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のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『ハンナ・アーレント』

2013-12-29 | 映画
(ナチス政権の首脳部がユダヤ人を「移送・移住」ではなく「絶滅」させる政策へと進んだ時)アイヒマンは適応した。彼は物事の秩序を変えるほどの人物ではなかったし、その上、政治のことは何も分かっていなかった。この仕事をしなければならなかった上、気に入ろうが気に入るまいが、ともかくそれをうまくやってのける必要があった。
『不服従を讃えて---「スペシャリスト」アイヒマンと現代』p.12

アドルフ・アイヒマンの裁判が構想されたのは、まさにこうしたコンテクスト(注:建国直後の、ユダヤ人同士の分裂を抱えたイスラエル)においてであった。トム・ゲゼフは書いている。「イスラエル社会をセメントで固めるような出来事が必要だった。魅力的で浄化的な、愛国的な、集団的経験が、カタルシスが必要だった」・・・(中略)・・・断片化したこの社会を再結集する必要があり、アイヒマン裁判がその機会になろうとしていた。
同書p.39

というわけで
映画『ハンナ・アーレント』を観てまいりました。

映画「ハンナ・アーレント」オフィシャルサイト

伝記映画のようなタイトルながら、アーレント自身の半生は回想を交えつつ軽くなぞるように描かれるのみであり、重点はあくまでもアイヒマン裁判でございます。映画としてはおそらくこれが丁度いいバランスでなのでございましょう。こうした構成のおかげで、アーレントの「明晰な哲学者」という以外の人間的な側面も表現されておりましたし、彼女についてごく大雑把な知識しか持たないワタクシでも、背景をおさらいしつつ、すんなりとテーマに付いて行くことができました。
そのテーマとは、不都合な事実と向き合い、考えるということ(=理解しようとすること)の、必要と困難さであったかと。

映画『ハンナ・アーレント』予告編


直接に言及される、「服従」というかたちでの「悪の凡庸さ」の問題のみならず、人が自分の属するもの(より正確には、自分が属すると信じているもの)に対する帰属意識・一体感の強さのあまり、そのグループやイデオロギーのいかなる汚点や誤りも認められなくなってしまうこと、そしてそうした一種の妄信ゆえに歴史的事実すらも直視できなくなってしまうという問題についても描かれており、時代と場所を問わず、鑑賞者をして考えることへといざない、今の社会と照らし合わせての内省を促す作品でございました。

権力への服従によってアイヒマンがコミットしたのが「凡庸な悪」であるならば、不都合な事実から目を背け、さらにはその事実を指摘する人物を攻撃するのも、歴史上様々な時と場所で繰り返されて来た「凡庸な悪」の一形態と言えましょう。
そしていずれの悪も、その発端となるのは思考停止、即ち理解しようとすることの放棄なのでございました。
本作では、考えるということに誠実であろうとしたアーレントを描くのと同じくらい、アーレントが対峙しなければならなかった、思考停止という悪の諸相を描いた映画でもあります。

思考の放棄、目を逸らすこと、見えない所から憎悪のつぶてを投げつけること。
私たちはいかにたやすく、こうした陳腐な悪に陥ってしまうことか。そしてこうした悪がいかに私たちをすくませてしまうことか。
アーレントは(心を痛めながらも)すくみもひるみもしませんでした。しかし、我が身に当てはめて考えてみた時、つまり、たとえ親友との決別や、呪詛と無理解と誹謗中傷の嵐に見舞われようとも、自分の思考への誠実を貫くことができるだろうか、と自らに問うた時、できると胸を張って答えられる人間がどれだけいることでしょうか。あるいは(いつもながらえらい存在感のジャネット・マクティア演じる)メアリー・マッカーシーのように、渦中の友人をあくまで支持し、中傷者と対峙してきっぱりと反論できる人がどれだけいることでしょうか。

多分私たちの多くは、アーレントよりもアイヒマンによっぽど近いのではないかしらん。
考えること、結果を想像することを放棄して、上からの命令を粛々とこなすことにのみ心を砕き、そうすることによって人類史上でも稀な大虐殺の執行者となったアイヒマンに。また、現実的な方策だからという判断のもとに、ナチスに協力して同胞を差し出したユダヤ人評議会(ゲットーの指導者たち)にも。さらには、怒りに駆られてアーレントに呪詛のつぶてを投げつける人々にも、大抵の人は、よっぽど近いのではないかしらん。彼らはアイヒマン同様、何も特別な人間ではなかったのでしょうから。(街頭でのヘイトスピーチで聞くに堪えない罵声を上げている人たちにしても、特別な人間ではないのでしょう。おそらく)



といって、この映画の主眼はもちろん私たちの「凡庸な悪」を免責することではございません。
アーレント自身も「悪の凡庸さ」という言葉でアイヒマンを免責したわけではございませんし。
「理解すること」や「理解しようと試みること」は、しばしば「容認すること」「肯定すること」と混同されがちでございます。だからこそ、思考すること-理解しようとすることに誠実であろうとする人は、しばしば不当な攻撃を受けたりもいたします。
それでも、考えることを止めてはいけない。服従と思考停止に陥ってはいけない。
何となれば、それこそが巨悪へと繋がる道であるのだから。
映画の最終盤にアーレントが渾身のスピーチで訴えるのは、まさにこのことでございます。

とはいえ。

アイヒマン自身もユダヤ人評議会の人々も、自分が思考停止に陥っていることにも、いや服従していることにすら、気づかなかったのではないかしらん。かのミルグラム実験(いわゆるアイヒマン実験)で電圧を上げ続けた被験者たちにしても、服従しているというより、せいぜい渋々ながらの協力をしているという意識でしかなかったのではないかと。
だとすれば、自分が今まさに思考停止に陥って、凡庸な悪にコミットしていないかどうか、いったいどうしたら判断できるでしょう。

それに自分の取るに足らなさを顧みると、つい思うわけです。
ワタクシごときが何ごとか考えてみた所で、あるいはワタクシ一人が何も考えなかったところで、世の中にとっていかほどのことがあろうかと。アイヒマン自身も裁判で言っていたではございませんか、例え自分が命令を拒んだとしても、他の誰かがやっていただろうと。(映画の中ではこの証言は使われていなかったかもしれません)

しかし逆に言えば、ドイツのファシズム体制、そしてシステマティックな大虐殺というおぞましい現象は、服従と思考停止に陥ったアイヒマンのような人物が大勢いたからこそ成り立ったのであって、ヒトラーがいかに巧みに演説しようと、ゲッベルスがいかに巧みに宣伝しようと、従う人々がいなかったらあんなことにはならなかったはずでございます。

アーレントの最初の夫であったギュンター・アンダースは著書『われらはみな、アイヒマンの息子』の中で「想像してみることにまさに失敗することによって私たちの目が開かれる」と書いております。「まさにこの失敗によって、「見通しのきかないもの」を始動させてしまうぞと警告されるのです。」ここで”想像する”とは、行為の結果を想像するということであり、ある計画(例えばユダヤ人の大量移送という計画)に直面したとき、それがもたらす怪物的な結果と、人間の想像力の限界とのギャップに気づく(=想像に失敗する)ことが、自分がその計画に協力するか否かを判断する分水嶺となるという論でございます。

つまる所、個人がいかに非力で取るに足らないように思えるとしても、20世紀半ばに人類自身を踏み荒らした巨悪がまたも立ち上がるのを防がんとするなら、一人一人が想像力を働かせて、そのつど自らの良心にかなう選択をすることによって、できるかぎりアイヒマン化しないことが肝要なのでございましょう。巨悪の発動に繋がるようなシステムを作らない・作らせないようにするというのも、思考停止すべからず、権力に盲従すべからず、自分の良心に照らして恥じないことをなすべしという個人の意識から、まずは発することなのでございましょうね。

しんどい時には、考えるということをまるっきり放棄してしまいたくなりますけれども。
憤りを感じることがあっても「あいつは悪人だから」「あいつらは馬鹿だから」で済ましてしまいたくなりますけれども。
何したって無駄じゃねーの、などとつい思いがちになりますけれどもさ。

2013-12-24 | 映画
何やらものすごい豆のCM。

Moon Monster Beating Astronauts And a Fart in Beans Commercial || Mock Ad || HD


「宇宙飛行士にはお奨めできません(ヘインズ・ベイクド・ビーンズ 繊維たっぷり!)」

月面で音が聞こえるのかということはともかくとして、タラバガニみたいなモンスターの造形といい、わっさわっさと逃げる宇宙飛行士たちのリアルな動きといい、素晴らしい出来映えの映像、そして超絶くだらないオチ。
いいですね。実に。
それにしても、どうして最後の一人はイタリア人なんでしょう。

『スター・トレック イントゥ・ダークネス』および悪役ばなし

2013-09-29 | 映画
ワタクシのスター・トレックについての知識はかなり乏しいものでございます。
ミスター・スポックといった超有名人は知っておりますが、過去の映画化作品はひとつも鑑賞したことがございません。ドラマの方は少しは見ていたはずなのですが、きちんと思い出せるのはアンドロイドのデータ少佐くらいでございます。好きだったので。

それが何でわざわざ『スター・トレック イントゥ・ダークネス』を観に行ったかと申しますと、同僚の「悪役がよかった」という言葉に吊られたからでございます。
というわけで、当記事は「スター・トレックをよく知らない、いち映画ファンの感想」でございます。ファンの皆様には噴飯ものの意見も飛び出すやもしれませんが、どうぞご了承くださいませ。

面白かったですよ。退屈はしませんでした。
色々と類型的だナァと思う部分もございましたけれども(危険な任務を冷静にこなす男とそれに苛立つ恋人、等々)、上述のようにスター・トレックの世界をよく知らないワタクシでも楽しめました。また、何が起きているのかよく分からない部分もあることはありましたが(スポックが未来の自分?と話しているシーン等々)、おそらく丁寧に説明してしまうと長年のファンからは無粋であるとのお叱りを受けるような事柄なのでございましょうから「そういうものなんだろう」とだけ思っておきました。

ゾーイ・サルダナは美しかったし、いつになくぼやきまくりの、タフじゃないカール・アーバンもいい味出してました。そしてコメディリリーフながらしっかり活躍する”スコッティ”サイモン・ペグ、最高でした。ワタクシ、全編を通して一番心躍ったのは、提督の船に乗り込んでいた彼からエンタープライズ号に通信が届いたシーンでございました。心の中で拍手喝采を送りましたとも。
2D鑑賞でしたが、映像もたいそうなものでございました。医療用ガジェット等の小物使いも、宇宙船がワープ航路からはじき出される場面などのスペクタクルも、実にきれいな上に説得力がありました。

ただ。
全体が平均的に面白かった一方で、これは!と手に汗握り思わず身を乗り出すような場面や、問答無用でワクワクしてしまうような場面も特になかったといいましょうか。山場の連続のおかげで見ていて飽きない反面、クライマックスの山場感がいささか薄かったようにも思います。

