制御不能になる恐れがある』。残念ながら我々アメリカ人はこの警告に耳を傾けなかった。そして今や軍産複合体は制御不能になりつつある。アメリカはもはや製造業における強国ではなくなった。この国がまだ優勢を保っている部門とは、兵器の製造だ。兵器の供給に関して言えば、アメリカは他のあらゆる国を楽々と凌駕している」


人類学者キャサリン・ラッツ
「ほとんどの米軍基地は戦争の産物、戦利品のようなものです。戦時中に奪われ、決して返還されない。屈強な男たちがやって来て、いやとは言えないようにしてしまう。そうして基地の出来上がりです」
「軍産複合体を考える時、基地がその一部であることを忘れてはいけません。...基地を建設し、運用し、武器を供給することによって利益を上げる企業が非常にたくさんあるのです」


歴史家ウィリアム・ブラム
「アメリカが世界のあちこちでこんなにも多くの軍事的介入をする主な理由は、基地を増やすためだ。例えば1991年のイラク爆撃後、アメリカはサウジ、クウェート、バーレーン、カタール、オマーン、アラブ首長国連邦に基地を置いた。99年のユーゴ爆撃の後はコソボ、アルバニア、ブルガリア、マケドニア、ハンガリー、ボスニア、クロアチア。アフガン爆撃後はアフガニスタン、パキスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギスタン、グルジア、イエメン、ジブチ。イラク侵攻後は、イラクに」

政治地理学者ゾルタン・グロスマン
「こうしたことの背後には究極の目的があると思います。これまでは戦争をするために基地が作られる、と考えられて来ました。しかしむしろ、戦争は基地を作り、そこに駐屯し続けるための絶好の機会なのです」

ベトナム退役軍人、平和活動家アレン・ネルソン
「(海兵隊に入隊すると)ステロイド注射を受けたみたいなものさ。毎日筋トレをして、銃やら何やらを持たされて、いい気分だ。誰にも負けないタフガイになったような気がする。そんな気分で街に出て、酔っぱらう。誰かと目が合いでもしたら「何見てんだ、俺は海兵隊だぞ」とケンカを売りたくなる。軍隊が求めるのは、そういう奴だ。法を守るとか、地元民との摩擦を起こさない、なんてことは、軍にとってはどうでもいいんだ」
「僕らアメリカ人は知るべきなんだ。他の国に基地を作るというのが、どういうことなのか。基地の存在が問題を解決するのか、あるいはむしろ、問題を生み出すのか。こう言ったらみんな怒るだろう、『我々は世界を警備しているのだ。どこに基地を置こうが我々の勝手だ』ってね。アメリカには外国軍の基地はない。アメリカにある基地は、米軍のものだけだ。それならいいさ。騒音だって何だって僕ら自身のものだからね。でも他の国の人たちにとって、これは大問題だ」


沖縄でヘリパッド増設に抗議活動をする男性
(ゲートを開けろと指示する作業班の人々に対して)
「俺たちが体はって止める理由わかる?こんな気持ちあなたにわかる?こんなに日本政府やアメリカ政府ににいじめられて来ても、俺たち沖縄の人が、アメリカ人をこの歴史の中で殺したことがあるか。あやめたことがあるか。婦女暴行され、ジェット機を落とされ、ヘリコプターを落とされ...この基地はそういう基地でしょう。この60年の苦しみを耐えて来てるんだ、僕らは。あなたは任務かもしれない。我々はここでの歴史的な任務だよ。次の世代にこのような歴史を与えない」

ワタクシは別にアメリカ人に個人的な恨みは何もございませんし、アメリカという国全体を嫌っているわけでもございません。そもそも、ある国や国民全体を嫌うなんて馬鹿げたことでございます。しかし、米軍基地拡張への大規模な反対運動が起きたイタリアの都市ヴィチェンツァをあげつらって、「ヴィチェンツァなんてどうでもいいんだよ。住人の4分の3は90歳以上だろう。たいした基地でもないし、煙も騒音も戦闘機もない。反対運動してるのは極左の奴らだろう。要するに騒ぎたいだけなんだ。あそこには戦車もないし、ヘリが落ちたこともないんだからな」とカメラに向かってのたまう米国防総省顧問の傲慢さには、ほとほとあきれるばかりです。

「土地を取り返したら、そこに大根を植えたい。そして収穫した大根を、沖縄のみんなに配ろうと思う」とは、引用の最初に挙げた島袋さんの言葉でございます。自分の土地に大根を植えることすらままならない。近づくことさえ許されない。これはいったい何なのでしょうか。
自国で反対の声が上がったために飛ばすことのできない航空機を、その何倍もの規模で反対されている他人の土地では「いやいや安全だから」と言って配備する。これはいったい何なのでしょうか。


ちなみに
本作の出演のなかで、元海兵隊員で沖縄での訓練後にベトナムに派兵されたアレン・ネルソンさんのお話を、ワタクシは数年前に講演でじかにお聞きしたことがございます。
聴衆に質問を投げかけながらのお話は、ごく穏やかな口調でありながらも、壮絶でもあり、痛ましくもあり、何となく分かったような気になっていた知識に対して平手打ちを食らわせるような厳しいものでもございました。
「軍隊は何をする所だと思いますか?軍隊に入ったら、まず何を学ぶと思いますか?自分を守ること?人々を守ること?...いいえ、軍隊というのは、人間が人間を簡単に殺せるよう調教する場所なのです」

退役後の激しいPTSDや自殺企図に次ぐホームレス生活から起ち上がり、平和活動家として執筆や講演を行ってこられたネルソンさんは2009年、枯葉剤の後遺症と見られる多発性骨髄腫で亡くなりました。
ご冥福をお祈りいたします。

『ニーチェの馬』2

2012-08-16 | 映画
なんもかんもくたびれた。
くたびれるようなことはなんもしてないのに。

それはさておき

8/1の続きでございます

希望もなし、解決策もなし、アツいヒーローもケナゲなヒロインもなし、明日に役立つ人生訓も、心温まるちょっといい話も、感動のエンディングもあっと驚くどんでん返しもなし、その単調さゆえにほとんど儀式のように見え、またその苛酷さゆえに刑罰のようにさえ見える父娘の日常がひたすら淡々と描かれたのちに虚無の中に折り畳まれるようにパタリと終わる本作。
エンドロールがつきて場内が明るくなっても、映画を観きった、というスッキリ感もなければ、ああ何もかも終わってしまった、というカタルシスもなく、『未来世紀ブラジル』のように突き抜けた、いっそ爽やかな絶望感すらもございません。

重いテーマを扱った映画なら巷にいくらでもございます。いかに重苦しい作品でも大抵の場合は、未来に活かす戒めや社会に対する警鐘を読み取ることができ、その点において希望を見いだす余地があるものでございます。
ところが本作ときたら、世の中の不正に対する告発やスクリーンの中の寓話として遠くから眺め、そこから教訓や希望を引き出す、という都合のいい、そしてちょっと心地がよくもある見方を許しません。終幕に向かってつのる圧倒的な虚無感は「鑑賞」というよりむしろ重々しい「体験」として、鑑賞者の中でくすぶり続けます。

予告編その2(英国版)

The Turin Horse - Official Trailer


いや予告編というか何というか。


この映画の幕切れからまず連想したのは、かの暗鬱な宇宙の終焉シナリオでございます。全ての天体が冷えきってブラックホールに飲み込まれ、最終的にはそのブラックホールすらも消滅して、暗黒の中を素粒子が飛び交うだけの状態が永久に続くというアレ。今の宇宙物理学ではこれが一番有力なシナリオとされているのだそうで。こんな話を聞かされた日には中島敦でなくたって嫌になろうというものです。

そりゃあね、神様やらブッダ様やらがとっくの昔に死んでしまったにしても、私たちが宇宙の一部分であることには違いありませんし、同一のものは二つとないという意味では、かけがえがない存在であるとすら言えましょうよ。しかしその宇宙の行き着く先がこんな未来であるとすれば、今私たちが存在してることっていったい何なんでしょうか?まあのろさんごときがどういう最期を迎えようともザマアミロとしか言いようがないわけですが、人類全体はおろか、存在しているもの全てが、こんなにも無意味で絶望的な終末を迎えるとしたら。かけがえがあろうとなかろうと、どっちみち無意味じゃございませんか?存在していようといまいと、同じ事じゃございませんか?いやいやそんなことはそれこそとっくの昔から分かってることなのであって、むしろ全て無意味だということは分かっているのに、何故なおも意味を求めてしまうのかという点が問題なのだ。

何の話でしたっけ。
そうそう、ビッグリップだかビッグフリーズだかミスターフリーズだか、まあ名称はどうでもいいんでございますが、こういう心の底からうんざりするような終焉図を前にしてみると、救いを見いだせる場所は宗教や神秘主義以外にほとんどないような気がいたします。
そこでやっぱり宗教に向かう人もおりましょう。従来の神様は死んでしまったらしいので、新しい宗教、新しい神様仏様にすがる人もおりましょう。それについて考えないようにする、いわば見て見ぬふりをする人もおりましょう。あるいは先がどうであろうと、今ここに存在しているというただそのことに、絶対的な肯定を見いだせる人もおりましょう。

ニーチェの唱えた超人というのは、世界の無意味さを認識しつつも強靭な意志の力で絶対的肯定に達し、自ら価値を創造する人間のこと、と理解しておりますが、超人の誕生は永劫回帰(=究極の無意味さ)の認識に基づいているわけでございますよね。永劫回帰というのは全く同じものが全く同じ仕方で繰り返す世界なわけで、当然、個人の意識のありようも全く同じ仕方で繰り返されねばならず、ということは、ある人物が強靭な意志でもって絶対的肯定に達するということも、すでにその永遠の循環の中に織り込み済みなわけで...それってカルヴァンのくそつまらない予定説とどう違うの??
などと思うのは、まあワタクシが不勉強なせいでございましょう。そもそも永劫回帰は例え話ぐらいに受け取っておいたらいいものなのかもしれません。

ちなみに映画には永劫回帰のえの字も出て来ませんし、ニーチェの名前も映画の筋とは特に関わりのない冒頭のナレーションで触れられるだけでございます。
そのナレーションというのは、ニーチェがトリノの街角で、御者に激しく鞭打たれる馬にすがりついて泣き、その後狂気に陥って二度と回復しなかったという逸話であり、「その後、馬はどうなったのか?」という疑問がタル・ベーラ監督をしてこの作品を撮らしめたということでございます。



トリノで倒れた後のニーチェは崩壊した精神の中に退き、死ぬまでの約10年間を母親と妹の保護下で過ごしたのち、故郷に埋葬されました。狂気に陥ってからは意思疎通もままならなかったというニーチェが何を考えて過ごしたのかは知る由もございませんが、ピアノを即興でいつまででも弾いていたとか、泣いている妹に「何故泣いているんだね?私たちはこんなに幸福じゃないか!」と言ったという逸話(信憑性はともかく)からは、外界とのつながりは壊滅したにせよ、その内面は穏やかで自足したものだったのではないかと想像されます。いさかいも失恋も経済的な心配も、理解されず売れもしない本を書きまくってますます孤独になることもない。神が死んだことだって、きっと忘れちゃったことでしょう。

でも、馬は?
昏倒したニーチェが運び去られたあと、おそらくはまた同じように御者から鞭打たれたであろう馬は?
苦役から逃れるすべもなく、神の救いも期待できず、狂気という隠棲の地もなく、ただひたすら外界の命ずる所に耐え、従い、死んでいくしかない馬は、その後どうなったのか?
ニーチェが路上でかき抱いた馬とは、とりもなおさず私たちのことでございます。馬との違いがあるとしたら、存在の無意味さ、虚しさ、そして大なり小なりの終末(宇宙やら人生やら)を意識しているということでありましょうか。まあこれだって怪しいものでございます。少なくとも映画の中では、この点で人と馬との間に違いはございません。前回の記事の繰り返しになりますが、存在の無意味さや暗澹たる終焉に対して取られるであろう様々な態度は、馬を含めた登場人物たちによって、寓意的に示されます。



取りうる態度の選択肢は色々あるにしても、おおかたは、黙々と生活を続ける父娘のように、儀式のように決まりきった日常を、できるかぎり今までと同じように続けようとするのではないでしょうか。現にそんなふうに生きておりますし。
私というおそらく無意味な存在の、これまた無意味な死を想い、どんどん破滅的な方向に向かっているような気がするこの「くに」のありさまをおおむね傍観し、同じくどんどん破滅的な方向に向かっているような気がする人類(どっちみちあらゆる生物は絶滅の途上にほんの一瞬間だけ存在しているだけなんでしょうけど)をあーあという思いでこれまた傍観し、永遠の闇が支配する宇宙の終焉図にうんざりしつつも、朝になれば起き、ものを食べ、仕事をし、そして寝る。要するに映画の中の父娘と全く同じように生きているわけでございます。

だって、他に何ができるんでしょう?

というわけで
生の無意味さに思いを致さざるを得ない、といいますか他に行き着く先がないようなものすごい映画であり、映像の力強さひとつを取っても傑作には違いないのですが、日々幸福で心楽しい生活を送っている方は観ない方がいい作品のような気がいたします。


中島敦『狼疾記』
三造は怖かった。おそらく蒼くなって聞いていたに違いない。地球が冷却するのや、人類が滅びるのは、まだしも我慢ができた。所が、そのあとでは太陽までも消えて了うという。太陽も冷えて、消えて、真暗な空間をただぐるぐると誰にも見られずに黒い冷たい星共が廻っているだけになって了う。それを考えると彼は堪らなかった。それでは自分は何のために生きているんだ。自分は死んでも地球や宇宙は此の儘に続くものとしてこそ安心して、一人の人間として死んで行ける。それが、今、先生の言うようでは、自分たちの生まれて来たことも、人間というものも、宇宙というものも、何の意味もないではないか。本当に、自分は何のために生まれて来たんだ?それから暫く、彼は-----十一歳の三造は、神経衰弱のようになって了った。父にも、親戚の年上の学生にも、彼は此の事に就いて真剣になって訊いて見た。すると彼らはみんな笑いながら、併し、理論的には、大体それを承認するではないか。どうして、それで怖くないんだろう?どうして笑ってなんかいられるんだろう?五千年や一万年のうちにはそんな事は起りやしないよ、などと言ってどうして安心していられるんだろう?三造は不思議だった。彼にとって、これは自分一人の生死の問題ではなかった。人間や宇宙に対する信頼の問題だった。だから、何万年後のことだからとて、笑ってはいられなかったのだ。
中島敦全集2 p.236 ちくま書房 1993年

『ニーチェの馬』1

2012-08-01 | 映画
長くなりそうですので、二回に分けます。
以下、完全ネタバレ話。まあネタバレしたからどうこうという映画でもございませんが。

『ル・アーヴルの靴磨き』とどっちにしようかなあと迷った所で、気分的にこっちだなと選んだわけです。
予想にたがわず、厳しく美しく圧倒的かつ観客にひとかけらの希望も与えないような作品でございました。
別に悲惨な事件が起きるでもなく、それどころか事件らしい事件はほとんど何も起きないまま、主人公である父娘の日常が淡々淡々ひたすら淡々と描かれ、終末の予感がじわりじわりとつのってふと終劇を迎える、言ってみればただそれだけのお話でございます。何となく不穏な日常と終末感と突然の幕切れ、という点では『日陽はしづかに発酵し...』に似ていなくもない。あれほどわけわからない話ではございませんが。
わけがわからないどころかストーリーも構造もごくごくシンプルでありながら、作品について考えているとどんどん作品自体から離れて行ってしまうという妙な映画ではあり、だからこそあえて何も語らないというかたもいらっしゃいましょうし、「映画の極点」という形容もふさわしいものと思われます。当鑑賞レポも話が映画から離れてあっちこっち行くことがあるかもしれませんが、どうぞご了承のほどを。

映画『ニーチェの馬』公式サイト

映画『ニーチェの馬』予告編


暴風が吹き荒れる痩せた土地で、父と娘が貧しく単調な生活を送っております。起きて、着替え、仕事をし、帰って、着替え、食べて、寝る。食事はジャガイモのみ。彼らの生活の単調さや物質的な貧しさの描写も妙にすごみがあるのですが、おそらくその乏しさ自体は映画において重要なことではなく、人間が生きるということ、生活するということを極限まで切り詰めて描いた結果でございましょう。
生活にまつわる諸々だけでなく、台詞も最小限に切り詰められております。劇中で唯一饒舌なのは、一度だけ登場する隣人(といっても、多分かなり遠い)の男であり、ニーチェよろしく、神の死と高貴なものの没落をまくしたてるように語ります。絶え間ない暴風の音と父子の生活音だけに慣れていた耳にとって、それはあたかも志賀直哉がぶらついている城之崎にいきなりドストエフスキーの登場人物が現れて神の不在にまつわる大演説を始めたかのようなギャップでございます。それだけにこの部分は作中の強力なアクセントとなっておりますが、脳みそを音モードから言語モードに切り替えるのがちと大変ではございました。
この人物が語る「人間はあらゆるものを手に入れ、それらを全て堕落させてしまった」というくだりからは、あらゆるものの価値がマネーの多寡へと還元されてしまう行き過ぎた資本主義のことがちらと連想されましたが。しかしこの映画の行き着く所から顧みれば、この言葉はもっと深い部分への言及のように思われます。

神の死、と言ったとき、それはもちろん世界のはじめにあらゆるものを造った造物主としての神でございます。ところがその唯一絶対にして至高の神さんときたら「六日間かけてこのクソみたいな世界を造った」(監督談)あげく、その後の事は被造物自身に丸投げにしていつの間にやらお亡くなりになってしまったわけです。

なんてこったい。
おかげで私たち被造物は誰にも庇護してはもらえず、恩寵やら復活やら天国やらといったステキな何かを取りはからってももらえず、絶対的に正しい価値観を示されることもなく、先行きも全く分からないまま、圧倒的に巨大で強力な外界(「私/我々」ならざるもの)に取り囲まれて存在せざるをえないときております。
外界があまりにも強い力で個を打ちひしぐ時、個にできることはただ、その苛酷な状況に耐えつつ何らかの精神的態度を取る事だけでございます。 ちょうどこの映画において、狂ったように吹き続ける暴風や、突然枯れる井戸、消え行く火種に対して父娘がなすすべを何一つ持たず、それでもひたすら黙々と生活を続けるように。これをフランクル風にひっくり返せば、全てが奪われたとしても何らかの精神的態度を取る自由だけは残されている、ということにはなりましょうが。これを人間性に対する希望あるいは尊厳の表現と見るか、あるいは人間の無力さ、存在のよるべなさの表現と見るかで、この作品に対する最終的な印象はだいぶ異なることでございましょう。

かくて六日間に渡って描かれる、世界の緩慢な終末。
そこには宇宙人の襲来や迫り来る隕石群のようにドンパチ劇的スペクタクルな絵は何もございません。ただ毎日少しずつ、何かが失われ、毎日少しずつ、生きる事が困難になって行きます。その中で、おそらく総勢10人にも満たないであろう登場人物たちが見せる様々な精神的態度は、おおかたの人間がとるであろう態度の寓意的な縮図となっております。
神の死を語った饒舌な隣人は、洞察と締念とを抱えつつ、酒をあおってのしのしと歩み去ります。
荷馬車でやって来た一団は、水の備えすら持たずに、浮かれ騒ぎつつこの土地を離れて行きます。
終末を感じ取った娘と馬は、もはや食べることさえ放棄します。
そして水も、火も、光さえも失われた終幕においても、父親は言います。「食え。食わねばならん」

暗闇の中でじゃがいもをかじる父親のように、もはや希望などないことを悟りつつ、生きる努力を淡々と続けることもできましょうし、馬や娘のように、静かな絶望とともに状況を受け入れることもできましょう。荷馬車の連中のように浮かれ騒ぎながら、見えない希望(らしきもの)に向かって闇雲に進んで行く事もできましょう。あるいは隣人のように滅んで行く世界を見つめ、分析することもできましょう。
これらの態度の間で尊厳の有無を問うても意味のないことでございます。
神もなく救済もなくただ何もかも消えて行く世界において、すべてはひとしく虚しいのですから。

次回に続きます。

癒しのジョーカーさん

2012-07-08 | 映画
珍しく体調を崩しております。
何もかもがめんどくさ過ぎて常にも増して希死念慮が高まりろくに食べない日々が続いた所を雨に降られて濡れた服のままで半日過ごしたのがまずかったのでしょう。

体力が落ちている時は黙って寝るのが一番ですが、黙って寝るのとは正反対の「声を出して笑う」行為にも免疫力を高める効果があるとは、つとに言われていることでございますね。まあ別に高まらなくてもいいけど。
世間には「笑いヨガ」なるものもあるそうで。

早朝に「笑ってストレス解消」するヨガ集団、苦情受けて中止に インド 写真2枚 国際ニュース : AFPBB News

笑いが健康に役立つというのはまことに結構なことでございます。しかし、なにもわざわざ大勢でより集まって笑わなくてもよかろうに。と思って日本笑いヨガ協会の解説を読んでみた所、集団で笑うことによって笑いの伝染力が働き、無理なく笑えるようになるのだとか。

なるほど。
じゃあ、のろさんも誰かと一緒に笑うことにしようっと。

Joker Laugh Montage Batman Arkham Asylum


あー
実に癒されますな。
これをやっているのがジェダイの騎士ルーク・スカイウォーカーことマーク・ハミルであるとは、つくづく驚きでございます。ルークとのギャップが激しすぎて、このキャスティングを知った当初は何かの冗談かと思ったものでございます。同僚にそう申したところ「ダークサイドに堕ちたんでしょう」という的確なご指摘をいただきました。
しかし終盤でハルク化しているジョーカーさん、あれはいけません。肉体的には貧弱であっても悪魔的な狡智と凄まじい狂気と独創的な悪意と先の読めない行動でマッチョ&リッチな正義漢バットマンに対抗する、そんなジョーカーさんであってほしい。

幸いなことに、ゲームの終幕ではちゃんと普段のお姿にお戻りんなるようです。歯欠け血まみれズダボロ状態ですが、それもまたよし。主人公を徹底的に追いつめ、痛めつけ、嘲笑し、瀕死の淵に叩き込んだ末に結局は破れて死んでしまう、あるいは、良くてもコテンパンにのされた上で捕らえられるのが、悪役たるものの使命でございます。そうと決まっていてもなお懲りもせず腐りもせずに、何度も何度もそのプロセスを繰り返すあたり、ジョーカーさんは偉いですね。

とはいえワタクシ、コミックのバットマンをきちんと読んだことがございませんで、恥ずかしながらジョーカーさんのことも映画やyoutubeで見られる映像作品でしか知らないんでございますけどね。アート性の高いコミックに手をだしたらズルズルと深みにはまってしまいそうで怖いのです。フルタイム勤務&副業でやっと電力各社のボーナス平均額に届くかなぐらいの年収で賃貸生活しているプレカリアートが、そういう奥深そうなものにはまってしまってよいものかと。
と言いながらもそろそろ買ってしまいそうな気がする。見ていると欲しくなるとうやつでございますね。ああ怖い。

ときに↑のジョーカーさんの生え際を見ていてふと思いました。今のジュード・ロウがジョーカーさんを演じたら、意外と似合うのではないかと。あの異様にいい歯並びと嘘くさいまでにテカテカの笑顔も、なかなかにジョーカーさん向きではございませんか。ただ、ちと美男すぎるのが難点ではあります。

では
ジョーカーさんと笑おう!again!

All The Dark Knight Joker Laughs


いやあ
楽しくなってきますね。

さてノーラン監督のバットマン三部作を締めくくる『ダークナイト ライジング』の封切りは今月末に迫ってまいりましたが、相変わらず情報が少ないこと。まあ前情報なしでも観に行きますけどね。
世界的ヒット間違いなし(多分)の本作が公開されるにあたり、乱立ぎみのシネコン、および『ダークナイト』を劇場で観なかったことを大後悔しているワタクシのような者のために、業界ではなんともステキな企画が用意されているようでございます。
即ち、『バットマン ビギンズ』および『ダークナイト』の再上映

ぎゃああ!大画面でジョーカーさん!!
何を犠牲にしても行きます!行きますとも!俺は犬さ!鉛筆消えるよ!Why so serious!ひゃっはあ!
なんかもう世界が滅びようと知ったことかって気分になってきましたよ。
ありがとうジョーカーさん。

カーミットのこと

2012-05-18 | 映画
そもそも食べることが面倒くさいので、食べるものを作ることはそれに輪をかけて面倒くさいのです。
電池交換で生きられたらどんなにいいだろうかとは常々思う所です。
最近は食べるのはおろかきちんと座るのも口を開くのも面倒くさいという始末で、そのうち呼吸するのも面倒くさくなるのかなあ。

それはさておき

映画『マペッツ』は5月19日封切りでございますか。どうせならジム・ヘンソンの命日である16日公開にすればよかったのに。
マペットといえばジム・ヘンソンでありジム・ヘンソンといえばマペットなわけですが、ヘンソンさんが生み出した数々のマペットの中でも最も有名なのはこのかたでございましょう。


ヘルベルト・ブロムシュテット

おっと間違えた


カエルのカーミットでございます。

「マペット・ショー」のレギュラー出演者であるカーミット、当然映画版の『マペッツ』の方にも顔を出しているようです。しかしワタクシにとってカーミットといえば、大人向け長寿番組のホストではございません。ワタクシの知るカーミットは、中折れ帽子にトレンチコート姿のレポーターであり、優しくまろやかな声でAfrican AlphabetやThis Frogといった、時には渋く時にはゴキゲンな歌を口ずさむ名シンガーであり、グローバーやカウント伯といった超絶マイペースな面々によって翻弄される常識人であり、要するに「セサミストリート」の看板マペットとしてのカーミットでございます。

Sesame Street: African Alphabet


ところが。
ワタクシが少なからずショックを受けたことには、現在アメリカで放送されている「セサミストリート」にはカーミットが登場しないというのでございます。何でも、ディズニーがジム・ヘンソン・カンパニーから「マペット・ショー」およびそこに登場するマペットたちを買収したため、セサミの制作会社であるCTW(Children's Television Workshop)は、今やディズニーキャラとなったカーミットを番組に登場させることができないのだとか。

ふざけんなディズニー!!
と一人吠えてはみたものの。
そもそもディズニーによる「マペット・ショー」買収以前に、CTWがセサミに登場するマペットたちの使用権をジム・ヘンソン・カンパニーから買い取った折、その移籍マペットたちの中にカーミットが含まれていなかったというのが今の事態に繋がっているようです。レギュラーマペットたちの中でなぜカーミットだけが買収契約から外されたのかは分かりませんが、おそらくは彼が「セサミ」のみならず「マペット・ショー」においても看板スターであることが問題だったのでありましょう。
とにかく、CTWにはカーミットを自陣に引き入れる機会があったのに逃してしまったという経緯が存在するのであり、単純に「ディズニーがカーミットを金で囲いやがった」という話ではない.....のかもしれません。

そうは言っても、ディズニーキャラになってしまったカーミットというのは、なんだか寂しいのでございますよ。あちらではディズニーランドにカーミットグッズが並んだりしているのかしらん。ヘンソンさんが生きていたら何とおっしゃるやら。

寂しいといえば、実写の俳優と、フルCGで作られた生物との共演など珍しくもない今日、もはや『ラビリンス 魔王の迷宮』や『ジム・ヘンソンのストーリーテラー』のようにマペット大活躍のファンタジー作品なんて作られる事はないのでしょうね。あの「リアル」と「つくりごと」のワクワクするようなバランスが、ワタクシはたいへん好きだったのですが。

『ブリューゲルの動く絵』

2012-05-10 | 映画
気がつけば劇場で鑑賞してから二ヶ月も経っておりました。
気がつけば二ヶ月だなんて何と恐ろしい。こうやってのんべんだらだら生きていて、明日も明後日もその次の日も同じように生きるつもりでいる時にふと思いがけず死んでしまうんだろうなあ。

それはさておき。



ルトガー・ハウアーの映画をあんまり観ていないせいか、寝転がっているブリューゲルが年とったレプリカントに見えてしかたありません。

一言で言ってしまうと「ブリューゲルの絵の中に入って行く作品」なわけでございますが、単に描かれている通りの風景の中にカメラが入って行くということではございません。むしろ一枚の絵に託された16世紀フランドルの人々の精神と、それを見つめる画家の精神の中へと分け入って行き、ひいては近世ヨーロッパという枠組みを超えて、受苦のイメージ(像)-----侮辱されるイエスや十字架の道行き、悲しみの聖母、処刑される殉教者たちといったイメージ-----を信仰の重要な一部として保持してきた人間の心性を覗き込む映画でございます。
原題は『The Mill and The Cross(風車と十字架)』。こんな地味なタイトルではお客が入るまいという配給会社の心配は分かります。しかし何か楽しく心地よいアニメ的作品を連想させる『ブリューゲルの動く絵』という邦題や「不思議の世界に迷い込む」といったコピーを繰り出して来る予告編は、本作の主題からするといささか表面的すぎ、ミスリードのもとではないかと。副題くらいにしておけばよかったのに。実際、観賞後の場内では「もっと楽しい映画かと思ってたのにね...」という声も聞かれました。

