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のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

インタヴューwithゲイリー・オールドマン&マーク・ストロング その1

2011-12-25 | 映画
期待していました。
いつか誰かがこういう企画を実現してくれるんじゃないかと。



いやあ、眼福眼福。
ぜひここにアラン・リックマンとジェレミー・アイアンズも加わっていただきたい所。
ワタクシの乏しいリスニング力では聞き取れない所も多いというのが残念でございます。冒頭の変な固有名詞をめぐる話なんて、話しぶりからするとずいぶん楽しそうなのですが。

1:33の所、インタヴュアーからの質問に「貴方からどうぞ」と肘でゲイリー・オールドマンをこづくソーターさんが何やらとってもツボ。

「こんな素材とハイレベルなキャスト、それにトーマス・アルフレッドソンほど独創性のある監督に恵まれる仕事はめったにない」とゲイリーさん。「この作品のために現在活躍する素晴らしい映画人たちが結集しましたが、みなさん顔見知りでしたか?」という質問には「いや、でもみんなお互いの作品のファンだったね」と。

2:47の所もいいですね。
G「”コントロール”のオフィスは『ハリー・ポッター』の6年生クラスみたいだったよ。みんなあのシリーズに出てたからね。で、君だけが...」
M「この惑星上で『ハリー・ポッター』に出演してない唯一の英国人俳優でした」
G&M(笑)
インタヴュアー「クリス・コロンバスに嫌われるようなことでもしたんですか?」
M「いや、何がいけなかったのか分かりません。何かとんでもない手落ちがあったんでしょう」
G&M(笑)

小説とドラマで長年親しまれたこの素材に取り組むことに対してリスクは感じなかったかという質問に、主役スマイリー(ドラマでの配役はアレック・ギネス)を演じたゲイリーさんは、まあハムレットを演じるようなもので、以前の作品と比べられる恐れはあるが、張り合いもある、と。一方ジム・プリドー役のマーク・ストロングは、最近悪役ばかり演じていたので、プリドーのような共感できる人物を演じられたのはよかったし、リスクやプレッシャーも特になかったとの事。

ひところ悪役にばかりタイプキャストされるていたゲイリーさんと同じ境遇にあるということか、という指摘に対してはソーターさん、「(同じと言っても)私の方はずっと低いレベルですが...」と断った上で、主役には物語を牽引する役割や鑑賞者に好かれる必要があるのに対して、悪役にはそうした制約がない分、キャラクターの個性を表現する余地があって面白いとのお答え。
その流れでソーターさんの新作『ジョン・カーター・オブ・マーズ』と『ブラック・ゴールド』の話も出ておりますね。そして『ブラッド・ダイヤモンド』と『ワールド・オブ・ライズ』を間違えるゲイリーさん(8:15)笑。いわく、マーク・ストロングのことは以前から知っていたものの、『ワールド・オブ・ライズ』(ソーターさんはヨルダンの諜報局長ハニ役)では彼とは気付かず、ハニを演じているのは外国人の俳優だと思っていたので、エンドロールで名前を見て驚いた、と。

コスチュームやメーキャップの助けをかりて変身して、「あの俳優」とは分からないようなキャラクターになって人々を驚かせるのは俳優業の醍醐味だよね、という点で一致した所へ「それがそもそも俳優になった動機ですか?」と尋ねられ、
G「基本的にはね...グラスゴーのパブで飲んでた時、あんたら、なりわいは?って聞いてくる奴がいた。劇場の者だと答えたら奴さん、『ああ、王様やら王妃様やらの格好して金をせびるんだな』だってさ。実際その通りなんだな。I love it.」
うーむ、実にお茶目です。

次回に続きます。

『ルパン三世 血の刻印』(追記あり)

2011-12-03 | 映画
注意:以下、愚痴のみです。
追記も愚痴のみです。



ルパン三世TVスペシャル製作スタッフの皆様にお願いです。
どうかもう新しい「ルパン三世」は作らないでください。

なおも新作に取り組むおつもりなら、問題は声優にあるのではなく脚本にあるのだということにどうか気付いてください。カリオストロを踏襲するのもいかげんにやめてください。「巨悪を挫いて世界を救い、ついでに可哀想な美少女を助け、結局一文も盗まずに退散するルパン」はもう結構です。
後半で人質になることが見え見えな勝ち気少女に「ルパン先生!」と連呼させることや、ジブリ映画をはじめ他の作品を容易に連想させる台詞やシーンを(オマージュです、という言い訳にも無理があるほどのレベルで)わんさか寄せ集めた展開、そうしたものが面白いはずだと、本気でお思いになったのですか。

(追記1:そもそもオマージュやパロディというものは、本筋にはさして影響のない、いわば”遊び”の部分でやるものでございましょう。『ルパン対複製人間』では1stシーズン『魔術師と呼ばれた男』を連想させる台詞がありましたが、知っている人がニヤリとするぐらいのささやかなものでございます。2ndシーズンの名作『追いつめられたルパン』ではチャップリンの『独裁者』のパロディシーンが長々とございましたが、これは30分の時間を埋めるためのお遊びでもあり、また2ndシーズンの中では比較的シリアスなこの話におけるコメディリリーフでもあり、いずれにしてもストーリーの流れとしては別に必要なシーンではございません。
ところが今回のTVスペシャルときたらいよいよ大詰めという差し迫った場面で、悪役のナントカ社長が「実は私はそこの特別な少女と同じく、コレコレの末裔なのだ!」と重要なぶっちゃけ話をなさったりするわけです。タイミングも設定もあまりにもラピュタ。あまりにも。一瞬、ナントカ社長のギャグかと思いましたですよ。いやむしろその方がよかった。こういうものはオマージュとは呼べませんし、パロディのつもりだとすれば、あまりにも場違いでございます。)

ゲストキャラ少女のお涙頂戴話などいりません。そもそもあの弟子入り少女、ストーリー的に全く必要ないのでは。宝石探しも逃走劇も、ルパンとその仲間がやればいいことではございませんか。ゲストキャラの大活躍など見たくないのです。人々が『ルパン三世』を見るのはルパン三世とその一味(&銭形)のファンだからなのであって、リンダやクラリスやコーネリアのファンだからではないのですよ。いや、まあ、コーネリアは好きですが。
ルパン次元五右衛門不二子ちゃんそして銭形の騙し騙され丁々発止や追いかけっこが『ルパン』シリーズのキモなのであって、ゲストキャラの背景は台詞でさらっと説明するぐらいで充分でございます。『ルパン対複製人間』や『お宝返却大作戦』がそうであったように。ゲストキャラの回想やら何やらを抜きにしたら2時間弱の尺をもたせられないというのですか。ならばどうか3年でも5年でもかけて、盗み&謎解き&追っかけっこメインで2時間弱をきっちりもたせられる、いい脚本を作ってくださいましよ。

少女が登場した時点でもう先の展開が何となく読めてしまう、そんなお話でいいのですか。
少女奮闘、悪役自滅、ルパン人助け。
たまにはお宝をごっそり頂いて大笑いのルパンで締めたっていいじゃございませんか。それじゃ泥棒賛美になるから駄目ですって。そんなの、最後の最後で不二子ちゃんが全部かっぱらって行けばいい話じゃございませんか。それをやっても許されるのが不二子ちゃんというキャラクターでございましょう。逃げる不二子を追いかけて行ったら向こうから銭形登場、Uターンして逃げるルパン、お前のせいだかんなと毒づく次元と五右衛門、まぁ~てぇ~と追うとっつぁん。申し分ない終幕ではございませんか。

(追記2:”お約束”というのは先の読めない展開の中にふと現れるからこそ効果的な、一種の安心要素であり、送り手である制作者と受け手である鑑賞者の間に交わされる目配せのようなものでございます。これだよな、そうそう、これだよ。目配せであるからには一瞬顔を上げてちらっと、というぐらいが適当なのであって、終始真っ正面を向いて「さあウインクするぞ、ウインクするぞ、そら注目、ばっち~ん!どうだい!じゃあもう一丁!」という具合にやられたのでは、受け手としてはげんなりせざるをえません。本TVスペシャルは
ルパン三世としても、あるいは一般的なエンターテイメント作品としてもお約束まみれで、まさに上記のくどすぎる目配せのように、見ていて嫌になりました。
お約束、王道、というものは、味付けしだいで素晴らしい効果を発揮するものでございます。またパターンが決まっているからこそ、それをどう料理するかということが制作者の腕の見せ所なのではございませんか。例えば五右衛門のお約束といえば「またつまらぬものを斬ってしまった」という台詞でございますが、『お宝返却大作戦』では五右衛門が敵のヘリをまっぷたつにして例の台詞を言った直後に、メイン敵キャラの一人であるミーシャがヘリから脱出しながら放った銃弾を背中に受けて、ストーリーの終盤にまで関わる重傷を負っております。これはお約束のパターンを適度にずらし、かつ視聴者がこの敵キャラに対して「こやつ、なかなかできる」と一目置くことに資する見事なシーンでございました。そう、敵ながらアッパレというぐらいの相手でなければ、どんなに派手な死に方をしようとも、そこにはカタルシスもへったくれもないのでございます。)

ルパンに自分探し的な台詞や相田みつを風ポジティブメッセージを吐かせるのもやめてくださいまし。薄っぺらなシリアス演出には心底がっかりします。カッコよくないのですよ、端的に言って。いっそ無茶すぎるガジェットや神出鬼没すぎるとっつぁんといったハチャメチャな展開で押し通して、最後の最後だけぴりっと締める、ぐらいのバランスでもいいのではないでしょうか、と申しますか、現状ではそれ以上のものを期待できません。

あと五右衛門の殺陣がちっともカッコよくないのはどうしたことですか。1stおよび2ndのTVシリーズではいちいちコマ送りしたくなるほどの美しさがあったというのに。敵の用心棒を斬るくだりも「修行が足りない→修行した→斬れた」というあまりにもひねりの無い展開。思わず「は?」と声が出ましたですよ。まあ「女に騙される五右衛門」というこれまたうんざりなキャラクター造形を退けてくだすった点だけは大いに評価したい所でございますが。

それから悪役に魅力がございません。全くございません。
悪役loverののろがもう一度申しますが、全くございません。
大物のオーラもダンディズムも茶目っ気もない、ただ残虐で欲深いだけの悪役ほどつまらないものはございません。そんな奴が最後に怪物化したところで、マモーのような哀愁もなければどうやっても倒せないという緊張感もなく、結局あの穴から一歩も出ないまま自滅。ええ、自滅でしょうあれ。
むしろ冒頭でルパンに盗みを指示した和服のおばちゃんが、終盤までサブ悪役として活躍してくれたらよかったのに。メイン悪役のナントカ社長とはひと味違う、骨董品を愛する矜持ある悪党として、ルパンたちと手を結んだり裏切ったりと三つ巴の展開を見せてくれた方が、可哀想な少女の思い出語りで所々ぶったぎられる劣化版インディ・ジョーンズよりもよっぽど面白かったのではないかと。

何だかんだあって結局最後は超常現象が解決、というアプローチそれ自体が悪いわけではございません。ただ、「それルパンである必要があったの?」という疑問が、話が進むにつれてふつふつと沸き上がってきたのでございます。あっ さり見破られる変装で敵陣に乗り込んで来たり、賢さや機転や常人離れした発想ではなく身体能力だけが突破のカギとなるトラップ(=仕掛けは『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』そのまんま、ただし謎解き要素もタイムリミットも欠落したやつ)に踏み込んでいったり、クライマックスではほとんど役に立たず傍観者の立場に終始する人物が、世界一の大泥棒である必要がどこにあったのかと。

そうした点から見ると、初代ルパンを絡めた最終盤の演出は、唐突ではありましたがなかなかによいものでございました。旅客機はおろか飛行機もろくすっぽ飛んでいなかった時代、船で何十日もかけて日本に来るなんてよっぽど暇だなアルセーヌ、というツッコミもにわかには浮かばないほど、このくだりには『ルパン三世』としての魅力と説得力がございました。そう、どんなに荒唐無稽であろうとも、その無茶さを補ってあまりあるほどの魅力、渋さ、痛快さが『ルパン三世』の醍醐味なのではございませんか。

とまあいろいろ申しましたが
「近年の作品群に比べれば断然マシ」との声もある本作。ワタクシは最も酷かったという過去数年間のTVスペシャルを見ておりませんので、相対的に辛い点数をつけてしまっているのかもしれません。
また本作は40周年記念作品、しかも声優陣が一新ということで、きっと気合いの入った作品を作り上げてくれたことだろう、と(それなりに)期待を寄せてはおりました。その期待を満たしてはくれなかったという失望が、ワタクシをしてかくも長々しい愚痴を吐かしめたのでございましょう。




『Puss In Boots』および『Black Gold』のこと

2011-11-26 | 映画
就寝以外のあらゆる行為が面倒くさく感じられる今日この頃。

それはさておき
知らぬ間に『シュレック』シリーズのスピンオフ作品『Puss in Boots』(長靴をはいた猫)が全米公開されておりました。ギレルモ・デル・トロ(『パンズ・ラビリンス』の監督、本作では製作総指揮)がチョイ役で声の出演をしているだそうで。どうでもいいけど笑。

Puss In Boots Trailer 3 Official 2011 [HD] - Antonio Banderas, Salma Hayek


うーむ。
ワタクシこのキザったらしいくせにどこか間抜けな長靴猫のことは大好きでございますけれども、これを主役にすえて90分引っぱるのは、正直ちと難しいような気もするのでございます。こういうクセの強いキャラクターって、脇役という立場にあってこそ光るものではないかしらん。
また、この長靴猫が、クセが強くしかも人気のあるキャラであるからこそ、ひたすら小ネタを詰め込む一方で映画全体の構成はぐだぐだ、といういわゆる”キャラ頼み”な作りになってしてしまう恐れもございます。トレーラーを幾つか見たかぎりでは、その気配がふんぷんとするのでございますが。
いや、あるいは、『シュレック』シリーズ同様にさまざまな映画のパロディで彩られるらしい本作のこと、キャラ頼みな作りそのものすらもドリームワークス的ブラックジョークの一環なのかもしれません。数バージョンあるトレーラーのひとつで、あのディズニー最大のキャラ頼み映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』とそっくりの音楽を使っていることからもその意図する皮肉は明白...

なわきゃないですね。はい。

そうはいっても『シュレック』シリーズとは長い付き合いではあり、おとぎ話のパロディというジャンル自体がけっこう好きでもあるのろのこと、日本で公開されたらいそいそと観に行ってしまうことでございましょう。2Dでいいけど。


さてこの長靴猫の声を演じているのは言わずと知れたアントニオ・バンデラス。
バンデラスといえば来月の北米公開を控えているのが、20世紀前半のアラブを舞台にした『Black Gold』でございます。主人公はアラブの族長Amarの息子で、子供のときに他部族との和平の条件として人質に出され、その部族長Nesibのもとで育った青年。ところがアメリカの採掘会社が2部族の係争地域であった土地で石油を掘り当てたことから、敬虔なAmarとリベラルなNesibとの間で対立が再燃し、主人公は二人の父親の間で引き裂かれることに。主人公の育ての親であるNesibを演じるのがバンデラス。主人公の実の父親Amarを演じるのがソーターさんことマーク・ストロングでございます。

Black Gold Movie Trailer


うひゃあ!
ソーターさん!
なんてかっこいいんだ!オマー・シャリフもまっつぁおさ!
お母さんがオーストリア人、お父さんがイタリア人で、ご本人は生まれも育ちも英国というヨーロピアンブレンドのソーターさん。キャリアをざっと見渡しただけでもロシア人、ドイツ人、イタリア系アメリカ人、ユダヤ人に宇宙人と様々な系統のキャラクターを演じていらっして、アラブ系の人物を演じるのはこれで3度目でございます。
ひところはミュンヘンの大学で法律を学んでいたということですからドイツ語ペラペラのはずなのですが、ドイツ語圏の役柄よりも東欧やアラブ系の役が多いのは、やっぱり風貌のせいでございましょうね。どうです、このターバンの似合うことといったら。



監督は『薔薇の名前』のジャン・ジャック・アノー。と申しますと期待が高まりますが、『スターリングラード』のジャン・ジャック・アノーでもあると思えば油断は禁物でございます。
imdbによると年内に劇場公開するのはカタール、フランス、クウェート、レバノンそして米国で、来年1月にはスペイン、2月になってようやく英国とオランダで公開されるとの事。日本に来るのは早くても来年の夏くらいでしょうか。何にしても楽しみなことではあります。


あなた自身は外国語を話せますかというインタヴュアーの質問に対しては「(母方の)おばあちゃんが英語を話せなかったから、おばあちゃんとコミュニケートするためにはドイツ語を話さなきゃならなかったんだ」との慎ましいお答えでした。
Robin Hood star Mark Strong| interview | From the Observer | The Observer
それにしても「子供の頃、外国人同士のハーフである自分をアウトサイダーだと感じませんでした?」だの「お母さんはあなたを5歳で寄宿学校に入れたけど、あなたもそうしますか?」(ソーターさんは誕生前に両親が別れたため母子家庭で育ちました)だの、「20代で禿げてきて辛くありませんでした?」だの、このインタヴュアー、ちと物言いが率直すぎるような気が。ソーターさんが他所でしたインタヴュー記事を踏まえた上での質問のようではありますけれどもさ。

『コンテイジョン』

2011-11-17 | 映画
このごろ時間的に余裕のないお仕事が舞い込むなあ。
生粋の怠け者にはつらいや。

とはいえ出先で中途半端な時間に用事が済んでしまい、たまたまその出先が映画館の隣だったりしたものですから、せっかくだからと『コンテイジョン』を観てまいりました。こんなことだから余裕がなくなるんだ。

映画『コンテイジョン』予告編


予告編を見ますと感染パニックもののようでございますが、本作が描いているのは伝染病の恐ろしさやそれに立ち向かう医療関係者の英雄的な振る舞いよりも、むしろふとしたきっかけから雪崩のように崩れて行く人間社会の脆さでございます。派手な演出がないだけにいっそう、こうしたことは明日にでも起こりうるのではないかと思わしめるリアルな恐ろしさが、底冷えのようにしんしんと迫ってまいります。
食料品や電池の買い占め、最前線で働く人の死、ネットを通じて広がる真偽の入り交じった情報、何をどこまで恐れたらいいのか分からないという怖さ、パフォーマンスのうまい奴に騙される大衆、オフレコな話がきっかけで足下を掬われる責任者などなど、とりわけ今の日本で見るには生々しいものがございましたよ。

スターでございと身を乗り出すことなく、与えられた役を過不足なくこなす豪華俳優陣の演技も見ものでございます。派手な見せ場やこれといった泣かせどころがないので「有名俳優の無駄遣い」とお思いんなった方もいらっしゃるようですが、主要な登場人物それぞれが強さと弱さ、賢明な面と愚かな面とをかいま見せる本作において、そうした人情の機微を過剰な演出無しに描き出すことに成功しているのは、名だたる俳優陣の堅実な演技あってこそでございましょう。
中でもワタクシに印象深かったのはCDC(米国疾病予防管理センター)の調査官Dr.ミアーズを演じたケイト・ウィンスレットでございまして、キャラクターの背景については全く描かれない上に登場シーンもさして多くないにもかかわらず、彼女がどういう人間であるのかが、ひとつの台詞、ひとつの所作ごとにどんどん掘り下げられていくような素晴らしい演技でございました。
余談ですがローレンス・フィッシュバーンの片耳イヤホン姿を見て「エージェント・モーフィアスかい!」と思ったのはワタクシだけではございますまい笑。

帰ってから辞書をひいてみますと、contagionという単語には「伝染病」の他に「(思想・評判などの)伝染、感化、悪影響、(道徳上の)腐敗」という意味がございました。ソダーバーグ監督が描きたかったのはむしろ後者の意味合いであろうかな、と思いつつ作品を振り返り、どっちの意味でのcontagionも人類の歴史においてこと欠かなかったし、本作に描かれていたような事態って明日にでも起こりうることだよなあとまたも思うにつけ、ひんやりとうそ寒いものが心底を流れるのでございました。

『サヴァイヴィング ライフ』

2011-10-27 | 映画
存在するものは全て消滅の途上にあるという事実と、その一方でひとたび存在したものは何をもってしても取り消し得ないという事実、それらはなかなか面白いことではないかと思う今日この頃。

それはさておき

ヤン・シュヴァンクマイエルの新作『サヴァイヴィング ライフ -夢は第二の人生-』を観てまいりました。

映画『サヴァイヴィング ライフ -夢は第二の人生-』予告編


今年で御年77歳を数えるシュヴァンクマイエルでございますが、あの神経を紙ヤスリで逆撫でするような映像感覚は健在でございます。このあたり、方向性は異なるものの、デジタル技術を多様するようになってから画面ばかりでなく作品全体の手触りがさらっと薄味なものになってしまった感のあるテリー・ギリアムにはちと見習っていただきたい所。(そうはいってもワタクシ『ブラザーズ・グリム』は好きですけどね)
シュヴァンクマイエルの作品はとりわけ恐怖やショックを売りにしているわけでもないのに、安心して見ていられないという点ではホラー映画以上のものがございますね。短編の特集上映で観た『フローラ』なぞほんの30秒足らずの作品だというのに、展開されるイメージの強烈さに打ちのめされて、次の作品が始まっても全く集中できなかったものでございます。

『サヴァイヴィング ライフ』でもニワトリ頭の裸婦やペニスのついたテディベアなど、グロテスクで猥雑でありつつも妙に乾いたイメージは相変わらず。しかし振り返ればストーリーそれ自体には不合理な所がほとんどなく、むしろ最後に全てのピースがぴちっと嵌まるミステリーといった趣きすらあり、『オテサーネク』以上に普通に楽しめる映画となっておりました。
しかも冒頭にシュヴァンクマイエル本人が登場して「これは精神分析コメディです。何故なら、精神科医が出て来るから」と大真面目な顔でのたまうように、本作は喜劇でもあります。シュヴァンクマイエルの言葉は「でも、あんまり笑えません。作ってる間も笑えなかった」と続くのでございますが、半ば実写、半ば切り絵アニメーションと化したアーティスト本人が仏頂面でこんなこと言ってる時点で笑ってしまいました。

精神分析コメディというふざけた命名はしかし、実際正鵠を射たものであると申せましょう。ストーリーは主人公であるしがないサラリーマン、エフジェンが夜な夜な見る(一見)支離滅裂な夢を軸に、その夢に対する精神分析的解釈、そしてその夢と解釈とがエフジェンの現実の生活にもたらす大小の悲喜劇とをからめつつ進んでまいります。
夢の世界よりもむしろ現実世界の描写の方が悪夢じみていたり、シチュエーションとしては笑いどころなのに描き方がエグすぎて笑いが引きつってしまうようなイメージを持って来るあたり、実にもってシュヴァンクマイエルでございます。