以下、ネタバレ話およびツッコミでございます。




本作で一番の山場というのはおそらく、エンタープライズ号が制御能力を失って地球へ落ちかける場面なのでございましょう。けれどそれが他の山場と比べて突出して緊迫感が濃いかというと、ウーンそうでもないんでございます。この後もう一山くらい来るのかな、と思っていたら割とあっさり終わってしまって、振り返ってみるとあそこが(話の構成から考えて)頂点だったのかな、というぐらいのもので。
しかもその危機の解決方法と描写が、ちょっとしょぼい。船長のキックで解決って。その船長も色々あった割には元気いっぱいにしか見えませんし。それに、中に長いこといると死ぬような環境なのよ、と言葉で説明されはするのですが、その危険度というのが目に見えないので、いまいち緊迫感が薄いのでございます。

成功することが初めから分かっていることが問題なのではございません。ミッションの成功があらかじめ約束されているのは、他のたいがいの映画でも同じことですもの。インディ・ジョーンズが映画の冒頭で大岩に潰されて死んじまったり、ルーク・スカイウォーカーが撃墜されてデス・スター破壊に失敗するなんて、観客は誰も思わないわけです。それでも大岩に追いかけられるジョーンズ博士や、デス・スターの壁面すれすれを飛びながら中枢に乗り込んで行くルークにワクワク、ハラハラするのは、視覚に訴える盛り上げ要素があるからなのであって、言葉で「あそこはすごく危ないから」と説明されたからではございませんでしょう。

いやいやそれよりも、悪役loverの視点から言わせていただければ、映画自体の最大の山場と、悪役であるカーンがよく一番動いているシーンとがかぶっていないというのがマイナスでございます。ここぞという一番の盛り上がりに悪役不在というのはいけません。大混乱へろへろ状態のエンタープライズ号にさらに追い打ちをかけて、爆破でボロボロになった自艦を何度も体当たりさせて来るぐらいの執拗さを見せてくれなくては。

さて、ここからは怒濤の悪役ばなしでございます。

ジョン・ハリソン、すなわちカーンさん。
まあ「世紀の悪役」ってのは盛り過ぎでございますが、魅力的な悪役、ということなら及第点でございました。
作り手および売り手の「悪役推し」がミエミエすぎてもまあ、それもよしといたしましょう。冷徹、強靭、頭脳明晰で人間が死ぬことなんで屁とも思っていない一方、仲間たちのことは心底大事にしているというのは、なかなかいい設定ではございますもの。同情の余地なし系悪役も悲しみ背負った系悪役も、等しく応援しますよワタクシは。
単に高い能力の持ち主というだけでなく、思わず話を聞いてしまいたくなるカリスマ性があるのもよろしうございますね。ベネディクト・カンバーバッチの深い声と変な顔...失礼、個性的な風貌が生きておりました。



だからこそ、悪役としてもっと活躍していただきたかったのですよ。それは今後の作品を乞うご期待、ということなのかもしれませんが、出し惜しみはよくないと思いますよ。
主人公らを徹底的に叩きのめして完全な勝利を収めるかと思いきや、まさかの逆転劇によって遠大な野望とともに葬り去られる、というのがこういうカリスマ系悪役の王道ってもんでございましょう。ところが本作では、この”主人公叩きのめし”パートを、黒幕的な存在のロボコップ提督がおおむねやってしまっておりまして、カーンがエンタープライズ号に対して加えた危害というのは、せいぜい最後のひと押し程度なんでございますね。そのため、カーンがものすごく怖くて酷くて悪い奴、という印象があんまりないのでございます。

せっかく高い身体能力を持っているという設定ですのに、主人公やその仲間を直接ボコボコにのすようなシーンがあまりなかったのも残念でございました。白兵戦のシーンは何度かあったものの、ほとんどが主人公サイドに立っての共闘でございました。すると当然スクリーンは余裕綽々の悪役カーンよりも、一生懸命に奮闘するカーク船長の姿の方を映し出すわけです。主人公ですものね。で、気がついたら多分カーンのおかげで敵は全滅してました、てな具合でございまして、カーンの強靭さや身体能力の高さというのが、あんまり主人公側の脅威としては感じられないのでございますよ。

終盤の逃走シーンでようやくそれが表現されるかと思いきや、これまたわりと生ぬるい描かれよう。もっと圧倒的な、絶対的な、スポックさんがうっかり絶望してしまうくらいの力の差があった方がよかったと思うのですよ。なにも頭クラッシュにこだわらなくても首をポキッと折るか下界に投げ落とすかすれば済む話じゃん、というツッコミはまあ、しないでおくとしても。
バルカン人の身体能力がどんだけ高いのかは存じませんが、クリンゴンとの銃撃戦や提督の艦船への潜入時には戦闘のプロみたいだったカーンが、殴り合いに慣れているとは到底思えないスポックさん1人に手こずるようではイカンでしょう。

最後も”強化人間”にしてはあっさりしすぎでございます。最終的には拘束されざるを得ないにしても、せめて、近距離からウフーラのスタンガン射撃を何度もくらってよろよろになりつつも、後ろから掴みかかるスポックさんを落下寸前の所までえいやっと蹴っ飛ばしてウフーラの頭をわしづかみ、あわや頭クラッシュという所で、もう1人援軍として転送されて来たエンタープライズ号乗組員から「お前のクルーは全員無事だ」と聞かされ、思わずホッと気を緩めた隙に、立ち直ったスポックさんから後頭部をスタンガンで連射されてようやくダウン、というくらいの粘りを見せていただきたかった。ジェームズ・キャメロンだったらこれくらいはやらせたと思うの。

制作者側としては、9.11を連想させる市民の大量死を描くことによって、カーンの冷酷さや悪人っぷり、一言で言えば「もの凄さ」を表現したつもりかもしれません。けれども映画的には、見えない所で100人が死ぬより、目の前で1人が撲殺される方がよっぽどインパクト大でございます。
その点、提督の頭クラッシュのシーンはたいへんよろしうございました。また、とりわけ戦闘員ってわけでもない提督の娘の足を、ついでのように無造作にボギャ!とへし折るのもとってもよかった。悪役はこうでなくっちゃいけません。ほれぼれでございます。これに続くスポックさんとのやりとりも、いかにも知的で不敵で冷酷な悪役って感じがしてよろしうございました。この2人、若干キャラがかぶりがちではあるにしても。

ワタクシとしては、カーンとスポックの差異化を図るため、カーンには悪役の魅力をさらに高める要素の一つである「お茶目さ」をもう半匙ほど加えていただきたかった所でございます。いえ、コミカルなキャラにせよということではございません。魅力的な悪役の持つお茶目さについて、ちと自説を語らせていただきますと。
悪役の「お茶目」には大別すると2種類ございます。1つは、精神的余裕および戦況の優位、あるいは本人のダンディズムから意図的に行われる茶目。これを”意図的茶目”としましょう。もう1つは、悪役自身はまったく意図していないのに、普段の例えば冷酷な、あるいはいかめしい、あるいは隙のないといったキャラにそぐわないような「抜けた」瞬間が、見る方にしてみれば妙に愛嬌あるものに感じられてしまう場合、これを”非意図的茶目”としましょう。

T-1000で例えれば、弾切れのサラに向かってちっちっち、とやるのは意図的茶目。通り抜けたつもりの鉄格子に拳銃だけが引っかかってしまうのは、非意図的茶目でございます。『マトリックス』のスミスが分身のネクタイを直してやるのは前者。『殺しが静かにやって来る』でロコが主人公サイレンスをボコボコにしながら「痛かったか?すまん」なんて言うのも前者。
それに対して、『ロボコップ』の二足歩行ロボED-209が階段でひっくり返ってじたばたするのは後者。『ゴールデン・チャイルド』でエディ・マーフィ演じる主人公から頬にぶちゅっとキスされた悪魔サード(そう、チャールズ・ダンス)があのギョロ目をひんむいて「はい?!」という目つきで見返すのも後者でございます。チャールズ・ダンスといえば『ラスト・アクションヒーロー』の悪役、殺し屋ベネディクトもよかったですねえ。こいつの場合ですと、義眼である左目にニコちゃんマークの目玉を入れていたり、主人公の映画好き少年に「やあ、トト」と呼びかけたりするのが意図的茶目、一方雇い主のマフィアのボス(無駄遣いアンソニー・クイン)が英語のことわざをいちいち間違えるのを、いちいち小声で訂正せずにはいられないというのが非意図的茶目でございます。あの映画は悪役のベネディクトと、T-1000姿で一瞬だけ登場するロバート・パトリック以外には何一つ見所のないような作品ではありましたけれども、とにかくベネディクトは悪役好きのツボを押さえたなかなかのキャラクターでございました。

閑話休題。
カーンさんは「船の最期には船長がいないとな」といったセリフ、そして「橋の上からコップめがけて飛び込むようなもんだ」と言われて「大丈夫、前にもやったことがある」と答えたカーク船長を無言でまじまじと見つめるシーンからして、意図的・非意図的、両方のお茶目素質を備えておいでと見受けられました。今後の開発に期待したい所でございます。

そんなわけで
設定も演技もいいものの、描き方にイマイチ物足りなかった感のあるカーンさんではございました。当然期待される今後の復讐だか逆襲だかを遂げるため、次作以降ではよりパワーアップして復活していただきたいものでございます。悪役loverは首を長くして待っておりますよ。

『世界が食べられなくなる日』

2013-09-22 | 映画
『モンサントの不自然な食べもの』は見逃したワタクシ。
今回は逃さじと『世界が食べられなくなる日』を観てまいりました。

映画『世界が食べられなくなる日』公式サイト

邦題からはGM(遺伝子組み換え)作物の問題のみを取り上げているように見えます。そして実際、この問題が集中的に取り上げられてもおります。しかし本作はモンサント社の寡占や食の安全という問題のみに留まらず、社会的・倫理的により広い視野と射程において作られたドキュメンタリーでございます。
即ち、他のあらゆる価値を差し置いて、効率や金銭的利益を追求して来た企業そして社会に対する告発という、過去から現在へと至る歴史の反省に根ざした視野、そしてその流れへのカウンターとして今活動する人々に注目しつつ、代替案を提示する-----その中で、生きること、食べることとはどのようなことであるのかに自然と思いが至る----、未来への射程でございます。
だからこそ「GM作物と原発」という一見無関係な2つのものを扱いながらも散漫になることなく、「20世紀に世界を激変させたテクノロジー」へのひとつの警鐘として説得力を持っているのでございましょう。

