読売新聞(22.8.24)の「編集手帳」に森重久弥さんのことが掲載されていた。
森繁久弥さんが英国を旅したときという。ロンドン市内の公園で一服していると、隣にいた老婦人から「下を向きなさい」と命じられた。わけが分からぬまま、従う◆ほどなくして、老婦人は「目を上げてよろしい」と告げた。いぶかしむ森繁さんに理由を語っていわく、「ローレンス・オリビエという俳優がいま、目の前を通りました」。彼はプライベートの時間で、彼女を連れていました。見ずに知らん顔をするのが礼儀というものです、と(以上)
礼儀の反対語は無礼だが、行為の上から言えば「自分勝手」だろう。その自分勝手を押さえてくれるのが礼儀作法でもある。現代は礼儀作法よりも自分勝手の方が優先される社会でもあります。
お寺でのご法事で、控室を使っていただく。当寺は、セリフサービスなのでポットと茶碗、お茶セット、座布団一式(固め置き)を提供し、読経後にゆっくりしていただく。
時間を経て散会となる。散会となった控室の状態は、人によって様々です。半分以上の人は、湯茶セット、座布団などをまとめて、最初にあったように整理して帰られる。
でも中には、料理店でも行ったように、散らかしたまま帰えられる人もある。私の反応としては、無礼というよりも、礼儀作法に接したことがないのだと、半分、気の毒に思う。
通夜に出勤したおり、僧侶の控室と一般の弔問客の接待場所が同じ場合がある。料理店の接客女子は、こまめに料理をならべている。そのとき、座布団をおかまえなしに踏んづけて歩いている。そんな時も、座布団は踏んづけて歩かないという礼儀作法に接したことがないのだろうと思う。たまーに、料理店の上司がいた場合は、礼儀作法を教えることもある。
こうした礼儀作法が身についている料理店へ行くと、“お見事”と心の中で喝采し、声をかけることもある。
小中学校の授業で「礼儀作法」というコマがあってもいいと思う。いま僧侶の礼儀作法について視野にいれてまとめつつある。
森繁久弥さんが英国を旅したときという。ロンドン市内の公園で一服していると、隣にいた老婦人から「下を向きなさい」と命じられた。わけが分からぬまま、従う◆ほどなくして、老婦人は「目を上げてよろしい」と告げた。いぶかしむ森繁さんに理由を語っていわく、「ローレンス・オリビエという俳優がいま、目の前を通りました」。彼はプライベートの時間で、彼女を連れていました。見ずに知らん顔をするのが礼儀というものです、と(以上)
礼儀の反対語は無礼だが、行為の上から言えば「自分勝手」だろう。その自分勝手を押さえてくれるのが礼儀作法でもある。現代は礼儀作法よりも自分勝手の方が優先される社会でもあります。
お寺でのご法事で、控室を使っていただく。当寺は、セリフサービスなのでポットと茶碗、お茶セット、座布団一式(固め置き)を提供し、読経後にゆっくりしていただく。
時間を経て散会となる。散会となった控室の状態は、人によって様々です。半分以上の人は、湯茶セット、座布団などをまとめて、最初にあったように整理して帰られる。
でも中には、料理店でも行ったように、散らかしたまま帰えられる人もある。私の反応としては、無礼というよりも、礼儀作法に接したことがないのだと、半分、気の毒に思う。
通夜に出勤したおり、僧侶の控室と一般の弔問客の接待場所が同じ場合がある。料理店の接客女子は、こまめに料理をならべている。そのとき、座布団をおかまえなしに踏んづけて歩いている。そんな時も、座布団は踏んづけて歩かないという礼儀作法に接したことがないのだろうと思う。たまーに、料理店の上司がいた場合は、礼儀作法を教えることもある。
こうした礼儀作法が身についている料理店へ行くと、“お見事”と心の中で喝采し、声をかけることもある。
小中学校の授業で「礼儀作法」というコマがあってもいいと思う。いま僧侶の礼儀作法について視野にいれてまとめつつある。