仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

幼児置き去りの背景にあるもの

2010年08月11日 | 現代の病理
二人の幼児を置き去りにした女(母親)の事件、親という言葉を使うのもはばかれる。
産経新聞(22.8.11)のコラムに、

本来の「親」の字の成り立ちは、左側は「薪」の元の字で、木を鋭く刃物で切り裂いた状態を表している。それに「見」を加えて、まるで鋭い刃物で身を切るように、ある人をいつも身近に見ているという意味だ。つまり、その人の一挙手一投足にまで敏感なほど近い関係であることを示している。~親という字は、必ずしも親子の関係だけを表すわけではない。親しいという形容詞があるように、親友、規睦、親交、親近感のようにも使われる。また鋭い刃物で切り裂いた状態とは、二つの切り口がぴったり合うことを意味する。親切とは、親を切ると書くが、双方の気持ちが、二つに切った薪の半分と半分のように、ぴったりと合致することを示す。(以上)
 
親が子供を見殺しにする。外出して一週間後に一度、家に帰って一食だけ食事を与えたという。痛ましい事件だ。痛ましさは2面あると思う。

1つは当面の幼児の上に感じる。どんな思いでいのちを終えて逝ったのだろうか。もう1つの痛ましさは、幼児が死んでいくことを想像しながら、一時的な快楽に身を置くことのできる精神性を持ってしまったという事実に対してだ。

自己責任と言って責めることはできても、死んでいく幼児に無関心でいることのできる親の精神性は、私たちの社会が作り出してしまったことに間違いはない。無痛症という痛みを感じなくなってしまう疾患があるが、精神性における無痛という病理が浸透しているようです。

幸せのタコつぼ化が言われる。タコが自分だけの殻(つぼ)にとじこもって安穏としている状態です。自分だけの満足に閉じこもるという幸せのことです。

なぜ幸せのタコつぼ化が起きるのかといえば、物が恵まれなかった時代は、物によって心の満足を得るという幸せがありました。ところが物があふれる時代になると、物ではなく、その物に対してどのような思いを持っているかという自分の心こそ幸せの指針となります。本来、物(こと、人、心)を大切にする中に、大切にするという心が育まれていくのですが、物とは切り離された心や満足心といった思いを大切にするという意識が生れてしまうのです。そして最後に、自分の心がよければという幸せのタコつぼ化に陥っていく。
これが幸せのタコつぼ化現象の背景です。といっても仮説ですが。

だから先の幼児殺人事件は、私たちの日常生活でもっている意識とは無関係ではありません。ある意味での現代の病理の犠牲者でもあります。
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