読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

中沢×太田対談

2006年06月26日 | 日々の雑感
中沢新一×太田光「宮沢賢治と日本国憲法」(「すばる」7月号)

たまたま図書館で手にした雑誌にこの二人の名前を見たので、なんだろうと思って、ぱらぱらと立ち読みし始めたのだけど、面白くなって、本格的に椅子に座って最後まで読み通したけど、それはそれでがっかりでした。

彼らの問題意識はおもしろい。冒頭で、中沢新一は「いったいなにが怖いのか、みんな自分の考えていることを、思い切ってしゃべらなくなっているような気がします。そういう時代に、太田さんのように、まだことばを使って表現をおこなうことで、世界を変えていくことができるかもしれないと考えて、それを大胆に実行している人は、ほんとうにめずらしいと思うんだ」と言い、「太田さんがいま考えていることと自分が考えてきたことが、あまりによく似ていることに、正直驚きを隠せません」と対談に太田を呼んだ意義を提示すると、太田は、中沢を「知の巨人」とちょっとよいしょしながらも、いつもの明確なものいいにもどって、憲法九条が改正されるという流れの中で、いま自分の主張をはっきり提示しておかねば、「あの時、あなたたちは何をしていたのか」と言われかねないし、現在の日本がイラクの人質事件のときにあっという間に人質バッシングに多くの国民が流れたのは「かなり怖い状況になっている」という危機感を表明する。

そこでこの対談のテーマである宮沢賢治の問題に話が移るのだが、宮沢賢治の作品が読者に与える方向性と、彼が実生活において国家神道によって国を糾合し、天皇を中心とした日本の国体という考えで戦前の日本人の進む道を提示した田中智学への思想的傾倒をどのように理解したらいいかというが太田の提示するこの対談の中心論点になるはずだったのだが、中沢新一はそれにたいしてあれこれ当時の思想的背景を説明したりするばかりで、太田が、宮沢賢治のこうした側面を「一時の気の迷い」として片付けずに、きちんと解明しなければ、「賢治のあの感受性を信頼に足るものだとして肯定できない」となんども突っ込んでいるのに、話はぜんぜんそれを解明する方向には進まないで、そうした解明が必要だねという確認で終わってしまう。なんとも後味の悪い対談だった。

ただ、太田というのは、なかなか面白いことを考えているんだなということが分かったことが、収穫といえば収穫かな。

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