隣寺の盆法要、法要の出仕が終わってお茶を飲んでいると、本堂から講師の法話の声が伝わってきた。吉田松陰の実家は浄土真宗でという話から、吉田松陰が、29歳で処刑される1週間前に詠んだ歌、「親思う心にまさる親心 今日のおとずれ何ときくらん」を紹介されていた。
よく耳にする歌だが、味わってみると浄土真宗の要素が強い。自分の身の上に注がれている親の視線や思いを想像することは通常、できにくいことだろう。吉田松陰は、親心というお説教を幼少時より聞いていたのかもしれない。
浄土真宗という仏道は、親ごころの中にある自分を発見することに尽きる。親ごころには2つの要素がある。親ゆえに心配でならぬ。それと親ゆえに捨てることがない。
吉田松陰が「今日のおとずれ何ときくらん」と親ごころを思った先に何があったのか。先に往くことを済まないという思いか、大きないのちの中で、また再び会うことを期待する思いか、あまりにも吉田松陰のことを知らなすぎるので、想像に実感が伴わない。
しかし吉田松陰が、死のおよんで親のことを思ったということは、思われた側の親にとっては、親心から一歩も分離するものでないという絆を強く感じたことだろう。
それは常日頃、子どもに注がれている親ごころが、吉田松陰の上に顕現したことでもあるのだから。
よく耳にする歌だが、味わってみると浄土真宗の要素が強い。自分の身の上に注がれている親の視線や思いを想像することは通常、できにくいことだろう。吉田松陰は、親心というお説教を幼少時より聞いていたのかもしれない。
浄土真宗という仏道は、親ごころの中にある自分を発見することに尽きる。親ごころには2つの要素がある。親ゆえに心配でならぬ。それと親ゆえに捨てることがない。
吉田松陰が「今日のおとずれ何ときくらん」と親ごころを思った先に何があったのか。先に往くことを済まないという思いか、大きないのちの中で、また再び会うことを期待する思いか、あまりにも吉田松陰のことを知らなすぎるので、想像に実感が伴わない。
しかし吉田松陰が、死のおよんで親のことを思ったということは、思われた側の親にとっては、親心から一歩も分離するものでないという絆を強く感じたことだろう。
それは常日頃、子どもに注がれている親ごころが、吉田松陰の上に顕現したことでもあるのだから。