奥本大三郎『博物学の巨人アンリ・ファーブル』(集英社新書、1999年)
ファーブルの『昆虫記』を知らない人はいないだろうけど、これをきちんと読みとおした人となると、そうはいないだろう。私も名前だけで、あとフンコロガシの話くらいしか知らない。ファーブルという人は、小学校の先生をしながら、今で言うオタク系の人で、趣味が昂じて『昆虫記』を書くまでになった人かと思っていたけど、ぜんぜんそうではないのですね。貧しい村の貧しい家族に生まれ、一家は離散状態になりながらも、アンリはものすごくよく出来たので、王立学校に通い奨学金をもらって師範学校を出て、小学校の教師になったが、教師をしながら勉強を続け、大学入学資格を取って、物理学や博物学の学位を取って、リセの教員になった。そのあいだにも昆虫の研究をして、論文が認められたり、文部大臣からその優秀さと自由な生き方を認められ、また出版者からもその文才を認められて、啓蒙書などを100冊近くも書いたという。その集大成が『昆虫記』10巻というわけで、50数歳のときにかなり広い土地つきの屋敷を買って、晩年を満ち足りた状態で過ごしたというから、ある意味、フランスの成功物語の一つと言っていいのでしょうね。貧しい生活をしながら、昆虫研究に命をかけたとばかり思っていたので、意外でした。だからといって別に軽蔑するようなたぐいのものではないです。貧しいから、いろんな工夫をする、そういうところに彼の真骨頂があるのでしょう。
私の家もそれほど裕福ではありませんでしたね。前にも書いたけど、祖父母が広島から帰ってきて、山陰地方の山間部に住むようになったのだけど、田舎なのに田畑をもっていなかったので、その村の地主さんから畑を借りて自給用の野菜は作っていましたが、田圃はありませんから、食べていくことができません。それで祖父は手先が器用だったようなので、大工仕事をして日銭を稼いでいたようです。その家そのものはもとは桶屋だったようで、この村に唯一のよろずやにお菓子を買いに行くとそこの家族(目の見えないおばあさんから、私と同世代の娘たち―ここは娘ばかりで男の子がいなかった)から「桶屋のヨッチャんが来た」と言われたものです。私の父は最初はサラリーマンをしていたようですが、それでは家族を養えないと思ったらしく、会社を起して、畳屋をはじめ、それをじょじょに大きくしていって畳やインテリアの会社にしていました。もちろんそれは私が高校生くらいになってからの頃で、小学生の頃は会社がまだ軌道にのっていなくて、けっこう貧しかったと思いますが、ありあわせのもので望遠鏡を作ってみたり、家の周りにある竹などの素材を使って、ソリや木の実鉄砲などの遊び道具を作っていたものです。裕福になってなんでも金を出せば買えるというのはやはり人間の成長にとってはもう一つかもしれませんね。
ファーブルの『昆虫記』を知らない人はいないだろうけど、これをきちんと読みとおした人となると、そうはいないだろう。私も名前だけで、あとフンコロガシの話くらいしか知らない。ファーブルという人は、小学校の先生をしながら、今で言うオタク系の人で、趣味が昂じて『昆虫記』を書くまでになった人かと思っていたけど、ぜんぜんそうではないのですね。貧しい村の貧しい家族に生まれ、一家は離散状態になりながらも、アンリはものすごくよく出来たので、王立学校に通い奨学金をもらって師範学校を出て、小学校の教師になったが、教師をしながら勉強を続け、大学入学資格を取って、物理学や博物学の学位を取って、リセの教員になった。そのあいだにも昆虫の研究をして、論文が認められたり、文部大臣からその優秀さと自由な生き方を認められ、また出版者からもその文才を認められて、啓蒙書などを100冊近くも書いたという。その集大成が『昆虫記』10巻というわけで、50数歳のときにかなり広い土地つきの屋敷を買って、晩年を満ち足りた状態で過ごしたというから、ある意味、フランスの成功物語の一つと言っていいのでしょうね。貧しい生活をしながら、昆虫研究に命をかけたとばかり思っていたので、意外でした。だからといって別に軽蔑するようなたぐいのものではないです。貧しいから、いろんな工夫をする、そういうところに彼の真骨頂があるのでしょう。
私の家もそれほど裕福ではありませんでしたね。前にも書いたけど、祖父母が広島から帰ってきて、山陰地方の山間部に住むようになったのだけど、田舎なのに田畑をもっていなかったので、その村の地主さんから畑を借りて自給用の野菜は作っていましたが、田圃はありませんから、食べていくことができません。それで祖父は手先が器用だったようなので、大工仕事をして日銭を稼いでいたようです。その家そのものはもとは桶屋だったようで、この村に唯一のよろずやにお菓子を買いに行くとそこの家族(目の見えないおばあさんから、私と同世代の娘たち―ここは娘ばかりで男の子がいなかった)から「桶屋のヨッチャんが来た」と言われたものです。私の父は最初はサラリーマンをしていたようですが、それでは家族を養えないと思ったらしく、会社を起して、畳屋をはじめ、それをじょじょに大きくしていって畳やインテリアの会社にしていました。もちろんそれは私が高校生くらいになってからの頃で、小学生の頃は会社がまだ軌道にのっていなくて、けっこう貧しかったと思いますが、ありあわせのもので望遠鏡を作ってみたり、家の周りにある竹などの素材を使って、ソリや木の実鉄砲などの遊び道具を作っていたものです。裕福になってなんでも金を出せば買えるというのはやはり人間の成長にとってはもう一つかもしれませんね。