もちろん冒頭の前口上どうりに精神科医もご登場。診察室の壁にいともわざとらしく掲げられているフロイトとユングの肖像写真が、目の前で展開することの成り行き、即ちエフジェンと精神科医とのやりとりに対していちいち反応するのが、ワタクシにはものすごくツボでございました。
初めは彼らの「弟子」たる精神科医の応答を見守りつつ、仲良く拍手したりうなずいたりしていたのが、エディプス・コンプレックスの話が出て来た辺りから意見の相違が表面化し始め、リビドー云々にフロイトが拍手喝采してもユングはムスッとしたまま、逆にアニマや元型の話になるとユング大喜びでフロイトはおかんむり、しまいには額縁を超えた殴り合いに発展したすえに共倒れという期待どうりの展開笑。

ひとつ物足りないと感じたことは、エフジェンの夢に現れる諸々の現象、即ちストーリーの本筋を構成する魅惑と謎の全てが、心理学的解釈の範疇にきちんと収まりすぎるという点でございます。『ジャバウォッキー』での黒猫のように、パズル完成と思いきや最後に何もかもぶちこわす存在があっても良かったと思うのですが。

ジャバウォッキー 1971


しかしまあ、「きちんと収まりすぎ」ということ自体、フロイトとユングの甚だベタなケンカ同様に、シュヴァンクマイエル流の皮肉なのかもしれません。彼が創造性の源泉として重視する無意識の世界を、学問という名のメスで腑分けしようとする、精神分析や心理学といった理知的なものへの。
分析のおかげをもって夢に現れる全ての謎は解明されたものの、それによって主人公エフジェンに残されたのは、家庭的・社会的生活が崩壊した現実と、もはや「謎の美女との逢瀬」という甘美な様相を剥がされた夢の世界とのみなのですから。





『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』のこと3

2011-09-19 | 映画
「完璧なものなどできない」と開き直ったとたんに、肩の力が抜けて良いものができるのか、あるいは
「完璧なものなどできない」と開き直ったとたんに、要求水準に全く達していなくてもそれが良いものに見えはじめるというだけなのか。
いずれにしても完璧なものなどできるわけがないのです。

それはさておき

『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』が先週イギリスで封切られました。
ヴェネチア国際映画祭では残念ながら無冠に終わりましたが、一般の観客の反応はさてどんなものか、気になる所でございます。

ちょっと長めの新トレーラー。最後にDECEMBER(12月)と表示されておりますので、おそらくは北米向けのものでございましょう。


おお、マーク・ストロングがいたぶられているではありませんか。
いつもはいたぶる側なのに笑。

IMDbのディスカッションボードを覗いてみますとソーターさんの演技が絶賛されていて、嬉しいかぎりでございます。学校の子供らとの交流もきちんと描かれるようですね。

えっ
”多忙を極めて”いるのにIMDbを覗いてる暇はあるのかって。
息抜きくらいいいじゃないのにんげんだもの。

『ティンカー、テイラー~』のこと2

2011-09-05 | 映画
映画『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の公式サイトが更新されました。

TINKER TAILOR SOLDIER SPY

トップページからサイトに入って行く前にちょっとした関門が。
そこはスパイ映画でございます。

そしてyoutubeにはジム・プリドー(マーク・ストロング)の回想シーンが。

Tinker, Tailor, Soldier, Spy - First Fragment


ぐわあ。
観たい。

『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』のこと

2011-08-17 | 映画
今一番公開が楽しみな映画といったら、『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』でございます。
本国イギリスではちょうどひと月後の9月16日封切り。USでは11月18日、日本での公開は未定ということですが、まあおそらく、来年3月くらいにはなるこってございましょう。待ち遠しいことこの上ありません。

監督は『ぼくのエリ 200歳の少女』のトーマス・アルフレッドソン。この作品は陳腐な邦題にげんなりして結局観に行かずじまいでしたが、評価を見聞きするかぎり、監督の手腕にはそこそこ信頼を置いてもよさそうです。『ティンカー~』のトレイラーを見るかぎり、映像センスにも期待できそうでございますね。

しかし何と言っても注目したいのは、演技派俳優で固めた豪華俳優陣でございます。
主人公である元英国諜報部員、ジョージ・スマイリーを演じるのはゲイリー・オールドマン。
彼の”戦友”であり、今は実質的に諜報部内ナンバー2の座を占めるビル・ヘイドンにはコリン・ファース。
組織内の「もぐら」(ソ連側への内通者)の存在を嗅ぎ付ける老獪な諜報部チーフ、コントロール(管制塔)にはジョン・ハート。
コントロールの後釜に納まった野心家パーシイ・アレリンには、一度見たら忘れられない風貌のトビー・ジョーンズ。
スマイリーと共に「もぐら」を追う若手幹部ピーター・ギラムには、BBCのドラマで現代版シャーロック・ホームズを演じて一躍脚光を浴びたベネディクト・カンバーバッチ。
自信家でいささかお調子者の工作員リッキイ・ターには最近”That guy”俳優道から脱しつつある(ような気もする)トム・ハーディ。
そして、ええ、辛い過去を封印して小学校教師として生きようとする元工作員、ジム・プリドー役には、ソーターさんことマーク・ストロングでございます。

That guy actor...演技力はあるものの、器用すぎるために俳優としての名前を覚えてもらえず、「あ~この顔絶対どこかで見たことあるんだけど誰だっけ。ほらあれ、◯◯に出てたあの人」というかたちで記憶される俳優。

Tinker Tailor Soldier Spy - Official Trailer [HD]


どうです、そうそうたる顔ぶれではございませんか。
ゲイリー・オールドマンはスマイリーにしてはちとカッコよすぎるような気もいたしますが、冷静沈着、頭脳明晰、だけど見た目は全く冴えないおっさんであるジョージ・スマイリー氏をゲイリー・オールドマンが演じるということの意外性も含めて、どんな演技を見せてくれるのか楽しみな所でございます。
意外と言えば、てっきりピーター・ギラム役と思っていたコリン・ファースがビル・ヘイドン役にキャスティングされているのも意外でございました。「話を、本質だけにとどめようではないか?」火を噴きそうな語気で、ギラムがささやいた。(ハヤカワ文庫p.91)なんて、コリン・ファースにぴったりの演じどころではないかと。しかしまあ、年齢をはじめ諸々の条件を考え合わせると、やっぱりこの配役がベストかと思い直しました。

逆にこれ以上ドンピシャなキャスティングはあるまいと思ったのが、トム・ハーディとマーク・ストロングでござます。具体的にどうドンピシャなのかはネタバレに繋がってしまいそうなのであんまり申せませんが、とにかく映画化決定のニュースを聞いてから慌てて原作を読みはじめたのろは、暇を見つけては読み進めながらつくづくと思ったわけでございますよ、そうそう、こういう役にこそソーターさんを呼んでくれなくては、と。

と申しますのもこの所、ソーターさんには出演オファーが悪役-----しかも人物としての複雑さや深みの描写をあまり要しない単純な悪役-----に偏りすぎではないかと、少々危惧していたからでございます。ブラックウッド卿しかり、サー・ゴドフリーしかり、フランク・ダミーコしかり。もちろん悪役loverであるのろとしては、それはそれで大いに楽しめますし、『The Eagle』や『The way back』(どちらも日本未公開)における、よりマイナーな役においては、中立的な人物を演じておいでではあります。しかし極悪非道かつナイーヴな悪党ハリー・スタークスや、真意も深慮も計り知れないヨルダン情報局長ハニ・サラームや、凄腕なのに情緒不安定な殺し屋ソーターといった複雑なキャラクターを、充分な説得力で、しかも魅力的に演じるだけの力量を持っているマーク・ストロングが、悪役専門俳優として安易な使われ方をするのはあまりにも勿体ないことよ、と心配していたのでございます。ご本人はインタヴューでそのことについて「別に心配してないよ~」とおっしゃってはおりましたが。
とまあ昨今のタイプキャスト傾向はさておき、武骨で孤独で軍人肌でありながらも「懸命に隠している優しさ」を結局は隠しきれないでいるジム・プリドーを演じるのに、目下の映画界においてマーク・ストロングほどうってつけの役者はないさと思います次第。

