元ベース弾きの田舎暮らしは

60歳で田舎にUターン、素人の「米と野菜」作り
音楽が縦軸の人生
就職相談・紹介が「天職」

昔Vnの「お姉さま」達が泣きながら弾きました。

2009年01月11日 | 作曲家 保科洋

今朝から、大音量でCDを聴いています。
聴きたかったのは、チャイコフスキーの「悲愴」。
フェドセーエフ指揮のモスクワ放送交響楽団。

次の17日の土曜日、母校の岡山大学交響楽団の定期演奏会です。
場所は、岡山シンフォニーホール。
そのメインの曲が「悲愴」。母校のこの曲の演奏を40年ぶりに聴けます。
(この曲そのものは、何回か演奏はしているらしいのですが。)

この曲を聴くと必ず、思い出すことがあります。
40年前の大学2年生の時の定期演奏会。
第4楽章のバイオリンパートの女性たちの「涙」。
私たちのコントラバスパートから、ファーストバイオリンのメンバーの顔がよく見えます。

速い3楽章から、ゆっくりした4楽章に移ります。
テンポとダイナミックスが揺れるので、指揮をよく見ようとすると、なんと泣きながら、
バイオリンを弾いている「お姉さま」たちが目に入りました。

暗く、それでいて情熱的な弦楽器。
気持ちがよくわかります。もういけません、私まで「伝染」。
曲想と相まって、感情的(?)な演奏。本番ならではの出来事です。

聴衆を感動させるのではなく、演奏者が感動しています。
プロでは絶対ないこと、アマチュアならではのステージです。

   

指揮者の保科先生得意の「保科節(ぶし)」。
大きくテンポ揺らし、「うたい」あげます。真骨頂です。まだ30歳前後の先生。
しかし、「人生の機微」を表現します。

定期演奏会は、4年生にとってみると、最後の演奏会。
いろいろな想いがあったのでしょう。
でも泣きながら演奏している姿は、あの演奏会1回こっきり。

その「悲愴」を後輩たちが演奏します。
かみさんとチェロを学ぶ高校生の四女と一緒に聴くつもりです。
思い出すだけで「胸がつまる」この曲。
親父の「涙もろさ」を見せないよう、家族の前ではやせがまんの覚悟。

こんな感動を体感できる「音楽」の素晴らしさを多くの人に知ってほしいもの。
「生演奏」は最高です。
何せ86歳のクラシックを知らない「大正」生まれの母親でさえ感動するのですから。

画像  現役生の練習風景(昨年後輩たちの練習を聴きに行きました)
     定演のチラシ(喫茶 東京の文字が懐かしい、冷蔵庫に貼っています)
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「風紋」を作曲者保科洋先生、自らの指揮で!

2008年07月03日 | 作曲家 保科洋

ただいま出張中です。

出張前日、横浜「みなとみらいホール」での演奏会。いいホールです。
どうしても聴きたかった保科先生指揮の「風紋」。
なかなかチャンスがありませんでした。特にこの曲は。
オケは、神奈川の洗足音大。

管弦楽演奏経験しかないため、吹奏楽のことはよくわかりません。
でも20年前のコンクールの課題曲のこの曲が、今でもよく演奏される理由がわかったような気が。

この曲への保科先生の「深い愛情」を指揮の中に見ました。
「大振りしないことが指揮。演奏者の自主性を抑えていはいけない」
音楽の素人の私に教えてくれます。

メインの曲は、先生編曲のチャイコフスキーの「白鳥の湖」。
久しぶりに「保科節(ほしなぶし、私たちはこう呼びます)」を聴きました。
テンポを揺らし、気持ちを最高潮に持っていくのです。
40年前の学生時代を思い出します。

演奏会終了後、楽屋に先生を訪ねると奥さんとお嬢さんも一緒。
久しぶりにお話ししました。
奥さん「こんなとこまで来てくれたの」(浜松に居るとの勘違い?)
私「ええ、先生の追っかけですから」
お嬢さん「岡大オケの人は皆そうなのよ」
お二人にも先生の「音楽村」村長就任の経緯をお話ししました。

先生とは、あまり話せなかったのですが、いい演奏を聴けて満足です。
中野の家に帰ったのが12時前。でも心地よい疲れです。




画像   みなとみらいホール(開演前のステージ)
      ホール前のパシフィコ
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恩師「保科洋先生」との楽しい酒