それもさておき。

映画が始まっても、しばらくの間は何も起きません。台詞も全くございません。
ある村が朝を迎え、人々が寝床からはい出し、身支度をしておのおのの生業に取りかかる様子が生活音のみをBGMに淡々と、ごく淡々と描かれ、牧歌的この上ない風景が展開されます。子供たちは寝床の周りでふざけあい、風車小屋をのぞむ青々とした草地には慎ましい売り物を携えた村人が三々五々と集まり、単純な角笛の音色に合わせて、田舎染みた男女がステップを踏み、そうこうするうちに次第に朝もやも晴れ。
平和そのものでございます。
調和のとれた色彩と穏やかな生活音が醸し出す心地よさにうっとりとしておりますと、風車小屋の足下に広がるのどかな風景の中、突然鮮やかな赤い服をまとった騎馬の一隊が現れ、草地の市に来ていた若い男を追い回し、激しく鞭打ちます。観ているこちらがえぇおいちょっと、と思う間に打ち殺される男。死体はその場でさらし台に上げられ、カラスのついばむままに放置されます。さらし台の足下でなすすべもなく泣き崩れる男の妻。突然の惨劇を前に、ただただ沈黙する人々。

舞台は16世紀、スペイン支配下のフランドル。近くの某島国の国務長官殿が、女王様に「スペイン勢力追い出すためにあのへんに派兵しましょうってば!」と進言しては却下される日々を送るのより、およそ20年ほど前のことでございます。
圧政下で理不尽な運命を強いられる庶民の姿、のどかな農村の中でカラスについばまれる死体、その傍らで淡々と生きて行く人々、これらは16世紀フランドルのいち情景ではありましょう。しかし大ブリューゲルの作品並みにぐぐーんと引いた視点で見るならば、これはある時代のある場所に限られた出来事の描写ではございません。襲いかかる不条理な暴力と突然の死、という、人間にとって常に親しく、またこれからも様々な規模で繰り返されるであろう悲劇の光景でございます。

こうした悲惨さを前にしてブリューゲルのパトロンは問いかけます。これら全てを描ききることができるのか、と。「できる」ときっぱり答えて、画板を小脇に抱えたロイ・バッティもといブリューゲルは同時代人の苦しみ、悲しみを聖書の物語に託して描き始めます。辱められ、傷つけられ、不当に迫害されるイエス。遠くから見守ることしかできない聖母。悲嘆にくずおれるマグダラのマリア。無慈悲な迫害者。これらは聖書の一場面であると同時に、見るものの感情を託されることによって、人が受けるあらゆる不条理な苦しみ、悲しみの肖像ともなるのでございました。

無意味で、悲惨で、突然で、納得のいかない受苦、そして死。それは「神の子」たるイエスや聖人たちの受苦に投影され、重ね合わせられることによって、ようやくいくばくかの肯定的な意味と、救いを獲得することでありましょう。
何といっても、神が全てを見ていてくれるはずなのです。何もしてはくれないけれども。イエスの苦しみと死を黙って見ていたように。あるいは、高台にそびえ立ち、人々の苦しみを見下ろしながら悠然と回り続ける風車のように。


「十字架を担うキリスト」1564年 ウィーン美術史美術館

それにしても、こんなにも”引き”で描かなくたってよさそうなもんではあります。イエっさん小さすぎ。
広大な眺望とあまたのギャラリーに埋もれて、ゴルゴタの道行きという「世界を変えるような大事件」が、風景の中の単なる一点に成り下がってしまっているではございませんか。また、あまたのギャラリーといったって中央のキリストにとりわけ注目するでもなく、むしろ斜め後ろで起きている悶着の方に気を取られている始末。

英語版公式サイトで、この絵の拡大図と映画の中のシーンとを比較してみることができます。
THE MILL & THE CROSS movie

普通はもっと主役らしく描いてもらえるもんですのに、このイエっさんの扱いはいったいどうしたことか。
劇中のブリューゲルは言います。「人々は大事件の傍らを通り過ぎる」
実際、ある事件(天災も含めて)がどんなに重大なものであったとしても、その重大性をほんとうに理解し、語ることができるのは、まさにその事件によって苦しみを受けた当事者と、全てを見通す神の視点にある者だけなのかもしれません。結局の所、人はどんなに共感しようと頑張ってみても他人の苦しみ、悲しみを肩代わりすることはできず、起きた事の全ての相関を見渡すこともできないのですから。

かくて直接の当事者でもなく、また神でもない私たちのうち、ある者は遠くの大事件よりも卑近なスペクタクルに目を奪われ、ある者は事件など存在しなかったかのように、おのおのの日常を送り続けるのでございました。
大事件のあと、永遠に変わってしまった世界の中で、なおも日常は続いて行く。
劇中のブリューゲルはそのことを不誠実と責めるのではなく、愚かしい事と嘆くのでもなく、ただ「そういうもの」として、「大事件」と同じ画面のなかに描き込んだのでございました。

震災を経て「そういうもの」のただ中を生きている私たち、というものを思わずにはいられません。
大事件は確かに起き、無数のイエス、無数の殉教者、無数の聖母、無数のマリア・マグダレナが確かにいるわけです。
その傍らで、食べ飲み歌い遊び、映画を観に行ったりなんぞして日常を送る私たち。
聖書の物語と、16世紀フランドル、そして現在の世界が、ブリューゲルの絵画を通じて繋がります。

本作は『モンパルナスの灯』のように画家の半生を描いたものでもなければ、『真珠の耳飾りの少女』のように、ある絵にまつわる物語を綴ったものでもございません。言うなれば、象徴に満ちたブリューゲル絵画の読み解きを、本やTVの教養番組ではなく映画という媒体を通じて行った作品でございます。観客はその絵が描かれた時代の社会的・精神的状況や、画家自身の思想と洞察、そしてその洞察の現代性(普遍性)を、スクリーンを通じて目撃するという稀な体験をいたします。
教養ドキュメンタリーでもなく劇映画というわけでもない、なかなかに独特な位置づけの作品であり、美術ファンのワタクシとしては、今後もこういった作品が作られて、いちジャンルとして確立したら面白いんだがなあ、などと思った次第でございます。


『ヒューゴの不思議な発明』

2012-04-16 | 映画
どうもさぼり癖がついてしまっていけません。
忙しいときの「一刻も無駄にしない&優先事項のことを常に考える」という指針はさっぱり身に付かないのに、暇なときの「最もやるべきことは最後にする&可能な限りサボる」という行動パターンはどうしてこうすぐに、しかも根深く、身に付いてしまうんでしょうか。やれやれ。

ともあれ
『ヒューゴの不思議な発明』を観て参りました。

映画『ヒューゴの不思議な発明』 - 特別予告編 (日本語字幕)