ううむ、いつの間にかソーターさんばなしになってしまいました。
話を映画そのものに戻しますと。ひとつ心配なことは、ヴォリュームのある原作を2時間に収めるためには当然いろいろと細かい点を削ぎ落とさねばならないわけですが、ディテールを省略することによって、ただ原作の筋を追うだけの話になってしまわないかという点でございます。こうしたことは映画化の宿命とはいえ、とりわけ『ティンカー~』は登場人物のちょっとした言動によって物語の背景にリアルな広がりと奥行きを構築している作品であり、そうした背景や心理描写こそが、「もぐら」探しのスリル以上に、このスパイ小説に特別な魅力を与えているからでございます。
公式サイトを開いてみてもトレイラー↓が表示されるばかりで、レヴューもまだないに等しい現状においては、原作のどういった部分にとりわけ重点が置かれているかもはっきりとは分かりません。
繰り返しになりますが、とにもかくにも監督のセンスと力量に期待したい所でございます。

トレイラーその2
Tinker Tailor Soldier Spy - Official Trailer *NEW


ああ楽しみだ。楽しみだ。
でもあと半年後ぐらい待たなきゃいけないんだろうなあ。


『テンペスト』

2011-06-30 | 映画
京都シネマで上映中の『テンペスト』を観てまいりました。

嗚呼、消化不良。

ジュリー・テイモア監督の映画デヴュー作『タイタス』はワタクシの大好きな作品でございます。『タイタス』と同じくシェイクスピア劇を原作とする本作はしかし、所々に光るものをかいま見せつつも、全体としてはちぐはぐな仕上がりになってしまっておりました。
モッタイナイのひと言でございます、衣装、ロケーション、そしてとりわけ俳優陣が素晴らしかっただけに。

The Tempest Movie Trailer Official (HD)


題材からしてCGを盛大に使いたくなるお気持ちはわかります。しかしその使い方がいまいちこなれていないと言いますか、全体的に小うるさく感じられてしまいました。特に妖精エアリエルの動かし方はいただけません。残像を引きながら無駄に画面上を瞬間移動するのなんて、もうCG創成期じゃないんだからこういうのはよそうよ、と思ってしまいました。

ベン・ウィショー演じるエアリエル自身は、まっちろけで、中性的で、ぼさぼさ頭で、それはそれは可愛かったんですけれどね。水の中から現れる演出や半透明の姿もよろしうございましたし。船に火をかけたり蜂の群になってキャリバンたちを追い回す時の悪魔的な笑い顔も、助けてもらった恩をもう忘れたのか、とプロスペラになじられるシーンでの、先生に叱られているいたずら小僧のような表情も、また「ご主人様、私を愛してくださっていますか?」という台詞におけるしんみりした切実なトーンも実によかった。ベン・ウィショーの他の作品はワタクシ未鑑賞でございますが、なかなか芸達者な役者さんのようですね。



だからこそ、最後にプロスペラがエアリエルを解放してやる所を、役者よりもCGがキモと言わんばかりの何の感慨もない描き方にしてしまったことが残念でなりません。ここも絵的にはまあ綺麗だったんでございますけれども、プロスペラとエアリエルの間に主人と下僕という以上の親密な雰囲気があっただけに「かわいいエアリエル、これが最後のつとめだぞ。あとは大気の中に自由に飛び去るがいい。達者でな」(白水社版)、この台詞をつぶやいて、飛び去るエアリエルを見つめるプロスペラという絵がぜひとも見たかったのですよ。
また最後の「これにて私の術は破れ...」の長台詞を、俳優が語るのではなく、エンドロールとともに流れる歌にしたというのも、独創的といえば独創的ではありますけれども、やっぱりヘレン・ミレンが朗々と語るのを聞きたかった。こんな所にも消化不良感が残ります。

それから音楽の唐突な使い方、これだけはどうあっても擁護できません。とりわけ-----これは『タイタス』でもその兆候がありましたが-----所々これみよがしにかき鳴らされるエレキギター使いはダサすぎます。エアリエルが「王の船に乗り込み、舳先に行き、ともに行き、甲板に行き、船室に行き、火の玉に変身して連中を仰天させて」やる場面など、視覚的には悪くないのに、ぎょわんぎょわわ~んといういかにも大変なことになってます的なエレキ音のせいで、非常に安っぽいシーンになってしまいました。モッタイナイ。

所々、これは!と思う演出もあったのですよ。プロスペラが描く魔法陣を強風にたなびく炎の輪とその焼け跡で表現したり、プロスペラが岩屋の書斎でフラスコの中に黒い羽根を落とすと同時に、ナポリ公たちのもとには真っ黒な怪鳥ハーピー(に扮したエアリエル)が現れる所なんぞは、これこそ映画ならではの表現よな、とワクワクいたしました。そのセンスが作品全体に行き届いていてくれたらよかったのですが。

本作で最もユニークな、それゆえ最も評価したい点は、言うまでもなく主人公であるミラノ大公プロスペローを女性に置き換えたという点でございます。これによって、プロスペラ(プロスペロー)と他のキャラクターたち、とりわけ娘のミランダ、奴隷キャリバン、そして使い魔エアリエルとの関係に、原作にはないニュアンスが付されておりました。復讐に燃える魔術師であり、娘を思いやる母親でもあるプロスペラを演じるヘレン・ミレン、凛としたたたずまいに格調高い台詞回しで他を圧するかと思えば、一人娘に対する深い情愛をふとした台詞や所作に表すさすがの名演でございます。

ヘレン・ミレンのみならず俳優陣はみな素晴らしく、CGの全く使われていない役者同士のかけあいのシーンはたいへん見ごたえがございました。老臣ゴンザーローが喋るたびに王弟セバスチャンが絶妙のタイミングでへらへらと茶々を入れて来る所なんてまあ、各々の人物の個性がテンポよく表現されていてお見事でございました。
ちなみにいかにも誠実で人の良さそうなゴンザーローを演じるのはトム・コンティ、はい、『戦メリ』のろーれんすさんでございますね。セバスチャン役は当ブログではそこそこおなじみなアラン・カミング。軽薄で辛辣で斜に構えておりながらもどこか間が抜けている感じがたいへんよろしいかと笑。



それからキャリバン役のジャイモン・フンスー、野太い声に堂々とした体躯で、非常に存在感のある「化け物」を造形しておりました。「俺は夢の続きが見たくて泣く」の所や、最後にゆっくり岩屋から出て行くシーンに漂うもの悲しさが印象的なだけに、ドタバタ喜劇の部分でそのまんまドタバタしているだけなのがちと残念な所。いっそ喜劇的要素は呑んだくれ2人につめこんで、徹底的にシリアスなキャリバンにした方がよかったのではないかしらん。

そんなわけで一長一短の感がある本作ではございますが、好き嫌いで言うならば、映像美術的には高い完成度を誇るものの観客置いてけぼり感もたいそうであったピーター・グリーナウェイの『プロスペローの本』よりも、もともとの戯曲の持つ娯楽性に配慮した本作の方がワタクシは好きでございます(デレク・ジャーマン作は未見)。DVDがレンタル屋の棚に並んだらもう一度じっくり鑑賞したいとも思っております。
テイモア監督には本作の不評にめげず、また古典劇を手がけてほしい所です。ただ、本作のCG使いを見ますと、何をやってもいいけど『夏の夜の夢』には手を出さないでいただきたいと願わずにはいられません。

