松家仁之『泡』(集英社、2021年)
進学校に通う高校生の薫が、勉強の意味を見失い、友達関係も、教師との関係も、上手く行かなくて(というか関係を作れなくて)、休学してしまう。それを見かねた父親の口利きで、和歌山県の白浜と思しき海辺の町の砂里浜でジャズ喫茶を営む、叔父にあたる兼定のもとに、8月までという約束で、面倒を見てもらうことになった。そこでひと夏を過ごした経験。決して甘い恋愛があるのでもないし、漱石の『こころ』みたいに、衝撃的な出来事があるのでもない小説だが、惹きつけられた。
最初は、薫が休学するにいたった高校生活の話や、大叔父にあたる兼定が復員してからの家族との人間関係の話などで、面白くなかった。視点がずっと薫に置かれて書かれているとばかり思っていたのに、大叔父の話になると大叔父の兼定に視点が移動している。
祖父といってもいいくらいの年齢の人の様子を高校生の薫の視点から描くほうが一貫性があってよかったんではないのかと、訝しく思いながら読んでいた。
だから、最初の半分くらいは視点の移動が気に入らなくて、なんだか面白くない小説だなーと、ちょっと読んでは閉じ、ちょっと読んでは閉じして、なかなかページが進まない。
ところが半分くらいしてからか、薫たちが兼定のジャズ喫茶の営業終わりに、そこで働く岡田と岡田の彼女のマサコ、そしてマサコの知り合いでパン屋で働くカオル(夏織)と薫の四人で浜辺に花火をしに行ったあたりから、なぜかしら面白くなってきた。あとから思い返してみても、理由がよくわからない。
毎日パンを買いにカオルのいるパン屋に出かけるようになって、薫は淡い恋心をカオルに抱くようになるが、じつは、岡田とカオルのあいだに恋愛感情があり、マサコが東京の友人のアタックでいなくなると、二人の関係ができあがる。ちょうどその頃、8月が終わって薫も東京に戻ることになる。
人間関係に緊張してしまう薫がこれからどうなるのかを予想させることは何も書かれていないが、なんだか良さげな終わり方をしている。
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進学校に通う高校生の薫が、勉強の意味を見失い、友達関係も、教師との関係も、上手く行かなくて(というか関係を作れなくて)、休学してしまう。それを見かねた父親の口利きで、和歌山県の白浜と思しき海辺の町の砂里浜でジャズ喫茶を営む、叔父にあたる兼定のもとに、8月までという約束で、面倒を見てもらうことになった。そこでひと夏を過ごした経験。決して甘い恋愛があるのでもないし、漱石の『こころ』みたいに、衝撃的な出来事があるのでもない小説だが、惹きつけられた。
最初は、薫が休学するにいたった高校生活の話や、大叔父にあたる兼定が復員してからの家族との人間関係の話などで、面白くなかった。視点がずっと薫に置かれて書かれているとばかり思っていたのに、大叔父の話になると大叔父の兼定に視点が移動している。
祖父といってもいいくらいの年齢の人の様子を高校生の薫の視点から描くほうが一貫性があってよかったんではないのかと、訝しく思いながら読んでいた。
だから、最初の半分くらいは視点の移動が気に入らなくて、なんだか面白くない小説だなーと、ちょっと読んでは閉じ、ちょっと読んでは閉じして、なかなかページが進まない。
ところが半分くらいしてからか、薫たちが兼定のジャズ喫茶の営業終わりに、そこで働く岡田と岡田の彼女のマサコ、そしてマサコの知り合いでパン屋で働くカオル(夏織)と薫の四人で浜辺に花火をしに行ったあたりから、なぜかしら面白くなってきた。あとから思い返してみても、理由がよくわからない。
毎日パンを買いにカオルのいるパン屋に出かけるようになって、薫は淡い恋心をカオルに抱くようになるが、じつは、岡田とカオルのあいだに恋愛感情があり、マサコが東京の友人のアタックでいなくなると、二人の関係ができあがる。ちょうどその頃、8月が終わって薫も東京に戻ることになる。
人間関係に緊張してしまう薫がこれからどうなるのかを予想させることは何も書かれていないが、なんだか良さげな終わり方をしている。
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