「坊や、夢はどこで生まれると思う?.....ここでさ!」

3D上映には一刻も早くすたれていただきたいので、2Dにて鑑賞。
いや、良作でございましたよ。絶賛はできませんけれども、いい映画でございました。
評判がイマイチなのは「だれそれの××な〇〇」という昨今ありがちなタイトルや、ロードオブザリングっぽいきらんきらんのロゴといった、ファミリー向け冒険ファンタジーを期待させる売り方に負う所が大きいのではないかと。あれでは「発明好きの少年ヒューゴが不思議な世界で大冒険!」といったお話と思われても仕方がございませんし、そういう話を期待した観客が、期待と違うつまらん映画だったと腹を立てたとしても、まあ無理もないことであろうと思います。

かく申すワタクシは、ファンタジー映画ではないという前知識はあったので、その点で期待はずれということはございませんでした。しかし正直な所、中盤まではわりとイライラしながら見ておりました。それはひとえに、登場人物に魅力を感じられなかったからでございます。
相手に事情を説明する、ということをあらゆる場面で放棄し続けるヒューゴ(残念ながらこれは最後まで変わらなかった)、いつも怒っているパパ・ジョルジュ(メリエス)。しょっぱなから「弦楽器を大破」という古典的なギャグを見せてくれる鉄道公安官は、憎めない人物ではあるものの、とりわけ魅力的というほどのものでもございません。またヒューゴと仲良しになるイザベル、彼女はストーリーの進行上必要なキャラだということは理解できますけれども、ワタクシには「秘密大好き」「冒険したい」「私も孤児」という題目を振りかざして他人の人生にずかずか踏み込んで来る、まことにうっとうしいお嬢さんとしか思えませんでした。そんなわけでワタクシが、映画もそろそろ中盤というあたりで、いやはやどうも、絵はきれいだし音楽もいいし話そのものは決して退屈ではないけれど、この人たちとあと1時間もつきあうのはちとツラいなあ、と頭の隅でつぶやいたのも、おそらくはご理解いただけると思います。

ところが。
回想の中で、撮影所のメリエスが上記の台詞を言う場面が、あっと驚く転換点でございました。これ以降、絵にも、ストーリーにも、ほんの小さな台詞の中にも溢れる「映画愛」に、ワタクシは打ちのめされてしまったのでございます。

物語の中に「映画」が登場したとたん、それまでの倦怠が嘘のように、劇中のすべてがきらきらと輝き、ダイナミックに動きだしました。メリエスがそっとつぶやく「映写機の音ならどこにいても分かる」という台詞は、それまでの「パパ・ジョルジュ」が意地悪偏屈ジジイにしか見えなかっただけにいっそう心を動かすものがございましたし、それに続く回想の中の撮影シーンはそれはもう本当に、胸が苦しくなるほどに魅力的でございます。画面から飛び出してきそうな列車の描写にはニヤリとさせられ、発掘されたメリエス作品の上映会ではその作品の瑞々しさに思わず身を乗り出し、はては我知らずはらはらと涙まで流れる始末。すっかりメリエスの、はたまたスコセッシの”マジック”にやられてしまったのでございました。

キートンの自伝を読んだ時にもしみじみ感じたことですが、映画というもの、そして映画作りというものが「夢」であった時代が、確かにあったのでございましょう。しかし本作で描かれている映画揺籃期のきらめきを、ノスタルジーという言葉でくくってしまっては、ちと後ろ向きすぎるような気がいたします。本作に溢れる映画愛は「かつては素晴らしかったけど今はね...」という、昔は良かった的な懐古趣味に留まるものではないからでございます。映画の中のメリエスが、かつて自作のミューズであった妻を、歳とった今も往年と同じように愛しかつ必要としているのと同様に。

上に書きました通り、特に前半には倦怠を感じる部分もございましたので、手放しで絶賛というわけにはまいりません。
「どんな部品にも役割があるようにどんな人間にも云々」という台詞を顔をしかめずに聞くには、ワタクシの心はいささか荒みすぎているようですし。この台詞自体は映画の中で要となる役割を果たしており、陳腐なポジティヴメッセージに堕するのを免れてはおりますけれど。
また、ヒューゴの父が遺したノートや自動人形といったせっかくの魅力的な小道具が、話が進むに従ってぞんざいな扱いになってしまったことは否めません。ノートなんか、結局どうなったのか分からずじまい。どちらもヒューゴとヒューゴの父、そしてメリエスとを繋ぐ重要なアイテムであっただけに、この扱いは大変勿体ないことでございました。

とまあ不満はございますけれども、エンディングを迎えるころにはそれもこれも「まあ、いいか」という気分になっておりました。
孤独な少年は孤独ではなくなり、頑固ジジイは心を開き、パパゲーノたちはパパゲーナたちとくっつき、めでたしめでたし大団円でございます。「ハッピーエンドは映画の中だけ」であったとしても、お話が”こうあってほしい結末”にきちんと落ち着くのを見るのはやはりいいものであり、おそらくはこの幸福感溢れる結末そのものも、映画がもっと若くて初々しかった頃へのオマージュでもあるのでございましょう。

『月世界旅行』"Le Voyage dans la Lune / A Trip to the Moon"(1902)


うーむ、「ポンキッキーズ」を思い出すなあ。


そうそう、映画が若かったころといえば、先日から公開されている『アーティスト』も素晴らしい作品でございましたよ。このごろ感じた所を言語化するという作業がすっかり億劫になってしまっており、鑑賞レポもいつになるやらわかりませんので、とりあえず、とってもよかった、ということだけ申し上げておきます。



SF木版画

2012-03-13 | 映画
すみません。
とりわけ忙しいわけではないのです。
体調を崩したわけでもないのです。
単にやる気がないだけなのです。

やる気がある時とない時の、「551の蓬莱」並に激しい落差をなんとかできないものかと、まあ正直自分でも思うのでございますが、何をどうすれば改善できるものか見当もつきません。
ああ、551の蓬莱だなんて。思えばのろさんも関西暮らしが長くなったもんだ。

やる気はないし寒さは続くし目元はかゆいしsafariはすぐに固まるしメビウスは死んでしまうしああ。
このまますうっと世界からフェイドアウトしていけたらそれが一番ではなかろうかと思っているわけですが、その前段階として寒いのやひもじいのに見舞われるのが想像するだにしんどくて、いまだ果たせずにおります。でも、いつか必ずそうなるんだろうなあと、なんとなく覚悟はしているわけです。ワタクシみたいなのは、長生きしてたら否応なくそうなります。

そうそう、メビウスが死んでしまったではありませんか。
Remembering The Life Of Acclaimed Artist Moebius
役にも立たないのろさんがのうのうと生きておるというのに。何考えてんだ神様とやら。
みなみ会館あたりで『時の支配者』の追悼上映とか、しないかしらん。
しないだろうなあ。アンゲロプロスの時も何もしてないもんなあ。

なんでしたっけ。

展覧会や映画の鑑賞レポートもまったく進みませんで、日頃ご訪問くださっている皆様には申し訳ないかぎりでございます。自ら提供できるものがないので他力に頼ることにします。西洋の古い木版画の画像を集めておりましたら、こんな愉快なものに行き当たりました。