ところで本作の日本版ポスターおよびキャッチコピーは素晴らしい出来映えでございますね。『タイタス』の「復讐は、女のたしなみ」というコピーも秀逸でしたけれども、ひょっとすると同じコピーライターさんが手がけられたのかしらん。重厚かつシンプルなドレスに身を包んだヘレン・ミレンの立ち姿と「私に抱かれて、世界よ眠れ」の一文、一編の詩のような作品でございます。まあ、海外版ポスターの方がこの映画の雰囲気に忠実ではありますけれどもね。



T-1000ばなし-2

2011-06-09 | 映画
西を向いても東を向いても嫌なニュースばかり。

【驚愕】元東電社員の内部告発 | PBR



それはさておき

先週放送された『T2』は前回にも増してカットされまくりであったような気がするのですが、ワタクシの思い過ごしでしょうか。ほとんどダイジェスト版を見ているような心地がいたしましたよ。
それでも、T-1000が顔面にショットガンをくらいながら元気にT-1000走りしているのや、業火の中から無表情で(←ここ重要)すたすた歩み出て来るのや、胴体に突き刺さった鉄棒をぬっ ぽん と横ざまに抜き取るのや、邪魔者さんたちを無駄のない動きでさくっさくっと刺し殺して行くのを見ることができてたいへん爽やかな気分になりました。



前回のT-1000ばなしはこちら

悪を定義付ける言葉はさまざまございましょうが、倫理的・社会的秩序からの逸脱というのもそのひとつでございます。実際、映画の悪役もその多くは逸脱者であるわけでございますが、T-1000の逸脱ぶりときたら他の悪役連中と比べても抜きん出ております。その抜けっぷりが、何とも爽やかなのでございます。

まず
倫理的逸脱という以前に、倫理という概念自体を持ち合わせておりません。
社会的逸脱という以前に、いかなる社会にも属しておりません。
もちろん反社会的行為をしているという自覚もゼロ。
損得にもとづく価値判断すらございません。
これが例えば地球を侵略しに来たエイリアンであるとか、悪の組織のボス、強欲の輩、快楽殺人犯、悪霊、または凶暴な新生物といった一般的ワルモノたちでありますと、何か価値あるものを自分の所有下に置きたいとか、自分の利益を守りたい、また拡大したいとか、快楽を味わいたい、恨みをはらしたい、あるいは単に種として生き残りたいなど、自らに利することを追求して、その過程で秩序の側に立つ主人公と対立するわけでございます。
しかしジョン・コナー殺害という目的のためだけに作られたT-1000には、そもそも獲得したり、守ったり、拡大したりするべき利益というものがございませんし、はらすべき恨みも癒されるべき渇望もございません。殺人を楽しんでいるわけでもありません。生き延びるということすら考えてはおりませんでしょう。T-1000が執拗に甦って来るのは、ジョン殺害という自らに与えられた指令をまだ達成していなという理由ゆえに過ぎないのですから。この点、一般的な悪役像からもなお逸脱していると申せましょう。

えっ。
それなら前作のT-800や『T3』のT-Xや『ロボコップ』のED209も同じだろうって。

ちっちっちっ

T-1000の素晴らしいのは、以上に加えて物理的にも我々の常識から大いに逸脱しているという点でございます。
おお、液体金属!
何度破壊されても再生し、リノリウムの床そのままの平面やスライム状のどろりとした形状から、鋭利な刃物、さらには人体といった複雑な表層を持つものまであらゆる形にあっと言う間に姿を変えることができる(気体や複雑な機械はさすがに無理としても)、まさにありえないような存在。この視覚的インパクトは強烈でございまして、T-800やT-Xのように単に「ものすごく頑丈なボディ」を誇るだけでは太刀打ちできない不気味な迫力がございます。

その物理的特徴ゆえに-----『13金』のようなシリーズものや、不死身の悪者なんぞ珍しくもないホラー映画という特殊ジャンルは別として-----、T-1000はしぶとさにおいても他の追随を許しません。

「しつこさ」ではございません。「しぶとさ」でございます。
『激突!』のタンクローリー運転手や『ゲッタウェイ』のルディをはじめ、しつこい、あるいは執念深い悪役ならば大勢おります。「しつこい」悪役であるためには、主人公たちを終盤まで飽くことなく迫害するだけでことたります。しかし「しぶとい」悪役であるためには、善なる主人公たちから加えられる度重なる激しい攻撃に耐え、時には甚大な損傷や破壊からも復活し、なおかつ彼らに対する迫害をたゆまず続けなければならないのでございます。

いったい1895年に映画というものが誕生して以来、T-1000ほどひとつの作品の中で繰り返し攻撃され、倒され、木っ端みじんにまで破壊された一個のキャラクターというものがあったでしょうか(またもホラーは別として)。
人の上に君臨するあらゆる秩序のうち、生死の秩序ほど絶対的なものはございません。それなのにT-1000をはじめとする「しぶとい」悪役たちは、その絶対性すらも逸脱しようとするではございませんか。
生死の秩序を踏み越えた者によって執拗に追い回されるということの恐怖、そこには敵が単に強大であるとか残酷であるということとは次元が異なる、いとも冷ややかな絶望感がございます。
しかもその絶望感の担い手というのが、見た目はちっとも強そうではない細おもてのあんちゃんであるということのイメージギャップ、かつ、機械のくせに狡猾で、人物のコピーからフレンドリーな振る舞いまで応用の幅がとんでもなく広い殺人マシーンという反則的な性能が相まって、「何だこいつ!!」感に大いに貢献しているのでございます。

そんなわけで
もとより既存の秩序を蹴破ってはばからない悪役たちのアウトローぶりを愛するのろではございますが、わけてもT-1000の突き抜け具合には、いつ見ても格別の清々しさを覚えるのでございました。




ああ貴重な人生の時間と限られた能力を費やして何をやってるんだか。
まあのろの人生ごとき別に貴重でもないか。もう疲れちったし。

『トゥルー・グリット』

2011-05-01 | 映画
日常か。



それはさておき
『トゥルー・グリット』を観て参りました。
ワタクシ涙もろい方ではございますが
コーエン兄弟の映画で泣かされるとは思ってもみませんでした。

トゥルー・グリット


ご覧の通り西部劇でございます。しかし女の子が主役というのは何とも珍しい。
内容的にはわりと王道のエンターテイメントでございまして、ワクワク感と安心感とに引っぱられて、最後までたいへん面白く鑑賞いたしました。王道といっても暴力や死のごくドライな描き方、そして所々に漂う変なユーモアはまことにコーエン節でございまして、コーエンズが西部劇を撮るとこうなるよ、といういかにも感もファンには嬉しい所。

利発で頑固で度胸があって、やたら法律に詳しい14歳の少女マティ。「真の勇気」の持ち主と言われているものの、酒瓶を手放せない呑んだくれ保安官ルースター・コグバーン。この凸凹コンビ的な2人に、何かにつけて「俺たちテキサスレンジャーはなあ...」と切り出すいささかうっとうしいプライドの持ち主(しかもよく喋る)のラビーフという男が加わって,マティの父親を殺した犯人であるならず者チェイニーを追跡していくのでございます。

音楽や映像がいいのはもはや言わずもがなですが、本作で特筆したいのは、描き方は淡白でありながら奥行きを感じさせる人物造形でございます。
マティは大人顔負けの交渉術や度胸を見せるかと思えば、買った馬にさっそく名前をつけて友達のように話しかけたり、時には動揺がありありと顔に表れてしまったりと、子供と大人の中間にいる感じがよく表現されております。何と言っても、少女というステイタスを利用して周りに媚びるつもりが微塵もないのが実に清々しいですね。本作が映画デビューのヘイリー・スタインフェルドさん、評判通りの素晴らしい演技でした。今後のご活躍も楽しみです。