2008年05月04日 | 作曲家 保科洋

連休初日です。
岡山は、もう初夏です。暑くてたまりません。

かみさんと、私の母校の大学を訪問しました。
大学のオーケストラの「BOX(部室)」を探します。
差し入れの大量のドーナツを持って。

指揮をしている保科先生を訪ねると、管(金管、木管)の合同練習中。
そのあと、弦も入れて全体練習。曲は、シベリウスの交響曲。

この練習場は蒸し風呂です。音漏れを防ぐため閉め切っています。
汗だくの先生ですが、70歳を超しているとは思えない精力的な指導。
手術により声が細くなっていますが、あちこちに指示が飛びます。

コントラバスの後ろに座って聴いていたら、突然タイムスリップです。
チェロやコンバスを向く先生が「私に指示している」錯覚です。
40年前の学生時代に戻った感覚。
その瞬間、懐かしさに過ぎた時間を想い、胸が熱くなりました。
おもわず涙が溢れそうになりました。

   

ホテルで着替えた先生とかみさんと3人で食事です。
魚の好きな先生との会食のため、予めお昼に店を訪問し、予約しておきました。
新鮮な鰆やヒラメ、中トロがイモ焼酎と合います。

「音楽合宿村」の構想を説明し、「村長就任」を正式に要請しました。
快諾です。「私を使って欲しい。できることは何でも」との先生のうれしい返事。
2年前から、お会いするたびに話してきました。あらまし理解していただいていました。

単なる合宿所でなく、クリニック(専門家によるレベルアップの指導)ができる「音楽村」の構想です。
先生の知人、音楽家の動員を約束いただきました。

「音楽村」を思い立って3年。正式始動です。
あとは、「廃校」の借用と運用の行政の見解待ちです。今週市と県の人達に会います。

   

40年前からの先生とのお付き合いです。楽しい酒を飲めました。
当時の懐かしい人たちとの「思い出」に話は尽きません。
先生の「暖かな人柄」を再認識です。
かみさんも横で聞いていて、「二人とも楽しそうだね」とのコメント。

「おかやまの夜」は幸せな気持ちで満たされました。

画像  指揮中の保科先生
     練習風景(たまたまベースの後ろに座って聴きました)
     保科先生(食事中にも電話です)
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人生の師 保科洋先生(作曲家)に電話しました

2007年11月13日 | 作曲家 保科洋


母校の大学の交響楽団の案内が来ました。
12月1日(土)に岡山シンフォニーホールで54回目の定期演奏会です。

メインがブルックナーの第四番「ロマンティック」です。指揮はもちろん保科洋先生です。
母校のオケの指揮を40年以上続けてもらっています。
昨日 早速先生に電話しました。

明るい奥さんの声で「今いますよ」 先生が偶然在宅でした。
「ブルックナーですって?」「そうだよ四番だよ」
こともなげに言われました。
大学の後輩たちのレベルは高いのです。

            

昨年の今頃、浜松で食事やゴルフ(驚きました、驚異的なスコア)を一緒してからもう1年です。

電話やメールの時、私の学生時代のあだ名「馬」のほうが通ります。
「先生、馬です」「ああ、馬さんか」周りの人はおかしな人間と思うでしょう。
(顔が藤田まことに似ているのと、馬力でベースを弾いていたためついたあだ名)

「音楽村」進捗も話しました。
「行政が、RC(鉄筋コンクリート)の廃校を使ってくださいと言ってます」
「2階建てと3階建ての二棟候補があります」と言うと驚き、喜んでもらえました。

忙しい先生ですから、音楽村の「村長」の仕事は、スケジュール調整が心配です。
来年 NPO設立の主旨をもう一度説明しオフィシャルに就任依頼をします。


先生は「風紋」などの作曲で吹奏楽の権威ですが、私にとっては「人生の師」です。

                                                    

就職した音楽系の会社、かみさんとの社内結婚、子供たちの音楽への道、
「音楽村」の構想などすべてが保科先生に繋がっているからです。

画像は CD 「風紋」保科洋作品集
    大学の演奏会のチラシ
    40年前の保科先生の写真(後は今は亡きM先輩 合掌)



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恩師 保科洋先生の40年前の写真

2007年06月19日 | 作曲家 保科洋
遅くなりましたが転勤の挨拶状を出しました。

これをお読みいただいた方から、多くの電話やメール、ブログのメッセージが有りました。懐かしい声を一杯聞かせていただきました。来年定年退職だとお話すると「もうそんな年になったか」とみなさんに言われました。

そんな中でオーケストラの仲間からも連絡がありました。一挙に学生気分です。
恩師である保科先生のことにも話がおよびます。

 昨年浜松で音楽の指導者相手のゼミに先生が実際のアンサンブルを使って、指揮法を教えられました。

 その話をして電話で盛り上がりました。次の日 70歳でゴルフで78のスコア(一緒にまわって唖然としました。先生には口止めされましたが)を話すと皆 絶句です。

 実は冒頭の写真は、40年前の保科先生です。

先生に断り無しにこんな写真を出して叱られるかも知れませんが、全国のオケ仲間のために私のブログの特典と思ってください。(なんと若い!!)