<『世界が食べられなくなる日』予告編 >


上映時間は118分、ドキュメンタリーにしては長めでございます。
甲状腺がんをわずらっていて取材の3ヶ月後に亡くなった方や、福島の原発事故を受けて自死された農業社のご遺族、GM作物を食べ続けたラットの恐ろしく肥大した腫瘍などが画面に登場しますので「興味深い」と言うのは気が引けるのですが、テーマも、そこに映し出されている現実も、じっと見ずにはいられない切実な求心力があり、長尺ながらいっときもダレることがございませんでした。
土気色というよりもほとんど灰色の顔をしたチェルノブイリの子らや、犬をけしかけられる「GM作物刈り取り隊」のメンバーなど、少なからず衝撃的な映像もございましたが、観賞後に心に残るのは、むしろその”絵”をめぐる人々の重く真摯な言葉でございます。

モンサント社の除草剤「ラウンドアップ」と、この除草剤に対する耐性をつけたGMトウモロコシ(つまりラウンドアップをじゃんじゃんかけても枯れないようにできている) を混ぜた餌を食べ続けて、身体の半分もありそうな巨大な腫瘍ができたラットを手にして、この実験の中心人物であるセラリーニ教授は言います。
「動物実験そのものに反対する人もいる。しかし(この問題に関しては)動物実験をしなければ、すべでの動物が実験台になってしまう」

皆様ご承知の通り、GM作物は単に対象となる植物の遺伝子をいじって便利なものを作った、というだけの話ではございません。風や虫の媒介によって在来種と交配し、(喧伝されているのとは正反対に)強力な農薬の散布に拍車をかけ、それによってさらに農薬耐性の強い雑草や害虫が登場するという自然界における悪循環と、在来種から乗り換えた結果、競争上不利な小規模農家も毎年モンサント社から種子と農薬を買わざるを得なくなり、借金で首が回らなくなる、という経済上の悪循環をもたらしております。さらには農薬を撒かざるを得ない農業者や、輸送・運搬に携わる人たち、つまり成育過程で大量の農薬をかぶった作物に日常的に晒される人たちの身体を損なっている実態が本作では描かれております。
そうした作物が、安全性への十分な検証もなされないままに世界に広められ、家畜の飼料に使われ、もちろん人間の口にも入る、それが倫理的に許されるべきことなのか。

除草剤耐性作物に使用される農薬はこんなに危ない
遺伝子組換え作物で、飢餓が増えている? 安濃一樹

本作の原題「Tous cobayes? みんなモルモット?」は、上記のセラリー二教授の言葉と、福島の有機稲作農家、群さんの「(原発事故以来)モルモット扱いされているようだ」という言葉からいただいたものでございましょう。
本作はコンピュータ上のシミュレーションやラボで得られたデータを示すだけでなく、農薬散布や原発事故の被害者、そして抗議活動を続ける人たちに直接取材し、「客観性」や「社会・環境への影響」というより大きな絵の中では埋もれがちな、当事者個人の言葉を伝えてくれます。

「原発さえなかったら。地震と津波だけならなんとかなった。空も繋がっている、海も繋がっている。世界中が原発に反対してほしい」(自死された福島の農業者のお連れ合いの談)

農薬が原因と見られる健康被害で性機能を失った男性や、同じ理由で身体を害し亡くなった方のご遺族、チェルノブイリ原発事故で汚染された木材などの貨物を扱ったために甲状腺がんを患っているという港湾作業員。それぞれ異なる事情と困難を背負っている彼らが一様に口にするのは、「被害者が声を上げるのは勇気がいる」ということ。そして、そうではあっても、これ以上同じような被害者を出さないために、あえて声を上げたのだということでございました。

また警鐘を鳴らす人へのバッシングはレイチェル・カーソンの時代からあいも変わらぬもので、セラリーニ教授は企業側から「不安を煽るな」、「自分の利益のためにやってるんだろう」という誹りを受けたのでございました。不安を煽るも何も、そもそも供給元であり受益者であるモンサントが、安全性について必要な検証をしていないのが問題だというのに。
それにしても、このバッシングの構図もフレーズも、この2年半ばかりの間、日本でしばしば目にしたもののような気がいたしませんか。

本作は、GM作物と原発問題は繋がっているという問題意識のもとに作られております。
セラリーニ教授いわく「20世紀に世界を激変させたテクノロジーが二つあります。核エネルギーと遺伝子組み換え技術です。これらは密接に関係しています。米国エネルギー省は原爆につぎ込んだ金と技術者を使って、ヒトゲノムの解析を始めました。そこから遺伝子組み換え技術が誕生しました」
また、このテクノロジーには3つの共通点があるとも。即ち、
・後戻りができない
・すでに世界中に拡散している
・体内に蓄積されやすい
と。ここに「反対の声を上げると圧力がかかる」というのを加えてもよさそうです。
並べてみると何だか絶望的な感じがいたします。それでも、「NOと言わなければ、YESと言ったことになってしまう」(東京に暮らす若いお母さんの談)。

また、後戻りすること、つまり技術自体やその影響をなかったことにすることはできないとしても、これ以上の拡大・拡散をくい止めた上で、別の道を選択することはできるはずでございます。
フランスで、またセネガルで、アグロエコロジー(自然や環境と調和した、小規模農業による持続可能な農業システム)を実践する人たちや、30年に渡る反対運動で原発建設計画に抵抗して来た祝島の人々の姿を通じて、その可能性が示されます。とりわけ前者のくだりは映像が美しく牧歌的ですらあると同時に、「食べる」とは本質的にどういうことであるのかについて、しみじみ考えずにはいられない所でございました。

最後に、本作のパンフレットから監督の言葉をご紹介しておきます。

「TPPは犯罪です。生きているものを投機の対象にし、生物多様性を破壊し、ひいては人間を殺す。TPPと同じくヨーロッパでもWHOが農業を投機してもいいということにしました。このことに関して世界の人は拒否する権利があります。日本の人は核を拒否し続けてきたように、自由貿易の商品を買わないという権利を行使しなくてはなりません」

(日本では原発問題に比べてGM作物反対の声がまだ少ないという問いに答えて)
「まず原発と同じくNOと言ってほしい。作中で語られている通り、NOと言わないのはYESと言っているのと同じです。遺伝子操作の技術は、ほんとうは必要ないもの。そして原子力がなくても日本は風、潮の満ち引き、太陽、地熱、海底にもエネルギーがあり、それを利用できる科学者と技術と勇気があるではないですか。原子力から離れるすべてがそろっています。

わたしたちは、ふたつの武器を持っています。ひとつ目は、環境を大切にしている人のために、将来の世代を尊重する人のために、お金を使ってください。多国籍企業に対して、1ユーロたりともお金を与えるのをストップすることです。どんな小額のお金でも、誰に挙げるかということを自ら選んでください。

そしてふたつ目は、言葉です。我々はもっと発言しなければいけない。この映画を観て、思っていることをあなたの周りの人たち、友人やご家族の方と共有して、また、懐疑的な人たちを説得するために言葉を使わなければならない。わたしもあなたもメディアなんです」



13金(2013)

2013-09-13 | 映画
いきなりですが13日の金曜日でございます。
以前の13金(2008)で記事にしたのは...

13金 - のろや

妄想映画。我ながらなかなかの出来映えでございます。
今ならこの映画に、月の裏側で採掘作業をしていたら偶然に鍵十字形の巨大建造物を発見してしまうサム・ロックウェル、というのをはじめとした以下のシーンもねじ込みたい所でございます。

月ナチスに捕まってあわや拷問に晒されるかと思いきや、K-PAX星からやって来た善良な宇宙人ケヴィン・スペイシーの卓越した交渉術のおかげで解放されたサム。基地に帰ってみると、突然のK-PAX星人の出現によって自我崩壊を起こしたロボットのガーティから宇宙空間に放り出されそうになり、やむなくガーティの電源を強制シャットダウン。「ビヨンド・ザ・シー」を歌いながらゆっくりとこと切れるガーティ。
一方、ハワイ沖で海上軍事演習をしていたはずなのにふと気がついたら火星にいたテイラー・キッチュは、映画がコケるのは俺のせいじゃないと必死に訴えるものの、火星の第七王子マーク・ストロングからバックハンドで思いっ切りしばかれた上に生爪をはがされて「私に嘘はつくな」とスゴまれ、思わず「うるせーハゲ!」と毒づいてしまいます。その言葉がユニバースをアクロスしてはるばる地球に到達し、中米の天文台で観測を続けていたSETI研究員ジョディ・フォスターがそれを受信したことから、全地球上ののピカード艦長ファンならびに一部のブルース・ウィリスから「ハゲで何が悪い!」という激しい反火星運動が巻き起こるのでございました。
ジョディ・フォスター研究員が反火星キャンペーン以上にやっかいな同僚メル・ギブソンがまき散らす舌禍への対応に追われている間に、ロシアの極秘エージェントたるケイト・ブランシェットは謎の暴言の発信元について探りを入れるべく、何やら知っていそうなドクトル・ハリソン・フォードに接触を図るものの、ドクトル・フォードは長らく冷凍状態でコチコチに固まったままなので何も引き出せそうになく、それならば諜報活動で何とかしようとかつての国務長官で諜報部のチーフであったジェフリー・ラッシュに招集をかけるものの、彼は彼で公序良俗に反する著作を出版したかどで長らく精神病院に収監されているとの報を受け、エージェント・ブランシェットはあまりのやるせなさに、思わずギターをつまびきながら「風に吹かれて」を口ずさんでしまうのでございました。

えっ
サム・ロックウェルは最後にギャラクシー・クエストの一員として出て来るから、月で採掘作業してるのはおかしいんじゃないかって。大丈夫です。あの人、いっぱいいますんで。


というもはや13日の金曜日にはかすりもしないような話を延々と繰り広げてしまったわけでございますが。
こんな馬鹿話も5年前にはわりと屈託なくできたのですよ。


最後に、言い訳のように真面目な話題を取り上げておこうと思います。ちなみに13日の金曜日とは依然として無関係な話でございます。
といっても他のブログさんをご紹介するだけなんですが。
しばらく前から読ませていただいている米国在住の方のブログです。
リンクしたページでは東京新聞の記事を紹介してくだすっております。
大手メディアにも気骨あるジャーナリズムが残っているのを見ますと、わずかなりとも勇気づけられます。

裸の王様に、「王様は裸ちゃうの?」と言えん大勢の意気地なしが、無かったことにする『日本の現実』 - ウィンザー通信

(追記)
真面目話ついでにもう一つ。
現代版治安維持法との呼び声も高い「秘密保全法案」についてのパブリックコメント、こいつが9月17日まで募集中でございます。ワタクシは今回はじめてパブコメというものを出してみました。日弁連の言うように、たった2週間の募集期間をもっと延長するべきだという意見も添えて。コメントったって一応政府に届く文章なんだし、いろいろ難しいことを書かねばならいのかしらん、と今まで尻込みしていたのですが、反対ですとか賛成ですという一言だけでもいいそうですよ。

