読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「サイードとともに読む『異邦人』」

2009年11月05日 | 作家マ行
水林章「サイードとともに読む『異邦人』」(『みすず』2005年6月)

この中で水林章さんも自戒の念をこめた風に回想しているが、私もカミュの作品を卒業論文で取り上げたけれども、実存主義や構造主義の嵐のふきあれる時代に、とてもサイードのように、被支配者の側から植民地問題を見る視点でもって、カミュの作品を批判的に読むということはできなかった。

当時、といっても私の場合は水林さんとよりもちょっと遅くて、1970年代の中ごろになるが、そういうちょっと遅れて来た時代においてさえも、まだカミュを読むということは、ムルソーの無関心という態度を現代の文明化社会、あるいは構造的疲労をきたしていた社会にたいする批判のありようの一つとして、意味を認めていたのだろうと思う。だから、カミュの『異邦人』や『ペスト』などの作品がアルジェリアの乾いた風土にその舞台を置いているということも、それはムルソーのような無関心を生み出す風土として位置づけるだけで、そこに住む人々にとっては支配者の言説でしかないということには、まったく意識が向かなかった。

だいたいカミュはその文章のいたるところで(特に初期やアルジェリア独立戦争が問題になった頃)、自分はフランス人と言っても、ピエノワールといわれるような(カミュ自身はピエノワールという言葉は使っていないが)、現地のアルジェリア人とまったく変わらないくらいの貧しい生活をしてきたということを繰り返し述べていたので、私などは、カミュが被支配者にたいする共感をもっていることをいささかも疑わなかったのだが、それはけっしてカミュが支配者の世界に生きることを否定するものではなかったのだろう。大学を卒業して数年たつまでアルジェリアに暮らしながら、まったくアラビア語を理解しないという事態に疑問を抱かなかったというのは、ほんとうに単に時代の思想状況の影響だけで逃げることのできないものかもしれない。

それにしても、私の妻の母親は中国のチンタオ(青島)で20歳まですごし、終戦直前に日本に帰ってきた引き上げ組なのだが、中国に20年も暮らしていながら、まったく中国語がしゃべれないという事態に、いささか不思議な思いをしたことがあるが、それがいったいどういう意味をもっているのか結婚したての頃は分からなかった。しかし今となっては、それが支配者の人間として、けっして現地の中国人と接していたわけでもないにも関わらず、中国語は被支配者の言語として、習得する必要性をまったく認めなかったのだということが分かっている。これが植民地支配者ということなのだろう。

水林さんの書くものは読むたびに知的興奮をかきたてられる。たいしたものだ。


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