 合宿のときのリラックスした先生です。頭のタオルが可愛いものです。
「風紋」などは、この写真のずっと後の作品です。

 保科先生には、私の夢である「音楽村」の村長をお願いしています。
先生のパーソナリティーがあればこその構想です。

 対比のために最近の先生です。
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保科洋先生  第3章 驚きの日曜日編

2006年11月29日 | 作曲家 保科洋
日曜日は、先生の楽しみにしていた芝刈り(ゴルフ)の日です。

ホテルに迎えに行くと、もう準備万端で迎えに行く前に先生が先に出てきました。
浜松から近い葛城ゴルフクラブの山名コースです。

午後雨の予報でしたが、「晴れ男」の異名を取る先生のお蔭で何とか持ちました。

日曜日 私の知らない「ゴルフの神が宿った」保科先生を見たのです。
そのスコアは公表しませんが、アマチュアでは考えられないものです。まして70歳のシニアでは。これなら74~75歳でエイジシュートが狙えると他のパートナーとうなづきあいました。カートはほとんど使わず大半を軽やかに歩いていました。
ピンに絡むスーパーショットの根拠は、音楽家の「右脳」の感性かと思いましたが、そうではなく、ヤード表示と歩測実行の合理的なものでした。
(このラウンドのことは大げさに言わないでと釘をさされました)

 この2日間の間、2年ぶりに先生と良く話しました。
指揮のこと、昔の仲間のこと、人生・健康のこと、今後のことと話は尽きません。

 私の退職後のNPOの「音楽村」の構想とその進捗をお話し、村長就任のお願いをしました。内容が固まってない構想ですが、私を気遣って先生は了承下さいました。2年後スタートですが、準備はたくさんあります。

 かつて自分が経験した、生演奏の感動を多くの人に経験してもらうこと、音楽を志す 交響楽団やバンドの人達の合宿所の提供、シニアによる炊事のボランティア、お返しの演奏会等 夢一杯です。この村を中心に広域で保科先生が「村長」をやってもらえれば最高です。先生への尊敬はネットワークとして大きく広がるのです。

 NPOは他に「魔女の宅急便」「スーパーマン制度」「地域通貨発行」など考えています。
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保科洋先生のセミナー 第2章 浜松の夜

2006年11月28日 | 作曲家 保科洋
セミナーのあと保科先生と食事に行きました。

先生がうなぎが大好きだと言うことで浜松市内の昔からある店「新角」に行きました。
土曜日の夕方でしたが、ちょうどすいている時間でした。駅からタクシーで10分くらいの隠れ家的な店で、会社・個人ともに使っています。オーダーして、少し時間がかかりましたが、そのためかうなぎがすごく、おいしく感じました。全体が柔らかくジューシーなのです。先生も満足でした。うなぎの浜松ですが、好みが異なる為、みんなの満足する店は少ないのです。

その後自宅に寄っていただきました。
ちょうど宮崎の甕雫(かめしずく)というもらい物の焼酎がありました。飲みすぎないようお湯割にしていただきましたが、小さな甕に入った薫り高い一品でおいしい焼酎です。

先生にあるDVDを観てもらいました。娘が昨年(高校時代)まで、御世話になった市民オケの定演のDVDです。アマチュアの若い指揮者の指揮振りとオケを講評してもらうためでした。先生が、演奏会の記録を観るのは好きだと言われほっとしました。
少しボリュームを上げ、聴いてもらいました。トゥーランドットをアレンジしたものです。振りすぎ、無駄な動きは指摘されましたが、その講評の言葉はあたたかいものでした

40年間 指揮者はいつでもあたたかく、ありがたいものでした。

(翌日の驚きの保科先生編に続く)
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保科洋 先生の公開セミナー

2006年11月27日 | 作曲家 保科洋
 11月25日午後保科洋先生の指揮法のセミナーが浜松アクトで開催されました。70名前後の吹奏楽・オーケストラの指導者達が熱心に聴いていました。指揮について私は素人ですが、わかりやすい講義でした。