↓のフォームから送付できます。
パブリックコメント:意見募集中案件詳細|電子政府の総合窓口e-Gov イーガブ

怒りをこめて、ハデスのこと

2013-08-22 | 映画
前回の記事、 When You're Evil の最後の所で、ディズニー映画の悪役たちが登場するAMVのことをちらっと申しました。それらの中に、『ライオン・キング』のスカーや『ノートルダムの鐘』のフロロなんかと並んでよく登場するのが『ヘラクレス』のハデスでございます。
ワタクシはディズニー映画の『ヘラクレス』を観ておりません。未鑑賞の作品についてとやかく言うのはワタクシの主義にいささか反しますけれども、ことこの作品におけるハデスの扱いに関しては、ぶつぶつ言わせていただこうかと。
(ちなみに『美女と野獣』のガストン同様、『ノートルダムの鐘』のフロロは”悪役”ではあっても”邪悪”ではないので、このWhen You're Evilという曲にはそぐわないとワタクシ思うのですが、それはひとまず於くことといたします)

もう10年以上前ということになりますけれども「ディズニーの次回作はギリシャ神話が舞台、悪役は冥界の王ハデス」と聞いた時、ワタクシはずいぶん腹が立ちました。今でも腹が立っております。と申しますのも、ゼウス、ハデス、ポセイドンのクロノス3兄弟のうちハデスは最も、いや他を引き離し断トツで、身持ちがよくて性情の穏やかな神だからでございます。

ディズニーの映画では、どうやら好色で横暴かつコミカルなキャラとして描かれているようですが、好色といったらゼウスの方が断然上でございますし、怒りに任せて人間を酷い目に会わせるのは、ハデスではなくポセイドンのおはこでございます。
それから映画ではハデスが幼いヘラクレスを殺そうと試みるシーンもあるようですけれども、これはとんでもない濡れ衣であって、赤ん坊のヘラクレスに蛇を差し向けたのはゼウスの正妻ヘラでございます。それどころか、ハデスとヘラクレスが敵対的な関係になったことは一度もございません。

そもそもハデスのやった「ひどいこと」なんて、ペルセフォネ略奪くらいしか思い浮かびません。それだって、母親のデメテルがつむじをまげたもんだから、1年のうち4分の1の間だけ地下で一緒にいることにして、あとの4分の3は親元に返してあげるんですよ。聞き分けのいい旦那じゃありませんか。さらにその略奪自体も、実はゼウスにそそのかされたからだって話もあります。
本妻以外の女性によろめいたという話も、たった1回だけ。...いや、今Wikipediaで確認したら2回でした。それだって、ゼウスとポセイドンの放埒ぶりに比べればぜんぜん可愛いもんです。逆に細君のペルセフォネの方が、夫の数少ないよろめきの対象に嫉妬して、彼女を雑草に変えてしまったり、美少年アドニスをめぐってアフロディテとの間で泥仕合を繰り広げたりという修羅場を展開してらっしゃいます。

それに対して、ゼウスなんかどうです。
ガニュメデスを引っ掠い、エウロパを誘拐し、最初の正妻メティスさえも、予言怖さにお腹の子供ごとごっくんと飲み込んじまう始末。
ここにヘラの嫉妬が絡むと、さらに悲惨でございます。
セメレーは一瞬で灰になり、イオは牝牛に変えられ、カリストは熊に変えられ(拒否のすえ騙されて犯されたのにこの仕打ち!)、レトは出産する場を求めて身重の身体を引きずって世界をさまよわねばならなかったわけです。それからおしゃべり好きだったニンフのエコーが相手の言葉を繰り返すことしかできない身になったのも、もとはといえばニンフたちと遊んでいたゼウスがヘラから逃げるのを助けてあげたせいですから、彼女もこの浮気夫と嫉妬妻コンボの犠牲者に数えられましょう。

ポセイドンもたいがいですよ。
姉のデメテルを手込めにし、また一説では美女だったメドゥーサが怪物に変えられる要因を作り(所もあろうにアテナの神殿で彼女と交わった)、ニンフといわず人間といわず、あまたの愛人をこさえております。
オデュッセウスがあんなに長旅をしなくちゃならなかったのも、要するにポセイドンが怒ったからですね。
それからとりわけひどいのが、皆様ご存知とは思いますけれども、ミノタウロスの出生をめぐるお話でございます。ここで怒りを被ったのは、生け贄に捧げるはずだった牡牛を惜しんだミノス王ですが、ポセイドンはこの生け贄横領事件にはなーんの関与も罪もないはずの、ミノスの妻パシパエを狙うんでございます。しかもただシンプルに罰するのではなく、彼女がくだんの牡牛に対して情欲を抱くよう仕向けて牛と交わらせるんでございますね。その結果パシパエは体は人間・頭は牛のミノタウロスという怪物を生むわけでございますが.....海神、ちょっとやることが陰険すぎませんか?

陰険といえば、ゼウスがプロメテウスに与えた罰も相当なもんでございましょう。人間に火を与えた罰として、岩山に縛り付けられてハゲタカたちに生きながら肝臓をついばまれる日々。これが永劫に続く予定だったんですぜ。それだけじゃ飽き足らず地上にパンドラを遣わして、世界に災厄大拡散ひゃっはあ。

それに対して、ハデスが人間に対してしたことといったら、ええと。
亡き妻エウリュディケを慕って冥界まで追って来たオルフェウスに、エウリュディケを返してあげた.....



いいひとじゃないですか!
しかもオルフェウスが奏でる竪琴に感動したペルセフォネのとりなしを受けて...って、微笑ましいほど妻にべた惚れじゃないですか!
ペルセフォネも、さらわれた相手がハデスでよかったじゃありませんか。これがゼウスがポセイドンだったら、まず遊んでポイですよ。2人とも、猛アタックかけてた女性(テティス)すら「彼女の生む子は父より偉大になる」という予言が下されるや、双方さっと手を引いて彼女を他の男にあてがってしまうようなひとたちですもの。

クロノス3兄弟のみならず、ギリシア神話に登場する主要な神々の中でも、ハデスは一番穏やかで公正な部類に入ると申してよろしうございましょう。アレスは流血や戦闘を好む荒々しい神であり、アフロディテは浮気性な上に息子の恋人に対しては陰険な鬼姑であり、ヘルメスは平気で嘘をついたり狡猾に立ち回ったりするのが常のトリックスターでございます。アポロンもアルテミスも、また知恵の女神アテナでさえも、怒りに任せて人間を動物や怪物に変えるなど、時には理不尽で残酷な罰を下すことが知られております。ヘパイストスはまあ、あんまり派手な噂は聞きませんけれども、アテナを手込めにしようとして失敗するという、かなりイタいエピソードの持ち主でございます。

それに比べてハデスのなんと温厚なこと。しかも愛犬家でもあったりして。(ヘラクレスが12の試練を達成するため、冥府の番犬ケルベロスを地上へと引っ張り出す許可をハデスに求めた時、ハデスは愛犬の連れ出しを「武器を使わないこと=傷つけないこと」を条件に許可してあげたのでした)
もっとも、ハデスは冥界から出て来ることがほとんどないので、他の神々、特に兄2人のように遊び回る機会が圧倒的に少ないということもございましょう。なんだか遊び人の長男、暴れん坊の次男、引きこもりの三男という構図を思い浮かべてしまいます。

などというひどい例えを申しておいてナンではございますが、ディズニー映画のハデスのような、本来のパーソナリティを改変してしまう創作物というのは、ギリシア神話やその中に登場する神々へのリスペクトを甚だ欠くものであると、ワタクシは思うのですよ。
冥界の王だから悪、という短絡的なキャスティングもいただけません。オシリスや閻魔様が悪ではないように、ハデスもまた、悪ではございません。畏怖すべきものと忌み嫌うべきものを一緒くたにしてはイカンでしょう。imdbのレヴューに「ハデスとサタンを混同するな」と怒ってらっしゃるかたがおりましたけれども、全く同感でございます。

当のろやご常連の皆様はご存知の通り、元来ワタクシは悪役というやつが大好きでございます。このディズニーの「ハデス」にしても、ギリシア神話の冥王とは全然関係のないただの悪役として見たならば、おそらくかなり好きな部類に入るキャラクターでございます。
しかし神話の中のハデスとは似ても似つかぬこのキャラに、3000年以上の長きにわたっていかめしくも穏やかな神として知られて来た冥界の神の名前とステイタスを与えるのは、甚だ冒涜的なことであり、ギリシア神話ファンを馬鹿にする行為でもあるのではございませんか。


またこれはディズニーに限った話ではございませんが、主人公をカッコ良く見せ、正当化するために、神々をおとしめたような作品がたまにございますね。あれも本当に嫌なものでございます。
ワタクシ、漫画『アリオン』は終止ぷんぷんしながら読まねばなりませんでしたし、中学生の時に友人が「面白いから」と貸してくれた藤本ひとみの『王女アストライア』シリーズに至っては、歯を食いしばるようにしてなんとか1巻だけ読んだものの、それ以上は無理でございました。もっとも、この作品において堪え難かったのは神々の扱い云々というより、テーマや文体だったかもしれませんが。

反対にギリシア神話やギリシア古典文学へのリスペクトを感じる創作物といいますと、まっきに思い浮かぶのは『アルテウスの復讐』『ミノス王の宮廷』『冒険者の帰還』という3冊シリーズのゲームブックでございます。
ゲームブックったって、今の若い人はご存知ないかもしれませんけれども、要するに書籍版RPGゲームでございます。
本作は「もし英雄テセウスがミノタウロス殺しに失敗したら」という所から始まります。田舎で母と共に暮らす主人公・アルテウスのもとに、兄テセウスがミノス王の迷宮で命を落とした、という知らせが届き、アルテウスは兄に代わってミノタウロスを倒すために旅立つわけです。

旅のはじめに、今後庇護を受けることになる神を選ぶことができまして、選んだ神によって、旅の間、つまりゲームの途中で受ける特典が異なるんでございます。たしかヘラ、アポロン、アレス、アフロディテ、ポセイドンの5択だったと思いますが、ワタクシはいつもアポロンばかり選んでおりましたので、他の神々の特典がどんなだったか思い出せません笑。とにかくそれぞれの神の特性を生かした特典でしたので、たしかアレスの庇護は戦闘の時に有利だったはずです。アポロンから下される恩恵は予言の力で、戦闘時以外の不測のダメージを回避することができる、というものでした。

ダメージといっても体力だけの問題ではございません。主人公はそんじょそこらの冒険者ではなく、英雄テセウスの弟でございますから、やっぱり英雄らしい振る舞いが求められるわけです。そのため「名誉点」と「恥辱点」というポイントが設けられておりまして、プレイヤーがさもしい行為におよぶとこのポイントにおいて容赦なく罰を下されます。
たまに守護神や他の神々と話をすることもできる一方、うっかりすると敵対関係に入ってしまうことも。ワタクシのご贔屓守護神アポロンは、いつも閃光とともに現れてはささっと神託を告げ「じゃ、私はこれから妹と一緒に狩りに行くんで、これで」とか何とか言ってまたささっと消えてしまうのでございました。

これだけでもお分かりかと思いますが、大筋からも細部からも、ギリシャ神話に対する制作者の愛と理解とリスペクトがふんだんに感じられる作品でございます。ワタクシはあっちこっちに指をはさみながら遊び倒したものでございました。
えっ。前のページに指を挟みながらやるなんて卑怯じゃないかって。
だってえ。うっかりすると、プロクルステスに足を切られたり、ロータス・イーターの島でのんびりしすぎて帰れなくなったり、シュムプレガデスの大岩に船が挟まれたり、生け贄の子犬を助けたばかりにヘカテの怒りを買ったりするんですよ!

