読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「金毘羅」

2006年07月10日 | 作家サ行
笙野頼子『金毘羅』(集英社、2004年)

あまりに面白くなくて、最後まで読みとおせなかった。この人、自分の顔にものすごいコンプレックスをもっているみたいで、これが初めて読む小説なのだけど、文章の端々にこのコンプレックスからくる人間社会への鬱屈した感情がにじみ出ている。そんなにぶさいくなのかと思って、インターネットで画像検索をしたら出てきた。まぁたしかに美人じゃないけど、それほどコンプレックスを持つというほどのぶさいくでもないじゃないと思う。ぶさいくといえば、田辺聖子とか林真理子のほうがすごいんじゃないかなー。だけで彼女たちの作品にはそんな屈折したところは(もちろんあれこれもってはいるのだろうけど)微塵も見られない。まぁこういうのは主観の問題だし、笙野頼子がこれまで若いときから経験してきたことの結果として、こういう屈折した感情をもつようになったのだろうから、私がどうこういう問題ではないだろうけど、小説のなかにこういうものをもちこんで、なんか小説世界を作ろうというのが、納得できない。この小説の話が訳が分からないというよりも、自分というものがその外見をはじめとして社会から受け入れられていないということへの苛立ち、あきらめ、屈折、そういったものだけで書かれたような小説なので、五分の一くらい読んで、もうこれ以上耐え切れないと思って、やめてしまった。

私の読書の趣味は食べ物と一緒で、意外と偏食というものがない。好き嫌いがない。ただ、これまで私に濫読を躊躇させてきたのは、たんに自腹を切って買ったはいいけど、それで面白くなかったらどうしよう、銭がもったいないという発想だった。だから、気に入った作家が見つかるとその作家のものを一通り読むけれど、新しい作家を開拓するのに臆病だった。ところが図書館という便利なものを見つけてからというもの、面白くなければ途中でやめて返却すればいいだけのことだということが分かって、濫読に走るようになった。すごく気分的に楽に新しい作家に挑戦できる。図書館を発見してからのこの半年間は日本の現代文学に開眼したといってもいいくらいにあれこれ読んでいる。これまでは考えられなかったくらいに、いろんな世界を吸収している。なにを食べてもおいしい。以前の私だったら、角田光代を最後まで読みとおすなんてありえなかっただろう。それがいまやすでに三作も読んでしまった。

だけどこの小説だけは食べる気がしない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする