自己責任と不可抗力。それは自力と他力と言ってもよさそうです。もちろん即、他力本願などと使う真宗的な意味合いではない。
ふと思い出したことがある。学生時代、龍谷大学主催の講演会でのことでした。ゲストは戦後、初めて千日回峰行を万行した葉上照澄師と当時行信教校(僧侶の私塾)の校長であった利井興弘師で講演のあとの対談でのことだったと記憶しています。
葉上師は、回峰行での体験をもとに、仏教は他力であると言われます。龍谷大学は浄土真宗の牙城なので気を使ってのことだったかもしれません。そしてそれを受けて利井師は、「浄土真宗は他力ではなりません」といわれ、「他力廻向が浄土真宗です」とのことでした。他力廻向とは自分の行為の上に、他の働きを見ていくということです。
自己責任と不可抗力。対立する考え方のようですが、不可抗力を自己責任と感じていく世界もあってよいでしょう。仏教の業の考え方は、自己責任の考え方ですが、その自己責任の内容に不可抗力のこと背負っていくことも入っているようです。
その自分の業を自分で背負っていく道が開かれることが仏道なのだと思う。
ふと思い出したことがある。学生時代、龍谷大学主催の講演会でのことでした。ゲストは戦後、初めて千日回峰行を万行した葉上照澄師と当時行信教校(僧侶の私塾)の校長であった利井興弘師で講演のあとの対談でのことだったと記憶しています。
葉上師は、回峰行での体験をもとに、仏教は他力であると言われます。龍谷大学は浄土真宗の牙城なので気を使ってのことだったかもしれません。そしてそれを受けて利井師は、「浄土真宗は他力ではなりません」といわれ、「他力廻向が浄土真宗です」とのことでした。他力廻向とは自分の行為の上に、他の働きを見ていくということです。
自己責任と不可抗力。対立する考え方のようですが、不可抗力を自己責任と感じていく世界もあってよいでしょう。仏教の業の考え方は、自己責任の考え方ですが、その自己責任の内容に不可抗力のこと背負っていくことも入っているようです。
その自分の業を自分で背負っていく道が開かれることが仏道なのだと思う。