仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

念仏の躍動ー盆踊り

2010年08月06日 | 浄土真宗とは?
昨夜8時、築地本願寺での声明の指導を終えて境内に出ると、ぼん踊りでにぎわっていました。賑わっていたよ言うよりも、上野の山の桜見状態で、至る所に新聞誌やシートを敷いて宴会です。ざっと見て3.000人、恐らく一夜の集客は10.000人と言ったところでしょう。

夜8時は佳境、つけ六太鼓の競技会、仮装盆踊り大会など、異風な衣装をつけた若者もいます。完全にイベントと化していました。

盆踊りを後に寺につくと神戸女子大学教授の知名定寛著『琉球仏教史の研究』が図書館から届いていました。一昨日に書いエイサーについても書かれていました。

これは沖縄の盆踊りが基底にあるので、グットタイミングです。上記の書から要約すると


似念仏という行為がエイサーの原型であり、似念仏とは元来、禅宗寺院が主催する念仏を称える踊りすなわち念仏踊りである孟蘭盆施餓鬼会で、国王も見物する王府公認の念仏踊りであった。
今日のエイサーは三線の地謡に踊りの大太鼓・締太鼓・パーランクー、それに素手の踊り手、さらには滑稽踊りのチョンダラーという構成であるが、戦前までは多くのエイサーに南無阿弥陀仏という念仏がリフレインとして唱えられていた。

とある。念仏を称えていたとあるだけで親しみがわきます。

念仏踊りの思い出したが築地本願寺にいたころ、佃島(江戸時代からの本願寺門徒)で、念仏を主とした盆踊りを見たことがある。東京都指定無形文化財で「南無阿弥陀仏」と書いた掛け軸を中心に踊る。

イベントも飲み食いだけで終わらず、新しい念仏の息吹を込めた行事になればいいのですが。

ちなみに佃島の盆踊りについてネットで検索するとhttp://www.bonodori.net/zenkoku/tsukudajima/tukudajima_rekishi_jikken.html

佃島念仏踊りと本願寺教団
これら佃島への初期移住者集団は、また本願寺教団の信徒でもあり、佃島への念仏踊りの伝達に重要な役割を果たしたと考えられています。佃島念仏踊りは、「京都本願寺の「チンバ踊り」を伝えたものという伝承がある」(「日本の民謡」)、「念仏踊りに歌われる歌も京都の本願寺のチンバ踊を移したもの」(辞典)というように、歌・踊りとも京都本願寺から移植したという言い伝えが残っています。
ちなみに、「チンバ踊り」は、すでに京都本願寺には伝承されていません。

佃島における念仏踊り開始のきっかけについては、築地本願寺の落成に関わるより直接的な伝承があります。
「佃島盆踊りについて」(佃島盆踊保存会)によると、明暦(1657)の大火(振袖火事)によって当時中央区日本橋浜町にあった西本願寺(別院)が焼失したため、佃島の名主忠兵衛が佃島に近い海際への移築に奔走、幕府の許可を得て佃島住民一統が埋め立て工事に貢献し、「築地」とよばれる埋め立て地を完成しました。続いて延宝8年(1680)には、築地本願寺御堂を無事再建に導いたとのことです。
このときに始められたのが現在の盆踊りの始まりと伝え、その様子は「信仰に厚い漁民は祖先の例を祀る行事として、七月の盂蘭盆の頃には河岸の欄干場に提灯を連ねて、声自慢の若者達が、単調な太鼓の音につれ川風に美声をのせて音頭をとり其の周囲を老若男女が踊り明かして祖先の霊を慰めました」(前掲史料)と記されています。

とあります。
コメント
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