それから、映画ではパゾリーニの『王女メディア』が思い浮かびます。(『アポロンの地獄』は未鑑賞)
初めて見たときはケンタウロスの姿に爆笑してしまいましたけれども。

あとは、そうですねえ、山岸凉子の漫画「パエトーン」とか。
あれはギリシア神話がメインではないだろうって。まあそうなんですが、世界を寓意的に語るという神話の機能を現代に適用したという点で、正しい解釈のなされた作品と呼びうるとワタクシは思います。しかし1988年に世に出たこの作品が今なお、いや残念ながら、今だからこそいっそう重々しい意味合いを持っておりますのは、神話という普遍的な物語に取材しているからではないのでございました。

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いやはや、思わず知らずこんな長話になってしまいました。
積年のモヤモヤを吐き出した恰好のお目汚しでございます。
しかし地球上において、ディズニー映画でのハデスの扱いに憤慨しているギリシア神話ファンは決して少なくないこととと思います。ワタクシもその一人として、この機会にちともの申しておかねば気が済まなかったという次第でございます。



ソーターさんがルーサーをやるかもしれないと。

2013-07-17 | 映画
まあ、なんです。
国内外のうんざりするようなニュースを見聞きしたり、ネット上で読むに耐えないような罵倒や差別主義むき出しの言説に出くわしたり、おとつい買ったばかりの小松菜が冷蔵庫の中で半分ぐずぐずになったりしておりますと、もう何もかも早いとこ滅んでしまえバーロー、と思ったりしてしまうわけですが、それはそれとして皆様、投票へは行きましょうね。選挙権なんて当たり前のように言いますけれども、志ある先人たちがたいへんな努力のすえ、ワタクシたち庶民に遺してくれた権利なのでございますから、それを自分から放棄してしまうのはいかにも馬鹿馬鹿しいし、もったいないというものです。


ということとは全然関係なく。

スーパーマンをカッコいいと思えたためしがないのでございますよ。
コミックをきちんと読んだことがない者がこういうことを申しますのは、甚だアンフェアなことではございます。けれども、とにかく子供の頃に見た映画にしても、ネット上で見られるアニメやゲームやコミックの断片にしても、ケントさんステキ、スーピーかっけえ、と感じられたことがいっぺんもございませんのです。
「いいひとだなあ」ぐらいなら思わないでもありませんが、弾丸よりも早く機関車よりも強く高いビルだってひとっ飛びの上に、透視できたり目からビーム出たり耳がものすごくよかったり、色々とパワーありすぎ便利すぎなわりにはクリプトナイト出されただけでへろへろになるのって、なんか非常にバランス悪くないですか。

そもそも正義のヒーローというやつも鳩胸ムキムキ体型も好きではないのろさんのことですから、その代表選手と言うべきスーパーマンを好きになれなくとももむべなるかな、ではございます。
が。
それに加えてケントさんの場合はコスチュームの問題もございます。
これまたファンのかたには申し訳ないのですが、あのコスチューム、ワタクシにはもはや生理的にダメというレベルでダメでございまして。かつてジョーカーさんがスーパーマンとフラッシュ(多分)を指してfashion disastersと呼んでらっしゃいましたが、まあおっしゃる通りだと思います。もっとも、スーピーさんに比べれば、真っ赤な全身タイツのフラッシュはだんぜんマシな方ではないかと。

それは「パンツはコスチュームの下に履くものだとようやく理解した」r2013年版映画のデザインでもたいして変わらず、当然のこととしてワタクシは映画『マン・オブ・スティール』を観に行くつもりもございませんでした。

ところが。
最近、マーク・ストロングが『マン・オブ・スティール』の続編にレックス・ルーサー役として出演するかもしれない、という噂が流れて来ているではございませんか。ケビン・スペイシーがひき続きルーサーをやるって話は立ち消えになったのかしらん。

Mark Strong Wanted as Lex Luthor in Man of Steel 2! - MovieWeb.com

そりゃあねえ。
ソーターさん、普通にスーツ姿で喋ってるだけでも充分ルーサーに見えますもの。ちょっと細長いけど。
とにかく、もし二作目にマーク・ストロング・ルーサーが出るんなら、ワタクシはどうしたって劇場に足を運ばねばならないわけで、それなら一作目からチェックしておいた方がいいのかなあ、と思った次第でございます。

『スーパーマン』でルーサーをやるとなると『グリーン・ランタン』のシネストロはどうなるんだって。あれはたぶんもう続編が作られないからいいんだろうってウワサです。ソーターさん自身も「続編があるとしたらびっくりだね、そんな話はぜんぜん聞かないもの」とおっしゃってましたっけ。
2015年公開予定の『ジャスティス・リーグ』には当然グリーン・ランタンが出て来るこってしょうけれども、キャストは総入れ替えになるんじゃないでしょうか。主役のライアン・レイノルズも乗り気ではないようですし。

問題は、制作者側からオファーがあったとして、ソーターさんの方でルーサーを演じるお気持ちがあるかどうかです。インタヴュー記事などでは、悪役へのタイプキャスト傾向については別に気にしてないよ、というご本人の言葉をお見かけしますけれども。
これとか。
Mark Strong Webchat(いつ読んでも心なごむ、ファンとのウェブチャット。)

とはいえ、もしルーサーをやるとなると『グリーン・ランタン』、『キック・アス』に続いて三度目のアメコミ悪役でございましょう。いかに悪役には一番いい衣装と一番いいセリフと一番いいシーンが与えられている---Mark Strong: 'Villains get the best lines... and clothes' ---としても、「またかー」ってお思いにになりゃしないかと、ちと気がかりでございます。『グリーン・ランタン』の時のインタヴューからして、ご本人はとりわけアメコミに思い入れのある方ではないようでございますし。

だけど見たいなあ、ソーターさんのルーサー。ぜひとも見たいなあ。
でもって、来たる『ジャスティス・リーグ』でこんなシーンが



こんなシーンが



あったら、ワタクシとしてはたいへん嬉しいのですが。


『ホーリー・モーターズ』3

2013-07-11 | 映画
『ホーリー・モーターズ』2 の続きでございます。

途中までは、役柄を演じるオスカーと、演じていない”素”のオスカーとは、見かけ上でも、その象徴するものにおいても、明確に区別できるものと思って見ておりました。即ち、リムジンの外でアポ(これこれの場所でこれこれの演技をせよ、という指令)に従事しているオスカーは、社会や家庭において何がしかの役割や人格を演じる個人を象徴し、逆にリムジンの中にいるときのぐったりしたオスカーは、何も演じる必要の無い”素”の状態の個人を表しているのだろう、と。

ところが話が進むに従って、アポと”素”との境が曖昧になるシーンや、リムジンの中においても緩いアポ的な指令が続いているのかと思われるシーンが出て来るんでございますね。昔の恋人との偶然の邂逅という、アポとは全く無関係なはずの一コマすらも、その出会いから突然のミュージカル化、そして別れに至るまで、いかにもいかにも映画的なわざとらしさでみっちり固められております。そこにいるのは演技をしていない”素”のオスカーというよりも、オスカーという人物を演じているオスカーでございます。

リムジンの外であろうと中であろうと、即ち、割り当てられたアポという形であろうと、自分で自分に課するものであろうと、「そこに在り、演じよ」という指令が止むことはないのでございます。
まさに、終わりなき舞台。監督の言葉を借りるならば「自分自身であることの疲労」と「新たに自分を創り出す必要」の間で板挟みになりながらも、生きること/演じることは続いて行きます。

演じ続けるオスカーの一日が人生の喩えであるならば、(どうやら上司らしい)アザのある男の「なぜこの仕事を続けるのか」という問いかけは、わりと究極でございます。それは、こんなにも疲労を感じ、時には顔の見えない誰かに批判されながらも、なぜそのように生き続けるのか、という問いかけでもあるからでございます。

対するオスカーの答えが、これまたわりと究極でございます。
「行為の美しさのためだ」
将来に掲げられた何がしかの目標のためではなく、物質的な充足のためでもなく、後世に何かを遺すためでもなく、今ここで生み出されては過ぎ去って行く、行為というもの、しかも、その美しさこそが、生きること/演じることの原動力であると。

アザ男が「美は見る者の目の中にある」と言うように、美は主観的なものでございます。そして生物が美を何かの目的に利用するということはあるにせよ、美それ自体は無目的なものでございます。
「何のために」という問いは、「答え→じゃあ、それは何のため? →答え→それは何のため?...」とどんどん後退していく余地のある問いでございます。が、「美しさのため」という答えには、その後退をぴたりと止めてしまう力がございます。

何となれば、美にそれ以上の目的はないからでございます。美を「何かのために」求める必要はない。
ちょうどこの映画における「インターミッション」が、作中の他のどの部分とも全くつながりを持たず、これ以外のパートにはまだしも感じられる背景やストーリー性もはなから用意されておらず、さらには唯一のセリフであるかけ声さえも、意味の通らない単語へとずらされているにも関わらず、問答無用に魅力的であるように。
そう、見知らぬ坊さんから「何の用ぞ(それでどうすんの?)」と問いつめられて窮してしまった道元禅師も「だってそれが美しいから!」と答えちゃえばよかったのですよ。

それを鑑みますと、セリフはおろか説明的な文言も一切ない、映像と音楽だけで構成されたドイツ版トレーラーは、不親切かついささか野暮ったくはあるものの、ひたすら「行為の美」にフォーカスしているという点で、本作をよく表現しているものと申せましょう。

HOLY MOTORS | Trailer german deutsch [HD]


ネット上のレヴューなどを読みますと、本作を評価していなくとも、「インターミッション」だけはよかった、という意見にちらほら遭遇いたしますが、それはこのアコーディオン隊ぞろぞろシーンにおける否みがたい「行為の美」が、理屈も意味付けも飛び越えて、見る者の心を揺さぶるからでございまよう。

アザ男いわく「だが、もし見る者が存在しなければ?」
いや、観客がいないということはありえません。私が行為する時、そこには必ず、その目から決して逃れることのできない、自分自身という観客がいるのですから。
倦むことなく街頭にくり出してはいくつもの役をこなして行くオスカーが、リムジンの中ではぐったりと疲労しているように、生きることの疲労もまた、そこ-----自分自身からの逃れられなさ-----に起因しているのかもしれません。しかし合目的性を要求するあらゆる問い、他者からのあらゆる批判を蹴散らす足場もまた、そこにあるのでございます。


とまあそんなわけでこんなにだらだら語ってしまいました。
ああカッコ悪い。
仕方がありません。
オスカーが演じることから逃れられないように、ワタクシはぐだぐだ考えることから逃れられないもののようでございます故。


『ホーリー・モーターズ』2

2013-07-09 | 映画
『ホーリー・モーターズ』1 - のろや の続きでございます。

「動きの記録」ということへの照準は、前の記事で映画へのオマージュと呼んだものの一端でございます。
パンフによると本作には、カラックス監督の自作を含めた過去の名作映画への言及とおぼしき部分が多数あるそうなのですが、ワタクシは他のカラックス作品を観ていないこともあり、せいぜいゴジラのテーマ曲と『顔のない目』のマスクくらいしか分かりませんでした。
それでも(あるいは、だからこそ)、映画という娯楽/芸術そのものに対する、監督のちょっと斜に構えつつの愛と讃辞とを、その絵から、語りから、しみじみと感じることでございました。

斜に構えつつと申しますのは、オスカーが演じる/生きる11の生というのが、キャラクター造形、見かけ上のシチュエーション、そしてセリフから音楽に至るまで、いかにも、いかにも、いかにも映画的な記号に溢れていて、言ってしまえば「ベタ」であり、その分ちょっぴり空虚だからでございます。
いさかい相手のもとにナイフ片手に乗り込んで行くやくざ者、死を前にした告白、帰りの車の中でばれる娘の嘘、20年ぶりに再開してつかの間の思い出に浸るもと恋人たち、美女と野獣、などなど。とりわけ「美女と野獣」であるところのメルドのパートは、端役までもわざとのわざとらしさに満ち満ちていて、ワタクシ大好きでございます。



こうしてわざと採用された紋切り型には、映画の語りに対するいささかの皮肉をも感じるわけでございますが、そこで繰り広げられる演技や絵作りは全く真摯かつハイクオリティでございまして、高まる緊張感であるとか、メランコリックな雰囲気であるとか、ほろ苦い感傷といった、そこで演出されるべきものがニクイばかりにばっちりと表現されており、しかも絵がやたらときれいだったりして、映画いいとこ詰め合わせの感がございます。
つまるところ、私たちは映画を見て感動するにも、ワクワクするにも、紋切り型というものをある程度必要とするのでございます。

もっとも本作では、セリフまでもがいかにも感に溢れている上に、本来持つべき文脈(その場面の背景をなすはずの物語)からは切り離されているため、シリアスなシーンであればあるほど虚しさが際立ち、それが時には滑稽なほどなのですが、これもまたわざとのことでございましょう。

そうして紋切り型(すなわち、送り手と受け手との間の了解事項、安心要素)をふまえつつ、各エピソードには観客の意表をつく展開が用意されております。
それは突然の静謐な美であったり、どこまでがオスカーの「演技」なのか分からなくなるような一コマであったり、逆にあたかも映画の真っ最中に「この物語はフィクションです」というテロップが流れるかのような、肩すかし的なやり取りであったり。
いずれにしてもそこには、映像と音楽の構築を通して、フィクション「を」語るということ、およびフィクション「で」語るということの愉悦がございます。

フィクションと当たり前のように申しましたけれども、もちろんフィクションであるこの作品には、「オスカーが演じる11の生の断片」(=演技のアポ)という11個の入れ子フィクションがございます。そしてそれらの小フィクションと、オスカーという人物の「現実の」生との境界は、時々ひどく曖昧になります。互いに全く関係のなさそうな「アポ」同士さえ、時に交錯します(銀行家とその殺害者、死に行く老人のテオへの言及など)。
この入れ子構造は「映画のポエジーは、映画の中にあるドキュメンタリー的な部分から生まれて来ると思う」という監督の言葉が表すように、映画というものにおける、現実とつくりごとの二重性を暗示しているのかもしれません。
...と、いうのはあくまでパンフを読んでからの後付けの発想でございまして、実際に映画を観ながら思ったことはもっと単純でございます。即ち、結局私たちは自分を演じるということから逃れられないし、人前で「ある私」を演じる自分と、一人になった時の自分とをハッキリ分けることなどできないのだろう、ということでございました。


次回に続きます。



『ホーリー・モーターズ』1

2013-07-07 | 映画
なんかもう人生も人類も保存の努力に値しないような気がして久しいわけですが
それはそれとして

『ホーリー・モーターズ』でございます。
監督自身が「編集の段階で初めてこの映画を発見した」とおっしゃってるくらいですから、たぶん、好きなように観て好きなように語ったらいい作品。というわけで臆することなくゴタクを並べようと思います。こういう作品って、あんまりくどくど語らない方がカッコいいんだろうなあとは思いつつ。

お話は、主人公であるオスカーなる人物が、楽屋よろしく衣装や小道具やメイク道具を満載したリムジンに乗りこみ、容貌も背景も様々に異なる人物に変身しては街頭に繰り出して、ある人生の一コマを演じて朝から晩までを過ごす、もうひたすらそれだけでございます。
それだけなんですが、これが大変面白かったのでございますよ。きっとわけわからん系の映画だろうと身構えておりましたので、こんなにもシンプルに楽しめるとは思いませんでした。笑いどころも多うございましたし。

何が面白かったのかと申しますと。
まず、全編を通じて散りばめられた、映画という娯楽/芸術へのオマージュ。
そして「人生は終わりなき舞台」というテーマ(このフレーズ自体は映画のキャッチコピーであり、つまりはコピーライターが考え出したものですが、インタヴューでの監督自身の言葉から鑑みて、これを本作のテーマのひとつと呼んでも差し支えないと思われます)を鼻先にぶら下げられつつ、それを取らせてなるものかという感じで振り回される楽しさ。
そして旋回し・愛撫し・よろめき・疾走し・襲撃し・時にはひっそりと息絶えて行く、ドニ・ラヴァンという小さな身体の引力、説得力でございます。

Holy Motors Official Trailer #1 - Film of the 21st century: reference



ソクーロフの『ファウスト』で事実上のメフィストフェレスを演じたアダシンスキー氏なんかもそうですが、マイム畑の人の身体には独特の引力めいたものがございますね。「肉体美」という言葉で連想されるのは、例えばボディビルダーやバレエダンサーの均整の取れた身体や、アスリートのがっちりとした筋肉でございましょう。しかしマイムや舞踏といった分野の人たちの身体には、そうした何か特別で彫刻的な美しさではなく、もっと卑近で、動きを伴った時に初めてその真価が分かるような、「用の美」とでも呼びたいものが備わっております。

オスカーが一日のうちに演じる/生きる11の生のうち、その身体性がとりわけ強く意識されるのは、まさしく「動き」が全てである、モーションキャプチャのスペシャリストとしてのパートと、それに続く下水道の怪人・メルドのパート、それからアコーディオン隊が無言で夜の教会を闊歩する「インターミッション」でございます。
また、映画の原点であり、映画における最も素朴な喜びである「動きの記録」ということ、それがことさら意識されるのも、オスカー自身のセリフが無いに等しいこれらのパートにおいてでございました。


次回に続きます。


『ファウスト』

2013-03-28 | 映画
半年以上前に書きかけてほったらかしていた記事を掘り返しました。

というわけで
アレクサンドル・ソクーロフの『ファウスト』でございます。

例えるならばヒエロニムス・ボスの絵画のような映画でございました。
グロテスクで魅惑的なイメージでもって観客の目を捉える一方、繊細な色彩で構築されたその部分部分はいたって謎めいておりまして、深読みの余地をたっぷり残しております。
また所々妙にユーモラスで、何か深遠なものごとを象徴しているのか、あるいは単に作者の悪ふざけなのか判然としない部分もございます。
理屈は脇において美的な点だけで申しますと、全編がもうひれ伏すしかないような怒濤の映像美でございます。重暗い悪夢のような絵と、夢幻的でうっとりするような絵が同衾しておりまして、美しくも禍々しい。ファウストとマルガレーテが水の中に倒れ込んで行くシーンに立ち会うだけでも、劇場に足を運んだかいがあったというものでございます。

『ファウスト』予告編


悪魔との契約の内容をマルガレーテとの一夜のみに限定したり、ヴァレンティン殺しの後日譚を丁寧すぎるほどに描くことにより、ゲーテの『ファウスト』をいやに小さな話にしてしまった感はございますけれども、ある程度の尺に収めるためには妥当な措置かもしれません。
そも、映画の冒頭でわざわざ「ゲーテの原作より自由に翻案」と断ってあるとおり、これはゲーテ作品の映画化というよりもゲーテの土台を借りてソクーロフ監督が好き勝手やった映画、と言った方がよろしうございましょう。予告編の「不朽の名作を堂々の映画化」といううたい文句はなかなかにくせ者ではございます。そう、「堂々の映画化」なのであって、決して「忠実に映像化」ではないのでございました。

去年オーストラリアで、iPhonの地図を頼りにドライヴしていたら遭難しかけた、というニュースがございましたでしょう。本作もそれと似ておりまして、ゲーテの原作という立派な地図があるから安心と思って観ていると、いつの間にやら全く見知らぬ所に連れて行かれます。

人生の虚しさにさいなまれる博士や美しきおぼこ娘、その兄の殺害、悪魔との契約といった道具立ては同じでも、設定をだいぶいじっている部分がございます。ファウストは老人ではなく、若返り薬なんぞ必要ないぐらい元気なおっさんですし、ワーグナーは凡人というよりほとんど白痴じみておりますし、メフィストフェレスは高利貸しときております。
またストーリーも、生を味わい尽くす為の悪魔との契約、というシンプルな枠組みになかなか収まろうとせず、原作にはない禅問答のような台詞をちりばめながら、生死の境すら曖昧な場所へとゆらゆら漂って行くのでございました。
原作から離れた描写の各々が、何事かの比喩であることはなんとなく知れるのですが(例えば、結局全然助けてくれないファウストの父親=神)、中には何を象徴しているのやらさっぱり分からないものもございます。

そうそう、メフィストフェレスですよ。
ワタクシはメフィストというキャラクターが大好きでございます。この文学史上に輝くトリックスターがどう料理されているかを見るのが、この映画を観に行った一番の目的と申してもよろしうございます。
本作にはメフィストと名乗る悪魔そのものは出てまいりませんで、上に申しましたように高利貸しであるマウリツィウスという人物が悪魔役をつとめるのでございますが、こいつがまた、実にいいキャラでございまして。