Война мiровъ (Кузнецов Андрей) - ИЕРОГЛИФ

ロシア語なので書いてある内容はひとっことも分かりませんが、よくよく絵を見ますと、SF映画やファンタジー映画の有名作を素朴な木版画風のイラストに仕立てたものであることがわかります。消化の仕方が実に楽しいですね。ターミネーターなんか最高でございます。何がいいって、鍛冶屋がいいじゃございませんか。

というわけです。
何がというわけなんだろう。

『サラの鍵』

2012-02-14 | 映画
キレイに作り過ぎと申しましょうか、あざとく感じられる場面が所々ございました。しかし語られている内容そのものは重く、子役を含め俳優陣の演技は申し分なく、全体としてはまあ良作であったかと。



物語の背景である「ヴェルディヴ事件」(フランス政府がナチスの歓心を買うために自国のユダヤ人を検挙・監禁し、強制収容所へ送った)は現実にあったことですが、少女サラの存在はフィクションでございます。もちろんサラの逃避行や納戸の弟をめぐる悲劇もフィクションなわけで、それだけに、列車で隣の席にナチの将校が座るといったいかにもすぎる展開や、とりわけ厳しい環境下に育ったわけでもなさそうなのに色々と機転がききすぎるサラの主人公特性など、振り返ると「ちょっとな~」と思う部分も少なくはございません。

おそらくこの作品の要はサラの悲劇そのものではなく、歴史という大きな流れの中で個別的な悲劇とどう向き合うか、という点なのでございましょう。

サラの足跡を追い続けるジュリアに対して、夫ベルトランは「それで誰かが幸せになったか、世の中が少しでもよくなったのか」と吐き捨てます。
ジュリアの同僚の一人は「このパリでそんなひどいことがあったなんて、吐き気がする」という言葉でもって、過去の醜い事件と今の美しいパリに暮らす自分とを切り離します。
もう一人の同僚は、遥か彼方の傍観者に留まろうとする自分を少なくとも自覚してか「(その時代にいたら)僕ならテレビで見てたろうな、イラク爆撃を見てたように」と言います。

ベルトランにとっても、同僚たちにとっても、ヴェルディヴ事件とは歴史の中の単なる1項目でございます。政府が認めて謝罪したし、どこで何があったのか分かってるし、それでおしまい、もう過去のこと、あとは現在生きている自分たちがいかに幸せでいられるかが肝心。
あるいは多くの人にとって、歴史というのはこういうものなのかもしれません。
しかしそこで起きた個別的な悲劇を掘り起こし、そこに生き・死んで行った人たちの個々の悲しみ、苦しみに共感を持って耳を傾けないかぎり、悲惨な歴史は何度でも繰り返すことでございましょう。



個人の歴史を闇の中から引き上げてみたところで、誰も幸せにはならず、世の中がよくなるわけでもないかもしれない。しかし、未来の世の中をこれ以上ひどくしないために、小さく、個別的で、決して癒えることのない「サラの物語」の掘り起こしは、何度でも必要なのです。なぜなら、そうした個々の物語には「◯◯事件」や「◯◯問題」という大文字の歴史には果たし得ない役割があるからでございます。

大文字の歴史の下で押しつぶされていった人々の苦悶と、それに加担してしまった人々の弱さや愚かしさ。それらは事件の名前や、年号や、「犠牲者◯◯万人」という数字からは決して伝わっては来ません。
その苦悶、弱さ、愚かしさを人類の一員である自らのものとして引き受けることからやっと、少しずつでも、いい世の中が築かれて行くのでございます。そうした共感的反省がなければ、どんなに科学や技術が発展した所で、ひとたび何かが起きた時の悲惨の度合いが増すだけではないかとさえ思います。

とはいえ。
こうしたメッセージが劇中でしっかり描かれているかというとそうでもございませんで、サラの物語とジュリアの人生はいまいちシンクロしきらないまま「命は大事に」とか「自分の気持ちに正直に」といった大ざっぱでごく口当たりのいいテーマのもとに終息してしまった感がございます。(その口当たりのよさが受けているのかもしれませんが)
かつてサラの住まいだったフラットを真新しく改築することや、そのフラットの来歴をおばあちゃんに知らせずにいることに、悲惨な歴史の忘却を象徴させているのは分かります。しかしここにジュリアの妊娠がからむと、俄然お話がメロドラマ寄りになってしまいます。

いかんせん、「家族と引き離され強制収容所に入れられたユダヤ人少女」と「夫に出産を反対されている裕福なキャリアウーマン」では取り巻く状況の重みも、彼女らを行動へと突き動かす動機も、違いすぎるのでございます。そのためジュリアの「真実を知るには痛みが云々」や「こんなのすべて嘘」という台詞も、いまいち平行度の低いサラとジュリアを何とか結びつけようとする演出と感じられ、台詞としてはこじゃれてはいるものの、取って付けたような納まりの悪さがございました。
制作者の意図としては、辛い真実を受け入れることで一歩前に踏み出すということと、ジュリアの決断とを関連づけたのかもしれませんが、歴史的事実を受け入れることと自分の気持ちに正直になることとは、やっぱり全然レベルが違う話ではございませんか。

サラの物語を掘り起こし、過去から目をそらす人々に事実をつきつけ、(過去を切り捨てもせず傍観者に甘んじもしないという)倫理的役割を演じ、かつサラの人生と感応しつつ、挫折も味わいつつ、思いがけない妊娠と向き合う、などなど、ジュリアというキャラクターに多くのことを背負わせるために、話を「うまく」作り過ぎた感もございます。それでいて、事実の受け入れと痛みを伴う前進、というおそらく最も重要な部分は、ジュリアではなく話の終盤になってから突如登場するサラの息子が担ってしまうというのが何とも。

とまあ
褒めてるんだかけなしてるんだかよく分からない鑑賞レポになってしまいましたが、あまり知られていないフランス史の暗部を取り上げたという点で、制作される意義はあった作品であろうと思います。ただネット上のレヴューがあまりにも高評価に偏りすぎのような気がしまして、「そんなにもの凄い映画かコレ?」と反発する気持ちもあり、以上のような共感反感相半ばする感想になった次第でございます。

2011年その他の映画

2011-12-31 | 映画
大晦日の午後になってからおもむろに大掃除を始めるのろ。
ワンルームマンション暮らしが向いている人間だとつくづく思います。

それはさておき
振り返れば3.11以前にあったことが遥か昔の出来事のように思える年の瀬でございます。『白いリボン』も『ハーブ&ドロシー』も『ウフィツィ美術館自画像コレクション展』も、鑑賞したのが今年のことであったとは信じられません。ともあれ1年締めくくりということで、鑑賞はしたもののブログで紹介できなかった映画を思い出せるかぎり以下に並べてみようかと。

『100000年後の安全』
反原発を声高に訴える映画ではなく、「原発を利用するということは、こういう問題と向き合うということです」と淡々と述べて行く作品。しかしその「問題」の時間的・空間的規模たるや、あまりにも遠大で目がくらみます。しかも廃棄物処理という問題ただ一点に絞ってさえ、このとほうもなさ。

『赤い靴』デジタルリマスター版
ヒロインが愛とキャリアの間で引き裂かれるのに対して、男たちがその点については全く葛藤しないらしいのが腹立たしいことではありました。

