読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「アカシア香る」

2006年07月25日 | 作家ハ行
藤堂志津子『アカシア香る』(新潮社、2001年)

40歳台になると、それまでがむしゃらにやって来たのに、突然自分がなにをしたいのか、してきたのかわけが分からなくなって惰性のように日々を過ごしてしまうようになるときがある。私は数年前からそういう状態に陥っていて、けっしてうつ病とかそういうのではないが、それまでのエネルギーが嘘だったように、なにもする気がしない、まとまった仕事をイメージできないという状態が続いている。自分ながら「抜け殻」のようになっているのが分かる。

そういう状態になるのはいろいろな契機があるのだろうが、数年にわたる母親の看病と死の後に、そういう状態に陥ってしまった45歳の未婚女性を描いたのがこの小説である。この小説の主人公の加治美波の場合は、母親の看病をはじめる前に東京でそれなりの恋愛経験もあり、会社でのブレーンとしての仕事もあったのだが、それをすてて札幌の母親のところに帰ってきたのだった。そして母親の死後ぼんやりとしていたところを、K高校で同期だった桐山の紹介でK高校の同窓会館の管理人を住み込みですることになったというところから物語が始まる。

仕事の単調さ・肉体労働的な性格が、ぼんやりしている状態の美波にはちょうどよかったことや、同期生たちがたまに話に来たり、かつての会社の社長で、一度は不倫関係にあった墨岡との関係の回想とか、同期生の集まりでたまたまであった音村とのあらたな関係になったりすることが描かれる。小説そのものとしては文章も読みやすいし、人物の造形にも破綻がなく、まぁまぁの読み物だと思う。

親の介護というのは、本当に厄介な問題だと思う。多くの場合は、ちょうど介護する側が働き盛り、会社などでも重要な役割をになっているということがあって、介護のために頻繁に休んだり、ましてや休職するなどもってのほかというような状態にあることが多いだろう。つまり、介護をとるか仕事をとるかの二者択一しかない。そういうところが日本社会のおくれを象徴していると思うのだが、明日からでもどちらかを選ばなければならないというようなところに追い詰められた人にとっては、そんなことは言っていられない。私の場合、父親は大学生の頃に亡くなっている。母親が一人暮らしをしているのだが(近くに弟の家族が住んでいる)、去年の春から腰を痛め、それまで働いていたパートの仕事を辞め、この春には今度は膝の関節を痛めて、正座ができなくなったらしい。だんだんと身動きできなくなって寝たきりのようになるのではないかと不安でしかたがないの。今のうちにこちらと同居するようにしたほうがいいのだろうか、だが母親にも田舎でいろいろ付き合いがあるから、こちらに来たらまったくそういう付き合いもなくなってしまうと、ボケてしまうのではないか、などなどいろいろな思いが錯綜して、考えがまとまらなくなる。いますぐ結論を出さなくてもいいだけに、あれこれ考えるだけで、なにも進まない。ほんとにいやだいやだ。

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