読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「査問」

2006年07月24日 | 評論
川上徹『査問』(筑摩書房、1997年)

1940年生まれで、60年に東京大学に入学すると同時に共産党に入党し、64年に全学連を再建し、その委員長になり、その後民青同盟の中央常任委員をしていた72年に「新日和見主義」事件に連座して、一年間の党員権利剥奪の後、91年に共産党を離党したというのが、この作者の略歴で、この「新日和見主義」事件において作者が党中央から受けた査問を詳しく描写し、その後の自身の生き方を含め、それがこの事件に連座して査問を受けた人たちにどのような人生行路を与えたのかを描いている。

60年に入党したときから、三井三池炭坑での闘いもセツルメントとして垣間見た「私」は社会正義への純粋な気持ちから、共産党の専従として一生をかける決意をし、60年代後半から70年代の倍倍ゲームと言われるほど共産党が躍進した時期に、共産党の指導を受けると規約に明記する団体であった民青同盟の幹部として充実した日々を送っていたが、70年代初頭に、全員が党員でもある民青同盟の中央委員会に共産党の指導が上位下達式に下りていかないことに危機感を抱いた宮本・不破によって民青同盟に巣くう反動分子を摘発すべく大規模な査問が行なわれた。「私」以下、民青同盟の中央委員のほとんどが代々木に呼び出されて1週間あるいは2週間、場合によっては3週間もの拘束状態の中で、だれとどこでどんなことを話したという調査が徹底して行なわれ、最後には自己批判書を書かされて、そのあとも民青同盟の会議室で学習のやり直しをさせられたり、この「事件」の首謀者たちは長期の自宅監禁状態に置かれた。まさに国家権力並みの拷問にちかいことが行なわれた。まさに日共版「収容所群島」である。だが、この事件ではすべての党員が自己批判書を書くことで「決着」がついた。そもそもだれも自分たちが分派活動をしているとは思っていかなかったからだろう。だが、なかには気骨者もいて、ぜったいに自己批判書も書かない、なにひとつ査問に答えないと、黙秘を貫いていたら、その党員はどうなっていたのだろう。ずっと解放されないままだったのだろうか。恐ろしいことである。

大学を卒業後もいわゆる専従の道を選んできた彼らの多くは、いまさら党の外に放り出されても仕事を見つけることはできず、それぞれが大学に入りなおしたり、弁護士・司法書士をめざしたり、肉体労働についたりと、独自の道を進みつつも、共産党を辞めるものはほとんどいなかったが、それは彼らが反党分派活動をしたという意識がまったくなかったからである。党中央は「分派活動の芽を双葉のうちに摘み取った」と成果を公表していたとのことだが、実際にそんなものがあったのかどうか疑わしい。

これを読んで私が残念に思うのは、この著書を読んでも、この事件を契機に共産党のなにが変わったのかがまったく分からないことである。たしかに著者はこの事件以降共産党は相変わらず組織拡大をしていったが、官僚主義のシステムが完成しつつあったと書いてはいる。だが、その後の共産党の凋落にこの事件がどう関わっているのか関わっていないのか、この事件は共産党の本質を表すものなのかいなか、というような一般の読者が知りたいと思うようなことについて、何ひとつ触れられていないのだ。

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