お互いを馬鹿にし合っているコグバーンとラビーフ、マティ視点で見るとどっちもいまいち頼りにならなさそうで、かつちょっと嫌な奴でもあるのですが、2人とも決める所はきちっと決めるというのがいいですね。じんわり可笑しく、じんわりカッコいいジェフ・ブリッジスも、口だけカッコマンかと思いきや終盤にぐんと男を上げるマット・デイモンも名演でございました。どうでもいいけどワタクシが映画の中で見るジェフ・ブリッジスってたいてい呑んだくれかドラッグ漬けだなあ。

一方マティたちに追跡される殺人犯チェイニー、「ならず者」なんて言うと何だか強そうですがこの男、悪漢というよりはケチなごろつきに過ぎず、颯爽とした所が全くない野郎でございます。よそでも法を犯して逃げ回ってはいるものの、当局からもお尋ね者連中からも、いっぱしの悪党とは見なされておりません。粗暴さと卑しさの入り交じる、そしてその卑しさゆえにどこか哀れでもあるチェイニーを、ジョシュ・ブローリンが小物くささ満点で演じております。『ノーカントリー』『ミルク』そして本作と、ワタクシの中ではブローリン=追いつめられるおっさんというイメージが定着してしまいそうです。でもこの人、『グーニーズ』のブランド兄ちゃんなんですよね。ああ、のろも歳をとるわけだ。
チェイニーと対照的に、悪党ながらも気骨とダンディズムを感じさせるのがバリー・ペッパー演じる無法者の頭目ラッキー・ネッド。登場するシーンはそう多くないのに、たいへん印象深い役どころでござました。

かくのごとく主役の3人はもちろん、ほんの少ししか登場しない脇役まで、登場人物の各々にしっかりした個性があり、しかも話が進むうちにはじめの印象とは少し違ったキャラクターをかいま見せるのでございます。そうした人物描写が、追跡→復讐→帰還というごくシンプルなストーリーに深みを与えておりました。

だからこそ、復讐行の果てに迎えたほろ苦いラストシークエンスで、人生という個別的なものの重み、と同時にそのかけがえのない個別的なものが大きな時間の流れの中に置かれた時の、どうしようもないちっぽけさが、胸に迫って来たのでございます。そのとてつもない重さとちっぽけさが、きびきびした足取りで去って行くマティの後ろ姿に刻まれているようで、次第に小さくなって行く彼女のシルエットを見ながら、思わず涙がこぼれたのでございました。


『ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人』

2011-04-01 | 映画
『メガマインド』が日本では劇場公開されないって本当ですか?
去年の夏ぐらいから楽しみにしていたのに...

それはさておき

だいぶ前に上映が終ってしまいましたが、『ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人』はそれはそれは素敵な作品でございましたよ。
まあまずは、この愛すべき作品の魅力をきゅーっと凝縮したようなトレーラーをぜひご覧下さいませ。

映画『ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人』予告編


うーむ、いいなあ。また観たくなってくるなあ。
好きなアーティストを取り上げたものや音楽ものは別として、観賞後に「もう一回観たい!」と思うドキュメンタリー作品というのは、ワタクシにはそうそうございません。今思いつくかぎりでは『オランダの光』くらいでしょうか。しかしこの作品は、そんな希な気分を味わわせてくれる快作でございました。

つましいアパート暮らしでありながら、米ナショナル・ギャラリーの学芸員がびっくり仰天するほどのアートコレクターであるハービー&ドロシー・ヴォーゲル夫妻と、彼らと交流のあるアーティストたち、そして米モダンアートの軌跡を廻る、時にはあまりにも庶民的な、時にはあまりにもとんでもないエピソードの数々。その ひとつひとつがたいへん興味深く、思わず笑ってしまうほどおかしくて、しかも何だか、爽快なのでございます。その上、主人公たるこの老夫婦が、登場するアーティストやアート作品をしのぐほどに魅力的なのでございます。

いつもしっかり手をつないで、ギャラリーやアトリエにてくてく乗り込んで行く、ちっちゃな老夫婦。
ハーブさんのNYっ子らしいウィットに富む話しぶりも、ドロシーさんの穏やかながらもしっかりもの感の滲む物腰も、二人のおしどり夫婦ぶりも、とにかくキュートなんでございます。しかしそのマスコット的なかわいらしさとは裏腹に、作品を見据える二人のまなざしはぴりっと鋭い。

その確かな審美眼によって築き上げられた膨大なコレクションは、まさにアートの森。というより密林でございます。いやほんとに。
1LDKのアパートの中に所狭しと積まれ,掛けられ,収納され、あるいはぶら下げられた芸術作品、その間をかき分けるようにして、ちっちゃな二人が、電話をかけたり牛乳を注いだり、ふさふさの猫とたわむれたりとごくあたりまえに生活しているさまは、なんともオモシロものすごい。

こんな状態では奥の方にしまい込んだものは取り出すのも一苦労ではないかと心配になりますが、ドロシーさんの図書館司書らしい喩えにワタクシ、心の中でナルホドと膝をうちましたですよ。曰く「好きな本と同じ。いつも読むわけじゃないけれど、持っているというだけでも幸せなの」そうかあ。そうですよねえ。めったに開かないけれども決して手放したくない本というのはありますよねえ。それがたまりたまって居住スペースを圧迫しているのは承知しつつも...スピノザ本とか...展覧会の図版とか...『ぼのぼの』とか...

さておき。
ヴォーゲル夫妻宅がアート密林状態になったのは、二人が月々のつましい収入の半分をつぎこんで、貪欲かつ情熱的に作品を購入してきたためでもあり、またひとたび手に入れた作品は、たとえその後どんな高値がついたとしても決して売却しないというそのポリシーのためでもあります。その姿勢は清々しいほどに徹底しております。世の中には芸術作品を資産として購入するという人もおりますが、資産家でも何でもない二人が作品を買い求める理由は単純に「好きだから」。
ギャラリーに足しげく通って、アーティストと言葉を交わし、アトリエでは昔の作品からドローイングまで細大漏らさず見せてもらい、時には批評もした上で、本当に気に入ったものを購入する。それもこれも、アートが好きでたまらないから。そしてそれが結果として、若手アーティストを育てることにもつながっている。

コレクションを全て国立美術館に寄贈することが知れ渡ると,ワタシの作品もどうぞとばかりに、二人のもとに多くの作品が送られてくるようになったとのこと。ドロシーさんは「全部送り返してるの」とこともなげに言います。そういう集め方はしないから、と。

本作はアートに全然興味のないかたでも楽しめる作品ではございます。とはいえ二人と関わりのある現代アーティストたちも、いわば証言者として登場いたしますので、モダンアートに詳しいかたはなおいっそう楽しめるのではないかと。ワタクシはクリストと今は亡きジャンヌ・クロードしか存じませんでしたが、二人が有名なヴァレー・カーテンのプロジェクト決行のため現地コロラドに出かけている間、夫妻に飼い猫の世話を見てもらったというエピソードを愉快そうに語るさまには実に心なごみましたですよ。

近年わりとよく見かける「本当の豊かさって何だろう」系のドキュメンタリーと位置づけることもできますが、この二人のアートに対する貪欲さと、それ以外のことに関する無欲さがあまりにも突き抜けておりますので、「豊かさ」という手垢のついた言葉で一般化してしまうのは勿体ないような気がいたします。
この作品の爽快感はむしろ『世界最速のインディアン』に通じるものがございます。「こんなふうに生きる人もいるんだ」と思うだけで、何だかたまらなく嬉しくなってくる、そんな作品なのでございますよ。


