正月の帰省時のことです。
親戚縁者に見送られながら、実家をあとにするときのことでした。父方の大叔父が、あたしが乗り込もうとするクルマを見て、ポツリと一言漏らしました。
「パブリカ……」
大叔父はあたしのクルマに、祖父の愛車を重ねて見ていたようです。腰が曲がっているので、視線をやや上に向け、眩しそうな表情をしていました。
パブリカ――、このクルマは「日本で初めての本格的なホーム・カー」として、トヨタ自動車から発売されたのが、昭和36年のことでした。祖父は2年後の38年に発売されたパブリカ・デラックスに乗り、様々な地へと出かけていたそうです。
勿論、あたしの生まれるはるか前が最も活発な時期で、祖母からの又聞きがほとんどです。ただ幼心に、祖父が颯爽とパブリカを駆る姿を見て、「かっこいい」と思ったことは脳裏に刻まれています。
横に乗せてもらったことも一度だけあります。あれは確か、小学校へ入学してまだ間もない頃だったと思います。祖父は空冷の水平対向二気筒エンジンを唸らせ、小学校の校門前の坂道を一気に駆け上がったのです。学校へ忘れ物を取りに行くのに、祖父が乗せてくれたのだと思います。
祖父はパブリカを愛し、このクルマで巡礼にもよく出かけて行きました。いわゆるお遍路さんとはほど遠いイメージですが、相棒としてのパブリカは、祖父にとってかけがえのない存在だったようです。祖母などは、クルマに嫉妬する自分が情けないと思ったそうです。
祖父は百観音巡礼をしていて、西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所を巡っていました。
坂東と秩父は近いものの、西国となると、何日も家を開けていました。パブリカに毛布を積み込み、誰も乗せず、ただ一言「観音様のもとへ行く」とだけ告げて出発したそうです。帰宅したときは、充実感に溢れた表情をしていたといいます。祖父がパブリカを相棒として、どのように観音霊場を巡礼していたのか、具体的には分りません。毛布を積み込んでいたことと、所持金が少なかったことから、パブリカで寝泊りしながらだったことは想像できます。一体どんな気持ちだったのでしょうか?
パブリカを手放してから、病院と自宅を行ったり来たりの生活となり、ついに昨年、逝ってしまいました。晩年もパブリカに乗る自分を思い描いていたのかもしれません。
あたしも祖父の血を受け継いでいるのでしょうか、18歳で運転免許を取得し、以来、国内であればどこへ行くのもクルマになりました。
今のあたしの愛車は、中古で購入したドイツ車です。
実家の帰省を終え、あたしは秩父経由で自宅へ帰ることにしました。遠回りですが、祖父の気持ちを少しでも知りたいと思ったからです。寝泊りしてまで全部を廻ることは出来ませんが、少しでも祖父に近づきたいと思ったからです。
あたしの愛車はパブリカと違い、水冷エンジンの6気筒、しかも排気量はパブリカの3倍以上もあります。真夏でもエアコンが快適に効きます。運転テクニックは負けたとしても、クルマの絶対性能は比較になりません。道路事情も当時とは異なり、かなり整備されているでしょう。
単純に再現できないことは分っていても、あたしはあたしの運転で祖父と同じ道を歩みたいのです。決して可愛がられた思い出もないし、優しくもなかった祖父ですが、唯一、クルマと観音様への気持ちだけは乗り移っている気がしてなりません。それだけを確信したいのです。
タコメーターの針が、レッドゾーンの手前まで振れました。
心地よいエンジンのサウンドが響きます。
しかし、ここでまた思い出します。
晩年、祖父は高齢者特有の難聴傾向で耳がかなり遠い状態でした。電話では会話不能か、怒鳴るような声で何とか可能という有様でした。
こんなエンジン音も耳には届かなくなっていたのでしょうか? そう考えると哀れに感じます。
骨伝導受話器の「きくテル」を使えば、もっともっと祖父と電話で話ができたかもしれないと気づいたときには、もうすでに祖父は入院していました。悔しいです。
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今、あたしの愛車は高速道路のインターチェンジへと滑るように入っていきます。
巡礼へ、祖父の声へ、
骨伝導が高齢化社会に貢献する意味は、とてつもなく大きいと感じながらステアリングを握ります。
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