『バンド・ワゴン』
ミュージカル映画の傑作に数えられる作品ではあり、アステアの代表作でもありますが、ワタクシは『イースター・パレード』や『パリの恋人』、古い所では『トップ・ハット』あたりの方が好きなのです。

『ヤコブへの手紙』
和解の物語。「赦し」の物語と表現することもできますが、赦す者と赦される者、という二者間一方通行の関係ではないと思うのですよ。

『光のほうへ』
本当は、悪というものは存在せず、ただ「そうなってしまったもの」があるばかりなのです。本当は、全て。
犯罪や暴力それ自体は醜悪なものとして描かれるものの、そこへ至らざるをえなかった背景を丁寧に描き、しかも当事者を悲劇のヒーロー的に持ち上げることはしない。『ヤコブ~』もそうですが、「罪」とその当事者の描き方にうならされる作品でした。

『ヤバい経済学』
軽いノリかと思いきやテーマは非常に重たいものだったりして、その落差がちょっとしんどかった。

『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』
もうひたすら、快作。こんなに面白くて、しかも現代アートについて深く考えさせられる映画というのは他に類を見ないのではないかと。バンクシーをはじめストリート・アーティストたちの戦術や舞台裏も間近に見られて、一粒で何度もおいしい作品。

『エッセンシャル・キリング』
生きる、ということは、生き延びようとし続ける、ということと同義でございます。

『メタルヘッド』
面白くないわけではないのですが、語り方次第でもっと痛快な作品にもなりえたよなと思うのです。そうは言っても「ばあちゃんと散歩」の所で不覚にも泣いてしまいました。

『クリスマスのその夜に』
ベント・ハーメル監督ってけっこうビターな所をビターなままに出して来ますよね。ビターはビター、スウィートはスウィートで別のものよ、という感じがいたします。人間のダメさに対するまなざし、その絶妙な距離感がなんとも。

『パレルモ・シューティング』
今年の見納め作品。去年の見納め作品であった『ソフィアの夜明け』と色々似ているな、と思ったら、去年の『ソフィア~』の記事でブルガリア版『ベルリン 天使の詩』みたいだ、と書いておりました。
死は内在ではない、しかし生の必須条件ではあります。そういう意味で、デニス・ホッパー演じる死神が繰り返す「死は自らの中にある」という言葉は正しいのでございましょう。
「ここに出口はない。私が唯一の出口だ」
「誕生を司る者は喜ばれるが、私は嫌われる。同じことなのに」

以下はDVD鑑賞。

『カラヴァッジオ』『エドワードII』『ヴィトゲンシュタイン』『テンペスト』
はい、デレク・ジャーマン祭りでございます。毎週1本のペースで見たらしまいに疲れました。

『オルランド』
はい、ティルダ・スウィントン繋がりで。あとで気付きましたがサンディ・パウエル繋がりでもありました。
特典のドキュメンタリーも含め、いろいろと面白かったです。

『TATARI』
心霊ホラーは大嫌いなワタクシでも全く問題なく楽しめました。要するに、ぜんぜん怖くないということですね。ホラー映画としてはどうなんだって所ではありますが、作品としてはなかなか面白かったですよ。いやほんと。何で嫌いなジャンルの映画をわざわざ見たのかって。ヴィンセント・プライス風ジェフリー・ラッシュを見てやろうと思って。

『ヒックとドラゴン』
やっと観ました。傑作すぎて何と言っていいのかわかりません。
↓とりあえずご参考までに。
超映画批評『ヒックとドラゴン』97点(100点満点中)
そもそも「友達のドラゴン」というものに弱く、10代前半の愛読書のひとつが『恐竜の飼い方教えます』であったワタクシではございます。そうした個人的な好みを差し引いたとしても、語りといい、メッセージ性といい、アニメーションといい、本当に素晴らしい作品でございます。
もしうまく文章がまとまったら、また別の機会に語らせていただこうかと。

そうそう、そういえば『英国王のスピーチ』についてきちんとした感想を書いておりませんでした。この作品については色々考えたのですが、思い入れが強過ぎてうまくまとめられないのですよ。ひとつ驚いたのは「淡々としている」という感想をよく見かけたり、耳にしたりすることでございました。冒頭からジョージに感情移入しまくって観ていた身としては、ちっとも淡々どころではなかったのですが。

とまあこんな感じでございます。
だらだら書いているうちに今年も残す所3時間をきりました。
では、富める人も貧しき人もよいお年を。

インタヴューwithゲイリー・オールドマン&マーク・ストロング その2

2011-12-26 | 映画
現在、室温6度。

それはさておき
昨日の続きでございます。



10:25から。

悪役にタイプキャストされることについては、そういうのは俳優として避けられないことだけれども、役選びに気をつけることで観客の先入観を緩和できるよとゲイリーさん。言われてみれば2001年の『ザ・コンテンダー』以降、この10年間は悪役を演じていないんですね。その年月の間に、いわば観客の世代交代が行われるというわけです。

そのコメントを受けてソーターさん、アンソニー・ホプキンス、ジェレミー・アイアンズ、アラン・リックマンの名前を挙げて、「ハリウッド映画で英国人俳優が悪役を演じるというのは一種の”名誉ある伝統”のようなものだし、つい最近見た映画の出演者を似たような役にキャスティングしたくなるのは自然なこと。それに長年この仕事をやっている身としては、この5年ほど悪役ばかり演じたからって何も大騒ぎするようなことじゃない」と。

ゲイリーさん、「長年この仕事をしている」という所に反応して「君、『主任警部モース』にチョイ役で出てたよね?」とニッチなご指摘。
感じ入ったようなソーターさんの表情がまたよろしい。この時が初めてのTV出演だったようです。

ちなみにそのチョイ役シーンはこれ。


おお、若い。
若い頃はあんまりかっこよくないソーターさん。
いいのよ。

閑話休題。
役づくりの仕方について、「スタニスラフスキーを読もうとはしたけど...、その役についてリサーチするべきか否かは演じる役柄によるね」とゲイリーさん、リサーチが有効に働いた例として『JFK』のオズワルド役を挙げてらっしゃいます。(17:18)撮影に先立ってオリバー・ストーンから飛行機のチケットと電話番号のメモを渡され、ダラスへ飛んでこれこれの人物に会って来い、そしてオズワルドがどういう人物かを探って来い、と指令を受けたとのこと。

22:15から22:38、ゲイリー・オールドマンがリドリー・スコット監督を演じております笑。
アクション!を言う前からずっとカメラを回し続けるのだそうで。
トーマス・アルフレッドソンはせいぜい2、3テイクしか撮らないのに対して、自分は5回は撮りたい方だ、とゲイリーさん。クリストファー・ノーランとの仕事の時も、予算も使って大通りに照明をつけて、こんな機会はもうないんだからもう一回ぐらい撮っとこうよ、という感じだったのだそうで。『ダークナイト』でジョーカーさんを逮捕するシーンのことでしょうか。

その後は『ティンカー、テイラー、ソルジャー,スパイ』の出来映えをひとしきり褒めたのちインタヴュー終了の模様。ここでゲイリーさんが挙げているクリスマスパーティーのシーンは原作にはないもので、ネット上でレヴュアーの評判もたいそういいシーンですので、ワタクシ見るのをたいへん楽しみにしております。
本作でのソーターさんのヘアスタイル(即ち、かつらスタイル)はそりゃもう最悪ですけどね。
いいのよ。