のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『ニーチェの馬』1

2012-08-01 | 映画
長くなりそうですので、二回に分けます。
以下、完全ネタバレ話。まあネタバレしたからどうこうという映画でもございませんが。

『ル・アーヴルの靴磨き』とどっちにしようかなあと迷った所で、気分的にこっちだなと選んだわけです。
予想にたがわず、厳しく美しく圧倒的かつ観客にひとかけらの希望も与えないような作品でございました。
別に悲惨な事件が起きるでもなく、それどころか事件らしい事件はほとんど何も起きないまま、主人公である父娘の日常が淡々淡々ひたすら淡々と描かれ、終末の予感がじわりじわりとつのってふと終劇を迎える、言ってみればただそれだけのお話でございます。何となく不穏な日常と終末感と突然の幕切れ、という点では『日陽はしづかに発酵し...』に似ていなくもない。あれほどわけわからない話ではございませんが。
わけがわからないどころかストーリーも構造もごくごくシンプルでありながら、作品について考えているとどんどん作品自体から離れて行ってしまうという妙な映画ではあり、だからこそあえて何も語らないというかたもいらっしゃいましょうし、「映画の極点」という形容もふさわしいものと思われます。当鑑賞レポも話が映画から離れてあっちこっち行くことがあるかもしれませんが、どうぞご了承のほどを。

映画『ニーチェの馬』公式サイト

映画『ニーチェの馬』予告編


暴風が吹き荒れる痩せた土地で、父と娘が貧しく単調な生活を送っております。起きて、着替え、仕事をし、帰って、着替え、食べて、寝る。食事はジャガイモのみ。彼らの生活の単調さや物質的な貧しさの描写も妙にすごみがあるのですが、おそらくその乏しさ自体は映画において重要なことではなく、人間が生きるということ、生活するということを極限まで切り詰めて描いた結果でございましょう。
生活にまつわる諸々だけでなく、台詞も最小限に切り詰められております。劇中で唯一饒舌なのは、一度だけ登場する隣人(といっても、多分かなり遠い)の男であり、ニーチェよろしく、神の死と高貴なものの没落をまくしたてるように語ります。絶え間ない暴風の音と父子の生活音だけに慣れていた耳にとって、それはあたかも志賀直哉がぶらついている城之崎にいきなりドストエフスキーの登場人物が現れて神の不在にまつわる大演説を始めたかのようなギャップでございます。それだけにこの部分は作中の強力なアクセントとなっておりますが、脳みそを音モードから言語モードに切り替えるのがちと大変ではございました。
この人物が語る「人間はあらゆるものを手に入れ、それらを全て堕落させてしまった」というくだりからは、あらゆるものの価値がマネーの多寡へと還元されてしまう行き過ぎた資本主義のことがちらと連想されましたが。しかしこの映画の行き着く所から顧みれば、この言葉はもっと深い部分への言及のように思われます。

神の死、と言ったとき、それはもちろん世界のはじめにあらゆるものを造った造物主としての神でございます。ところがその唯一絶対にして至高の神さんときたら「六日間かけてこのクソみたいな世界を造った」(監督談)あげく、その後の事は被造物自身に丸投げにしていつの間にやらお亡くなりになってしまったわけです。

なんてこったい。
おかげで私たち被造物は誰にも庇護してはもらえず、恩寵やら復活やら天国やらといったステキな何かを取りはからってももらえず、絶対的に正しい価値観を示されることもなく、先行きも全く分からないまま、圧倒的に巨大で強力な外界(「私/我々」ならざるもの)に取り囲まれて存在せざるをえないときております。
外界があまりにも強い力で個を打ちひしぐ時、個にできることはただ、その苛酷な状況に耐えつつ何らかの精神的態度を取る事だけでございます。 ちょうどこの映画において、狂ったように吹き続ける暴風や、突然枯れる井戸、消え行く火種に対して父娘がなすすべを何一つ持たず、それでもひたすら黙々と生活を続けるように。これをフランクル風にひっくり返せば、全てが奪われたとしても何らかの精神的態度を取る自由だけは残されている、ということにはなりましょうが。これを人間性に対する希望あるいは尊厳の表現と見るか、あるいは人間の無力さ、存在のよるべなさの表現と見るかで、この作品に対する最終的な印象はだいぶ異なることでございましょう。

かくて六日間に渡って描かれる、世界の緩慢な終末。
そこには宇宙人の襲来や迫り来る隕石群のようにドンパチ劇的スペクタクルな絵は何もございません。ただ毎日少しずつ、何かが失われ、毎日少しずつ、生きる事が困難になって行きます。その中で、おそらく総勢10人にも満たないであろう登場人物たちが見せる様々な精神的態度は、おおかたの人間がとるであろう態度の寓意的な縮図となっております。
神の死を語った饒舌な隣人は、洞察と締念とを抱えつつ、酒をあおってのしのしと歩み去ります。
荷馬車でやって来た一団は、水の備えすら持たずに、浮かれ騒ぎつつこの土地を離れて行きます。
終末を感じ取った娘と馬は、もはや食べることさえ放棄します。
そして水も、火も、光さえも失われた終幕においても、父親は言います。「食え。食わねばならん」

暗闇の中でじゃがいもをかじる父親のように、もはや希望などないことを悟りつつ、生きる努力を淡々と続けることもできましょうし、馬や娘のように、静かな絶望とともに状況を受け入れることもできましょう。荷馬車の連中のように浮かれ騒ぎながら、見えない希望(らしきもの)に向かって闇雲に進んで行く事もできましょう。あるいは隣人のように滅んで行く世界を見つめ、分析することもできましょう。
これらの態度の間で尊厳の有無を問うても意味のないことでございます。
神もなく救済もなくただ何もかも消えて行く世界において、すべてはひとしく虚しいのですから。

次回に続きます。


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