今回 6名の受講者代表に、棒を振ってもらって講評する方法です。ステージ側にもカメラを置き前から見た指揮をつぶさに捕らえています。その画像をプロジェクターで拡大して、受講者全員が確認できるのです。

課題曲はクラシック中心で、譜面も配布され目と耳で記憶できました。バックに管楽器とピアノの浜松在住のプロのプレイヤーを配し,レベルの高い演奏で、先生の意図をすばやく受け止め、なおかつ自分達の歌い方ができる演奏家達で素晴らしい演奏でもありました。

先生は昨年の手術の後遺症で声が出にくくなっていました。
最初痛々しく感じましたが慣れてくるとよく聞こえました。
驚いたのは4時間のセミナーの間中、ずっと立ち通しで小走りにステージの移動される姿はとても70歳には思えませんでした。
(もっと驚いたことがありますが、後日の続編にてお知らせします)

大学のオーケストラの指揮で初めてその指導を受けてから、もう40年になります。昔、できの悪い楽団員に歌いながらその意図を伝えていただいたことが思い出されました。

セミナーの最後に言われた言葉が、印象的でした。
「指揮とは、どう振るかではなく、いかに振らないかである」と。
図形を繰り返す指揮は、プレーヤーの自発性と緊張感を阻害するとの先生の想いを私は受け止めました。

(当日夜編、驚きの翌日編に続く)
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保科洋先生の公開セミナー(浜松)

2006年11月20日 | 作曲家 保科洋
11月25日 保科洋先生が浜松に来られます。

指導者対象のアンサンブルをモデルにした指揮法のセミナーの為です。このセミナーを主催する音楽院から連絡をもらいました。

 早速 ご自宅に電話をして、食事を一緒したい旨お話をしました。セミナーの夜 久しぶりにお会いします。2年ぶりです。先生のお好きな浜松のうなぎを一緒に食べたいと思います。翌日は先生の大好きな「芝刈り」で楽しみます。

 公人の先生ですから、周知の事実ですが昨年 手術をされました。今はすっかり元気ですが、声がその影響でかすれています。

 このセミナーは11月25日13時から浜松のアクトの交流センターで開催です。先生の指揮と人柄に触れてみてほしいのです。(無料 高校生以上)

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私の音楽・人生の師「保科洋」

2006年11月04日 | 作曲家 保科洋
作曲家でもあり指揮者でもある保科洋先生が私の「人生の案内人」です。大学の入学式のオリエンテーションで生演奏を聴き迷わず大学のオーケストラに入りました。それまでは親父の好きな三波春夫と祖父の浪曲が音楽でした。でも何かが私を衝き動かしたのです。そしてコントラバスを始めました。

そのとき指揮者だったのが保科先生です。およそ40年前です。音楽の何たるかは未だに良くわかりませんが、私にとって先生は「羅針盤」だったのです。先生は当時30歳前後だったのでしょうが、他の人とまったく別次元の人でした。怒る代わりに戸惑ったような、困ったような、寂しそうな表情が当時の先生の感情表現でした。しかしうれしいときには、顔中で笑い周りもそれに吊られて明るくなるそんなことが今でも思い出されます。大学の汚い合宿所(馬場の隣の旧兵舎跡?)で一緒に過ごしました。自分が健忘症かボケに入っているので、経験か伝聞か定かではありませんが、五右衛門風呂を洗いその中で大量のおでんを作り食べたこと(今になって言えますが昔人にはとても言えませんでした)が良き思い出です。

保科先生が最近私の住む浜松にも、財団の依頼で指導者育成やクリニックに来られます。娘の音大進学の件で相談に乗っていただくとき我が家においでいただきました。トランペットで進学したい三女やジュニアオケでチェロを弾いている四女がカミさんの横でうなずきながら聞いていたのが2年前です。親子二代に亘り先生にお世話になるなんて幸せです。今でも大学で指揮してもらっていて、教え子の数はすごいでしょう。こんなに長期間指揮者を続けているケースは他にはないでしょう。

就職するとき、音楽が頭から離れず、浜松の今の会社に入りましたが、部門は希望と異なり仕事で音楽に携わったことはありません。社内でカミさんと知り合い結婚しました。そして4人の娘を授かりました。音楽が好きで、楽器会社に入社し、子供の中に音楽を志す娘がでてきたこと、その源は保科先生の人柄と音楽観です。
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