読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「超」文章法

2006年07月30日 | 人文科学系
野口悠紀雄『「超」文章法』(中公新書、2002年)

文章を書くときにすぐ使えるマニュアルとしての文章作法論である。ここでの文章というのは、論文、解説文、報告文、企画書、評論、批評、エッセイ、紀行文などを指しており、いわゆるフィクションなどの文学作品ではないが、大きな意味ではそういうものにも通じる普遍的な文章作法となっている。

いわゆる日本語に固有の文章の作り方―主語述語の明確化、修飾関係の明確化など―についてもこの本では第5章で触れられていて、これについては私はだいぶ前に本多勝一の「日本語の作文技術」に感心したことを思い出す。だが、この本は、そうした作文技術以前の、メッセージを明確にすることが重要だということ、内容面の骨組みつくり、形式面の構成つくりというような、それ以前の発想の問題にまで論じているところに、私は感心した。以前『「超」整理法』を読んで感心したことを思い出すが、どちらの場合にも自分の経験をきちんと整理して、吟味しなおし、それを先人の文章読本などで補強するという、まさに筆者がこの本で主張していることを実践しているのが面白い。

昔から正しいことを書いていれば入れ物はどうでもいいのだ的な考え方が、大学の教員の書く論文にはある。本当に、高校生並みのものを書いて論文と称しているのを読んでびっくり仰天した経験がある。優れた読書感想文などにあるような、感想を書くことに対する情熱というようなものが、こうした論文には見られない分、もっと価値の低いものだと思う。かと思いきや、筆者の主観的な情熱・思いのたけのようなものだけが延々と書かれた「論文」なるものさえある。理系の場合は事情が違うだろうが、文系の、しかも文学系の論文には、本当にひどいものがある。そういうものを紀要などに毎回連載のようにして掲載して、業績と称している専任教員もいるのだから、文系の論文など価値がないと理系から言われても仕方がないだろう。そういうのがボス的な位置にいたりするともうチェック機能も働かない。研究もいい加減、教育もいい加減、もういい加減、退職したらどうだと言いたくなる。

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