金を借りに来たファウストに「生に価値はありません。むろん死にも」と深刻ぶった台詞を吐くかと思えば、ファウストの著作を引っ張りだして来てちゃっかりと著者のサインを求めたり、ファウストが自殺用にとキープしていた毒薬を栄養ドリンクか何かのようにすいーっと飲んでしまったり、それで死にもしないでただお腹をくだして困っていたり、どやしつけられるといちいち「あわわ、背中の羽が...」と騒いだりと、真面目なんだかふざけているんだかさっぱり分かりません。
食えないトリックスターであるという点ではゲーテのメフィストと似たようなものでございますが、神様と直接かけあったり使い魔に指令を出したりという悪魔らしいことをちっともなさいませんので、単なる「自称・悪魔」の変なおっさんとも見えます。

滑稽である一方、挙動にも容姿にも何かこう、じっと目を注がずにはいられないような醜怪さがあるマウリツィウスの造形について、ソクーロフ監督いわく「不愉快で不健康なキャラクター」、「人々が本当は避けたいと思っているのに、結局は避けて通れないような抗い難い存在」。
嫌悪感をもよおすのにまじまじと見ずにはいられないものや、背徳的であるがゆえに惹かれるもののイメージがしばしば現れる本作において、ボス絵画的な陰影をいっそう強めているのがマウリツィウスというキャラクターでございます。

演じているのはいったい何者かしらと思ってパンフとネットで調べてみましたら、身体表現ユニットDEREVOのフロントマンであり、演出家、俳優、振付師、ダンサー、また2001年には映画の監督・脚本も手がけてらっしゃるとのこと。
いろいろやる御人のようです。悪役が似合いそうな風貌といい、幅広いご活躍といい、ちょっとスティーヴン・バーコフっぽいですね。カフカ関連の舞台をひっさげて来日していただけないものか。

悪魔じゃないときはこんなふう。

Anton Adasinsky for Rolling Stone - a photo on Flickriver

ううむ、かっこいい。
サングラスかけるとミシェル・フーコーにしか見えませんけれども。

閑話休題。

このヘンな悪魔をせいぜい利用するつもりだったファウストは、いつの間にやらのっぴきならぬ事態へと引きずり込まれ、ついには血の契約を交わすはめになり、最後は荒涼とした岩山(死の世界?)へと放り出されるのでございました。
ラストシーンでのファウストはやけに明るくポジティヴで、いずこからともなく響いて来る「どこへ行くの?」というマルガレーテの問いかけに「あちらへ、はるか先へ」とほがらかに答えて歩み去ります。自分が魂を売り渡してしまったことも、この世かあの世かも定かではない場所へと踏み込んでしまったらしいことも、まるっきり忘れたように。

解釈が観客に開かれた作品の常として、このラストは単純に言って明暗二通りの見方ができるようでございます。
意味も理屈も倫理も突き抜けた所で高らかに宣言される「生きること=欲望すること」の肯定、という明るい結末と見ることもできましょう。
一方、汲めども汲めども決して満たされることのない、「生きること=欲望に駆られること」の不毛さを暗示する、暗い結末とも読めます。
ワタクシは後者の方と見ますけれど。

だってね。
このファウストはマウリツィウスに向かって「お前が何をくれた?金もくれなかっただろ。権力も影響力も自力でつかみ取るよ」と宣言します。けれども、そもそもファウストは魂のありかや生きる意味を探していたはずではございませんか。
金、権力、影響力、自然をねじ伏せる知と技。それらを自力でつかみ取ったとして、その先は?それらは荒涼とした世界に放り出されたファウストを、いったいどこへ導くというのでしょうか?

ゲーテのファウストは放浪のはてに行き着いた海辺の地で、勤勉に働く人間の営みに感動して(誤解であったにせよ)、「時よ止まれ、お前は美しい」と充足の声をあげるやいなや絶命します。一方ソクーロフのファウストが行き着いたのは、止まれも何も、時のうつろいを示すものさえ見い出せない荒涼とした世界でございます。あるのはごうごうとエンドレスに流れる川と、吹き上げては静まり、また吹き上げては静まりをひたすら繰り返す間欠泉、そして草一本生えていない岩山だけ。
止められるべき美しい時間も存在しない世界において、このファウストが充足を得る瞬間など来るのでしょうか?
よしんばそこに永劫の時間があるとしても、マルガレーテの問いかけはその永劫に渡って、ファウストにつきまとうことでございましょう。

「どこへ行くの?どこへ?」




そんなわけで
いろいろと斬新なファウスト像ではあり、深読みする愉しみもございますけれども、この映像美で普通に映画化した『ファウスト』を観たかったぜ、とも思ったことではありました。

なくなった映画館3

2013-02-27 | 映画
2/26の続きでございます。

観賞後に重い余韻を残したマフィア映画『フェイク』も、エド・ハリス渾身の『ポロック 2人だけのアトリエ』も、弥生座で観たのでございました。コーエン兄弟による、キャストが無駄に豪華なコメディ映画『ディボース・ショウ』を観たのもここでした。
この作品、世間的にはあんまり評価が高くないようですが、ワタクシはわりと好きでございます。そつなく抜け目ないようでいてコロッと騙されるジョージ・クルーニーも、魔性の女オーラ全開のキャサリン・ゼタ・ジョーンズも、無邪気な田舎っぺ大富豪のビリー・ボブ・ソーントンも、ちょっとだけ出て来て濃ゆい濃ゆい演技を繰り広げるジェフリー・ラッシュも、みんないいじゃございませんか。なんだかんだでハッピーエンドというのもよろしい。コーエン兄弟だからって何が何でもひねらねばならないということはありますまい。

『アメリカン・スプレンダー』みたいな変な映画もやっておりましたっけ。「あなたを“輝かせて(スプレンダー)”くれる人が、きっと見つかるはず...」なんて、可愛いらしいラヴストーリーみたいなコピーですが、全然そんな映画ではありません笑。劇中で流れるジャズが心地よくて、観賞後はサントラを求めていそいそと近くのタワレコへと歩いて行ったものの、アメリカンのアの字もなくてガッカリしたものでございます。そもそも国内盤の発売すらされていない模様。なんでえ。

ガッカリというのとは違いますが、行こうかなあと思いながら見逃してしまった作品も色々ございます。特にクストリッツア監督の快作『黒猫・白猫』を観に行かなかったのは、ワタクシの人生における大きな後悔のひとつでございます。『アララトの聖母』も、入り口に張り出されたポスターに気を惹かれつつも、結局行かずじまいとなりました。

弥生座で観たものの中でワタクシにとって一番思い入れ深い作品は、シャラントン精神病院におけるサド公爵を描いた『クイルズ』でございます。官能だの倒錯だの愛欲だのとやたら扇情的な文句で売られておりますけれども、この作品は表現するということを巡るたいへん真面目な物語であり、一人の強い個性を持った人物があくまで彼自身であろうとする戦いの記録であり、奇妙なしかし真剣な愛の話であり、舞台劇らしく洗練された喜劇であり、その上主役の3人(ジェフリー・ラッシュ、ケイト・ウィンスレット、ホアキン・フェニックス)はもちろん端役に至るまで、俳優陣の素晴らしい演技が堪能できる、要するに傑作でございます。

The Quills Trailer


上映が終わり場内が明るくなっても、感慨に打ちのめされたのろさんはにわかに座席から立ち上がることができませんでした。サド公爵が劇中で何度もハミングする童謡「月の光に」が頭の中をこだまするに任せたまま、悲しいような嬉しいような心地で、劇場のすすけた壁や変な形の照明をしばし呆然と見つめていたのでございました。
数年前にDVDを購入し、時々取り出しては観ておりますけれども、PCの小さな画面ではなく、映画館という空間でどっぷり身を浸すようにしてこの作品を鑑賞できたことは、まことに有意義な経験でございました。

ワタクシが最後に弥生座で観た作品は落下の王国でございました。してみると、もう4年以上もこの劇場に足を向けることがなかったということになり、結果的に単館の没落に自ら加担してしまったかと思うと、心苦しいものがございます。

弥生座閉館の理由は「デジタル化への対応が困難」とのこと。地下のロビーから覗き見ることができた、あの立派な映写機はどうなるんでしょう。同様の理由で閉館する老舗の映画館があちこちにある、またはあったのではないかと想像されますけれども、そういった劇場で長年活躍してきた映写機たちは、これからどこへ行くんでしょう。

せめて外観だけでも記録しておきたいと、お思いになった映画ファンの手によるものでございましょう、閉館二日前の弥生座を新京極通りから撮影したものが、Youtubeにupされておりました。

新京極シネラリーベ (2013.2.13)


さようなら、京極弥生座、新京極に残った最後の単館。
今まで本当にありがとう。


なくなった映画館2

2013-02-26 | 映画
2/25の続きでございます。


三条河原町を少し上がった所の朝日会館4階にあった、ほんとにちいさなミニシアター、朝日シネマが閉館すると聞いたときのワタクシのショックは、並々ならぬものでございました。幸いなことにこの劇場は場所を移して京都シネマとして復活なさいまして、今ではワタクシが最も足繁く通う映画館となっております。

朝日シネマではいちいち挙げられないほどたくさんの佳作・名作に出会いましたが、体験としてとりわけ記憶に残っているのは、『ぼのぼの クモモの木のこと』でそれはもう恥ずかしいほど号泣したことでございます。なにしろ狭い劇場で、観賞後はなるべく速やかに退散するのが常でございましたから、この時もうるうるの涙目とずるずるの水っ鼻のまま、人目をはばかりつつ狭いエスカレーターを下りて行ったのでございました。

また朝日シネマでは、スタッフさんから受けた親切にも思い出がございます。
『グレースと公爵』を観ようとでかけたのろさん、こういう渋めのヨーロッパ映画をやるのは、みなみ会館でないなら朝日シネマに違いないと思い込んで、上映時間をなんとなく調べただけで朝日シネマへと赴いたわけでございます。ところがカウンターのお姉さんは『グレースと公爵』はここでは上映していない、とおっしゃるじゃございませんか。意表をつかれて目が点状態のワタクシの前で、お姉さんはサッと市内の映画館の上映予定表を取り出して、美松劇場で○○時から上映だから急げば間に合うかも、と案内してくだすったのでございます。

