のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『ヒューゴの不思議な発明』

2012-04-16 | 映画
どうもさぼり癖がついてしまっていけません。
忙しいときの「一刻も無駄にしない&優先事項のことを常に考える」という指針はさっぱり身に付かないのに、暇なときの「最もやるべきことは最後にする&可能な限りサボる」という行動パターンはどうしてこうすぐに、しかも根深く、身に付いてしまうんでしょうか。やれやれ。

ともあれ
『ヒューゴの不思議な発明』を観て参りました。

映画『ヒューゴの不思議な発明』 - 特別予告編 (日本語字幕)


「坊や、夢はどこで生まれると思う?.....ここでさ!」

3D上映には一刻も早くすたれていただきたいので、2Dにて鑑賞。
いや、良作でございましたよ。絶賛はできませんけれども、いい映画でございました。
評判がイマイチなのは「だれそれの××な〇〇」という昨今ありがちなタイトルや、ロードオブザリングっぽいきらんきらんのロゴといった、ファミリー向け冒険ファンタジーを期待させる売り方に負う所が大きいのではないかと。あれでは「発明好きの少年ヒューゴが不思議な世界で大冒険!」といったお話と思われても仕方がございませんし、そういう話を期待した観客が、期待と違うつまらん映画だったと腹を立てたとしても、まあ無理もないことであろうと思います。

かく申すワタクシは、ファンタジー映画ではないという前知識はあったので、その点で期待はずれということはございませんでした。しかし正直な所、中盤まではわりとイライラしながら見ておりました。それはひとえに、登場人物に魅力を感じられなかったからでございます。
相手に事情を説明する、ということをあらゆる場面で放棄し続けるヒューゴ(残念ながらこれは最後まで変わらなかった)、いつも怒っているパパ・ジョルジュ(メリエス)。しょっぱなから「弦楽器を大破」という古典的なギャグを見せてくれる鉄道公安官は、憎めない人物ではあるものの、とりわけ魅力的というほどのものでもございません。またヒューゴと仲良しになるイザベル、彼女はストーリーの進行上必要なキャラだということは理解できますけれども、ワタクシには「秘密大好き」「冒険したい」「私も孤児」という題目を振りかざして他人の人生にずかずか踏み込んで来る、まことにうっとうしいお嬢さんとしか思えませんでした。そんなわけでワタクシが、映画もそろそろ中盤というあたりで、いやはやどうも、絵はきれいだし音楽もいいし話そのものは決して退屈ではないけれど、この人たちとあと1時間もつきあうのはちとツラいなあ、と頭の隅でつぶやいたのも、おそらくはご理解いただけると思います。

ところが。
回想の中で、撮影所のメリエスが上記の台詞を言う場面が、あっと驚く転換点でございました。これ以降、絵にも、ストーリーにも、ほんの小さな台詞の中にも溢れる「映画愛」に、ワタクシは打ちのめされてしまったのでございます。

物語の中に「映画」が登場したとたん、それまでの倦怠が嘘のように、劇中のすべてがきらきらと輝き、ダイナミックに動きだしました。メリエスがそっとつぶやく「映写機の音ならどこにいても分かる」という台詞は、それまでの「パパ・ジョルジュ」が意地悪偏屈ジジイにしか見えなかっただけにいっそう心を動かすものがございましたし、それに続く回想の中の撮影シーンはそれはもう本当に、胸が苦しくなるほどに魅力的でございます。画面から飛び出してきそうな列車の描写にはニヤリとさせられ、発掘されたメリエス作品の上映会ではその作品の瑞々しさに思わず身を乗り出し、はては我知らずはらはらと涙まで流れる始末。すっかりメリエスの、はたまたスコセッシの”マジック”にやられてしまったのでございました。

キートンの自伝を読んだ時にもしみじみ感じたことですが、映画というもの、そして映画作りというものが「夢」であった時代が、確かにあったのでございましょう。しかし本作で描かれている映画揺籃期のきらめきを、ノスタルジーという言葉でくくってしまっては、ちと後ろ向きすぎるような気がいたします。本作に溢れる映画愛は「かつては素晴らしかったけど今はね...」という、昔は良かった的な懐古趣味に留まるものではないからでございます。映画の中のメリエスが、かつて自作のミューズであった妻を、歳とった今も往年と同じように愛しかつ必要としているのと同様に。

上に書きました通り、特に前半には倦怠を感じる部分もございましたので、手放しで絶賛というわけにはまいりません。
「どんな部品にも役割があるようにどんな人間にも云々」という台詞を顔をしかめずに聞くには、ワタクシの心はいささか荒みすぎているようですし。この台詞自体は映画の中で要となる役割を果たしており、陳腐なポジティヴメッセージに堕するのを免れてはおりますけれど。
また、ヒューゴの父が遺したノートや自動人形といったせっかくの魅力的な小道具が、話が進むに従ってぞんざいな扱いになってしまったことは否めません。ノートなんか、結局どうなったのか分からずじまい。どちらもヒューゴとヒューゴの父、そしてメリエスとを繋ぐ重要なアイテムであっただけに、この扱いは大変勿体ないことでございました。

とまあ不満はございますけれども、エンディングを迎えるころにはそれもこれも「まあ、いいか」という気分になっておりました。
孤独な少年は孤独ではなくなり、頑固ジジイは心を開き、パパゲーノたちはパパゲーナたちとくっつき、めでたしめでたし大団円でございます。「ハッピーエンドは映画の中だけ」であったとしても、お話が”こうあってほしい結末”にきちんと落ち着くのを見るのはやはりいいものであり、おそらくはこの幸福感溢れる結末そのものも、映画がもっと若くて初々しかった頃へのオマージュでもあるのでございましょう。

『月世界旅行』"Le Voyage dans la Lune / A Trip to the Moon"(1902)


うーむ、「ポンキッキーズ」を思い出すなあ。


そうそう、映画が若かったころといえば、先日から公開されている『アーティスト』も素晴らしい作品でございましたよ。このごろ感じた所を言語化するという作業がすっかり億劫になってしまっており、鑑賞レポもいつになるやらわかりませんので、とりあえず、とってもよかった、ということだけ申し上げておきます。




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