『白いリボン』

2011-03-10 | 映画
ミヒャエル・ハネケを映画館で観るのってしんどそうだなあと思いつつも、観てまいりました。

恐ろしい作品でございました。

映画「白いリボン」公式サイト

長尺の作品ながら、冴え冴えと美しい白黒の映像と張りつめたストーリーにただただ引き込まれ、鑑賞中に時間が気になったことは一度もございませんでした。次第に暴力の度合いが高くなっていく犯人不明の事件と、一見平穏なようでその下に様々なものが抑圧されている小さな村の人間模様が絡まりつつ描かれ、とにかく面白かった。
そんなわけで鑑賞中はその面白さに目をくらまされたような所がございましたが、エンドロールが音もなく流れ、劇場内の照明がつき、日常の世界に立ち戻った時、映画の中に描かれていた悪の重さがずっ しりと身にこたえました。それは、ここに描かれた悪や欺瞞の風景が、(この作品についてよく言及されているように)ナチス時代の到来を予感させるというだけではなく、人間の根源的な負の部分をさらけ出すものであり、その射程には当然、21世紀に生きている私たちも含まれているからでございます。

映画『白いリボン』予告編


舞台は第一次世界大戦前、とりたてて大事件もなければ大人物もいないドイツの片田舎。
その穏やかさはしかし、住民である大人たち、そして子供たちの怒りや鬱屈を欺瞞と抑圧の重い垂れ幕で幾重にも覆い隠した上での平穏であることが、不気味な小事件の重なりによって次第に明らかになってまいります。

社会や家庭内における権力の激しい偏り。各々の場において”権力者”である富豪や父親から、肉体的にも精神的にも理不尽な扱いを受ける”弱者”たち。彼らは”権力者”にたてついて辛い状況を打開することも、あるいは単にそこから逃げることも-----死という方法以外では-----不可能であるがために、抑圧された憎悪の矛先をより弱い者へと向けざるを得ない。

かくて夜中に納屋が炎上し、小鳥の喉にはハサミが押し込まれ、小さな子供が縛られ鞭打たれるのでございました。



一方、裕福な男爵や厳格な父親といった権力者たちは自らの”統治”の正しさを露ほども疑わず、現実から目をそらし続けます。彼らが富者として、夫として、あるいは父親として君臨している場に、その一方的な統治のありようゆえに恐ろしい歪みが生じていることを、彼らは決して認めようとせず、歪みの出どころを個々人の心がけの問題にすり替えるのでございます。

不満や鬱屈のない家庭や社会というものはまずめったに存在しないものではありましょう。一人一人が違った人間である以上、それは仕方のないことでございます。忌むべきは、その不満のもととなる状況や力関係が、-----この映画の中での男爵と村人たちや厳格な牧師とその子供たちの関係のように-----絶望的なまでに固定化され、弱者の側からは全く動かし難いものとなること、またそうした弱者の鬱屈と絶望が、より弱い他者への暴力という形で吐き出されることでございます。

その「吐き出し」がナチスドイツ下でのユダヤ人迫害のように国家的規模で行われる場合もございます。
しかしこの作品の中が描き出している人間の根源的な悪、そして理不尽な暴力の発動を促す構図は、もちろんある時代のある国に限ったものではございますまい。今の日本でわりとよく耳にする通り魔事件や子供の虐待事件の背景にも、同じものがあると思われてなりません。
そして新聞沙汰になる所まで行かないものも含めれば、こうした悪の発動は至る所に、日常レベルで転がっているものなのではございませんか。そして日頃とりわけ意識することもなく、大なり小なりその悪に参与しているのではござませんか。ワタクシも、多分、あなたも。

本作で唯一の救いは語り手である教師と彼の恋人が、無力ではあるものの好感の持てる人物として提示されていることでございました。不穏な緊張が続く中に二人のほのぼのエピソードが挟まっているおかげで、所々でホッと一息つくことができました。まあ、語り手なんだから自分と恋人を善人にするのは当たり前、という穿った見方もできますけれどもさ。



『英国王のスピーチ』(とりあえず報告のみ)

2011-03-04 | 映画
ジェフリー・ラッシュがわりと好きで
コリン・ファースはわりとどうでもよく
へレナ・ボナム・カーターがわりと嫌いなワタクシとしては
観に行くか行くまいか微妙な所ではございました。

が、予告編を見たかぎりとっても面白そうだったので、本日鑑賞してまいりました。

いやーーーーーー、よかった。
ほんとに、よかった。

こういう映画を観られるから、生きてるのもいいかなって思えるのでございます。
あとあとになって思い出しても幸せになれるような作品でございました。

先にレポートするべき作品が控えておりますので、とりあえず本日はご報告まで。

『キック・アス』

2011-02-17 | 映画
去年の記事で取り上げました『キック・アス』を観てまいりました。

『Kick-Ass』のこと - のろや


うーーーー む。

公開を心待ちにしていた作品でもあり、マーク・ストロングの出演作でもありますので、大絶賛 といきたい所ではあったのですが。
残念ながら、ワタクシにはそれほど良作とは思えませんでした。期待を高くしすぎたのもマイナスに働いたのでございましょう。所々グッと来るシーンもあり、ソーターさんがイカすのは言うまでもなく、無敵の殺人少女ヒットガールは確かに可愛かったのでございますが、全体的にはいまいちスカッとしない映画でございました。

そもそも主人公は、ボンクラ高校生でも正義のヒーローになりたい!なれるさ!という思いで「キックアス」としての活動を始めたはずでございます。ひょろひょろの身体を間抜けなウェットスーツに包み、屈強なチンピラたちにこてんぱんにのされながらも「世の中の悪事を黙って見ていられるか!」と頑張る主人公は、アホだけれどもちょっとカッコよかった。
それなのに最後には、単にヒットガールの復讐、即ち私怨に基づいた報復行為に加担するだけの人物になってしまっております。しかもその際にキックアスが使っている高価な兵器は、ヒットガール&ビッグダディ親子が、密売人から強奪した大量の麻薬を安く売りさばいて得た金で購入したものなわけで...。それでいいのかキックアス??

ヒットガールとビッグダディはもとから正義のことなんかこれっぽっちも考えていないからこれでいいとして、正義のヒーローを目指していたキックアスがあっさり彼らの活動に乗っかってバリバリ殺人してしまってはいけないと思うのですよ。
そういうことが気にならないほどの、根っからのおバカ映画だったらよかったのですけれど。
実際ワタクシとしてはそういうものを期待していたのでございますが、バカ映画に分類するにしては妙にシリアスな場面やメッセージ性があったりしたために、主人公サイドによる激しい暴力を単に「痛快アクション」として見ることには抵抗を感じざるを得ませんでした。徹頭徹尾、ヒットガール&ビッグダディという狂った親子の復讐潭であったら、いっそ割り切って楽しく観ることができたかもしれません。

また悪党ダミーコ親分(←マーク・ストロング)とその手下たちもそれなりに酷いことをしてはいるものの、ヒットガール&ビッグダディ親子の暴力がそれに輪をかけて過激・残虐かつ問答無用なので、かえって彼らに虐殺される悪党どもの方に哀れを感じてしまいましたですよ。やっと銃をもらえたと喜んでいたあの間抜けなドアマンなんて、何にも悪いことしてなかったのになあ。

まあヒットガールが過激なだけに、最後にダミーコ親分が意外な身体能力の高さを発揮して、それまで無敵だったヒットガールをボコボコにぶちのめすのは、ラスボスの面目躍如で実によろしうございました。それにビシッとスーツに身を包んだマーク・ストロングがあの長い長い足で回し蹴りをかます姿を見られたのは、何はともあれ幸せなことでございました。

のろが何と言おうとも世間的にはそれなりに好評を博しているようでございますので、「カルト的名作」という位置づけで語られる作品になるのでございましょう。しかしワタクシは同監督の前作『スターダスト』の方が、サラッとしたブラックユーモアといい、ツボを抑えた無駄のない展開といい、王道ファンタジーからは半歩ほどズレた、しかし魅力のあるキャラクターたちといい、よっぽどよくできた映画だと思いますよ。