前の記事で申しましたように、当時この界隈は映画館密集地帯でございました。その劇場群の中では一番離れていた朝日シネマと美松劇場さえ、せいぜい徒歩で10分ほどの距離でございます。お姉さんがおっしゃるように、走ればギリギリ間に合わなくもない時間ではございました。が、その時は恥ずかしさと自己嫌悪が相まってもはやダッシュするような気力もなく、あたりをぶらぶらして何も観ずに帰りました。
結局『グレースと公爵』は今に至るまで未鑑賞のままでございます。しかし、自館の得になるわけでもないのに、そそっかしいいち映画ファンのためにすかさず上映館を調べてくだすったスタッフさんの心意気は、長く温かい印象をワタクシの心に残したのでございました。

さて朝日シネマは別格として、消えて行った映画館の中で一番愛着があったのは京極弥生座(新京極シネラリーベ)でございました。そう頻繁に足を運んだわけではないものの、こぢんまりとした雰囲気がなんとも心地よく、また良作と出会う確率が高かったからでございます。

中でもキム・ギドク監督作品『悪い男』は、全く思いがけない拾い物でございました。
全く思いがけないとはどういうことかと申しますと、そもそもワタクシはこの作品を観るつもりはなく、画家志望時代のヒトラーを描いた『アドルフの画集』を観るつもりで弥生座に赴いたのでございます。ところが、ビルの3階と地下に一つずつあった劇場のうち、何を間違えたのか『アドルフ~』を上映中の地下劇場ではなく、上の方へ行ってしまったのでございます。

予告編がひととおり終わったのち『悪い男』のタイトルがゆっくりとスクリーンに浮かび上がり、うわしまったと頭を抱えたものの、席は空いているし時間もあるし、せっかくだから観てみるか、とそのまま座り続けました。そうしましたらこれが非常にむごく哀しく面白く幻想的かつ壮絶な作品でございまして、鑑賞前のやっちまった感もどこへやら、上映後は奇妙な爽快感と納得のいかなさを等分に抱えつつ「なんかすごいもの観てしまった...」とよろけるようにして席を立ったのでございました。
続いてもはやこちらがついでという感じで『アドルフの画集』も鑑賞しましたが、こちらはつっこみ不足と申しましょうか、わりかし薄味な作品でございました。

ちなみにのろさんが上映館または劇場を間違えたのは、上に述べましたようにこれが初めてではなく、また最後でもございません。
自爆テロへと向かうパレスチナの青年を描いた『パラダイス・ナウ』を観るつもりで京都シネマへ行ったはずが、気がつけばスクリーンでは想田和弘監督のドキュメンタリー映画『選挙』が始まっていたということもございました。あのコンパクトな京都シネマで、3つしかない劇場をどうやって間違えることができたのか自分でも不思議でございます。
しかしこの『選挙』がまた、たいへん面白い作品でございまして、そのうえ上映後には主役(と言うんでしょうか)の山内和彦氏の舞台挨拶までございまして、怪我の功名とばかりにワタクシは大いに楽しませていただいたわけですが、映画館側からすれば甚だ迷惑な客であることは間違いございません。
すみません。以降、気をつけております。


次回に続きます。

なくなった映画館1

2013-02-25 | 映画
京極弥生座改め新京極シネラリーベが、2月15日をもって閉館しました。
ワタクシ自身もここ数年というもの、準新作の上映が主となった弥生座からは足が遠のいてはおりましたが、新顔の大手シネコンがショッピングモールと手を取り合って幅を利かせる一方で古顔の小さな映画館がなくなっていくというのは、やはり寂しいかぎりでございます。

振り返ればワタクシが京都に来た1995年には、あの界隈にはずいぶん映画館があったものです。
この度の弥生座を最後として、その全てが姿を消すか、シネコンへと転身してしまいました。

大きな手描き看板で三条通を飾った東宝公楽
『シンプル・プラン』のギョロっと目をむく3人や『スカーレット・レター』の涙を流すデミ・ムーアの顔が、濃ゆすぎてちょっと怖かった。

東宝公楽から数メートル西、河原町三条の交差点まで来れば、片側アーケードの下に(これまた今はなき)駸々堂書店、『カフカとの対話』や『ポオ詩集』や『魍魎の匣』を買った駸々堂が、そして上には京都スカラ座のネオンが目に入ったものです。

少し奥まった所にある美松劇場には、近隣のピンク映画上映館(八千代館)のポスターがずらずら並んでいる脇を通り抜けて『楽園をください』や『タイタス』や『耳に残るは君の歌声』といった佳品を観に行ったものでございました。

美松にほど近い京極東宝で観た映画には、なぜか「駄作とまでは言わないけどなんか微妙」なものが多く、しばしば釈然としない思いを抱きつつエスカレーターを下りて行ったものでございました。絵はいいもののストーリーがアレであった『スプリガン』や『スチームボーイ』、それからワタクシがアカデミー賞というものに対して疑問を抱くきっかけとなった作品、即ち『タイタニック』もここで観たような。
フランス発サスペンス・アクション時代劇withカンフー風味な『ジェヴォーダンの獣』を観たのもここであったはず。色々と(確信犯的に)無茶な映画ではございましたが、エンターテイメントとしてはなかなか上出来であり、何より悪役のジャン・フランソワ兄さんを演じる長髪のヴァンサン・カッセルがそりゃもう最高にイケていたので何もかもよしとして、パンフまで買ってしまったのでございました。

スカラ座と東宝公楽の間あたりに位置していた京都ロキシーでは『フェノミナン』や『イングリッシュ・ペイシェント』を観たはずなのですが、この劇場のことはほとんど覚えておりません。ここではよくも悪くも印象に残る作品と出会わなかったからかもしれません。MOVIXになった今もあんまり行っていないなあ。


次回に続きます。

『007 スカイフォール』

2013-01-11 | 映画
「歴史の汚点」というものの形成過程に日々立ち会っているような気がいたします。
後世の歴史家から見れば研究対象としてたいへん面白い時代なのかもしれません。
そうとでも思わなければやって行かれません。
もうやって行かれなくてもいいけれど。

それはさておき

この年末年始はスパイ小説の傑作「スマイリー三部作」のうち、『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』に続く『スクールボーイ閣下』と『スマイリーと仲間たち』を読み、ウォルシンガム本の残りを読み、『スカイフォール』を観に行きと、期せずして英国諜報部に入り浸ることとあいなりました。

というわけで『スカイフォール』でございます。

面白かったですよ。
いわゆるボンドらしいケレン味や超人ぶりが見られないということで、長年のボンドファンの間では賛否が大きく分かれているようですが、007に特に思い入れのないワタクシは普通のアクション映画として楽しめました。むしろ50年も同じ設定で引っ張って来て、制約も色々あろうに、よくぞこれだけ楽しめる作品を作れるものだと感心いたしました。エキゾチズムや荒唐無稽さのさじ加減もちょうどよい感じであり、絵もおねえさんがたも大変きれいで眼福眼福でございました。

ただ、中盤までは見どころ満載でいたってテンポよく進んだだけに、スコットランドの片田舎に舞台を移した終盤、舞台の小ささを爆発の派手さで補うような展開になってしまったのは残念でございました。そしてこの終盤の展開にもからむことでございますが、「娯楽映画は悪役が命」が信条のワタクシから見ますと、本作の悪役はいささか薄味と申しましょうか、期待に反して描写が浅く、元諜報部員というせっかくのおいしい設定を生かしきれていないように思われました。
ボンドおよびMI6の裏をかき、先回りし、嘲笑しまくるのは大いに結構。しかし、Mも認める非常に優秀な元諜報部員、という華々しい肩書きの持ち主で、いわばボンドの「兄弟」的な立ち位置の敵であるにもかかわらず、ボンドがそのことについて思いを巡らしたり動揺したりする様子が全くない、というのはどうなんでしょう。また、ハッキングだの何だの色々と頭脳戦をやっておきながら結局最後は火力で勝負かよ!と、心中で突っ込まずにはいられませんでした。

個々のアクションや絵づくりにはたいへん結構である一方、全体としては「組織に捨てられたスパイ」というテーマをもっと掘り下げて描いてくれればよかったのに、とも思いました。もともと地味だの暗いのと評されるクレイグ・ボンドですから、スパイの悲哀なんぞを描いてさらに話が暗くなるのを避けたのかもしれません。でも、せっかくの悪役設定、せっかくのドラマチックかつもの悲しいテーマ曲、そしてせっかくのサム・メンデスですのに。



そのサム・メンデス監督、制作にあたって『ダークナイト』を意識されたということですが、悪役シルヴァの造形にはしばしば、ジョーカーさんを撮りたかったのよ、という監督の意向が明白に見えすぎる所があり、いささか鼻白みます。
ジョーカーもどきのことをどんなに楽しげにやった所で、ジョーカーもどき以上のものにはなれないのであって、本家本元のジョーカーさんには魅力も迫力も遥かに及びません。その上、中途半端に愉快犯的な振る舞いをすることによって、もと凄腕諜報部員にしてMI6に強い恨みを抱く復讐者、というシルヴァの個性が曖昧なものになってしまったように思います。

おまけに、演じているのが『ノーカントリー』の”純粋な悪”アントン・シガーことハビエル・バルデムでございましょう。シルヴァはシガーと正反対に雄弁だったり派手好みだったりと、造形にあたってなるべくキャラがかぶらないように気をつけたということは分かります。それでも、バルデムさんが魅力的な悪役を”怪演”しようと頑張るたびに、脳裏に浮かぶのは「これよかシガーの方がだんぜん怖かったよな~」という感想でございました。

いえ、バルデムさんが悪いというんじゃございません。ただ、どんなに頭がきれて用意周到でとっても怖い奴として描かれたとしても、ジョーカーさん及びシガーという悪役界のスーパースターが比較対象として控えているのでは、シルヴァというキャラクターには甚だ分が悪いのではございませんか。それにボンドとの類似と相違を際立たせるためにも、今回の悪役にはバルデムさんよりも、歴代ボンドの向こうを張るような、華やかでヒーロー然としたイメージの俳優をあてた方がよかったのではないかしらん。

それでは地味なクレイグボンドが食われちゃうだろうって。悪役ってのは、主役を食うぐらいでちょうどいいんです。
どうせシリーズ物の主人公なんて、放っといても一番おいしい所をかっさらって生き延びることに決まっているんですから。悪役こそ、制作者の創意と愛情がふんだんに注がれてしかるべきなのです。

そんなわけで
あと一歩二歩の所で名作になり損ねた感のある作品であることは否めませんが、ワタクシは去年観たばかりなのにほとんど内容が思い出せない『ユア・アイズ・オンリー』や、あらゆる点で煮え切らなかった『ワールド・イズ・ノット・イナフ』よりもよっぽど楽しめました。
冒頭申しましたように、たまたまエリザベス1世の時代や冷戦まっただ中の英国諜報部にも入り浸っておりましたので、Tジョイ京都のゆったりした座席に身を預けながらも「こんなに派手にやらかして、スマイリーが何と言うだろう」だの「Intelligence is never too dear だぜ大臣!」だの、色々といらんことも考えましたけれど。